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第9回3000字小説バトル全作品・結果一覧


#題名作者文字数
1陽・画廊の結婚有馬次郎2998
2彼女のくじ運のぼりん2999
3ヴィンテージ1945やす泰2995
4「僕らの時」Ryo3820
5隣人紺野 れん2991
6飾られなかった花Naoki2162
7春という季節に山森瑞穂2842
8ルールの男河野成年2974
9群馬県前橋市佐藤ゆーき2993
10天使のあくびさとう啓介3000
11E-mail from,,,根本智也2282
12よっちゃんのこと海坂他人3000
13木の葉の狐守唄英 康作1527
14散歩道るるるぶ☆どっぐちゃん3000
15心中逢澤透明3000
16りんごジャム一之江3000
17『奇妙な絵』作者2996
18アルパカ大行進伊勢 湊3000
19スーパー清水くん鮭二3000
20牛の背越冬こあら3000
21こんにちは羽那沖権八3000
22シェル小径2716
23正義の味方だ。サラリーマン太郎丸3000

第9回3000字小説バトル
Entry1

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陽・画廊の結婚

作者 : 有馬次郎 [アルマジロウ]
Website :
文字数 : 2998
まるでトンネルの様な回廊は、暗がりの中にひときわ松脂の香りが
凛として静かに漂っていた。


雨上がりの夜明けの森の小径を歩いている気分にもよく似ている様
に思う。

ひっそりとした中で、安らかな気分にわたしは浸りながら、彼のこ
とを静かに思い出すことができた。そう、来るたびにいつも。

回廊の床は茶色で何度も丹念に磨きあげられていて、くすんでいる
のに静謐で清清しい印象を与えている。
わたしには昔からとても馴染んでいるこの壁や床のもつ柔らかな雰
囲気。

靴音のシンクロする中、右に左に絵画を眺めながら進み行くと、ス
テンドグラスから七色のプリズムが降りそそぐ静かなアトリウム式
のホールに辿り着く。

中央の巨大なシャンデリアの鎖は錆くれ、セピアカラーのランプは
永眠したままになっている。 遠いあの日のあの瞬間に金の粉が降
ってきた様に感じた午後から。クリスタルガラスのくすんだかけら
までもが、一瞬という名の永遠の期待にまぎれてわたしを心地よく
震わせたのを覚えている。

アールデコ調の柱と柱の間にいくつもの小窓があり、外の樹木が陽
光に輝いているのが見える。
風に揺れる葉音は聞こえないけれど、梅雨の中休みなのか緑の雫の
なかに鮮明に精が煌めいている。

わたしは何度この場所に足を運んだことになるのだろう。何かを見
つめ続けようとして......。

ホールの隣横にある部屋をまる窓から覗き込むと、彼が見えた。
黒木は無精髭を掌でなぞりながら、果実の静物画を見つめていた。

入館の受付で、今までにない胸騒ぎを感じたことに感謝したくなっ
た。

いつかこの日がくると思っていた。それが、あまりにもあっけなく
自然なので驚くというよりも、森の薄暗い小径を歩き続けて、もう
すぐ抜けられるという確信をもったその矢先に、本当にそうなって
湖畔にたたずむ人に、それも一番会いたかった人に出会った様な救
われた気分になった。 それも、もう二度と会えないと思ってた人
に。

あなたは何をそのように深く見つめ、何を求めているの.......。

ひとの横顔は嘘のない本当の表情を、寂し気なシルエットに見えか
くれさせる。
見覚えのある仕種がとてもやさしい。わたしには、はっきりとわか
っている。

あなたの心に今でも響き続ける女性は、わたしの親友の麻里子一人
だけということが。

その瞬間、肩の線がピクンと動いた様に見えた。

「お久しぶりね」無理矢理、下向きかげんに、ニッコリ笑ってみせ
た。

「やあ、これは驚いた。まさか、ほんとに会えるとは。来てたんだ。
 この絵の前にきたら、目眩がして、君が浮かんで健やかな表情の
 まま消えたのに。でも君の残り香が浮遊していつの間にか僕に紛
 れて......」
黒木の高揚した眼差しは泪で光っている。

「変わんないなあ君は。オレ老けただろう」
シャイな目の前の男性は、わたしの太陽だった頃の少年のままだ。

「あなたも変わってない...」笑ったそのえくぼが、はにかん
でいる。
 
「今も油絵やってるの、麻里子は元気?」
不安の陰りが後悔とともに、わたしの心の底に静かにこぼれ落ちる。
不しつけな質問をしてしまった自分がとても悲しくなった。

わたしと黒木は美大の3年生の時に油絵科の実習で知り合い、夏の
終わりに、とてもはかない恋におちた。

お互いに恋人がいた事をのぞけば、普通に出会って見つけた恋だ。

わたしの恋人は、黒木の親友の村木君だった。彼は卒業前の深夜に
湾岸線でタンクローリーに巻き込まれて事故死した。

それから、黒木は人が変わったようにわたしを無視するようになっ
て、麻里子もわたしを激しくさけるようになった。すべてを知った
のだろう。
彼とわたしの不貞を責めるでもなく、村木君の死に涙して彼女自身
を追い込んでしまった。とても後戻りできそうもない樹海の湖水に
深く沈み行く錘りになった様に。

「不思議ね。この絵の前だったような気がする」
「そうそう、君とキスしたんだ」
「もう後戻りはできないって、あなた何回も言ったわ」
「まわりには人もいなかった。もう一度抱きしめられて、わたしは
 あなたの唇についた口紅をバンダナで拭きとったの」
「オレ、躯が浮いてて覚えていないなァ」
「わたしは深呼吸して、じっと瞳をみつめて言ったの。あなたのこ
 と絶対嫌いになるって」
「激しく泣き崩れて、卒業したら麻里子と結婚してねって言ったよ」

それでも私達は、それから何度となく会って、深く融けあった。
別離の予感のゆらめきを、背後にいつも感じながら。

「村木君があんなことになって、麻里子はあなたの子供を産むって
 最後に手紙をくれて、あなたも目の前からいなくなった」
「すまん......」
「わたしにも事情があって、青い絶望の日々がしばらく続いたけど
 今ではそれも懐かしいの」

わたしには8歳になる拓真がいる。小学生絵画コンクールでよく入
選するほど、クレヨン画が大好きだ。

わたしは、この画廊の空間と拓真を行ったり来たりするだけで、他
には何も望まなかった。独りでずっと生きて来れたのも、そのおか
げだ。

「わたし、男の子が一人いて、もうときめくこともなくなったわ。
 完熟のおばさんね」
「オレは、都立の商業高校のしがない美術教師さ。古ぼけたよオレ」
「そうなの......」
「ここへは、いつも閉館まえに来ていたんだ。いつか会えないかと
 思いながら」
「何故、どうして会いたくなるの。嫌いになると約束したのに」
わたしは、狂おしいくらいに泪が溢れるのを止められなかった。

そして、届かぬ声でふりしぼってみた。
「麻里子とはどうなったの」

「彼女は村木の子供を産んだ後、北海道へ引っ越した。いろいろ
 あったけど、同僚の美術教師と結婚しているよ」
「何故なの、本当なの?村木君の子供を......」
驚くというより、村木君の魂が生き続けていることに、密かに安堵
した。
黒木も、きっと同じように感じていると思う。

「今日のことは一生涯忘れないよ。これではっきりしたんだから。
 いつも最高のことは、最善の状况で起こると君は言ってたよね」
「そうね、今でもそう思うわ」
「最高にうれしくて、とてもとても残念な気分だ......」
少年の目は失望の色を隠せないで沈み込んでいる。

「子供もいて幸せそうで安心したよ。迷惑でなければ、たまにメー
 ル送っていいかな?」
「何故、メールなの」ウサギの目で、しっかりと見つめかえした。
「線画でもたまに書いて送ろうかと...」
「わたしの子供は、クレヨン画が大好きで...そして」

その瞬間だ。ダンシングクィーンのメロディーが脳裏に鳴り響く中、
まるでベールが被いかぶさるように、金の粉が静かに降ってきたの
を感じた。遠いあの日の、初めてのキスが鮮明に蘇る。

「絵もうまくて、あの子の瞳はあなたにそっくりで......」
わたしは、もう息すらもできない。

突然ガクンと何かに倒れかかるように、とても激しく黒木は泣き始
めた。一生分の泪を流すみたいに、深い嗚咽を漏らしながら。

「君の言う通りだ。ほ、本当に起こってしまった!」

西の窓から射し込む夕陽の光の中で、止まった時間が揺れて、想い
出の絵画達が密やかに煌めいて共振した様に見えた。

閉館のベルを合図に、二人して廊下を抜け玄関ロビーまで来ると、
拓真が独り立って待っていた。

「ママー!」走り寄る子犬の様に、黒木の目にはかわいらしく映っ
た。
「だれなの?このおじさん」見上げる瞳が黒木の2年生の頃とかさ
なる。

黒木は、拓真を抱き上げ、泪声で言った。
「もう独りじゃないよ。僕がパパだ」

拓真はうれしそうに、両足をいつまでもいつまでも振り続けた。

第9回3000字小説バトル
Entry2

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彼女のくじ運

作者 : のぼりん
Website : http://ww1.tiki.ne.jp/~mosi/shot.htm
文字数 : 2999
 多田野小五郎は小さい時から両親がいない環境の中で育ったせい
か、あまり自分のことを語りたがらない。現在は姓の違う資産家の
親戚に預けられて、その家から中学校へ通っているが、そこでは本
当の子供のようにかわいがられているようだ。
 だが小五郎にはちゃんと母親がいる。
 実は小五郎がまだ小学校の頃に、両親が離婚してしまい、彼は父
親のほうに引き取られたということだ。その後、父親はギャンブル
好きの怠惰な性格と、妻を失ったしさからの自暴自棄でどうしよう
もなく荒れてしまい、失意の内に早世した。一方、母親は離婚後一
念奮起して猛勉強し、現在では司法書士の事務所を開設して自立し
ている。
 僕が小五郎の生い立ちについて、なぜこんなによく知っているか
というと、小五郎の母親と今でも懇意に付き合いを続けている僕の
おふくろから、断片的にいろいろ聞いてきたからである。僕のおふ
くろは人のいいことだけが取柄のおばさんで、あるいはその事を確
信犯的に利用して、近所のあらゆる噂話、秘密話に精通するという
特技を持っている。
 ところがそんなおふくろでも、小五郎の両親の離婚話の中でどう
してもわからないことがある。あの利発な小五郎が、離婚後なぜ母
親ではなく放蕩な父親の方についていったかと言う事である。
 実は五郎の両親が離婚をしたのは、家庭を顧みない父親の奔放な
生活がすべての原因だった。しかも短気な性格のため、それをいさ
める母親に対して暴力は日常茶飯事だったという。彼女は一人息子
(小五郎)をかかえ、唇をかんで日々辛抱し続けたのであった。
 もっとも、彼らの離婚の直接的な起因は、小五郎の母親がある日
「宝くじ」に当たったこと(驚くことに一等である)だったそうだ。
金銭的な余裕を得た母親は、それを元にして夫に離婚を迫ったので
ある。
 それはある意味とても皮肉なことだった。なぜなら、飽くほどギ
ャンブルに金銭をつぎ込む放蕩の中で、宝くじを買いつづけてきた
のは常に父親のほうだったからである。ところが、彼は神に見放さ
れたように一度も当たることがなかった。それに対して、母親は初
めて買ったわずか十枚の中から当たりを引き当てたのである。
 心有る人々は、父親に罰が当たり、母親は神様が助けてくれたの
だ、といい募って、誰一人として母親を妬みよこしまな気持ちで接
する者はいなかったという。

 実を言うと、僕は小五郎と彼の母親から感謝の気持ちを持たれて
いるらしい。
 数年のわだかまりの後で二人が急接近し、親子関係を再開する事
になったきっかけは、僕の橋渡しが原因だったそうだが、僕にして
みれば、そのことを意識していた訳ではない。
 知的でやさしそうで、しかも美しい女の人に呼びとめられ、
「小五郎のお友達なら、お願いがあるのだけれど、これを渡してく
れないかしら」と、手渡された綺麗な箱を、言う通りに小五郎の手
元に運んでいっただけの事である。
 あの箱の中にどれほどの母親の思いが詰まっていたのだろうか、
それは僕に知る由もない事であった。
「最近では…」と、ある日、小五郎はその事に触れながら話し出し
た。
「たまにおふくろと会って、食事をしたりしているんだ。そういえ
ば、今度の進学相談には、おじさんに頼んで、学校に来たいといっ
ていたなあ。」
 仏頂面の小五郎が心なしか顔を赤くしている。
 おじさんというのは、彼の養父である。これは、別の話だが、後
に小五郎はこの叔父の養子になって苗字をかえ、この国の犯罪史に
名前を残すほどの探偵になることになる。
 話は戻るが、どうしてもわからない事がある。この機会に聞いて
やろうと、ふと僕は思った。
「こんなこと聞いて良いのかどうかわからないけど、君の両親が離
婚したとき、どうして君はおやじさんの方へついていったんだ?」
 いいながら、僕はしまった、と思った。ごめん、こんなこと聞く
つもりじゃなかったんだが…と言いかけたとき、小五郎がビックリ
するほど明るい声で答えた。
「あの頃は、僕もほんの子供だったからね。母親のウソが許せなか
ったんだ。今から思えば、幼稚な意地っ張りだったのさ」
「ウソ…?」
 意外な返答に僕はさらに興味を持ってしまった。
「ああ、おふくろが宝くじを当てた事は君も知っていると思うけど、
あれは、父親の買ったくじだったんだよ」
「なんだって」
 信じられない。思いもかけない真実もそうだが、普通の判断能力
のある大人が自分の当てた宝くじを他人に横取りされて気づかない
はずがないじゃないか。
「だって、くじ番号の確認をお父さんがお母さんに全部任せていた
わけじゃないだろう。それで、お母さんがくじに当たったとしたら、
絶対変だと思うだろうし」
「もちろんそうだ。自分の目で新聞を読んで確認した。それが、父
親の楽しみでもあったからね。その日も毎度の事のように、はずれ
くじを惜しげもなくごみ箱に捨てていたよ。おふくろは、そんなあ
ぶくのような物に絶対金を使いはしない。推理でもなんでもなく、
おふくろの機転は僕が一番よく知っている。だから、彼女がおやじ
の宝くじを横取りしたに違いないと、僕にはすぐにわかったよ」
 小五郎はさらに続けた。
「今から考えると、おふくろは本当にかわいそうな女性だった。ヤ
クザなおやじから逃げ出すために、あらゆる手を仕込んでいたんだ。
その一つがあの宝くじだった。女性が金銭的に自立できると言う事
は大変な利点だからね。もちろん、彼女には誰にも負けないぐらい
の知性があった。それがなければ、あんな事は考えもつかなかった
ろう」
「わからないよ。新聞の宝くじの記事を書きかえることなんかでき
るはずがないだろう」
「いや、同じような事をしたのさ。宝くじの番号を発表している記
事だけすりかえたんだ」
「え、なんでそんな事ができるんだ。印刷工場へ行って細工する事
もできないだろう」
「当り前じゃないか」
 小五郎の目は笑っていた。
「わからないかなあ。そのページだけが一年前の新聞のものだった
んだよ」
「あっ」と僕は思わず声を上げた。
 小五郎は僕の顔を意地悪く覗きこんでからさらに続けた。
「おふくろは毎年、去年の新聞を取っておいて、そこだけ入れ替え
ておやじに見せていた。その後でゴミ箱からはずれくじを拾い上げ
て、もう一度確認していたんだ。もちろん、綱渡りのように危なげ
で、はかない賭けには違いなかった。ただ、いつもこの手は成功し
ていた。なにしろ、おやじは知性のかけらもない男で、新聞はテレ
ビ欄とスポーツ面しか読まなかったからね」
「でも…そのページの日付だけが違うだろう?」
「それこそ賭けさ。ただ一ページごとに日付を確認しながら新聞を
読む人はいないからね」
「去年の当たり番号と一緒になる偶然は…?」
「それも賭けだね。ただ、もしそうなったとしたら、おふくろは、
うまい具合に証拠を隠し、あたかもおやじの勘違いででもあるよう
な芝居をうったんじゃないかなあ」
 うれしそうに、小五郎は種明かしをする。それは、あたかも母親
の英知を誇っているようでもあった。
 後に聞いた話だが、離婚にあたって母親は、父親に対して当たり
くじの全額を渡すから息子を引き取りたいと交渉したようだ。その
時、父親の元に残ると言い張ったのは小五郎のほうである。
 そうすることが彼の母親に対する愛情のありったけであり、その
思いが彼のかわいそうな母親に自由を与え、彼女を未来に解放して
やったのだと考えるべきであろう。

