インディーズバトルマガジン QBOOKS

第9回3000字小説バトル
Entry7

春という季節に

作者 : 山森瑞穂
Website :
文字数 : 2842
あるまだ肌寒さを感じる朝、妻が突然死んだ。夜眠りにつき、次の
日の朝にはもう2度と目を覚ますことはなく、僕があわてて呼んだ
救急車で運ばれた病院で確実に死亡していることを医師に告げられ
た。死因は心不全ということだった。僕は妻に心臓が弱いという話
を聞いたこともないし、前の日だっていつもと何も変わらなかった。
 あまりの突然の死に、僕は本当に戸惑っていた。戸惑いとはうら
はらに一方では非常にきびきびと行動をこなし、親類縁者に電話連
絡もし、葬儀の手配も済ませた。僕はある程度のことをやり終え、
着替えなどのこともあったし、一度家に帰ることにした。いつも会
社から帰宅するのと同じように、いつもの駅で電車をおり、改札を
定期券で通過し、歩道を歩いた。角のコンビニも、その隣の喫茶店
も、当たり前のことだがいつもと同じように客が来ていた。マンショ
ンのドアの前に立ち、インターフォンを押そうとする手を引っ込め、
ポケットの鍵を出して玄関の鍵をあけ、家に入った。玄関に入ると、
妻の好きなラベンダーの香りがほのかにした。そういえばいつも玄
関の靴箱の上や部屋の電話の横なんかにラベンダーのちいさな花が
いっぱい詰まった袋が置いてあった。いつもは気にもとめなかった
ことに気がつく自分に驚いた。ソファーに座り、知らず知らずにう
ちに力の入っていた手や足を伸ばし、天井を仰ぎ見た。それからふ
と台所に目がいき、自分が空腹だったことに気がついた。台所まで
歩いていき、ガスレンジの上にのっていた鍋のふたを取った。
「味噌汁…。」
そこには妻が寝る前に明日の朝食用に作ったと見られる大根の味噌
汁が入っていた。きれいな拍子切りに切られた大根と豆腐。そして、
炊飯器にはいつもの朝食の時間に炊けるようセットされたタイマー
どおりにご飯は炊かれ、保温されていた。僕は炊飯器の前でしゃが
みこみ、ぼとぼとと床に落ちる涙を見ながら、声も出さずに泣いた。
涙は、床に水溜りができるんじゃないかと思うくらい僕の目から流
れつづけた。
一時間後、僕は立ちあがり、ガスレンジの味噌汁の鍋に火をかけた。
妻の作ってくれた最後の味噌汁とご飯で遅い朝食を取った。耳には
僕がご飯を食べる音だけが響いていた。

 妻の葬式はあっという間に終わり、たくさんの弔問客と言葉を交
わした日々も終わった。会社からは規定により一週間の休暇が出さ
れ、子供のいない僕は、自由きままに出来る時間に面食らった。妻
が元気だった頃の休日には、僕はテレビゲームをしたり、一人でテ
レビを見たりしていた。出不精の僕は休日何処かへ遊びに出かける
こともめったになかった。いやいや妻の買い物に付き合ったりして
いたくらいだ。特別な趣味を持っているわけでもないし、第一、今
は妻がいたとき以上に何もする気にならなかった。
  そうこうしているうちに3日がすぎ、家にあった食料も底を尽き
てきていた。今日こそは買い物をしに外へ出なくてはならなくなっ
ていたし、もう数日もしたら、また以前のように仕事も始まる。い
つまでも、何もしないでいるわけにはいかない。これからも、生き
ていく以上…。僕は風呂場へ行き、バスタブに熱めの湯を張った。
熱い風呂に入り、髭をそり、全身を洗った。シャワーで流れていく
泡と汚れといっしょに、ここ何日か僕にまとわりついていた重い空
気までもが流されていく気がした。妻が死んでからはじめて時の流
れを感じた。

