第9回3000字小説バトル
Entry3
「グラン・キュヴェでございます」 注がれた琥珀色の液体は、かすかに赤みを帯びていた。細かい気 泡がフルートグラスの中で立ち昇ると、星雲のように渦巻いてきら きらと輝いた。 「乾杯、あなた様の健康を祝して」 「ありがとう。あなたもね」 強かった昼間の風のせいだろうか、窓の外には雲一つ無く、白い 月が煌々と照っている。眼下には夜景が遠く東京湾の地平線まで広 がっていた。 ペンダントライトの柔らかな光の中で、初老の二人連れがゆっく りとグラスを傾けている。歳をとるならこのようにありたいと思わ せるようなカップルであった。 紳士は黒のタキシードをさりげなく着こなしている。短めの銀髪 に、クロスオーバータイにあしらわれたダイヤモンドがよく映えて いた。彫りの深い精悍な顔つきは、少し日焼けして見える。 「このところ、ずいぶん忙しくしていらしたみたいね」 「はい…。なかなか引退させてもらえませんで。ちょっと大きな仕 事になるとすぐお呼び出しがかかるんですよ。中南米が済んだと思 ったら、次はインドでした。まったくよく使ってくれます…」 アミュゼは、プチトマトのブルスケッタ。バジルでマリネされた 小海老が添えてあった。 婦人はフォークを使わず、直接指で口もとに運んだ。視線が合う と悪戯を見つけられた子供のように、一瞬肩をすくめて微笑んだ。 優雅な線を描いた眉。さすがに小皺は隠せないものの、強めのマ スカラはけして嫌味ではなかった。古風な真紅のルージュがはっき りした輪郭を表わし、唇に官能的な雰囲気を添えていた。口を開け ると、ちらりと赤い舌先がのぞいた。 「日本ではもう仕事はなさらないの」 「ええ、実はそれで戻って来たのですが。あなた様の方は最近いか がですかな」 「私は、もうだめよ。なかなか仕事をする気になれなくて。アフリ カ、中近東なんて、自分から手をつけるところじゃないでしょう」 ナプキンで口を拭うと、大きなエメラルドの指輪が光った。ロン グドレスの色は紳士と合わせたように黒で、その上に黒のレースで 編んだケープをまとっている。シャンパンのおかげでやや上気した ようにみえるが、婦人の肌の白さは実に際立っていた。 豊かな黒髪は、首の後ろで銀の髪飾りに束ねられ、腰のあたりに まで届いている。小柄で華奢な身体に対し、その髪の圧倒的な量感 は、あたかも独立した一つの生き物のようである。こめかみから、 螺旋状にカールした毛が両の頬にかかり、二匹の細い蛇を思わせた。 「フォアグラのソテーでございます。」 真っ赤なフランボアーズのソースの上に、繊細に焼かれたフォア グラがのっている。うまくきつね色に火が通ったフォアグラは、表 面だけがカリカリと香ばしく、内側は生でとろけるように柔らかい。 シェフの芸術的な手腕が偲ばれ、二人は満足の微笑を浮かべると互 いにうなづき合った。 わずかに残ったガチョウの臭みを、フランボワーズの香りが見事 に打ち消してくれる。シャンパンのほのかな甘味がその後を受け、 絶妙なハーモニーとなって舌の上に広がる。二人は至福の時に身を 任せていた。 「最近ペルセに会った?」 「いいえ。あの方もお忙しくて。かなり追い詰められているようで した」 「まだヨーロッパにいるの?」 「そのようです。最近はもっぱらイギリスやフランスで、牛や羊の 相手ばかりしているそうです。あの方にいわせると、何か新しいや り方に結びつくのだそうですが、今のところたいした効果は出てい ないようです。」 「ペルセも昔のことが忘れられないのね」 「そうらしいですね。でもあれはいったい、いつの頃の話ですか。 もう六百年は経っているでしょう」 「本当にペルセらしいわ。