第9回3000字小説バトル
Entry3

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ヴィンテージ1945

作者 : やす泰
Website :
文字数 : 2995
「グラン・キュヴェでございます」
 注がれた琥珀色の液体は、かすかに赤みを帯びていた。細かい気
泡がフルートグラスの中で立ち昇ると、星雲のように渦巻いてきら
きらと輝いた。
「乾杯、あなた様の健康を祝して」
「ありがとう。あなたもね」
 強かった昼間の風のせいだろうか、窓の外には雲一つ無く、白い
月が煌々と照っている。眼下には夜景が遠く東京湾の地平線まで広
がっていた。

 ペンダントライトの柔らかな光の中で、初老の二人連れがゆっく
りとグラスを傾けている。歳をとるならこのようにありたいと思わ
せるようなカップルであった。
 紳士は黒のタキシードをさりげなく着こなしている。短めの銀髪
に、クロスオーバータイにあしらわれたダイヤモンドがよく映えて
いた。彫りの深い精悍な顔つきは、少し日焼けして見える。
「このところ、ずいぶん忙しくしていらしたみたいね」
「はい…。なかなか引退させてもらえませんで。ちょっと大きな仕
事になるとすぐお呼び出しがかかるんですよ。中南米が済んだと思
ったら、次はインドでした。まったくよく使ってくれます…」

 アミュゼは、プチトマトのブルスケッタ。バジルでマリネされた
小海老が添えてあった。
 婦人はフォークを使わず、直接指で口もとに運んだ。視線が合う
と悪戯を見つけられた子供のように、一瞬肩をすくめて微笑んだ。
 優雅な線を描いた眉。さすがに小皺は隠せないものの、強めのマ
スカラはけして嫌味ではなかった。古風な真紅のルージュがはっき
りした輪郭を表わし、唇に官能的な雰囲気を添えていた。口を開け
ると、ちらりと赤い舌先がのぞいた。
「日本ではもう仕事はなさらないの」
「ええ、実はそれで戻って来たのですが。あなた様の方は最近いか
がですかな」
「私は、もうだめよ。なかなか仕事をする気になれなくて。アフリ
カ、中近東なんて、自分から手をつけるところじゃないでしょう」
 ナプキンで口を拭うと、大きなエメラルドの指輪が光った。ロン
グドレスの色は紳士と合わせたように黒で、その上に黒のレースで
編んだケープをまとっている。シャンパンのおかげでやや上気した
ようにみえるが、婦人の肌の白さは実に際立っていた。
 豊かな黒髪は、首の後ろで銀の髪飾りに束ねられ、腰のあたりに
まで届いている。小柄で華奢な身体に対し、その髪の圧倒的な量感
は、あたかも独立した一つの生き物のようである。こめかみから、
螺旋状にカールした毛が両の頬にかかり、二匹の細い蛇を思わせた。

「フォアグラのソテーでございます。」
 真っ赤なフランボアーズのソースの上に、繊細に焼かれたフォア
グラがのっている。うまくきつね色に火が通ったフォアグラは、表
面だけがカリカリと香ばしく、内側は生でとろけるように柔らかい。
シェフの芸術的な手腕が偲ばれ、二人は満足の微笑を浮かべると互
いにうなづき合った。
 わずかに残ったガチョウの臭みを、フランボワーズの香りが見事
に打ち消してくれる。シャンパンのほのかな甘味がその後を受け、
絶妙なハーモニーとなって舌の上に広がる。二人は至福の時に身を
任せていた。

「最近ペルセに会った?」
「いいえ。あの方もお忙しくて。かなり追い詰められているようで
した」
「まだヨーロッパにいるの?」
「そのようです。最近はもっぱらイギリスやフランスで、牛や羊の
相手ばかりしているそうです。あの方にいわせると、何か新しいや
り方に結びつくのだそうですが、今のところたいした効果は出てい
ないようです。」
「ペルセも昔のことが忘れられないのね」
「そうらしいですね。でもあれはいったい、いつの頃の話ですか。
もう六百年は経っているでしょう」
「本当にペルセらしいわ。今ごろになってネズミを羊に代えてみる
なんて」
 二人の目は思い出を追って、遥か遠くを眺めていた。
「しかし、あの方がアフリカでなさった事は、正当に評価されてし
かるべきです。あれは実に画期的な方法でした。まさに十四世紀ヨ
ーロッパの再現。いや、まだ解決できないでいる事を考えると、そ
れ以上の成果です」
「でも、あのやり方はあまり好きになれないわ。免疫を破壊すると
いう発想はユニークだけど、即効性がないもの」
「おやおや、あなた様まで昔に戻られたようで。即効性という事で
したら、私だってとてもあなた様にはかないませんよ。」

 コート・ダニュー。か細い肋骨の上部に、わずかな肉がついてい
る。生まれて間もない子羊の背肉は、ほのかに乳の香りがした。よ
ほど新鮮なのであろう。シェフは定番のハーブを使わずに、岩塩を
すり込んだだけでロゼに仕上げていた。うっすらと染み出した血が、
さらに滋味を加えている。二人は夢中で細い骨をしゃぶっていた。
「ここまで美味しい羊に出会ったのは、本当に久しぶりよ」
「そうですね。一昔前なら頼まなくても手に入ったものが、このと
ころいやに難しい。特に心臓や脳味噌はよほど手を尽くさないと出
てまいりません」
「なんといっても羊は新鮮じゃないとだめね。目の前で屠った物の
味を知ったら、他ではもう食べられなくなるもの」
「子羊一頭で悪魔に魂でも売りますか」
「悪魔が魂を売るかでしょう。もし悪魔に魂があればだけれど。」
 二人はこの冗談がよほど気に入ったらしく、声をあげてひとしき
り笑った。

 赤ワインは野趣に富んだグラーブの物だった。フルボディであり
ながら、どこか軽い。成熟は十分で、香りも開きかけてはいるが、
まだ臆病である。シャトーの土地に含まれた鉄分のせいで、かすか
ながら血のような味わいを残した。しかし、シンプルな、肉の味と
香りを最大限に活用した今日の料理には、奇跡と呼べるほどのマッ
チングを示した。
「1992年の物ね。私が最後に仕事をした年だわ」
「覚えておりますとも。クウェートとイラクでしたね」
「でも、あまり成功とはいえなかったわ。おかげですっかり自信を
なくして、ユーゴは他人に任せてしまったもの。」
「やはり、1945年ですな」
「そう、忘れられない…。あの年が、私の最高の年だったわ」
 二人が窓の外を眺めると、瞳の中に、業火に包まれた東京の町が
映った。無数の火の手が上がり天空を焦がしている。紅蓮の炎、熱。
頬にあの時の熱さが蘇ってきた。サーチライトが追う中、無数の爆
撃機の影に混じって宙を舞う自分の姿を、婦人は思い出していた。
視野いっぱいに広がる東京の町は、人々の魂を溶かす巨大な溶鉱炉
だった。溶ける。鉄も石も人も、何もかも。その日、B−29の無
線士達はみな狂喜する女の笑い声を聞いたという。忘れていたあの
快感が背筋を駆けのぼった。
「実に…あの年はたいしたご活躍でした。日本中、いや、世界中で
我らを呪い、泣き叫ぶ声が聞こえましたな…」
「ヒロシマ、ナガサキ…」
二人の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。

「ウプスッ、少しワインが過ぎたようです」
 誰も気づかなかったその瞬間に、紳士の耳は黒々と毛が生えて、
頭の上までシュッと伸びると、またもとに戻った。
「フフフ…」
 婦人が笑ってテーブルの上の花瓶に目をやると、一輪挿しのバラ
が見る間にうな垂れて、はらはらと散った。
「今度のお仕事は東京?」
「はい。阪神だけですと、どうも方手落ちのような気がして」
「私もせっかくだから、北朝鮮にでも行って見ようかな」

 皇居の方角を見ると、月は地上近くまで降り、倍の大きさとなっ
て赤く鼓動していた。やがて黒雲が巻き起こると、全ての視界を遮
るように広がった。 

第9回3000字小説バトル
Entry4

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「僕らの時」

作者 : Ryo
Website : http://www.h2.dion.ne.jp/~jjmonkey/sarubeya%20TOP.htm
文字数 : 3820
「やってらんねぇよ」
僕は、教科書を投げ出して言った。
「なんかおもしろいことねぇかな」
隣で参考書を相手にしてるヒロに返事を求めた。
「いつまでもそんなんしてたら、大学落ちるぞ」
ヒロはこっちには目もくれずに答えた。
「ようやってんな!」
振り返ると小麦色に焼けた耕平が立っていた。
「やけてんなぁ」
「今日も朝から練習」
耕平は小脇のサッカーボールをかかえていた。
「よくやるよこのくそ暑い中」
参考書をぱらぱらとめくりながらヒロがいった
「お前もよくやるよ」
耕平は、にやっと笑った
ヒロも下をむいたまま、にやっと笑った
「飯でもいかねぇ?」
「俺ここ終わったら」
ヒロは顔も上げずに言った
「こんないい天気なのに、毎日、毎日、勉強してたら、身体腐っち
まうぞ」
「ったく」
僕は荷物をまとめて、外へ出ようした
「わーったよ」
ヒロもしぶしぶ荷物をまとめ、席を立ち、僕についてきた。
外へ出ると、うるさいほどの蝉の声と、八月の太陽が、夏の終わり
を惜しむように、精一杯の姿でそこにいた。
夏の終わりを惜しむかのように

マックに着く頃には、もう汗はにじむ程度では、とどまらなかった
。
僕らは、いつもの席につくと、もくもくとハンバーガーをほおばっ
た。
「なんかおもしろいことないかなぁぁ」
僕は、ぼんやり外へ目を向けた
「今はしょうがないだろ、来年遊べよ」
ヒロが言った
「俺は、、、べつになーんもやりたいことあるわけでもないんだよ
なぁ」
「だったらやりたいこと見つけにいけよ。」
僕が大学に行きたい理由は、こいつらと同じ所にいたい。ただそれ
だけだった。
「三人で同じ大学入れたらいいなぁ」
僕は続けた。
「その為にはがんばんなきゃね」
ヒロは、にやっと笑った。
「俺だけ落ちたらやだなぁ、、、」
僕は、なにげなく言ったが、まんざらでもなかった。
そして、僕らは、なにを話すわけでもなく、日が暮れるまでしゃべ
り、笑い、ののしりあった。今という時が、いつまでもそこにあり
つづけているかのように

「ただいま」
僕は玄関を入ると真っ直ぐに自分の部屋へ向かった
「、、、、そうだ、、耕平に金貸してたんだ、、、、、」
僕の思考はそのまま静かになっていった、、、、、

「?」
枕元で鳴っているのが自分の携帯だと気づくまで数秒かかった。
僕は目をつぶったまま携帯にでた。
電話の相手はヒロだった
「てめー今何時だとおもってんだよ」
「もう十時すぎてるよ」
「今日は予備校午後からだろ、寝かせろよ、」
「耕平がケガしたんだよ、」
「えっ?」
「とりあえず、俺、病院行くけど悠どうする?」
「病院ってそんなに悪いのかよ?」
「わかんないけど、いま、中央病院にいるらしい」
「わかった、またかける、ヒロもう向かってて」
「わかった」
僕は顔を洗うとすぐに家を飛び出した。

病院の入り口についた時にはTシャツはじっとりと汗ばんでいた。
自転車を止め入り口に自動ドアを通り抜けた。病院の中に入ると、
エアコンのせいで少し肌寒かった
「悠」
ふいに横から呼ばれた
「耕平は?」
「一ヶ月はサッカー出来ないらしい」
「一ヶ月?!セレクションは?」
「ギリギリかな」
「本人は?」
「いまくるよ」
長い廊下の向こうから、耕平が松葉杖をついているのが見えた。
耕平は、にやっと笑った
「やっちゃった、」
「おまえ、やっちゃったじゃねぇだろ。」
僕は半笑いになりながら言った。
「一ヶ月はサッカー無理らしい、、」
耕平はヤレヤレといった感じで続けた。
「セレクションは?」
ヒロは真面目な顔で聞いていた。
「うーん、微妙、、間に合うだろうけど、、それまで、練習できな
いしなぁ、」
「こんなとこで話しててもなんだし、外でない?」
ヒロが促した。
病院の自動ドアが開くと、夏が僕らの中に流れ込んできた。
その、けたたましく鳴く蝉と、まぶしいくらいの太陽が、僕らを一
瞬無言にさせた

「暑いなぁ」
耕平が口火を切った。
「暑いなぁ」
ヒロがつづけた。
「お前ら予備校だろ、来てくれてさんきゅ。いけよ」
耕平は僕とヒロに気をつかったのだろうか。ヒロは時計に目をやっ
た
「もうこんな時間!もう遅刻だよ、いそがなきゃ!」
ヒロは言った。僕はだまって、空を見上げた。
「ごめんな耕平、そんじゃ俺らいくよ!おだいじに」
ヒロは自転車ににまたがった。
「悠いくよ!」
僕は空を見上げたままつぶやいた。
「やめた、」
「えっ?」
ヒロは聞き返した。
僕は顔を落とし、二人の顔を、みながら、にやっと笑いながら続け
た。
「やーめた」
「は?」
ヒロは怪訝そうに僕を見ていた。
「は?じゃねぇだろ、予備校行くのやめ」
僕は、さも当たり前の事のようにいってやった
「なんでだよ」
ヒロと耕平がほぼ同時に言った。
「だってさ、夏だぜ、毎日、毎日、勉強ばっかで、、それに。高校
最後の夏だってのに、夏休みらしいことなーんもしちゃねぇしな」
「まぁ、、そりゃそうだけど、、」
ヒロは渋々認めているようだった。
「海いこ」
僕は下を向きながらつぶやいた。
「えっ?」
ふたりは、ひょうしぬけた顔を僕に向けた。
「今から?」
「あたりまえだろ」
言ってしまってから、僕はえらいこと言ったかな、、と一瞬ひるん
だ。
「どうやって?」
やつぎばやに耕平が聞いてきた。
僕は自転車のサドルをたたいた。
ヒロはあいかわらず、ひょうしぬけた顔を向けている。
「乗れよ」
僕は自転車にまたがって、後ろに乗るよう耕平に目配せした。
耕平は、にやっと笑い、松葉杖をまとめ、僕の自転車の後ろに乗っ
た。
「いくかぁぁぁ」
耕平は声高らかに言った。
それが合図になって僕はフラフラと自転車をこぎ始めた。
「ちょっちょっとまってよ」
ヒロは泣きそうな顔をしていた。
「なんだぁその顔!おいてくぞ!」
耕平はヒロのその顔をみて笑っていた。
「、、、、、」
しばらく無言だったヒロが口を開いた
「わぁぁったよ!」
なげやりに言うとにやっと笑い、自転車にまたがり、僕らの後をつ
いてきた。
きっと僕らに流れ込んだ夏が、僕らをそうさせたに違いない。
ヒロはやれやれといった感じで、にやっと笑った。
「よーしがんばるかぁ!!」
ヒロは立ちこぎで僕らに追いついてきた。
僕と耕平はそのヒロの姿に、にやっと笑った。
「なぁ悠、海までどんくらいかかんの?」
耕平が後ろから聞いてきた。
「わっかんねぇ、真っ直ぐ行ったら着くことは確か、、」
「のんびりいこーぜ。しんどいだろ」
「おう!」
すごい時間がたったように感じた気がした。ただひたすらに、ペダ
ルを踏み続けた。
「悠、だいじょうぶか?」
前触れなく耕平が声をかけてきた。
「あぁもうすぐつくと思う。」
僕はもう最小限の会話で済ませたいと思うほど疲れていた。
「まぁだぁ?」
ヒロは泣きそうな顔をして自転車をこいでいた。
「なんだぁーその顔ー」
その様子を見て耕平が笑った。
「ヒローみえねぇぞーこっち来てやれよ」
僕はヒロに言った。
「、、もう、、笑えねぇよ、、」
僕はそのヒロの声の調子で思わず笑ってしまった。
「もう5時だよぉぉぉ5時間以上はしってるよぉぉ」
ヒロの声を後ろに聞きながら、このなにげないやりとりが、とても
あたたかく、ずっとつづけばいいのに、、、とふと思った。空は少
しずつ赤くなりはじめていた。
「もうすぐだぞ!」
僕はヒロと耕平に言うと同時に自分自身にも言っていた。
「、、、、、」
ヒロはもはや返事をする余力すら残ってないらしい。
「よっしゃあとひとがんばり!
漠然とそこにある海だけが、僕らを引きつけ、僕の足とペダルを強
く結びつけているのだけはたしかだった。
そしてまた僕らはひたすらに夏の中を走りつづけた。
「この坂登りきったら海だぞ!!!」
僕は声をあげた。
「うへぇーこの坂のぼんのかよぉ、、、」
ヒロが言った
「ここのぼったらもう海だぞ!」
僕はヒロに言った
「だいじょぶか?」
耕平が後ろから声をかけてきた。
「だいじょぶなわきゃねーだろ!!」
僕はそう言うが早いか、いきおいよく立ちこぎで、最後のスパート
をかけた。
そんな僕らの横をヒロが、いきおいよく、抜きさった。ヒロは横目
で僕を見て、にやっと笑った。
「おまえ、、、」
僕も耕平もにやっと笑った。
「耕平!つかまっとけよ!」
僕はヒロに負けまいと、必死にペダルを踏んだ。
「負けるな!!」
耕平は身を乗り出して言った
そして僕らは一気に坂を登りきった。
その瞬間すべての音と時間、、なにもかもが止まったように感じた。
腹一杯に夕日を飲み込んだ、海がそこにいた。
いままで生きてきて見たことのない色があった。
僕らは声がでなかった。
ほんの一瞬だったのだろうが、僕らには、とても長い一瞬だった。
「ついた」
僕は口火をきった。
「ついたな」
「、、、」
僕らは自転車から飛び降り砂浜に大の字に寝転がった。
「きれいだな、、、」
僕もヒロもだまっていたが、心のなかではその言葉を何度も復唱し
なんどもうなずいていた、、、。
僕が起きあがり足を投げ出して座ると、二人もそれに続いた。
「なぁ」
ヒロが口を開いた、そして僕らの返事を待たずにつづけた。
「空ってこんなきれいだったっけ」
「毎日、頭の上こんなきれいなもんがあったんだな」
そして僕らはそのまま、何時間もそこで笑い、ののしりあい、今を
惜しむかのようにはしゃぎつづけた。
何十年もたって、今日の事を思い出し、なつかしがったりするのも
いいかもしれない、だけど僕は、今のこの一瞬のこの気持ちを、大
切にしたかった。こんな小さな、がらくたみたいな思い出でも、僕
が、今ここに生きているってゆうなによりの証拠だから。
「なぁ、俺、今、最高の気分だよ。」
二人がその言葉にうなずくのが伝わってきた