 外に出ると、日差しはここ数日ですっかり春の暖かさを含み、花
という花がこの時を待っていたと言わんばかりに咲き乱れていた。
駅前のスーパーへ行くまでの途中の公園では、花見をしに来た人々
で賑わっていた。すぐに家に帰ることもないし、なんとなくその人
ごみに紛れたい思いにかられ、足は公園へ向いていた。
 花は惜しみなく咲いていた。桜は満開を通りすぎ、風が吹くたび
に花びらが雪の様に舞った。足元にはいろとりどりのチューリップ。
人々は写真を撮ったり、お弁当を食べたりしながら花を見ていた。
枝についているたくさんの桜の花、地面いっぱい咲いているたくさ
んのチューリップ。そのひとつひとつの花が各々地面から芽を出し、
葉を広げ、つぼみをつけ、花開き、散っていく。でも、花見に来て
いる人々はそのひとつひとつにまで目を留めているだろうか。きっ
とそんな人は滅多にいない。みんなたくさんの花が咲いているその
空気を、それを見に来ている人々の雰囲気を見に来ているんじゃな
いのか?それぞれの花が持っている力を花開く瞬間に大気へと放出
する。誰もその花一輪だけを目に留めることはなくとも。自己主張
するでもなく、たくさんの花のひとつとして咲き、散っていく。
 僕は春の風に吹かれ、河の水の流れを見、花からあふれでる生命
力を感じた。日差しは暖かく、あたりは花の香りで甘いにおいがし
ていた。僕は妻と毎日なんでもなく暮らしていた。朝起きて、用意
してくれた朝食を食べ、新聞を読み、出勤する。帰宅すれば、準備
された夕食を食べ、風呂に入り、眠る。その間、僕はいつもなにか、
妻と話をしていたはずなのだが、何を話していたのかはっきりと思
い出せない。いつも話すのは妻の方で、僕からは特に話をしなかっ
た気もする。
「誕生日プレゼントに鞄と財布を買ったわ。」
妻が彼女の誕生日の次の日にそう言っていたことをふと思い出した。
妻の誕生日を忘れていたわけではなかったが、毎日同じ家にいると
なぜだかプレゼントするという行為自体必要ないことのように感じ
ていた。 
「ふーん。買えば良いさ、それくらい。でも、そんなの持ってどこ
行くの?誰か見せたい奴でもいるんじゃないのか?」
「どこにそんな人がいるのよ?だいたい妻の誕生日におめでとうの
ひとことくらい言えないの?」
「もうおめでとうとか言える年じゃないでしょう?。」
「何でよ?年なんて関係ないじゃない。毎日お疲れさまっていう気
持ちはないの?」
「そんなのお互いさまでしょう。俺だって毎日仕事に行ってる。」
「…鞄と財布は私から私へのご褒美なの。」
「俺のご褒美は?」
「…あなたの誕生日にはちゃんとサングラスと服をプレゼントした
でしょう?」
「そうだった?」

 僕は妻と結婚して毎日顔を合わせ、彼女が死んでしまうまで、何
の問題もない普通の生活を彼女としてきたつもりだった。でも、こ
うして彼女がいなくなってみて、彼女が毎日何を考え、何を望んで
いたのか。そういうことは一切知らなかった自分に気がつく。僕が
何も見ようとしなくても、毎朝いつもと変わらない、ご飯と味噌汁、
そしてそれを出してくれる妻がいた。今はもう、ひとつもない。

 僕はいつのまにか腰を下ろしていた芝生から立ちあがった。公園
の出口でチューリップの花束を売っていた。僕は立ち止まり、真っ
赤なチューリップの花束を妻のために買った。公園を出る瞬間、強
い風が吹き、たくさんの桜の花びらが風とともにザァーっと音を立
てて桜の木から離れていった。2度と再び木に戻ることのない花び
らのひとつが僕の目の前でくるくると舞っていた。