第9回3000字小説バトル
Entry6
我々は部屋で月見をした。ベットの上に、布団を折って背もたれ を作って、そこに横になって。ベットからは開け放った窓の外に、 白い春の月が見えた。 日曜のしんと静かな夜。 「こんなふうに月を眺めるって、とても贅沢なことのような気がす る」と彼女はつぶやいた。 「大丈夫」と僕は言った。「お金は全然かかってないから」 「こういう美しさに接すると、お金の意味って、なんなんだろうね。 わかんなくなっちゃうね」 「君が選ぶものは、いつもびっくりするほど高価なものばかりって ことは、この際触れないでおいてあげるよ」 「あの、十分触れてると思うんですけど」 僕は微笑んだ。「とにかく、アコースティックなものって、値段 がつかないことかもしれないよね。ネイティブアメリカンの人たち がね、白人がやってきたときに、土地を所有したり、売買したりす ることが、根本的に納得できなかったそうだ。土地ってものは、自 然のもの。我々はそこに住まわせてもらっているだけ。月の美しさ が誰かの所有物でないように、土地の恵みも誰かの所有物ではない」 彼女は目を閉じて、何度かゆっくりと呼吸してからつぶやいた。 「しょゆうぶつ、か」 彼女は深く、静かに、春の香りを心に染み渡らせるような呼吸を 続けた。 僕は彼女に一つ昔話をした。 幼稚園のときの、悲しい出来事だ。 五月頃だったか、家のアヤメがたくさん咲いた。母が「幼稚園に 持ってきいなさいよ」と言って、きれいに咲いたところを五本ぐら い切って新、聞紙に包んで用意してくれた。 僕は、とても「困った」。 幼稚園に花を持っていくという経験が一度もなくて、持っていっ てどうするのかわからなかったからだ。 でも、とりあえず持っていけと言われたものは、おとなしく持っ ていった。持っていって、粘土や牛乳の匂いがする教室に入って、 自分の荷物をおく棚に、新聞紙に包んであるアヤメの束も鞄といっ しょに置いて、席について、先生が教室に来るのを待った。いつも の通りに友達に話しかけられたりしながらも、心の中では自分の棚 においてあるアヤメのことが気になってしょうがなかった。 持っては、きた。 でも、どうすればいいのだろう? たぶん、教室に飾ればいいのだろう。教室には花瓶があったし、 今は別の花がいけてあった。その花を取って、自分が持ってきたア ヤメに換えればいいのだろうか? それは僕にはとてもできないこ とに思えた。そういうことを勝手にやる気にはなれなかったし、そ もそも花瓶は僕のテリトリーの外の存在だった。普段からどういう 手順で花が持ってこられ、生けられているのか、自分にはさっぱり わからなかった。 すごく悩みつつ、午前中の授業が終わった。そしてお弁当の時間 になった。お弁当を食べる前には、お弁当の歌を歌う。「お弁当、 お弁当、うれしいな」という歌詞だったが、自分はお弁当を嬉しい と思ったことはなく、とにかく家を離れて「一人」で食事をすると いうことが、単純に苦痛でしょうがなかった。それでも義務として 「うれしいな」と歌い、お弁当を食べた。 食事のあとの歯磨きのときに、水飲み場の左下に、僕はいいもの を発見した。四角い灯油缶だ。そこにたくさん花が入れてあった。 なるほどと思った。ここに余った分の花は入れておくんだなと思っ た。自分が持ってきたアヤメも、ここに入れておけばいい。たぶん 教室の花がしおれてきたとき、自動的に入れ替えてもらえるのだろ う。こういうところにそっと置いておく分には、誰にも口出しされ る心配はなさそうだ。どうして花なんか持ってきたのかとか、自分 が持ってきた花を教室に飾ろうなんて生意気だとか、そういうこと を言われる心配はなさそうだった。 みんなの歯磨きがだいたい終わって、午後の授業が始まる前に、 僕はこっそりとアヤメを灯油缶に入れておいた。灯油缶に入ってい る花に、新聞紙で包んであるものはなかったので、わざわざ新聞紙 は取って、アヤメだけそこに入れておいた。 しばらくアヤメは灯油缶に入ったままだった。水が入っていたわ けでもなく、みるみる枯れていった。その日の帰り際に見たときに はしおれていたし、翌日も水飲み場を通ったり、歯を磨いたりする たびに灯油缶のアヤメが気になってちらっと見たりしたが、もう教 室に飾れるような花ではなくなっていた。花はぐったりとたれ、縁 の辺りは茶色く変色しかかっていた。 とても心が痛んだ。しかし自分にはどうしたらいいかわからなか った。本当に、わからなかったんだ。 二日ぐらいたって、灯油缶の花はまるごとなくなっていた。 空っぽだった。 ◆ 「悲しい話ね」と彼女は言った。 「うん」 僕は一瞬迷ったけれど、彼女に正直に言った。「僕は幼稚園のと き、いじめられっ子だったんだ」 開け放った窓から見える月は、ますます白く輝いていた。たくさ んの人たちがこの月を見て美しいと感じているかもしれないけれど、 この窓から見える月は、我々二人だけのものだった。 僕は彼女に腕をまわして、温かい身体を抱きしめた。 軽くキスをしてから、僕は言った。「泣いていいかな?」 彼女は「どうぞ」と言った。 とても近くから、それでいてなぜか遠いような、微かに神秘的な 声。いつまでも美しくありつづける月のように、白く澄んだ響きが 伝わってきた。