第9回3000字小説バトル
Entry5

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隣人

作者 : 紺野 れん
Website :
文字数 : 2991
僕が起きた時刻は午前二時四十五分だ。起きてすぐ目覚ましを見た
からよく覚えている。アルコールに手伝われて、あっさり眠ってし
まった時は概してあっさりとそれも比較的短時間で起きてしまうも
のだ。僕は完全な手持ち無沙汰だった。勉強するには疲れすぎてい
たし、本を読むのは退屈すぎた。その時だ、僕の携帯が低い振動音
とともに細かく震えた、電話がかかってきたのだ。画面には一一桁
の番号が表示された、それは何か見覚えのある光景だった。
「はい」僕は普段そうするように電話に出た。
「あ、夜分遅くにすみません。寝てらっしゃいました?」
女性の声だ、歳は僕と同じか上だろう声の落ち着き方からして下で
はない。とにかくきれいな声だ。きれいな声を聞くときれいな人を
想像してしまう、それは女の子の言う「かわいい」と同じくらい不
確実であるけれども、ある点においては真理なのかも知れない。
「いえ、起きてましたけど、どなたですか?」
「あの私はあなたの隣の者なんですけど、少しお話がしたくて、と
いうのも今日、あ、正確には昨日ですね、とても不思議な体験をし
たんです。それを誰かに話したくて。わかります?とにかくとても
非現実的なことが現実に起こると、誰かに話すことによってそれを
現実か幻だったのかの位置付けを行うというか…あの、わかります
?」
彼女は少し興奮しているようだった、あるいはその不思議な体験を
思い出しているのだろう。
「まぁ、なんとなくわかります。つまりその体験はまだ現実か幻か
のボーダー上にあって、思考の仕方をちょっと変えただけでどちら
にでも転がってしまうような危うい立場にあるということですか?」
「そう、その通りだわ」やはりきれいな声だ。
「ところであなたはさっき僕の隣人と言いましたけど、そんなに近
くなら電話じゃなくてもよかったんじゃないですか?」
「それは無理よ、確かに私はさっき隣とはいったけどそれは住まい
が近所ってことじゃないんだから」
「じゃあなにが隣なんです?」
「携帯の番号よ、あなたの下4桁は8491で私は8492なのよ
。それも隣人と呼べるんじゃないかしら。あなたは住まいが隣の人
はよく見かけるでしょう、でもそれほど話さないかも知れない、つ
まりそれは住まいが隣の人はあまり話さないけどよく見かける視覚
的隣人だということでしょう。それなら携帯電話の隣人は全く見な
いけどよく話す聴覚的隣人になりうるんじゃないかしら。」彼女の
結論は極論だが論理的ではあった。
「う〜ん、おもしろいですね」僕は素直な感想を述べた。
「8493の方には電話したんですか?」
「いえ、まだしてないの。やっぱり若い番号の人からかけてみて、
話せる人かどうか聞いてみたかったから」一連の彼女とのやりとり
で僕は気づいたことがある。それは彼女の言葉にはとても情感がこ
もっていて、説得力があった。まるで女優か声優が何かを演じてる
みたいだったあるいは本物の女優か声優だったかも知れない。それ
ほど彼女の声はよく澄んできれいで叙情的であった。
「ねぇ」
「ねぇ、どうしたの、黙ってしまって」
「あ、いえ。なにも」
「私がどんな女か考えてたの?別にどこにでもいる女よ、隠す必要
ないから言うけど、歳は二十五よ、仕事というか普段は劇団に所属
しているわ、お芝居の稽古や公演ね。」僕の予想は当たらずとも遠
からずといったところだった。
「まぁ、私のことはいいからあなたの事を聞かせて、あなたはおい
くつ?まだ若いでしょ?」
「二十二です」僕はサバを読んでもよかったが正直に答えた。
「大学生?」
「はい」
「若いなぁ、大学かぁ 今が自分の好きなことを目一杯やれるころ
ね。大学では何を学んでいるの?」
「いちおー物理を専攻しています。」
「えーすごいね、私も化学系で理系だったんだけど物理は全然だめ
ね。ニュートン力学しかできないわ。卒論はもう終わったの?」僕
は理系や物理と聞いただけで「すごいね」とか「頭いいね」ととり
あえず口にする人達を好まない。あなた達は何がわかってすごいと
言ってるのか、わからないことをやってるからすごいというのはあ
まりに他人任せで安易ではないかと思う。自分の知らない分野だっ
たら評価する必要もないし、こちらもそんな評価は期待してないの
だ。それに僕はそんなに頭は良くない。
「ええ、なんとか。」
「どんなテーマ?言われてもわかんないと思うけど聞かせて。」
「一般相対論におけるPCT的幸福の追求についてです。」
「う〜ん、やっぱりわかんないわ」
「僕にもまだわかりません」
「はは、それで大丈夫なの? 」
しばらく沈黙が続いた。
「そうか二十二か、」「大学生ね」彼女は呪文のようにブツブツ呟
いていた。僕は彼女に多少の違和感を感じた、「彼女はなんで僕と
こんな会話をしてるんだ、彼女自身話したい事があるんじゃないの
か」
「ねぇ、とても不思議な体験の話はどうなったの?まだ聞いてなん
だけど」僕は思い切って聞いてみた。
「まぁ、そんなに焦らないでよ」
僕はいささか不快な気分になった、こんな時間に話したいことがあ
るからって電話してきてそれはないだろう。僕は別に大して話した
い事なんてないのだ。
「ねぇ。そんなに黙らないでよ、私はあなたには理解しづらいかも
知れないけど、依然現実と幻の狭間にいるのよ、そこから私を救い
出してくれるのは現実世界のあなたとの会話しかないのよ。お願い、
何でもいいから私と話をしてて。」
「う〜ん、では話すよ。あなたは携帯に関しては僕の隣人だけれど
も実際はどこに住んでるの、関東?それとも関西?」
「…ごめんなさい。私自身のことはあまり聞かないで欲しいの」
僕には何が何だかわかんなくなってきた。話をしてくれ、でも自分
のことはしゃべれない、あんまりじゃないか。僕はそれほどお人好
しではない、もうこんな不毛な会話は一刻の早く終わらせようと思っ
た。
「ねぇ、そう言われると正直僕には話すことがないんだよ。もう十
分話したし、そろそろ終わりにしないか?眠くもなってきたし。」
僕がそう言うと彼女はしばらく黙っていた。
「わかったわ。でも一つだけ質問に答えて。これは私があなたに電
話したことの一番大きな意義でもあるの。だから真剣によ、いい?」
「…いくわよ。 今は西暦何年?」
「2001年ですけど。それが何?」
「え〜2010年じゃないのぉ〜 またはずれたよ」
「プラスマイナス10年はいいんじゃない?」
「ブー ブー ブー」その時受話器の向こうで無機質なブザー音が
響いた、それは何かの警報装置のようだった。
「ダメです。規則ですから。さ、はやく過去人との接続を切って下
さい。」受話器の向こうで話声が聞こえた。
「結構難しいわね、年代当てクイズって。でも結構惜しかったでしょ
?」
「ツーツーツー・・・」

今のは何だったんだ。僕は試しにもう一度8492にかけてみた。
「はい、沢野ですけど。」女の人だ。
「さっき僕と電話で話してましたよね、不思議な体験がどうとか」
「はぁそんなことしてないけど。あんた誰?」明らかに声のトーン、
調子がさっきの人と異なっていた。僕は正直とまどった、そしてし
ばらく黙考した後、こう言った。
「え〜僕はあなたの隣人の者なんですが、とても不思議な体験をし
たんですよ。この体験を誰かに話さないと僕は現実と幻の区別もつ
かない人間になってしまうかも知れない。いいですか、それを救え
るのはあなたなんです。わかりますか?」

第9回3000字小説バトル
Entry6

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飾られなかった花

作者 : Naoki
Website : http://www.linkclub.or.jp/~h-naa/HN/
文字数 : 2162
 我々は部屋で月見をした。ベットの上に、布団を折って背もたれ
を作って、そこに横になって。ベットからは開け放った窓の外に、
白い春の月が見えた。
 日曜のしんと静かな夜。
「こんなふうに月を眺めるって、とても贅沢なことのような気がす
る」と彼女はつぶやいた。
「大丈夫」と僕は言った。「お金は全然かかってないから」
「こういう美しさに接すると、お金の意味って、なんなんだろうね。
わかんなくなっちゃうね」
「君が選ぶものは、いつもびっくりするほど高価なものばかりって
ことは、この際触れないでおいてあげるよ」
「あの、十分触れてると思うんですけど」
 僕は微笑んだ。「とにかく、アコースティックなものって、値段
がつかないことかもしれないよね。ネイティブアメリカンの人たち
がね、白人がやってきたときに、土地を所有したり、売買したりす
ることが、根本的に納得できなかったそうだ。土地ってものは、自
然のもの。我々はそこに住まわせてもらっているだけ。月の美しさ
が誰かの所有物でないように、土地の恵みも誰かの所有物ではない」
 彼女は目を閉じて、何度かゆっくりと呼吸してからつぶやいた。
「しょゆうぶつ、か」
 彼女は深く、静かに、春の香りを心に染み渡らせるような呼吸を
続けた。

 僕は彼女に一つ昔話をした。
 幼稚園のときの、悲しい出来事だ。
 五月頃だったか、家のアヤメがたくさん咲いた。母が「幼稚園に
持ってきいなさいよ」と言って、きれいに咲いたところを五本ぐら
い切って新、聞紙に包んで用意してくれた。
 僕は、とても「困った」。
 幼稚園に花を持っていくという経験が一度もなくて、持っていっ
てどうするのかわからなかったからだ。
 でも、とりあえず持っていけと言われたものは、おとなしく持っ
ていった。持っていって、粘土や牛乳の匂いがする教室に入って、
自分の荷物をおく棚に、新聞紙に包んであるアヤメの束も鞄といっ
しょに置いて、席について、先生が教室に来るのを待った。いつも
の通りに友達に話しかけられたりしながらも、心の中では自分の棚
においてあるアヤメのことが気になってしょうがなかった。
 持っては、きた。
 でも、どうすればいいのだろう?
 たぶん、教室に飾ればいいのだろう。教室には花瓶があったし、
今は別の花がいけてあった。その花を取って、自分が持ってきたア
ヤメに換えればいいのだろうか? それは僕にはとてもできないこ
とに思えた。そういうことを勝手にやる気にはなれなかったし、そ
もそも花瓶は僕のテリトリーの外の存在だった。普段からどういう
手順で花が持ってこられ、生けられているのか、自分にはさっぱり
わからなかった。
 すごく悩みつつ、午前中の授業が終わった。そしてお弁当の時間
になった。お弁当を食べる前には、お弁当の歌を歌う。「お弁当、
お弁当、うれしいな」という歌詞だったが、自分はお弁当を嬉しい
と思ったことはなく、とにかく家を離れて「一人」で食事をすると
いうことが、単純に苦痛でしょうがなかった。それでも義務として
「うれしいな」と歌い、お弁当を食べた。
 食事のあとの歯磨きのときに、水飲み場の左下に、僕はいいもの
を発見した。四角い灯油缶だ。そこにたくさん花が入れてあった。
なるほどと思った。ここに余った分の花は入れておくんだなと思っ
た。自分が持ってきたアヤメも、ここに入れておけばいい。たぶん
教室の花がしおれてきたとき、自動的に入れ替えてもらえるのだろ
う。こういうところにそっと置いておく分には、誰にも口出しされ
る心配はなさそうだ。どうして花なんか持ってきたのかとか、自分
が持ってきた花を教室に飾ろうなんて生意気だとか、そういうこと
を言われる心配はなさそうだった。
 みんなの歯磨きがだいたい終わって、午後の授業が始まる前に、
僕はこっそりとアヤメを灯油缶に入れておいた。灯油缶に入ってい
る花に、新聞紙で包んであるものはなかったので、わざわざ新聞紙
は取って、アヤメだけそこに入れておいた。
 しばらくアヤメは灯油缶に入ったままだった。水が入っていたわ
けでもなく、みるみる枯れていった。その日の帰り際に見たときに
はしおれていたし、翌日も水飲み場を通ったり、歯を磨いたりする
たびに灯油缶のアヤメが気になってちらっと見たりしたが、もう教
室に飾れるような花ではなくなっていた。花はぐったりとたれ、縁
の辺りは茶色く変色しかかっていた。
 とても心が痛んだ。しかし自分にはどうしたらいいかわからなか
った。本当に、わからなかったんだ。
 二日ぐらいたって、灯油缶の花はまるごとなくなっていた。
 空っぽだった。

              ◆

「悲しい話ね」と彼女は言った。
「うん」
 僕は一瞬迷ったけれど、彼女に正直に言った。「僕は幼稚園のと
き、いじめられっ子だったんだ」
 開け放った窓から見える月は、ますます白く輝いていた。たくさ
んの人たちがこの月を見て美しいと感じているかもしれないけれど、
この窓から見える月は、我々二人だけのものだった。
 僕は彼女に腕をまわして、温かい身体を抱きしめた。
 軽くキスをしてから、僕は言った。「泣いていいかな?」
 彼女は「どうぞ」と言った。
 とても近くから、それでいてなぜか遠いような、微かに神秘的な
声。いつまでも美しくありつづける月のように、白く澄んだ響きが
伝わってきた。

