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第9回3000字小説バトル
Entry8

ルールの男

作者 : 河野成年
Website : http://y7.net/romantei
文字数 : 2974
 日曜日の夜。橋田正行は、そろそろ風呂に入ろうかと洗面所に向
かった。洗面所のとなりが風呂場であり、橋田家ではそこで服を脱
ぐ事になっている。これが、もしも早まって居間で服を脱ぐと、途
端に妻から叱責が飛ぶ。
「ちょっと、あなた。服を脱ぐのなら洗面所で脱いでちょうだい。
あなた、ここで脱いだら片付け無いんだから」
 さらに、靴下でも脱ごうものなら、今度は娘からも怒られる。
「嫌だ、父さん。汚いんだからこんなところで脱がないでよ。父さ
んてば脱いだら片付けないんだから」
 まったく、こんなところまで似なくてもイイのに。だいたい、誰
がこの家を建てたと思っているんだ。確かに家の頭金は妻の実家に
借りはしたが、俺はこの家の家長なんだぞ。
 と、そんな事を言えるはずも無く、結局、橋田は黙って洗面所に
向かう事になるのだ。
 洗面所につくと橋田は、鼻歌を歌いながらセーターの裾に手をか
けた。そして、それを脱いで脱衣かごへと放りこむ。次に彼は、ワ
イシャツのボタンに手をかけた。一番上のボタンから、ゆっくりと
しかし確実にはずす。
 それらの一連の動作は決められたものだった。橋田にとって、そ
れは揺ぎ無いルールであり、なんびともそれを侵す事は許されない
のだ。
 セーターを着ている場合は、セーターから。ボタンのある服は、
上のボタンから。じゃあ次は下のシャツを脱ぐのかというとそうで
はなく、いそいそとベルトをはずしにかかったりする。一番下のシ
ャツを脱ぐ前に、ズボンを脱がなければいけないのだ。そしてその
後は、靴下を脱ぐ。ちなみに、足は右足からである。
 そして、そこに深い意味は無い。もしもそれらの順番の意味を橋
田に聞けば、彼は必ずこう答えることだろう。『ルールだから守ら
れなければいけない』と。
 こちらとしては、そんな事が聞きたかった訳ではなく、『どうし
てそういうルールになっているのか』という事が聞きたかったわけ
だが、それを橋田に聞いても、やはり彼は『ルールはルールである』
と答えるだけだろう。
 こういった答えをする人というのは、どうしても自分が決めたル
ールを破れず、日課だから、と雨の中カッパを着て走っていたりす
る。真面目、と言えば聞こえはいいが、ただの馬鹿なのではないか、
と思われる事だってある。気をつけよう。
 さて、橋田が鼻歌をフンフンと口ずさみながらベルトをはずし、
ああこのベルトも昔は穴ふたつ違う所に通してたのになぁ最近太っ
たんだよな晩酌のビールを減らすかいやいややっぱり運動だろうよ
しジョギングだジョギングを毎朝して雨の日も風の日も槍が降って
も走って走って走り抜くんだ朝の6時に起きれば走れるよなウンウ
ン。などと考えながらズボンを脱いでいると、唐突に彼の下腹部に
便意が襲ってきた。
 脱衣の流れを止めるのもしゃくではあるし、シャツ一枚にブリー
フ一枚、後は両足に靴下だけという格好でトイレに入るのは抵抗が
無いでもない。しかし、便意を抱えたまま風呂に入るわけにもいか
ない。橋田はしょうがなく、便所へとかけこんだ。
 ブリーフを下ろし便座に腰掛けて、橋田はほっと一息ついた。し
かし、どうにも落ちつかない。理由はわかっていた。満足に服を着
ていないことが、橋田をなにか不安な気持ちにさせていたのだ。
 別に、用をたすのに服は必要ではない。しかし、普段は服を着て
入る所に、裸同然の格好で自分が存在していることが、橋田には不
思議でしょうがなかった。
 やはり一度、服を着なおすべきかとも考えたが、再び風呂に入る