今ごろになってネズミを羊に代えてみる なんて」 二人の目は思い出を追って、遥か遠くを眺めていた。 「しかし、あの方がアフリカでなさった事は、正当に評価されてし かるべきです。あれは実に画期的な方法でした。まさに十四世紀ヨ ーロッパの再現。いや、まだ解決できないでいる事を考えると、そ れ以上の成果です」 「でも、あのやり方はあまり好きになれないわ。免疫を破壊すると いう発想はユニークだけど、即効性がないもの」 「おやおや、あなた様まで昔に戻られたようで。即効性という事で したら、私だってとてもあなた様にはかないませんよ。」 コート・ダニュー。か細い肋骨の上部に、わずかな肉がついてい る。生まれて間もない子羊の背肉は、ほのかに乳の香りがした。よ ほど新鮮なのであろう。シェフは定番のハーブを使わずに、岩塩を すり込んだだけでロゼに仕上げていた。うっすらと染み出した血が、 さらに滋味を加えている。二人は夢中で細い骨をしゃぶっていた。 「ここまで美味しい羊に出会ったのは、本当に久しぶりよ」 「そうですね。一昔前なら頼まなくても手に入ったものが、このと ころいやに難しい。特に心臓や脳味噌はよほど手を尽くさないと出 てまいりません」 「なんといっても羊は新鮮じゃないとだめね。目の前で屠った物の 味を知ったら、他ではもう食べられなくなるもの」 「子羊一頭で悪魔に魂でも売りますか」 「悪魔が魂を売るかでしょう。もし悪魔に魂があればだけれど。」 二人はこの冗談がよほど気に入ったらしく、声をあげてひとしき り笑った。 赤ワインは野趣に富んだグラーブの物だった。フルボディであり ながら、どこか軽い。成熟は十分で、香りも開きかけてはいるが、 まだ臆病である。シャトーの土地に含まれた鉄分のせいで、かすか ながら血のような味わいを残した。しかし、シンプルな、肉の味と 香りを最大限に活用した今日の料理には、奇跡と呼べるほどのマッ チングを示した。 「1992年の物ね。私が最後に仕事をした年だわ」 「覚えておりますとも。クウェートとイラクでしたね」 「でも、あまり成功とはいえなかったわ。おかげですっかり自信を なくして、ユーゴは他人に任せてしまったもの。」 「やはり、1945年ですな」 「そう、忘れられない…。あの年が、私の最高の年だったわ」 二人が窓の外を眺めると、瞳の中に、業火に包まれた東京の町が 映った。無数の火の手が上がり天空を焦がしている。紅蓮の炎、熱。 頬にあの時の熱さが蘇ってきた。サーチライトが追う中、無数の爆 撃機の影に混じって宙を舞う自分の姿を、婦人は思い出していた。 視野いっぱいに広がる東京の町は、人々の魂を溶かす巨大な溶鉱炉 だった。溶ける。鉄も石も人も、何もかも。その日、B−29の無 線士達はみな狂喜する女の笑い声を聞いたという。忘れていたあの 快感が背筋を駆けのぼった。 「実に…あの年はたいしたご活躍でした。日本中、いや、世界中で 我らを呪い、泣き叫ぶ声が聞こえましたな…」 「ヒロシマ、ナガサキ…」 二人の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。 「ウプスッ、少しワインが過ぎたようです」 誰も気づかなかったその瞬間に、紳士の耳は黒々と毛が生えて、 頭の上までシュッと伸びると、またもとに戻った。 「フフフ…」 婦人が笑ってテーブルの上の花瓶に目をやると、一輪挿しのバラ が見る間にうな垂れて、はらはらと散った。 「今度のお仕事は東京?」 「はい。阪神だけですと、どうも方手落ちのような気がして」 「私もせっかくだから、北朝鮮にでも行って見ようかな」 皇居の方角を見ると、月は地上近くまで降り、倍の大きさとなっ て赤く鼓動していた。やがて黒雲が巻き起こると、全ての視界を遮 るように広がった。