第9回3000字小説バトル
Entry7

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春という季節に

作者 : 山森瑞穂
Website :
文字数 : 2842
あるまだ肌寒さを感じる朝、妻が突然死んだ。夜眠りにつき、次の
日の朝にはもう2度と目を覚ますことはなく、僕があわてて呼んだ
救急車で運ばれた病院で確実に死亡していることを医師に告げられ
た。死因は心不全ということだった。僕は妻に心臓が弱いという話
を聞いたこともないし、前の日だっていつもと何も変わらなかった。
 あまりの突然の死に、僕は本当に戸惑っていた。戸惑いとはうら
はらに一方では非常にきびきびと行動をこなし、親類縁者に電話連
絡もし、葬儀の手配も済ませた。僕はある程度のことをやり終え、
着替えなどのこともあったし、一度家に帰ることにした。いつも会
社から帰宅するのと同じように、いつもの駅で電車をおり、改札を
定期券で通過し、歩道を歩いた。角のコンビニも、その隣の喫茶店
も、当たり前のことだがいつもと同じように客が来ていた。マンショ
ンのドアの前に立ち、インターフォンを押そうとする手を引っ込め、
ポケットの鍵を出して玄関の鍵をあけ、家に入った。玄関に入ると、
妻の好きなラベンダーの香りがほのかにした。そういえばいつも玄
関の靴箱の上や部屋の電話の横なんかにラベンダーのちいさな花が
いっぱい詰まった袋が置いてあった。いつもは気にもとめなかった
ことに気がつく自分に驚いた。ソファーに座り、知らず知らずにう
ちに力の入っていた手や足を伸ばし、天井を仰ぎ見た。それからふ
と台所に目がいき、自分が空腹だったことに気がついた。台所まで
歩いていき、ガスレンジの上にのっていた鍋のふたを取った。
「味噌汁…。」
そこには妻が寝る前に明日の朝食用に作ったと見られる大根の味噌
汁が入っていた。きれいな拍子切りに切られた大根と豆腐。そして、
炊飯器にはいつもの朝食の時間に炊けるようセットされたタイマー
どおりにご飯は炊かれ、保温されていた。僕は炊飯器の前でしゃが
みこみ、ぼとぼとと床に落ちる涙を見ながら、声も出さずに泣いた。
涙は、床に水溜りができるんじゃないかと思うくらい僕の目から流
れつづけた。
一時間後、僕は立ちあがり、ガスレンジの味噌汁の鍋に火をかけた。
妻の作ってくれた最後の味噌汁とご飯で遅い朝食を取った。耳には
僕がご飯を食べる音だけが響いていた。

 妻の葬式はあっという間に終わり、たくさんの弔問客と言葉を交
わした日々も終わった。会社からは規定により一週間の休暇が出さ
れ、子供のいない僕は、自由きままに出来る時間に面食らった。妻
が元気だった頃の休日には、僕はテレビゲームをしたり、一人でテ
レビを見たりしていた。出不精の僕は休日何処かへ遊びに出かける
こともめったになかった。いやいや妻の買い物に付き合ったりして
いたくらいだ。特別な趣味を持っているわけでもないし、第一、今
は妻がいたとき以上に何もする気にならなかった。
  そうこうしているうちに3日がすぎ、家にあった食料も底を尽き
てきていた。今日こそは買い物をしに外へ出なくてはならなくなっ
ていたし、もう数日もしたら、また以前のように仕事も始まる。い
つまでも、何もしないでいるわけにはいかない。これからも、生き
ていく以上…。僕は風呂場へ行き、バスタブに熱めの湯を張った。
熱い風呂に入り、髭をそり、全身を洗った。シャワーで流れていく
泡と汚れといっしょに、ここ何日か僕にまとわりついていた重い空
気までもが流されていく気がした。妻が死んでからはじめて時の流
れを感じた。

 外に出ると、日差しはここ数日ですっかり春の暖かさを含み、花
という花がこの時を待っていたと言わんばかりに咲き乱れていた。
駅前のスーパーへ行くまでの途中の公園では、花見をしに来た人々
で賑わっていた。すぐに家に帰ることもないし、なんとなくその人
ごみに紛れたい思いにかられ、足は公園へ向いていた。
 花は惜しみなく咲いていた。桜は満開を通りすぎ、風が吹くたび
に花びらが雪の様に舞った。足元にはいろとりどりのチューリップ。
人々は写真を撮ったり、お弁当を食べたりしながら花を見ていた。
枝についているたくさんの桜の花、地面いっぱい咲いているたくさ
んのチューリップ。そのひとつひとつの花が各々地面から芽を出し、
葉を広げ、つぼみをつけ、花開き、散っていく。でも、花見に来て
いる人々はそのひとつひとつにまで目を留めているだろうか。きっ
とそんな人は滅多にいない。みんなたくさんの花が咲いているその
空気を、それを見に来ている人々の雰囲気を見に来ているんじゃな
いのか?それぞれの花が持っている力を花開く瞬間に大気へと放出
する。誰もその花一輪だけを目に留めることはなくとも。自己主張
するでもなく、たくさんの花のひとつとして咲き、散っていく。
 僕は春の風に吹かれ、河の水の流れを見、花からあふれでる生命
力を感じた。日差しは暖かく、あたりは花の香りで甘いにおいがし
ていた。僕は妻と毎日なんでもなく暮らしていた。朝起きて、用意
してくれた朝食を食べ、新聞を読み、出勤する。帰宅すれば、準備
された夕食を食べ、風呂に入り、眠る。その間、僕はいつもなにか、
妻と話をしていたはずなのだが、何を話していたのかはっきりと思
い出せない。いつも話すのは妻の方で、僕からは特に話をしなかっ
た気もする。
「誕生日プレゼントに鞄と財布を買ったわ。」
妻が彼女の誕生日の次の日にそう言っていたことをふと思い出した。
妻の誕生日を忘れていたわけではなかったが、毎日同じ家にいると
なぜだかプレゼントするという行為自体必要ないことのように感じ
ていた。 
「ふーん。買えば良いさ、それくらい。でも、そんなの持ってどこ
行くの?誰か見せたい奴でもいるんじゃないのか?」
「どこにそんな人がいるのよ?だいたい妻の誕生日におめでとうの
ひとことくらい言えないの?」
「もうおめでとうとか言える年じゃないでしょう?。」
「何でよ?年なんて関係ないじゃない。毎日お疲れさまっていう気
持ちはないの?」
「そんなのお互いさまでしょう。俺だって毎日仕事に行ってる。」
「…鞄と財布は私から私へのご褒美なの。」
「俺のご褒美は?」
「…あなたの誕生日にはちゃんとサングラスと服をプレゼントした
でしょう?」
「そうだった?」

 僕は妻と結婚して毎日顔を合わせ、彼女が死んでしまうまで、何
の問題もない普通の生活を彼女としてきたつもりだった。でも、こ
うして彼女がいなくなってみて、彼女が毎日何を考え、何を望んで
いたのか。そういうことは一切知らなかった自分に気がつく。僕が
何も見ようとしなくても、毎朝いつもと変わらない、ご飯と味噌汁、
そしてそれを出してくれる妻がいた。今はもう、ひとつもない。

 僕はいつのまにか腰を下ろしていた芝生から立ちあがった。公園
の出口でチューリップの花束を売っていた。僕は立ち止まり、真っ
赤なチューリップの花束を妻のために買った。公園を出る瞬間、強
い風が吹き、たくさんの桜の花びらが風とともにザァーっと音を立
てて桜の木から離れていった。2度と再び木に戻ることのない花び
らのひとつが僕の目の前でくるくると舞っていた。

第9回3000字小説バトル
Entry8

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ルールの男

作者 : 河野成年
Website : http://y7.net/romantei
文字数 : 2974
 日曜日の夜。橋田正行は、そろそろ風呂に入ろうかと洗面所に向
かった。洗面所のとなりが風呂場であり、橋田家ではそこで服を脱
ぐ事になっている。これが、もしも早まって居間で服を脱ぐと、途
端に妻から叱責が飛ぶ。
「ちょっと、あなた。服を脱ぐのなら洗面所で脱いでちょうだい。
あなた、ここで脱いだら片付け無いんだから」
 さらに、靴下でも脱ごうものなら、今度は娘からも怒られる。
「嫌だ、父さん。汚いんだからこんなところで脱がないでよ。父さ
んてば脱いだら片付けないんだから」
 まったく、こんなところまで似なくてもイイのに。だいたい、誰
がこの家を建てたと思っているんだ。確かに家の頭金は妻の実家に
借りはしたが、俺はこの家の家長なんだぞ。
 と、そんな事を言えるはずも無く、結局、橋田は黙って洗面所に
向かう事になるのだ。
 洗面所につくと橋田は、鼻歌を歌いながらセーターの裾に手をか
けた。そして、それを脱いで脱衣かごへと放りこむ。次に彼は、ワ
イシャツのボタンに手をかけた。一番上のボタンから、ゆっくりと
しかし確実にはずす。
 それらの一連の動作は決められたものだった。橋田にとって、そ
れは揺ぎ無いルールであり、なんびともそれを侵す事は許されない
のだ。
 セーターを着ている場合は、セーターから。ボタンのある服は、
上のボタンから。じゃあ次は下のシャツを脱ぐのかというとそうで
はなく、いそいそとベルトをはずしにかかったりする。一番下のシ
ャツを脱ぐ前に、ズボンを脱がなければいけないのだ。そしてその
後は、靴下を脱ぐ。ちなみに、足は右足からである。
 そして、そこに深い意味は無い。もしもそれらの順番の意味を橋
田に聞けば、彼は必ずこう答えることだろう。『ルールだから守ら
れなければいけない』と。
 こちらとしては、そんな事が聞きたかった訳ではなく、『どうし
てそういうルールになっているのか』という事が聞きたかったわけ
だが、それを橋田に聞いても、やはり彼は『ルールはルールである』
と答えるだけだろう。
 こういった答えをする人というのは、どうしても自分が決めたル
ールを破れず、日課だから、と雨の中カッパを着て走っていたりす
る。真面目、と言えば聞こえはいいが、ただの馬鹿なのではないか、
と思われる事だってある。気をつけよう。
 さて、橋田が鼻歌をフンフンと口ずさみながらベルトをはずし、
ああこのベルトも昔は穴ふたつ違う所に通してたのになぁ最近太っ
たんだよな晩酌のビールを減らすかいやいややっぱり運動だろうよ
しジョギングだジョギングを毎朝して雨の日も風の日も槍が降って
も走って走って走り抜くんだ朝の6時に起きれば走れるよなウンウ
ン。などと考えながらズボンを脱いでいると、唐突に彼の下腹部に
便意が襲ってきた。
 脱衣の流れを止めるのもしゃくではあるし、シャツ一枚にブリー
フ一枚、後は両足に靴下だけという格好でトイレに入るのは抵抗が
無いでもない。しかし、便意を抱えたまま風呂に入るわけにもいか
ない。橋田はしょうがなく、便所へとかけこんだ。
 ブリーフを下ろし便座に腰掛けて、橋田はほっと一息ついた。し
かし、どうにも落ちつかない。理由はわかっていた。満足に服を着
ていないことが、橋田をなにか不安な気持ちにさせていたのだ。
 別に、用をたすのに服は必要ではない。しかし、普段は服を着て
入る所に、裸同然の格好で自分が存在していることが、橋田には不
思議でしょうがなかった。
 やはり一度、服を着なおすべきかとも考えたが、再び風呂に入る
ために服を着るのはそれこそナンセンスに思えた。そしてなにより、
下腹部を襲う強烈な便意に、橋田は便座から腰を上げる事が出来な
かった。
 橋田のルールでは、風呂に入る場合は迅速に服をに脱ぎ去り、早
急にかけ湯をし、そして間髪を入れず湯船に浸からなければならな
い。これら、一連の動作を素早く、かつ華麗に行うことで、橋田は
ちょっとした満足を味わうことが出来るのだ。
 しかし今、その大事な作業に便意という人外の邪魔が入ってしま
った。ここは早めにレールに乗りなおさなければ、きっと明日は嫌
な事が起こる。起こるに決まっている。
 橋田は、一種の強迫観念のようなものに押されて、便座に取りつ
けられているウォシュレットのボタンを押した。ジーという低い音
と同時に、橋田の尻の下にノズルが延びてくる。
 ウォシュレットのノズルから出る水流の正規の用途は、用を足し
た後の尻をきれいにする事にある。しかし、橋田はこの水流にもう
ひとつの用途を見出していた。
 用を足す際に温かいお湯を尻にかける事で、もう少しで出そうな
便をよりスムーズに発射する事が出来るのだ。この時、ノズルから
出る水流はほの温かいお湯で無ければならない。もちろん、これは
橋田のルールであるため、お湯で無くてはならないという確固たる
理由は無い。
 したがって、今回のように冷たい水が出て来ようものなら、それ
はルール違反という事になる。途端に今までの便意は引っ込み、怒
りだけがふつふつと沸いてくるのだ。
 俺がいつもちょうどいい温度にしているのに、なんで毎回毎回水
が出て来るんだ。そもそも、このウォシュレットだって俺の稼ぎで
買って来た物だろう。いわば、俺の物なんだ。それなのに、なんで
あいつらは好き勝手にいじくりまわして自分の都合のいい設定にす
るんだ。
 と、声を大にして叫びたいところではあったが、もちろん橋田に
それができるはずは無い。
 おさまった便意をなんとか呼び戻し、今度は慎重に温度を調節し
た水流を尻にあて、一気にひねり出す。しかし、いつもの爽快感を
橋田は感じる事が出来なかった。
 理由はわかっている。ウォシュレットの水流が冷たかったからだ。
 しかし、すでに終ってしまった事をいつまでも悔やんでいられる
状況に、今の橋田はいない。
 一刻も早く脱衣に戻らなければ、大事なルールを破ってしまうこ
とにもなりかねないのだ。ウォシュレットの水流も大事なルールに
は違いなかったが、そのためにもう一つのルールまで台無しにして
しまう事は無い。
 用を足した後、すぐさま便所を出ると、橋田は再び洗面所に向か
った。洗面所で手を洗いながら、今から風呂に入るのに手を洗うの
も妙な話だなぁと考えたが、すぐさまそれもルールであることに気
がついて、自分を納得させる。なんでもかんでもルールなのだ。
 橋田には、もう時間が無いのだ。早く服を脱いでしまわなければ
ならない。このままでは、ルールを破ることになってしまいかねな
いからだ。風呂に入るための脱衣は、あくまでも素早く終らせてし
まっておかなければならない。
 橋田は、慌ててシャツを脱いだ。続いて、パンツに手をかけ、慎
重に右足から抜く。
 これで、後はかけ湯をするだけである。まったく、たったこれだ
けの事にどうしてこんなにも時間がかかってしまったのだろうか。
橋田は苦笑して、風呂の扉を開いた。
 しかし、橋田は気付いておくべきだったのだ。ルールが守られて
いないことに。自分が、重大なミスを犯していることに。
 風呂場に一歩踏みこんで、ようやく橋田はそれに気がついた。あ
まりにも初歩的なミス。
 ぐっしょりと濡れた靴下を呆然と眺め、橋田は思った。ウオシュ
レットの温度を変えたのはいったい誰なのかを。
 もちろん、橋田にはそれを追求することなど出来ないのだが。

第9回3000字小説バトル
Entry9

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群馬県前橋市

作者 : 佐藤ゆーき
Website : http://www.d2.dion.ne.jp
文字数 : 2993
 僕が生まれたのは東北地方の山間にある小さな町で、そこは鳥取
砂丘に次いで日本で二番目に星が綺麗に見えるという以外は、何の
特筆すべき事柄も存在しない典型的な田舎町だった。四方を山に囲
まれた盆地にあり、夏は東北地方で一番気温が高く、冬は東北地方
で一番雪が積もり、そして住人は閉鎖的だった。閉鎖的と言っても
他所者に向けられる陰険な閉鎖性ではなく、自分達がこの場所で満
足してしまっていて、外に出て何かやらかそうなんてとんでもない
とでも言うような、いわば自分自身に向けられた閉鎖性だった。
 あるいはそれはどこの農村でも同じようなもので、もっと大きな
視点で見たら、それが世間一般に言われる「日本人的」ということ
だったかもしれない。でもどちらにしても、僕がその町で過ごした
時間の大部分を占める少年時代にそんなことは考えてもみなかった
し、八歳か九歳の夏に自転車に乗った大学生に道を尋ねられて、群
馬県の前橋市から来たと言われても、そんな場所が僕の住むこの町
と同じ世界に属しているなんて今一つぴんとこなかった。
 でも一つはっきりしていることがある。僕が走るということにつ
いて意識し出したのはまさにその日だった。もちろんそれまでだっ
て友達とそこいら中走り回っていた。そんな田舎に住む子供は、田
んぼの畦道や神社の境内を走り回るような遊びしか知らなかったか
ら、鬼ごっこや缶蹴り、かくれんぼ(僕らのかくれんぼは鬼に見つ
からないように物陰を走り回っていた)が僕らの放課後や休日の全
てだった。あの夏の日も、大学生という人種を初めて目にした僕ら
はその若者の自転車の後ろを物珍しそうに走ってついて行った。ま
るであの自転車を追いかけることが今日の遊びだとでもいうように。
僕達は走った。となりを走っていた友達が、チャンバラをしていた
木の棒を捨てるのが見えた。せっかくチャンバラ向きのいい枝が見
つかったのにもったいないと僕は思った。気が付くとみんなの笑い
声が荒い息に変わっている。後ろの友達の足音が遠くなっていく。
それでも僕は大学生の跨がる銀色のフレームを追いかけた。その銀
色の輝きもついに遠くなって、僕は世界に一人だけになったように
感じた。立ち止まると友達の姿は見えなくて、周りの景色も父親の
運転する車の窓越しにしか見たことのない場所だった。僕は突然声
をあげて泣いた。家まで歩いて帰る間中泣いた。そして次の日から
僕は鬼ごっこや缶蹴りで友達の誰にも負けなくなった。