ために服を着るのはそれこそナンセンスに思えた。そしてなにより、
下腹部を襲う強烈な便意に、橋田は便座から腰を上げる事が出来な
かった。
 橋田のルールでは、風呂に入る場合は迅速に服をに脱ぎ去り、早
急にかけ湯をし、そして間髪を入れず湯船に浸からなければならな
い。これら、一連の動作を素早く、かつ華麗に行うことで、橋田は
ちょっとした満足を味わうことが出来るのだ。
 しかし今、その大事な作業に便意という人外の邪魔が入ってしま
った。ここは早めにレールに乗りなおさなければ、きっと明日は嫌
な事が起こる。起こるに決まっている。
 橋田は、一種の強迫観念のようなものに押されて、便座に取りつ
けられているウォシュレットのボタンを押した。ジーという低い音
と同時に、橋田の尻の下にノズルが延びてくる。
 ウォシュレットのノズルから出る水流の正規の用途は、用を足し
た後の尻をきれいにする事にある。しかし、橋田はこの水流にもう
ひとつの用途を見出していた。
 用を足す際に温かいお湯を尻にかける事で、もう少しで出そうな
便をよりスムーズに発射する事が出来るのだ。この時、ノズルから
出る水流はほの温かいお湯で無ければならない。もちろん、これは
橋田のルールであるため、お湯で無くてはならないという確固たる
理由は無い。
 したがって、今回のように冷たい水が出て来ようものなら、それ
はルール違反という事になる。途端に今までの便意は引っ込み、怒
りだけがふつふつと沸いてくるのだ。
 俺がいつもちょうどいい温度にしているのに、なんで毎回毎回水
が出て来るんだ。そもそも、このウォシュレットだって俺の稼ぎで
買って来た物だろう。いわば、俺の物なんだ。それなのに、なんで
あいつらは好き勝手にいじくりまわして自分の都合のいい設定にす
るんだ。
 と、声を大にして叫びたいところではあったが、もちろん橋田に
それができるはずは無い。
 おさまった便意をなんとか呼び戻し、今度は慎重に温度を調節し
た水流を尻にあて、一気にひねり出す。しかし、いつもの爽快感を
橋田は感じる事が出来なかった。
 理由はわかっている。ウォシュレットの水流が冷たかったからだ。
 しかし、すでに終ってしまった事をいつまでも悔やんでいられる
状況に、今の橋田はいない。
 一刻も早く脱衣に戻らなければ、大事なルールを破ってしまうこ
とにもなりかねないのだ。ウォシュレットの水流も大事なルールに
は違いなかったが、そのためにもう一つのルールまで台無しにして
しまう事は無い。
 用を足した後、すぐさま便所を出ると、橋田は再び洗面所に向か
った。洗面所で手を洗いながら、今から風呂に入るのに手を洗うの
も妙な話だなぁと考えたが、すぐさまそれもルールであることに気
がついて、自分を納得させる。なんでもかんでもルールなのだ。
 橋田には、もう時間が無いのだ。早く服を脱いでしまわなければ
ならない。このままでは、ルールを破ることになってしまいかねな
いからだ。風呂に入るための脱衣は、あくまでも素早く終らせてし
まっておかなければならない。
 橋田は、慌ててシャツを脱いだ。続いて、パンツに手をかけ、慎
重に右足から抜く。
 これで、後はかけ湯をするだけである。まったく、たったこれだ
けの事にどうしてこんなにも時間がかかってしまったのだろうか。
橋田は苦笑して、風呂の扉を開いた。
 しかし、橋田は気付いておくべきだったのだ。ルールが守られて
いないことに。自分が、重大なミスを犯していることに。
 風呂場に一歩踏みこんで、ようやく橋田はそれに気がついた。あ
まりにも初歩的なミス。
 ぐっしょりと濡れた靴下を呆然と眺め、橋田は思った。ウオシュ
レットの温度を変えたのはいったい誰なのかを。
 もちろん、橋田にはそれを追求することなど出来ないのだが。