 それでも僕の遊び友達以外にも、足の速い子は小学校に何人もい
たから、五年生になって近隣の小学校が集まる陸上競技大会の選手
に選ばれたものの、個人種目には出してもらえずに、リレーのバト
ンの受け渡しの練習ばかりしていた。六年生になってからも同じよ
うに無難にバトンの受け渡しをして終わった。どんなタイムで何位
になったのかも覚えていない。
 陸上競技以外にも取り立てて目立つようなこともなく、僕は平凡
に中学生になった。僕の町には小学校も中学校も一つずつしかなか
ったから、全く同じ顔ぶれで九年間過ごすことになる。たぶん他の
町ならいくつかの小学校の生徒が一つの中学校に集まってくるとい
うことが一般的だと思うので、子供達は思春期にさしかかる多感な
時期に大きな刺激を受けることになる。大袈裟かもしれないが、僕
達の町にその通過儀式がないということが町の住人の閉鎖性に一役
買っていたのかもしれない。
 とにかく僕達は学生服を着なくてはならなくなったということと、
先生達の顔ぶれが変わったということ以外は特に環境の変化もなく、
義務教育の七年目に突入した。そして僕は野球部に入った。特に野
球が好きだったわけではない。ただ単にその中学校に運動部が野球
部、卓球部、剣道部、柔道部しかなかったからだ。おまけに生徒は
必ず運動部か文化部に所属しなくてはならないという校則があった。
確かに、例え特にやりたいわけではない部活動でもやっていないと、
僕達の町では退屈過ぎて生きて行けなかっただろう。だから野球部
に入った。
 そして田舎の中学校にはよくあることだが、僕達の町が所属する
地区の陸上競技大会がある時期にだけ全ての運動部から足の速い生
徒が集められて臨時の陸上部が出来た。僕は初めて個人の百メート
ルの選手に選ばれた。本当はなんとなく二百メートル走れる方が偉
いような気がしていたので、二百メートルに出たかったのだがまだ
力が及ばなかった。だから不本意だった百メートルをどうやって走
ったかはあまり憶えていない。憶えているのは、大会当日が雨だっ
たこと、予選は通過したものの決勝ではたいした成績が残せなかっ
たということ、雨に打たれながら自分の学校の控え所にとぼとぼと
帰っていく途中で、憧れの先輩に「お疲れさん」と声をかけられた
こと。後にも先にもその先輩に話し掛けられたのはその時だけだっ
た。

 それから僕は野球部でも取り立てて目立つこともなく、たぶん三
年間レギュラーになることはないだろうという予感とともに中学二
年生の春を迎えた。
 でも四月の誕生日を迎えると、僕の人生は少し変化した。
 まず二年生になってすぐのテストで学年トップになった。特に勉
強をしていた憶えはないが、授業を聴いているだけで全てが理解で
きた。その後、中学を卒業するまでにトップの座から落ちることは
無かった。
 そしてこの年の陸上競技大会では二百メートルの選手に選ばれた。
練習では三年生と一緒に走っても負けることはなかった。でも元来
自分に自信の持てない性格の僕は、前年の結果のこともあって、特
に何位に入ってやろうなどとは思ってもみなかった。
 当日の予選を一位で通過した後でさえ僕には自信が無かった。僕
は全力で走ったのに、きっとみんな本気を出していなくて、決勝で
は僕は最下位争いをすることになるのだろう。特に近くの市の大き
な中学校の選手達には勝てるはずがないとさえ思っていた。
 周りも僕に期待をしてはいなかった。確かに僕が速いということ
は認めていたが、その大会で僕の中学の生徒が優勝したという話は
聞いたことが無かったし、やはりみんなの中にも大きな中学校に対
する劣等感があったのだと思う。だから僕はプレッシャーに悩まさ
れたりすることのないまま決勝のレースに向かうことができた。僕
は五レーンだった。二百メートルはカーブからスタートするので、
一人一人のスタートラインがずらされている。だから直線には入る
までは自分が何位なのか分からない。僕はとにかく一生懸命腕を振
った。カーブを抜けると、外側を走っていた選手がみるみる僕の後
ろに後退していって、僕はトップに立った。その時でさえ僕は自分
が優勝するなんて思っていなかった。僕は一生懸命腕を振り続けた。
後ろの選手の気配が遠くなっていく。また僕は世界に一人だけにな
る。ゴールラインまでの空間が、とても静かで、とても広い。そこ
は僕だけの世界。その世界が少しづつ縮んでいって、僕は人々の声
援や拍手の溢れかえる世界に帰ってきた。

 あれから十年。僕は高校の陸上部でそこそこの成績を残し、関東
の大学に進学する者が多い中、たった一人で京都の大学に進学した。
そこでもやっぱりそこそこの成績を残して、そのまま京都で会社員
をしている。もうあの町にはしばらく帰っていないし、僕の世界は
あの町の誰よりも広がっていると思う。
 でも群馬県の前橋市には未だに遠いままだ。

第9回3000字小説バトル
Entry10

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天使のあくび

作者 : さとう啓介
Website :
文字数 : 3000
 ジジジジジーッ!
 けたたましい音が、静寂の朝靄の中で緊張した空気の平行間隔を
失わせる様に、安っぽい目覚まし時計が鳴り響く。
(ふ、ふぁ〜ふ。おふぁよ〜う。……)
 ベッドの上ではその音にピクリともせず、君はぐっすりと眠った
まま、どちらかと言えばやすらかな笑みさえ浮かべている。
 やがて目覚まし時計のほうが疲れたサラリーマンの叔父様のよう
に、ジジジッ・ジジ・ジッ・ジ! とゼンマイが切れた様に止まっ
て、一瞬秒針が戸惑った様に逆さに跳ね上がり、そしてまたもとの
動きにもどって時を刻みはじめる。
 確か君は今日、大事な大事なお客様の所へ、あの禿げ上がって、
いかにも中年と言った感じの支店長さまと、御打ち合わせに御出か
けするのではなかったのでしょうか?

(お〜い!おきろ〜っ)
 いいのかな〜、目覚まし時計止まっちゃったよ。
僕、知らないよ。いつものように御寝坊さんで遅刻しちゃってもさ!
君はいつも会社のみんなから
「山元支社長さま、おはようさん。只今11時でございますよ、
支店長さまがご相談したい事があるそうですので、5階へ来て頂き
たいとおっしゃってますよ」
てな事を言われちゃうんだよね。
ま、いいか、自分の事ぐらい自分で管理出来なきゃ、いい社会人に
は成れないんだからね。これも自業自得ってことで、僕にはあんま
り関係なさそうだし、それにまだ6時半だからもうちょっと寝かし
とこ〜かな! では僕も少し(ふ、ふぁ〜ふ。おやすみ〜)。

 おっ!やばい10時だ!
ほんのちょっと眠ったつもりが……やばいやばい、僕としたことが
これでは君と同じだ! さっそくあのかわいい事務のおばちゃんに
電話してもらわなきゃ!

 プルルル〜ッ! プルルル〜ッ! プルルル〜ッ!……。
おいおい、君は何回鳴らせば起きてくれるんだい?
おっ! やっと動いた!
「ふぁ〜い……だ〜れ〜」
「山元さん!起きて下さい!もう10時過ぎてますよ」
「あれ〜?……11時には行きま〜ひゅ」
「何言ってるんですか、支店長が待ってますよ!」
「……!」(う〜ん、いい表情だね、びっくりしてんだ)
「えっ!あ・あっ!そうだ!やっべ〜!すぐ出るから支店長に現地
で待ち合せって言っといて!おねがい!」

 やっぱり君はマヌケだな〜、いつもと同じだと思ってたんだろ。
(フフフッ)。
 さあ、そうとなれば急いで顔を洗って、そうそう、パンツも替え
といたほうがいいな、早く、早く! 頭はそれでいいのかい?
ボサボサだよ、サラリーマンは身だしなみが肝心なんだから!
あれ? いいんだ。まっ、いいか、そんなのあまり気にしてないん
だよな。
 ほらネクタイ、それにカバン。う〜ん、忘れ物ないか?
おいおい、靴が反対だよ、そこまで慌てるなって。今日の一日が始
まる朝だよ、気持ち良くさ〜清々しくいきたいね、清々しく!
(君、君! 書類はどうするの?)デスクに置きっぱなしでしょ。
 昨日、雪ちゃんに誘われたからって喜んで、お酒なんか飲みに行
くからこんな事になっちゃうんだよね。(ふふふ、いいきみ!)
 でもどうしょっか? しょうがないから支店長さまに持って来て
もらいましょうね。(ほら電話、電話!)

「やべ〜っ、書類忘れた!そうだ支店長に持ってきてもらおう。
ピッピッピっと、……あのう、もしもしぃ?山元ですけど〜」
「バカ野郎!お前何時だと思ってるんだ!」
「すみません、寝坊しちゃいました」
「しちゃいました?……、先方で待ち合わせでいいんだな!」
「え、あ、はい。それで〜……」
「それでなんだ?」
「先方へ提出する書類を持ってきてほしいんスけど……」
「書類?お前もってないのか!」
「デスクに置いたままです。まさか寝坊するなんて、思わなかった
んで〜」
「ばか!ばかばかばか!うううっ……それを、わたしが持っていけ
ばいいのかな? 山元君! う〜ん?」
「あ、すみません、じゃあ待ってますんで!」ピッ!
(素晴らしい会話なこと!)
 支店長さま迄使えるとは、君もなかなかやるよね。
やっぱり僕が見込んだだけあるよ。いいよ〜支店長さまでも社長さ
までも使っちゃおうね、それが君らしいんだよな〜、いい!

(おい!コンビニなんか寄って間に合います?)
余裕と言うか、肝が太いと言うか、やっぱ少しマヌケなのかも?
10秒チャージですか。なるほど、若きサラリーマンだね。
時は金なり! でも君の場合寝坊だもんね、かっこ悪〜!
 せめて、支店長さまよりは先にお客様の所に着きたいでしょ?
(走れ走れ!走れーっ!)
ほらほら、もっと脚をあげて、そうそう空のカバンを思いっ切り前
後に振って! いい! その汗がいいんだよ。起きて10分しか立
ってないのに、その滴る若い汗!(ちょと、匂うかもよ?)

 ほれ!飛び乗るんだ。電車も君の見方だ。
丁度いい具合に電車も来たもんね。君は今日、ツイテルかもしれな
い。でもこの時間でも結構混んでますね〜、女性が多いな。
おいおい君、息が荒すぎ、大丈夫か?吐いたりしないでよ〜!

 あれ〜見てみて! 君の前の男。さっきからその女性のお尻触っ
てますよ〜。痴漢だよ、痴漢!
(ほら、見ろよ!見なかった振りをするんじゃないの!)
助けてあげた方がいいよ、男22才、社会人ならばNo! と言える
人に成りなさい!って、ちょっと違うけど。(ほら!早く、早く!)

「あ、あなた。こ、この人、い、嫌がってるじゃないですか」
「なんだ〜?」
「だ、だ、だから……」
「俺が痴漢でもしたって言ってんのか!あ〜ん?」
「……、……」
「なんだよ!てめー、俺が痴漢でもしたって証拠あんのか?!」

(もっと、強く出なきゃ!もう言ったんだから強く行けよ強く!)

「貴方、痴漢してましたよ。僕はこの目でちゃんと見ました。貴方
を痴漢の現行犯で逮捕します。」
「逮捕〜?」

なに言い出すんだよ!逮捕じゃないでしょ、警察じゃないんだから!
ここはヤバイから逃げるよ!(ほら、早くっ!こっちだ!)
 やばかったよ、でも言えるじゃない。見直したな〜。
女性もホッとした顔して、逆に君の一言で笑ってたぐらいだ。
よかった、よかった。

 あれ! 雨だ、ほら外を見なよ。天気予報なんか見る暇なかった
もんね、しょうがないよ。駅降りたらキオスクで傘買うしかないね。
君、君? なにカバンなんか覗いてるの? 折畳みの傘はないよ!
昨夜も雨降って、雪ちゃんに貸してあげたでしょ、記憶力も弱いん
だね。君、酔った勢いで雪ちゃんがチューしたことも忘れてんじゃ
ない? ってそれは思い出したようだね、でもニヤニヤするんじゃ
ないの。ほら、廻りの人が気持ち悪がってるでしょ。

 駅に付いたよ!ほらいつまでニヤニヤしてんの(走れ!走れ!)
もう傘はいいよ、そんなに降ってないんだから。
微妙だよ、支店長さまがもう先に着いてるかもしれない。
(急いで!早く早く!)
 そこの角を曲がるまでは、まだ歩くんじゃないですよ、どっちが
先か解らないんだからね。
(おっ、いないぞ!間に合った!)
支店長さまに勝ったぞ! やったね〜! バンザーイ、バンザーイ
ってそんなに嬉しそうな顔をするんじゃないの。
これからが本当の仕事でしょ、気合いを入れて! 気合いを!
おいおい、今度は安心してそんな大きなあくびなんかするんじゃな
いの! ……あっ!

「あっ!支店長!先に……?」
「ううううっ!山元!」

 やっぱり、君はまだまだ未熟だね。
今日はもう僕、疲れたよ。この先は自分で頑張ってね。
(ふ、ふぁ〜ふ。おやすみなさ〜い。……)

第9回3000字小説バトル
Entry11

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E-mail from,,,

作者 : 根本智也
Website :
文字数 : 2282
 その男と出会ったのは行き付けの酒場だった。仕事が一段落つい
たことで久しぶりに酒場で羽を伸ばしていたところ、酒場に見知ら
ぬ男が入ってきた。バーテンは顔馴染みらしく、横目で伺うとキー
プしてあるボトルを探っている。男は背広姿で、脇にはノートパソ
コンを抱えている。男はゆっくりと店内を見まわしている。珍しく
店はいささか混雑していたので、落ち着ける場所は私の隣のカウン
ター席しかなかった。男はそこに腰を落ち付けると、バーテンに目
で合図をした。心得たようにバーテンがグラスを目の前に置くと、
彼はそれを半分ほど一息に飲み干し、それからノートパソコンの電
源を入れた。
 酒場には全く似つかわしくないそのノートパソコンを横目で眺め
ていると、画面に精悍な顔立ちの若者が大きく映った。その若者は
髪を少し染め、日焼けした顔に白い歯がこぼれている。
 横から覗いている私に気が付いたのか、男はゆっくりとこちらに
向き直り、わずかに口を歪ませた。
「息子です」
 そう言う男の顔はどこか満足げであった。私はもう一度パソコン
の画面を見た。背景には少しすすけた草原が広々と映っている。
「アフリカのね、なんて言ったかな……。南のほうの国に海外協力
隊とかいうもので行っているんですよ。電話でなかなか話せないか
ら、私もこうやって慣れないパソコンでメールを打つんです。メー
ルならかならず連絡が取れますから」
 そう誇らしげに言うと、パソコンを操作してメールソフトを立ち
上げる。そこには同じ名前のメールが一列に並んでいた。
「私が書くと、こうして返事をくれるんです。最近はそれが楽しみ
なんですよ」
 私の息子も一年前からアメリカに留学していて、その気持ちは痛
いほどよくわかった。私もメールをパソコンからではなく携帯電話
からだが、時々送っていた。そのことを彼に告げると、
「奇遇ですねえ」
 彼はそう言って、私に酒を勧めた。私達は息子の自慢をし、そし
て身近にいない寂しさを嘆きながら大いに飲み、そして語った。す
っかりうちとけた私に、
「これから家に来ませんか?」
と彼は提案した。私は即座に賛成し、そして店を出た。

「ここが私の家です」
 彼が示す先には一昔前の郊外住宅といった趣きの一戸建てがあっ
た。一階がガレージになっているようなやつだ。家の古さを示すよ
うに、階段や扉にははげかけている塗装や小さな瑕が見える。
「さあ、どうぞ入ってください」
 そう言いながら、男は玄関の扉を開いた。扉は小さく軋む音を立
てて開く。その中へ男は消えていき、すぐに中の灯りがついた。暗
い夜道に慣れた目には少しばかり眩しかった。
「どうしました? どうぞ、中へ」
 重ねて言われて私はゆっくりと扉をくぐった。彼の後に従って廊
下を進む。通されたのは、昔は客間として使われていたであろう和
室だった。部屋の中央には少し値の張りそうな机が置かれている。
しかし部屋の隅には物置に入り切らなくなったのであろう様々な物
が寄せ集められていた。
「いや、お恥ずかしいですが、ここがまだマシなもので。さあ、座
ってください。今、準備をしますから」
 私は勧められるままに座った。手持ちぶさたな私はさらに部屋を
見まわした。机以外には調度品はない。隅には電気ストーブや扇風
機の箱に混じって、衣装行李や最近流行りの収納用のクリアーボッ
クスが積まれている。その透明な箱の奥に黒い物が見えた。あれは
……
「お待たせしました。今、妻が病で実家に帰っているものですから、
あまりお構いはできませんが」
 もっとよく見ようとした時に男がワインとチーズを持ってやって
きた。ワインのことはよくわからないが、瓶にかかれている年代は
かなり前だ。彼はそのワインの栓を抜き、グラスになみなみと注い
だ。ワインはとても美味かった。
「あ、そうだ。そろそろメールの返事が来る頃だ」
 美味い酒に再び話が弾んだ頃、彼は思い出したように言った。そ
してノートパソコンを机の上に置き、そどこからか引いてきた電話
ケーブルをそのパソコンにつなぎ始めた。
「時差の関係でちょうど今ごろなんですよ」
 快活な彼の声が部屋に響く。見るとあの若者が笑顔を見せている。
私は突然思い至った。確か一月ほど前にアフリカ南部で大きな政変
があった。それに巻き込まれて多くの人が亡くなったとニュースは
大々的に報じていた。そしてその中には日本人も含まれていた……
 男はパソコンを操作して再びメールソフトを立ち上げた。すぐに
パソコンがリズミカルに回線をつなぎ始める。私は酷く落ち着かな
くなった。
「さあ、今日は届いているかな」
 男は独り言のように呟く。やがてソフトが新しいメールの到着を
告げた。
「ああ、今日も来ている。貴方にもお見せしましょう」
 男はあの若者そっくりの笑顔を私に見せながら、そう言って私に
メールを見せた。

 黒く大きな字でUser Unknownと、そこには書かれていた。

「『今日も元気です。』か。今日も変わらず元気なようですよ。何せ
日本とは違って治安とか衛生面とかあまりよくないですからねえ。
ほら、二週間前にもアメリカで留学生が射殺された事件があったじ
ゃないですか。それを考えると、寂しいとはいえ、無事でいてくれ
るだけ喜ぶべきことなのでしょう」
 彼は笑みを浮かべながら呟いている。私はそれを見たくなかった。
用事を思い出したと言って、引き留める彼に別れを告げ、足早に自
宅に戻った。

 床につく前に、仕事のために一日携帯の電源を切っていたことを
思い出した。すぐに電源を入れ、一日に来たメールと伝言を聞く。
メールの最後に息子からのものがあった。

 今日も元気です。
 User Unknown.

第9回3000字小説バトル
Entry12

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よっちゃんのこと

作者 : 海坂他人
Website : 海坂の地下室
文字数 : 3000
 よっちゃんは親せきのお兄さんおじさんです。なぜ、お兄さんお
じさんかというと、見かけはおじさんだけど、お兄さんみたいなと
ころもあるからです。
 ぼくが行くと、よっちゃんはいつも、ちゃの間のこたつにすわっ
ています。本を読んでいたり、何かむずかしそうなことを書いてい
たりします。
 原こう用紙のような、はこのある紙に、えん筆で書いているので、
「作文を書いているの。」
ときくと、
「そやなあ、まあ淳ちゃんの作文みたいなもんや。」
とはずかしそうにわらいます。
 でも、ぼくが学校でもらう原こう用紙とは、だいぶちがっていて、
小さくて、はこはみどり色で、左すみには海坂用せんといんさつさ
れています。
 よっちゃんによると、これは海坂という人が使う原こう用紙とい
ういみだそうです。海坂というのは、よっちゃんが作文を書くとき
の名まえです。
「どうして、名まえをかえるの。」
ときくと、
「わしの作文は、よをはばかるからな。」
とこたえたので、ぼくが学校で作文をたくさん書くとほめられるの
によっちゃんは家でもかくれて書いているので、ふしぎに思って、
「よをはばかるってなあに。」
ときいたら、
「いけないこととか、わるいこととか、はずかしいことも書くから、
名まえをかえてかくれなあかん。」
というので、大へんだなあと思いました。
 でもこんなふうに自分の名まえのついた原こう用紙をつかえるの
は、作文の名人だけだといいます。よっちゃんは早く名人になりた
いけど、なかなかなれないので、自分で作っているので、
「わしのは、にせもんや。」
というけど、本ものそっくりのきれいな原こう用紙を、ぱそこんを
つかって自分で作れるのはやっぱりすごいです。
 ぼくも自分の用せんがほしいと思ったので、
「ぼくにも作って。」
とたのむと、
「おう、ええで。淳ちゃんの名まえ入れてなあ。色はどないする。」
と言いながら、すぐに作ってくれました。
 海坂用せんは、うらを一どつかったざらざらの紙なのに、淳也用
せんはまっ白い紙に空いろのせんで、とてもきれいなので、ぼくは
うれしくなりました。
「学校で、こんど作文のじかんにつかうんだ。」
と言ったら、よっちゃんは、
「いくらでも作ったるさかいな、ぎょうさん、書き。作文の名人に
なれるで。」
と言ったので、ぼくはがんばって書こうと思いました。よっちゃん
も毎日、一しょうけん命作文を書いているから、いつかきっと名人
になれるといいと思います。

 よっちゃんが毎日、家にばかりいるのは、仕ごとがないからです。
よっちゃんは今二八さいで、
「同きゅう生がおやじになる世の中やからね、かなわんわ。」
と笑っているけれど、仕ごとがないからおくさんもできないので、
おじさんになれなくてお兄さんのままなのです。
 よっちゃんは子どものころはとてもあたまがよかったそうです。
ばあちゃんによると、
「大学にげんえきで入って、それでもたりなくて、大学いんまで行
ったんや、なんぼできたか、わからん。淳もべん強見てもろたらど
うや。」
というので、よっちゃんに、
「ほんとうなの。」
ときいたら、
「はたちすぎたらただの人。学校のべん強なんか、あほらし。てき
とうにつきおうといたら、たくさんや。」
と言うので、ぼくはとてもあん心しました。
 こんなことを言うくせに、よっちゃんはじつは学校の先生をやっ
ています。高校で、かがくを教えているそうです。だからぜんぜん
仕ごとがないわけじゃないけど、やっぱりまだ本ものの先生になれ
ないので、ほとんど毎日家にいます。
 いつかぼくがあそびに行ったら、こたつの上にきょうか書とノー
トを広げていたから、
「べん強してるの。」
ときいたら、
「ネタしこみですがな、おざしきの。」
と言いました。先生がべん強しているのはなんだかへんで、それは
先生はぼくたちにべん強させる人だからで、
「先生なのにべん強してるの。」
とぼくがきいたら、
「大へんなんやで、わからんやつを、わかるようにするのは。淳ち
ゃんの学校の先生かてな、どないしてみんなにわからせようか、日
々くしんしてはるのやで。」
と言うけど、ぼくはそれでもこのごろさんすうの文しょう題ができ
ません。
「でもやっぱりわからない人もいるよ。」
と言ったら、
「そらしゃあない。人間には、むきふむきいうもんがあるよってな。」
「でも、このあいだ、ちょう会で校長先生が、ど力すれば人は何で
もできるようになれる、言うてはったで。」
「そらむちゃや。まちごうとる。今は、だれでもど力さえすれば同
じようになれる、思てるのがまちがいのもとや。」
 そうすると、よっちゃんは今まで三かいも先生のしけんにしっぱ
いしているから、きっと先生にはむいていないのだと思いました。
でもよっちゃんはやさしいし、おもしろいので、いい先生になれる
と思うので、人間のむきふむきはむずかしいです。

 今日のこくごの時かんは作文で、「みじかな人のことをいきいき
と書きましょう」というところをやりました。
 ぼくはよっちゃんに作ってもらった淳也用せんをランドセルから
出してきて、書きはじめました。よっちゃんのことを、書きました。
 ところが、一まい書いたところで先生が回ってきて、
「なんですか、そのへんな紙は。」
と言うので、
「原こう用紙です。ぼくせん用の。」
とこたえたら、
「ちゃんと決められた原こう用紙に書かなくてはいけません。」
と、みんなと同じ新しい原こう用紙をわたされて、書きなおすよう
に言われました。
「だから一まいあまったのね、ほんとに、よけいなことするから。」
と、おこられてしまいました。
 はじめから同じことをうつしたので、休みじかんになってもおわ
らなくて、ほうか後もひとりで書いていました。
 そこへけいた君としんご君が来て、
「へんなの、にせ作文用紙。」
とわる口を言って、淳也用せんをとられてしまいました。
「返せよ。」
と言っても返してくれなくて、さい後にはひこうきにしてまどの外
へとばされたので、ぼくはとてもくやしかったです。
 かえりによっちゃんの家によったら、
「今日はずい分おそいんやな。」
とふしぎがられたので、じじょうを話したら、
「よし、わしにまかしとき。その二人は、けいた君と、しんご君か。」
 こう言いながら、よっちゃんはすぐにパソコンで、けいた用せん
と、しんご用せんを作ってくれたので、ぼくはおどろきました。
「そういうやつこそ、心の中ではうらやましく思ってるもんや。明
日これを学校へ持っていって、こっそり二人のつくえに乗せておい
てみ。」
 あの二人にこれをやるのはもったいないような気もしたけど、き
っとよろこぶだろうと思いました。
 よく朝、よっちゃんの言ったとおりに、休みじかんに、二人の目
をぬすんで、そっとつくえの上において、ようすを見ていました。
二人は、おどろいたようにぼくの方を見て、それから、先生のとこ
ろへ行きました。
 ぼくは先生によばれて、こんどはげんこつを、されてしまいまし
た。
「べん強にかん係ないものを、学校に持ってきてはいけません。そ
の上、ほかの人にめいわくをかけるなど、もってのほかです。」
とどなられて、頭のてっぺんにげんこつがおちてきて、その中にえ
ん筆があったので、頭にあながあいたかと思いました。
 よっちゃんは、
「そういうくやしいことが、ええ作文の材りょうになる。」
と言ったけど、もともとよけいなことをしなければ痛い目にもあわ
ないので、その方がましだと思います。

第9回3000字小説バトル
Entry13

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木の葉の狐守唄

作者 : 英 康作
Website : http://member.nifty.ne.jp/y-fukuda/
文字数 : 1527
どうして決心をしてくださらないのかしら。
私はいつでも「お受けします」と答える用意が出来ていると
いうのに。
そして、私たちの暮らしが急変するわけでもないのに・・・
でも、身分違いの恋ですもの、
・・・あまりにも身分の違う・・・・・・

そして私は、今日も連絡を入れる・・・
「あの・・・木の葉です」
「あら、木の葉ちゃん?」
「はるあきさんはいらっしゃいますか?」
「はるあきは、まだ仕事ですのよ。先にうちにいらっしゃい」
「では、お邪魔します」
「木の葉ちゃんは、連絡なんかしなくても、
気軽にいらしていいのよ」
はるあきさんのお母様は、そういって静かに笑ってくださる。
やさしく、やさしく、私がおびえない様に。

「ごめん下さい、木の葉です」
そうお母様にご挨拶をして、裏庭に面した縁側から、家に入る。
「いらっしゃい、木の葉ちゃん、
今日も一緒に、お食事を作りましょう」
にこにこと笑うお母様。なんて素敵な方なんでしょう。
お母様も、はるあきさんも、私のあこがれ・・・・・・
「はい、よろしくお願いします」
「・・・いつまであなたを待たせるのかしらねぇ、はるあきは」
「いつも遅いのですわね。お仕事が大変なのでしょう」
「・・・そうじゃないのよ。早くあなたを嫁にむかえたいのに」
私は、この話題になると決まって赤面して答える。
「はるあきさんは・・・きっと『ほかの人』を迎えるはずですわ」
「そうかしらねぇ。私は木の葉ちゃんが、一番お気に入りなんだし、
はるあきもそうだと思うのだけど」
・・・お母様、ありがとうございます。
「だって、はるあきさんは、とても力のある方ですから・・・
私なんて・・・・・・」
「でもねぇ、私は、いつも仕事で疲れきっているあの子をみると、
私がいなくなった時、木の葉ちゃんが、あの子を支えてくれたらと
思っているの」
「お母様、ありがとうございます。
こうして、お母様と呼ばせていただくだけで・・・」
「泣くのは、似合いませんよ、木の葉ちゃん。
せっかくの器量よしなのに」
「でも、お母様、はるあきさんは、きっと私より若くて可愛い
『人』をお迎えに・・・」
「そんなことは、私が許しません。安心なさい、木の葉ちゃん」
そう言って、お母様はまた、抱きしめてくださいますのね・・・
私が胸に抱かれて、ほろほろと、泣くことをご承知なのに。
「木の葉ちゃん、また、泣かせてしまったのね。ごめんなさいね」
「いいえ、いいえ、お母様のせいでは・・・」
木の葉はうれしいのです。
お母様にも、こんなに大切にしていただいて。
「気にしないで、お泣きなさいな。ええ、私がついていますとも」
「そのお言葉だけで、もう、木の葉は、木の葉は・・・・・・
充分、幸せです」
「それにしても、はるあきは、遅いのねぇ。家へ帰るのも、
あなたへの求婚も」
・・・・・・私は、ほろほろと泣いている・・・・・・
「木の葉は、時折、お側にいさせていただくだけでもよいのです」
「ほんとに、いじらしい・・・どうして、はるあきは・・・」
「仕方ありません・・・仕方ありません・・・
私は卑しい野狐の娘ですから・・・お母様のような・・・・・・
天狐様とは・・・身分が違います・・・」
「何をいいます。それを言うなら、はるあきは、妖力のない人間の
倅ですのよ。
あなたは、姿を変え、声を飛ばす術を使えるのですから。
安心なさい」
「でも、木の葉は、これが精一杯の術なのです。
・・・葛の葉様・・・」

「・・・おや、はるあきが戻ったようだよ。はるあきと呼ぶと、
機嫌が悪いから、『人の名』で呼びつけて、今日こそ
木の葉ちゃんのこと、決めさせますからね」
「・・・お母様・・・」
「これ、晴明、晴明。木の葉ちゃんがきていますよ。
『人の名』で呼んでいるのですから、返事をなさい。
『せいめい』、『あべのせいめい』」

第9回3000字小説バトル
Entry14

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散歩道

作者 : るるるぶ☆どっぐちゃん
Website :
文字数 : 3000
「ポテトもご一緒にいかがですか」
「ファックオフ」
 ファーストフード店においてあたしはこのような勝手にしやがれ
的会話でファーストフードシーンを熱く展開させていきたい。その
ような展望は持っているのですが実際は今日も
「あ、いや、あの、けっこうです」
 この体たらくです。ですから店員も
「ではお会計・・・」
 と、ふう。この娘は気の利いたアクション一つ起こせないまった
くのおぼこっちねえ。こんなセンスの解さない娘がいるからあたし
のようなクールガールがこんな所でレジ打ちなのよ。まったくくだ
らないわ。まったくイケてないわ。とでも言いたげな能面スマイル
でこちらを嘲笑してきます。
 そのスマイルはこちらを、うるせえゲロ野郎などと叫ぶ、カウン
ターをガンガンに蹴る、フライドポテトを揚げる油に固めるテンプ
ルを流し込む、などの暴挙を起こさせるのに充分な蔑みに満ち、あ
たしのような精神科への通院歴が有り、今も自宅に引きこもりがち、
という他人より少しデリケートな人間には耐えられないもの。だけ
れどここでそのようなヒステリーを起こしたらきっと店員は逆上し、
只でさえ「この商品は来週からの発売になります」との張り紙が張
られているカスタードパイの発売がますます遅れカスタードパイ騒
動が勃発。それが全国規模の暴動に発展。レジスタンスが叫ぶ「カ
スタードパイを我らに」。吹き荒れる粛正の嵐。重々しく響く軍靴
の音。後の世の人をして「カスタード暗黒時代」、そう呼ばせるよ
うな鉄鎖と血と退廃の時代。そのような日々をあたしはやはり恐怖
する。だからあたしはもそもそと会計を済ませ、バーガーを受け取
り、「ありがとうございました」(意訳「つまらない娘だったわね
ダーリン」「そうだねエリー」)の声を背に今日も敗北感と共にこ
の店を後にするのです。

ガタン

 自販機から取り出したお茶は熱く。空は青く。
 抱擁と愛撫にも似たその熱さ。それは序々に冷えいきその熱を失
い。
 あたし達は無限では無いという事への悲しみ。しかし同時にあた
し達は有限である、その事への誇り。
「私は絶望を歌う。私は絶望に踊る。私はきっと希望へは辿り着け
ないだろう。だけれど私の歌うその先は、私の行き着く先は絶望で
は無い気がする」
 こんな言葉を残したクライウス・イアソンの聡明な、はかない横
顔。
 希望の先の絶望。そしてその絶望の先の希望では決して無い、で
も絶望ではきっと無い「何か」。
 このような事を想わせてくれる缶入りお茶をかき抱き、てくてく
と馴染みの散歩道、家から割と近くの河川敷を歩いていると少し落
ち着いてきました。
 ふう。河を一望出来る小さな東屋のベンチに腰掛けバーガーを口
に運びながらため息一つ。 
 それにしても。
 なんであたしはこんなにうまくいかないのだろう。
 口惜しい。情けない。
 他の人はどうやってあのスマイルに対抗してるのだろう。
 ずぎゅーんどぎゅーん。後ろの国道でダパンプのベスト盤をかけ
ながら信号待ちをしているあの車の運転席に座っている頭の悪そう
な若者はどうやてあのスマイルに対抗しているのだろう。
 何も考えて無い、のだろうか。
 だとしたら何故割と考えているはずのあたしは対抗出来ないのだ
ろう。目張りもバッチリ黒くキメてあるし、お気に入りのゴルチェ
のワンピだし、片眉だって剃り落としてあるのに。
 なんだか悲しくなってきた。涙がにじんできた。お茶は冷えてい
こうとしている。イアソンはもう死んでしまっている。6枚目のア
ルバムを出した半年後にガンで。38歳の若さで。
 てけてけてけ。あなたがー。信号待ちをしていた車はダパンプを
浜崎あゆみユーロビートミックスに換えて走り去って行きます。
「やあ、こんにちわ」
 突然声がしました。その声はどこか現実離れしていて頼り無く、
まるで夢の続きのように不確かだったので、あたしはまったく不意
を突かれたのにも関わらずあたふたと取り乱す等をせずに声のす
る方へくるりと向き直り
「こんにちわ」
 と応える事が出来ました。
 声の主は男でした。あたしのすぐ横に20代前半から30代後半
までどれでも当てはまりそうな男がちょこんとベンチに腰掛けあた
しを見ています。
「やあお嬢さん。あなたは実にもそもそとまずそうにバーガーを食
べるのだねえ」
「ええ、ちょっと考え事をしていたもので」
 初対面の男の人にいきなりこんな事を言われたのにあたしは何故
かあまり頭に来ませんでした。それどころかなんだか慰められてい
るような気になり悪い気がしません。彼の頼り無いその声色にあた
しと同じような現実への馴染めなさ、俺、なんだかうまくイケてね
えなあ感を感じ取ったからだろうか、なんてことがぼんやりと頭に
浮かびます。
「あたし物をまずそうにしか食べられなくて。それで2回フられた
わ」
「ははは。ところでどんな考え事を?」
「イアソンの6枚目のアルバムについて。4曲目がとても好きなの」
「『そして何も無い。何も無い』か。僕もイアァソンは6枚目だな。
完成度では4枚目だろうけど。でもやはり6枚目だね。あれはそう、
奇跡だ」
 イァアソンか。イアソンでは無くイアーソンでも無く。なんだか
その発音はこの人にとても合っている気がして。
 だからあたし達は少しお喋りしました。イアソンや最近の映画な
どについて。たどたどしい会話だったけれどでも人見知りの激しい
あたしが初対面の男の人と楽しくお喋りをする。こんな事今まで有
りませんでした。

「さて」
 楽しい時間はあっという間。彼は腕時計に目をやり、そして持っ
ていた鞄を開けごそごそと何かを取り出しました。
「そろそろ行かなくては行けないんだ。時間が無いしね。しかしせ
っかくお近づきになれたんだ。だからせめて記念にこれを」
 そう言って彼はあたしに紙袋を渡しました。ギンガムチェックが
素敵な、小さな紙袋です。
「それじゃあこれで。また会えると良いね」
 そう言うと彼はベンチから立ち上がり行ってしまいました。
 その後ろ姿はふらふらと、でも確実に。まるで13階段を昇る死
刑囚のように。

 あたしは一人取り残されました。
 まるで夢のよう。
 空は青く、太陽は輝き、右手にはすっかり冷えてしまったお茶の
缶。そしてもう片方の手には紙袋。どれも確かに現実を指し示し、
でもあたしには夢としか思えず。
 だからあたしは紙袋を開けることにしました。
 手が少し震えます。
 恐れているのでしょうか。開けることで彼がやはり非現実の存在
で有ることを知るのを。夢が覚めてしまうのを。パンドラの箱が開
くのを。
 その開いたパンドラの箱の底に有った物。それは「悪意」でも無
く「憎悪」でも無く「希望」でも無く。
 拳銃でした。
 現代の救世主。その昔張り付けにされたメシアは今、この黒い鉄
の十字架に静かに宿り。
 それを手に取るとびりりと電流が、「自由」、そう呼ぶのが相応
しいような甘い痛みが駆け抜けました。
 あたしは本当は自由の意味なんて知りません。でもくく、あたし
はくくく、何故だか笑いが止まりませんでしたあはは!
 ざまあみろ。これで、これで自由だ。ジユウだはははは!
 あたしは笑いながら立ち上がりました。拳銃は思ったほど重くな
く、良く見ると塗装もなんだか安っぽく、まるで玩具のようです。
 でもそんなことはどうだって良いのです。
 だってあたしは自由なのだから。
 本当に、本当に自由なのだから。
 そしてあたしは走り始めました。

第9回3000字小説バトル
Entry15

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心中

作者 : 逢澤透明
Website : http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/2435/
文字数 : 3000
 脅迫状には「十年前の事について。明日伊豆洛花岬に来られたし」
とだけ書かれてあり、その後もう一度ファクシミリで岬に丸印のつ
いた伊豆の地図と「貴殿の車にて貴殿が運転されること。また明日
午前0時中央線三鷹駅教保堂書店前にて黄色帽、黄色ワンピース、
黄色ハイヒールの女性をPick upし、共に洛花岬まで来られたし」
という文面が送りつけられてきた。
 当日三鷹駅前のロータリーにははたして黄色づくめの女がひとり
立っていた。私はぴたりと横付けすることにためらいを感じて少し
離れたところに車を停めたが、女は私を見つけると自分からサッサ
とこちらに歩み寄り、私に向かって声をかけた。見知らぬ女である。
それが強くはっきりと私の名前を言う。
 女の背は高く、対面した私の視線はちょうど彼女の首筋にあった。
首は細くて皺ひとつなく、つるりとした光沢を放っていた。顔とい
えば目も眉も唇も細く、黒く伸ばした髪と見下げる視線から年上に
見えたが、私は直感的に「若い」と感じた。どうしてそんなに若い
のか、脅迫者とはどんな関係なのか、なぜ私と岬に行くのか、いく
つもの疑問をいかに聞き出すべきか迷いながら、しどろもどろに私
が吐き出したのは「綺麗な人だ」という間の抜けた台詞だった。
 思いもしない言葉に私自身はうろえたものの、女の方は少し唇を
歪めただけで助手席側のドアを開け、車に乗り込んでしまった。「さ
あ出発しましょう」と女に促され、なにも訊けぬまま私は車を発進
させた。

 伊豆の海沿い道路にたどりつくまで、ふたりとも沈黙したままだっ
た。私は自分の過去を女に告白したいという欲望を抑えつけるのに
必死で、彼女に話しかける余裕などなかった。彼女は彼女でなにか
思いつめたように沈黙し足下を見つめていた。私はいつか来た道を
辿りながらずっと私の過去、つまり「あの女」のことを考えていた。
 三歳の時に私と母は父に捨てられ、十六の時私は母に捨てられた。
捨てられた私は中央線三鷹駅前でふらついているところを見知らぬ
女に拾われた。誘われるまま女の部屋に住み込み、促されるまま男
娼になった。私は様々な男たちに抱かれ、部屋に戻れば女を抱いた。
はした金を小遣いとしてくれるだけで女は稼ぎのほとんどをピン撥
ねしていた。
 ある日、私は女の通帳を覗き見、そこに膨大な金額が記されてい
ることを知った。私の中に悪魔のような怒りが沸き上がり自分の稼
いだ金を取り戻そうと考えた。そして深夜のドライブと称して伊豆
の洛花岬に女を連れて行き、暗い海の底へと突き落とした。女も私
も社会の裏側で生きているどうしようもない人間である。女は親戚
とも昔の恋人とも長い間連絡を取っていない。突然失踪したとして
も誰も不思議に思うことはない。私は大金を手にし、自由の身へと
解放された。
 ところが私は金の使い道を知らなかった。無限の金を手に入れた
と勘違いした私は欲望のまま金を使った。今まで買われる立場であっ
たのが今度は買う立場になったのである。王になる気分、支配者に
なる気分とはこういうものだと錯覚したまま浪費を繰り返した。私
は男を買い、女を買い、安酒を数倍の値段にして売る店で朝まで騒
いだ。年上も年下も関係なく誰もが私に媚びへつらい、卑屈に笑っ
た。私は得意になり彼らを奴隷のように扱った。
 けれどもそんな生活が二週間も続いたある日、目が覚めると私は
道端で買った女にすっかり金を持ち逃げされていた。
 無一文になった私は母に捨てられたときと同じように三鷹駅へ向
かった。しかし私にかまうものなど一人もいなかった。電車が到着
するたびに駅からは大量の人間が吐き出され、通り過ぎて行った。
最終バスが出てしまったあとも駅前のバス停のベンチに座りながら、
あの女の部屋へまた戻りたいと思っていることに私は気がついた。
私にはあの女が必要だったのだ。必要なのに私は独りぼっちになっ
た。私が殺したのだ。後悔しても手遅れだった。

「私は独りぼっちなんです」
 突然、助手席の女が話し出した。
「私は十六の時に両親が二人とも交通事故で死んでしまいました。
兄弟はいなかったので私は独りぼっちになったのです。引き取られ
た親戚の家で私は妾のように扱われました。昼は雑用を言付けられ、
そして夜は……。それが嫌で家出して東京で男と同棲しました。で
もその男は働こうともせず、しかも沢山の借金がありました。私は
風俗で働き借金を返すことにしました。私は毎日毎日働いて借金を
返そうとしました。けれどもその男は遊ぶ金欲しさに借金を増やし
ていきました。私はなんどもなんども真面目に働いてと言いました。
でも男は怒って私を殴りつけるだけでした。ある日私は自分が妊娠
したことを男に告げました。すると、男は」
 女はそこで息を詰まらせ涙を流した。涙は頬をつたって黄色いワ
ンピースに落ち小さな染みを作った。無理矢理息を吸い込んで、そ
れでも女は話を続けた。
「男は、俺の子じゃないだろと言いました。おまえちゃんと自分で
処理しろよと言いました。その言葉を聴いて私は半狂乱になり気が
つくと男は血まみれになって横たわっていました。男を包丁で刺し
殺してしまったのです。私は勤め先で知り合った親切なヤクザの人
に連絡して後始末を頼みました。ヤクザは死体を袋につめ、お前は
何も見なかったことにしろと言いました。男は勝手に失踪したのだ、
と。ヤクザの人が死体を捨てに行くというので無理を言って私も一
緒行かせてほしいと頼みました。そうして私は伊豆の洛花岬に行き、
死体を崖から突き落としました。
 帰り際ヤクザは私に頼みごとをしました。ある男を洛花岬から突
き落としてくれ、と。私にしかできない仕事なんだ、と……」
 女はそこで顔を上げ私を見た。
「ある男というのはあなたのことです。脅迫状は私が書きました。
十年前のことも知っています。あなた、ヤクザの女を殺して金を奪っ
たんですってね。あんなヤクザの人からお金を奪うなんて……。そ
の女の人、黄色が好きだったんですって? 私、その女の人に似て
るんですってね」
「ああ、よく似ているよ」と私は言った。「そっくりだよ。……で
も、ちょっと若いな。若過ぎる。それに俺が殺した女はそのヤクザ
から逃げていたんだ。だからヤクザの女じゃない。俺の女だ。女は
必死に金をため俺と二人で外国へ行こうと計画していたのさ。だが
俺は若かった。金が欲しかった。女から逃れられれば自由になれる
と思ったのさ」
「それで自由になれました?」と女は訊いた。
 私は答えられなかった。
「私は男を殺しても自由になれなかったわ。私は今でもあの酷い男
のことが忘れられないの。あの男のいない生活が耐えられないの。
ねえ、ほんとは私、あなたを殺してヤクザからお金をもらって海外
に行くつもりだったの。でも私、あの男のいない人生なんて全然欲
しくないの。だから、私、ずっと車の中で考えていたんです」
「何を?」
「死ぬってことを。……ねえ殺して。私を殺して……そうしないと
私があなたを殺すのよ。だから殺して」
 車は海沿いの崖を這うように進んでいた。うねったカーブをいく
つも通り過ぎる。
 再び沈黙が車内を満たす。
 ふと、私は
「死のうか。ふたりで」
 と言ってみた。
 女は黙ったまま、まっすぐ前を見ていた。
 カーブの向こうに海が見える。
 私はハンドルから手を放し、女を抱きしめた。
「もう離さないわ」
 私の腕の中で、確かに女はそう言った。

第9回3000字小説バトル
Entry16

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りんごジャム

作者 : 一之江
Website : 海へ行く家族(短篇集)
文字数 : 3000
 久しぶりに夢で泣いたので目が覚めた。ああ夢だったんだよかっ
たと思った次の瞬間、現実も夢と同じなのだと思い出してまたあた
らしい涙があふれた。
 起きたくない何もしたくないどうせ何もできやしないと自分にい
いわけして、いつまでも布団にもぐりこんでいた。できるものなら
このままどこかに消えてしまいたい。意識をまっさらにして無にな
りたい。なのにそうはさせてもらえなくて、夢でもわたしは悲しく
て嗚咽した。
 雨だれのおとがさびしく響いていた。わたしは目をかたくぎゅっ
とつぶってそのおとを心の中で勘定した。
 ひとつ、ふたつ、みっつ……。
 とうかぞえたときに、あきらめて体を起こした。春のひんやりし
た空気がパジャマの上からわたしの体をなでまわした。両肩を手で
抱いた。するとさびしさがいっそう募ってくる感じがして、あわて
て手を離して立ち上がった。
 とにかく何かを食べてみよう。
 時計を見るともうとうに昼を過ぎていた。お腹に何か入ればすこ
しは元気になるかもしれない。そんなはずはないとわかっているの
に、わたしはちょっとは努力してるというつもりになりたくてそん
なことをつぶやいてみた。
 冷蔵庫をあけてみた。が、やっぱり何も食べる気が起きなくて牛
乳をとりあえず飲んだ。うすく白い膜が内壁についたままの「ミッ
フィー」のコップを流しに置いてトイレに入った。どうせ一人なん
だからとドアをあけ放したまま用をたした。いちいちドアをあけた
りしめたりなんか無意味じゃないかとぼんやり小さな窓の外をなが
めた。隣の庭の桜の木が雨に洗われて澄んだ緑色にかがやいていた。
細かい雨つぶが吹きこんでくるのに、あいた窓をそのままにわたし
はトイレを出た。
 箪笥の抽き出しをあけて下着をとりだす。すこし寒いから半袖の
シャツを着ようと思いながら中をかきまわすが、なかなか見つから
なかった。抽き出しの中はうんざりするほどごちゃごちゃで、ぜん
ぶひっくり返さないと何があるのかわからないありさまだった。
 これがわたしの本質なのだ、とふと思った。
 思い立てば抽き出しの中の整理をときおりした。そういうのは嫌
いじゃなかった。わけがわからない様子だったのがすっきり整然と
ととのってゆくさまは気分がよかった。だけどそんな状態はきまっ
て長くはつづかなかった。抽き出しの中はすぐに混濁の様を呈して、
ただ布きれがまるまったものがいっしょくたに詰め込まれているブ
ラックボックスになってしまっていた。そしてそれがわたしは平気
だった。それがふつうの状態だった。
 無理したってしょうがないんだから、と彼はいった。無理してほ
しくはないんだよ。
 わたしはだまって彼の顔を見つめた。泣いちゃ負けだと思ったか
ら歯をぐっと食いしばった。
 べつにどこが嫌だとかそういうことじゃないんだよ。そりゃやろ
うと思えばいちいちあげつらうことはできるかもしれないけれど、
そんなこと意味ないんだよ。
 だけどちょっとした誤解かもしれないんじゃないの、とわたしは
よせばいいのに食い下がった。簡単に直せることかもしれないんじ
ゃないの。
 彼はゆっくり何度も首を横に振るとため息をついた。
 きっとこれがわたしの本質で変わりようがないことなのだと思い
ながらわたしは抽き出しをひっくり返した。だって本質は変わらな
いじゃないか、と彼はいった。それはだって、きみがきみだってこ
となんだから。アイデンティティってやつじゃないのか。
 こんなふうにごちゃごちゃの箪笥で平気な生活なんかしてるから
わたしは振られたのかもしれない。自分では気づいてなくてだけど
彼から見たら醜いところとか劣ったところがきっとたくさんあった
のだ。それがわたしの本質でアイデンティティで直りようがないと
ころで直ったらわたしじゃなくなってしまうところなのだ。
 わたしは下唇をかみしめながらバラ模様のレースがちょっと破れ
てしまっているブラジャーと襟首がへろへろにゆるんでしまってい
る半袖シャツを身につけた。オレンジ色のギンガムチェックの長袖
シャツにあせたピンク色のよれよれのトレーナーを着てジーパンを
穿いた。
 電話が鳴った。
 ――あー、いたんだー
「ああうん、なに?」
 ――授業。保健体育の授業こないからさー、どうしたのかと思っ
てー
「うんちょっと、具合がわるくって」
 ――えー、だいじょうぶー? 風邪?
「うん、そうみたい」
 ――じゃあお大事にねー。タクちゃんが車で来てるからあそびに
行こうかってっていってたんだけどさー、じゃあ無理だよねー
「うん。ごめんね」
 ――いいよ。じゃあゆっくりやすんでねー。またねー
「うんありがとう。またね」
 ――ばいばい
「ばいばい」
 振られたなんていいたくなかった。
 台所で流しに置きっぱなしにしていた「ミッフィー」のコップを
洗剤をたっぷりふくませたスポンジでごしごしこすった。うすく張
った白い膜をきれいに剥いで水を入れてごくごく飲んだ。水はぬる
くてまずかった。まずいけど仕方ないのでごくごく飲んだ。
 やっぱり何かを食べようと思ってまた冷蔵庫をあけた。だけど食
べるものなどそんなにいろいろあるわけでもなかった。ヨーグルト
があった。賞味期限を見るとあさってまでだったので食べることに
きめた。ヨーグルトの横にはジャムの入った瓶があった。
 手作りのジャムだった。郷里の姉が作ったりんごジャムだった。
わたしはまだ蓋をあけないままでいたそれをとって蓋をまわしてみ
た。蓋はあかなかった。あきらめようかとも思ったけどそれも癪な
ので蓋のへりを包丁の背中でがんがんたたいてみた。すると簡単に
蓋はあいた。
 りんごのあまい匂いがした。こんなのよく作る気になる、とわた
しは姉の趣味を不可解に思いながらジャムをスプーンですくってガ
ラスの小さなうつわに入れた。
 おいしいから食べてみてください、と添えられた手紙には書いて
あった。いかにも姉に相応しい小さないびつな文字だった。わたし
は姉をあまり好きではなかった。姉はなんだかわけもなく卑屈な人
間にわたしの目には映っていた。いつもまわりの目を気にして媚び
ているように見えた。
 なのになのかだからなのか、姉は来月結婚することになっていた。
相手は高校時代の同級生だった。姉はたぶんその人と生まれて初め
てつきあってそのまま結婚することになったのだ。
 りんごジャムを入れたガラスのうつわにヨーグルトを入れてスプ
ーンでぐるぐるかきまわした。りんごジャムの黄色いつぶつぶがヨ
ーグルトの中に一様に混ざりこんだ。それをスプーンいっぱいにす
くって口に入れる。
 おいしかった。
 りんごジャムはふつうのジャムとはまったくべつのものと思える
ようなしっかりした甘味を持っていた。甘味が欠けたり損なわれた
りするはずのない本質的においしいジャムなのだ。
 姉はこんなのを作れるから結婚することになったのかもしれない。
それでわたしはこんなのを作れないからきっと誰にも愛されないの
だ。だけどそれでも仕方がない。わたしはアイデンティティのしっ
かりしたジャム入りのヨーグルトをなめつづけながら、それでも姉
のようにはなりたくないと呪うように激しく思った。
 ジャム入りヨーグルトを食べ終わると面倒だと思いながらも布団
をあげた。もう泣きたくないと思うのに何か動作をするたびに涙が
あふれそうになった。それを飲み込もうと喉を鳴らすとりんごジャ
ムの甘味が口いっぱいによみがえった。

第9回3000字小説バトル
Entry17

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『奇妙な絵』

作者 : 作者
Website : 「妄人ケイトの脳髄」
文字数 : 2996
 紙に書かれた一枚の絵。クレヨンで書いたものだろうか。権田刑
事は子供の書いた落書きのようなそれを眺める。空には沢山の太陽
。紫色の背景。そこに描かれている女は目が昆虫の複眼のようにな
っており、腹が膨れ、下半身が裸であった。その股間にはペニスが
描かれている。その横にいる男は目が黒く塗りつぶされ、真っ赤な
口を広げて笑っている。中でも少女の姿が奇怪であった。少女の体
は真っ赤に塗りたくられ、口も鼻も無かった。その代わり、無数の
目玉が顔全体に書かれている。グロテスク極まりない世界。それは
異様な迫力を持って権田の心をえぐった。
「まず目につくのは「人間の目の数」です」
 説明慣れた様子で、目の前の医師がゆっくりと話す。
「これは対人的過敏さを象徴しています。恐れ、と言ってもいいか
も知れません。男、女、少女と目の扱いがそのまま彼の、それぞれ
に対する感情を表しています。男はもしかすると彼自身でしょうか
。女性が奇形化しているのは、彼が無意識に恋人を殺してしまった
ことを暗示しているかも知れません。ただ奇妙な点は、目しかない
少女です。これは彼が少女に対して強迫観念に近い過敏さを持って
いることの証拠です。つまり、恐れを抱いているのです」
 ふいに、権田は生温かい風を頬に感じる。背中を何かに撫でられ
たような、ぞくりとする感触。どこからか、風が漏れて入ってきた
のだろうか。
 
「強いショックで分裂症に陥る例は幾らでもあります」
 医師が淡々と話す中、権田は寝惚けたように空を見上げている。
机には無造作に散らばった写真。
「彼女をそんな目にしたのが自分であると認めたくない。そのため
無意識のうちに自分の記憶を消してしまった。そして、抑圧された
記憶のストレスで分裂症が発生した」
 机の上の写真が権田の目につく。海岸沿いの道路。真っ黒な海。
千切れ、歪んだガードレール。そこに一台の車が突き刺さっている
。助手席の方は完全に大破しており、めちゃくちゃに潰れている。
蜘蛛の巣のようにひび割れたフロントガラスには、びっしりと血が
飛び散っている。助手席の潰れたドアの隙間からも真っ赤な液体が
こぼれている。恋人の変わり果てた姿を見て、彼は罪悪感の中で記
憶を消してしまったのか。権田は男の恋人の、発見当時の写真を見
て細い眉を僅かに曇らせる。ガードレールと車に挟まれ、すり潰さ
れた姿はもはや人間には見えなかった。
「ただ、これだけは言えます。忘れたにせよ知らないにせよ今の彼
は、彼女が死んだことは分からないようです」
 蝿のような目をした、ペニスの生えた女。稚拙だが、確かな暗黒
に包まれた絵。彼の精神の奈落が何を隠しているのか。
「次のテストを行ってみましょう。古典的な心理試験ですが、何か
わかるかも知れません」
 医師の言葉に、権田は写真から目を離し、ゆっくりと頷いた。

 ガラス越しに、彼はその部屋を覗く。部屋には医師と、その男の
姿がある。
「海」
 彼は疲れた目を俯かせながら「真っ黒」と答える。
「車」
 あくまで無機質な医師の言葉。男はまるで魂を抜かれたように見
える。彼は「死体」と答えた。「言語連想反応」と呼ばれる、医師
が言う単語から頭に浮かんだ単語を被験者に語ってもらうテストで
あった。無意識の内に潜むものを探るためである。こういったやり
とりが繰り返される間、権田は男の顔をじっと観察していた。落ち
つきなくキョロキョロと動く目。肩を少しすぼめ、窮屈そうに座る
姿は、何かに怯えているようであった。
 異変は、医師がある単語を言った時に起こった。
 その単語を聞いた後、男は暫らくそれまでと同じように無表情の
ままであった。だが。じょじょに彼の目がぴくぴくと震え出す。そ
の痙攣は彼の身体全体まで伝わり、やがて椅子が跳ねるほどに激し
くなっていく。目は大きく開かれ、あらぬ方向を見つめたまま虚ろ
に光り続ける。突然耳をつんざくような絶叫が切り裂いた。彼の異
変に気づいた医師達が部屋に駆けこみ、彼を取り押さえる。彼はそ
れでも痙攣しながら鳥のように絶叫する。突然の変貌に権田は暫し
呆然としていたが、すぐに隣にいる医師に、彼が何と言ったのかを
聞いた。
「『少女』ですよ」
 意外な言葉に、権田は僅かに顔を歪めた。彼の脳裏に、彼の書い
た絵がよぎる。真っ赤に塗りたくられ、目だけの少女。
「来るな! こっちを見るんじゃない! 背中が、背中が」
 彼は、まるで怪物を見るような怯えた目で遠くを見ながら叫ぶ。
歯がガタガタと揺れ、必死に足を掻き、何かから逃げようとする。
 彼はそんな男の過剰な反応を見て、医師が呟いた言葉を思い返し
た。

 彼は誰もいなくなった部屋で一人、机に座っている。その瞳の先
には、医師から借りた一枚の紙。先のテストの結果であった。
 特に奇妙な反応に、彼はペンで印をつけていった。
 
 少女ー反応できず
 車ー死体
 バックミラーー子供
 死ー泥
  
 彼はこの中で、とりわけ奇妙なバックミラーと子供の繋がりが気
になった。いかに分裂気味とはいえ、あまりに突飛の無い発想であ
る。「死」と「泥」も分からない。
 蛍光ペンのリストに「恋人」は入っていなかった。彼は「恋人」
には「○○(名前)」と答えている。2度目にも少しの遅滞なく、
同様の反応である。つまり、恋人に対しては全く異常は認められな
かった。それと比較して、過剰すぎる「子供」への反応。
 彼はその時の、男の様子を思い返す。「来るな」「背中が、背中
が」真っ赤に塗りつぶされた、目だけの少女の絵。「死」と「泥」
。医師の言葉(何故彼が少女を恐れるのか)。
 彼の脳裏に様々な糸が絡み合い、やがて浮かぶ、一つの確信。彼
はジッポに火をともす。薄暗いオフィスに、ぽつりとその光が灯る
。その瞳は闇に隠れ、光を失う。
(彼は事故のために狂ったのではない。狂ったから事故を起こした
のだ。そして彼を狂わせたものの正体は)
 彼はぼんやりと見上げる。窓から見える空は、星も月も無い。た
だ、漆黒であった。

「そうです、あの夜です」
 事故が起きた○号線沿いにあるA県。山岳に囲まれ、周囲は田ん
ぼが広がっている。
 権田は地元の警官が指差す方を見た。僅かながらブレーキ跡が残
っている。その脇に広がる田んぼには、何か大きなものが落ちた痕
跡があった。
「ここらで、沼地というとどちらかね」
「向こうに見える△山です」

 歩くごとに湿った枝がギシギシと音を立てた。あちこちからボコ
ボコと涌き水が湧き出し、腐ったような臭いが鼻をつく。やがて見
えてきたのは一つの大きな沼であった。
 真っ黒な泥水で埋められたその周囲には、地元の公安関係者が集
まっている。必死に泥水を捜索している。やがて大きな声が上がり
、それとともに周囲の声も大きくなっていく。おぞましい腐臭がた
ちこめたが彼は気にする風もなく、ただ、目の前の沼から引きずり
出されたものに沈んだような瞳を向けている。ボロボロのワンピー
スを羽織ったそれはもはや肉が腐り、あちこちから白い骨が見えて
いた。ようやく人間とわかるそれは首が奇妙に捻じ曲がり、背中に
回っていた。既に細菌によって食われ、陥没した黒い目。そこには
僅かに残った長髪。
 混乱が渦巻く現場の中で権田は、あの奇妙な少女の絵を思い出す
。あの、目しかない少女。彼女の亡霊が男の頭に住みつき、狂わせ
たのだろうか。
 彼は目の消えた少女の死体をぼんやりと眺めながら、煙草に火を
付けた。

第9回3000字小説バトル
Entry18

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アルパカ大行進

作者 : 伊勢 湊
Website :
文字数 : 3000
 どうしてこんなことになってしまったんだろう?春が終わり夏に
差し掛かろうとする四月の風の中、僕は独り峠の梺で佇んでいた。
四月の風といっても夜の風は冷たい。それも峠の奥のほうから町に
吹き込んでくる風はひときわ冷たい。真夜中過ぎ体の前面で冷たい
風を感じながら時々振り向いて背後で消えゆく町の灯りを眺める。
この中途半端な田舎町では夜中の一時には灯りは全て消えるだろう。
そんな風景を眺めていると自分もここから逃げ去り、帰ってふとん
に潜り込みたい気持ちになるけど、もうそれはできない。引き返せ
ないところまで来てしまったのだ。

 僕はアルパカ達の大行進の街への侵入を阻止するためにここにい
る。一般的にはあまり知られていないことだが十年に一度の周期で
アルパカの大行進は行われる。その目的は不明だが、大行進は夜中
に行われるので町に入られたら町中がパニックに陥るだろう。
「君も噂には聞いたかと思うが、今月終わりにアルパカ大行進が行
われるという情報が流れてきた」
一週間前の事だ。僕は市長所の応接室に呼ばれいきなり話を切り出
された。市町は机に頬杖をつき神妙な顔をして、その横では助役が
同じく神妙な顔をして直立不動で立っていた。
「今回その大行進の阻止を君に頼みたい」
「データに基づく選考の結果、君が一番の適任だと出たのだよ」助
役が口を挟んだ。いったいどういう選考基準なのかは言ってくれな
かった。僕はアルパカ大行進の事はそれこそ噂ぐらいにしか聞いた
ことがなかったのでちょっと質問してみた。
「あのー、アルパカ達っていうのは何頭くらいで行進するんですか
?」
「百頭くらいらしい」助役は言った。
「それで何人で対処するんですか?」
「君一人だ」市町が言った。
そして呆然とする僕の肩をポンと叩きながら小さく「頑張ってくれ
たまえ」と呟くように言って二人は応接室を後にした。
 
 よく分からないのだがどうして市役所の住民票発行係の僕がそん
なことをしなければならないのだ。それも一人で。僕は映画に出て
くるヒーローじゃない。二流大の文学部卒でリスキーだが夢の溢れ
る未来よりも夢は見ることすら諦め安定した公務員としての生活を
選んだ人間だ。実際僕は公務員として市役所で働き始めるまで自分
が一体なにの仕事をするか分からなかったし、分かってからも書類
を淡々とこなすだけで自分のアイデアも言ったことなんてない。そ
のかわり残業だってしたこともなかった。今日まで。 それなのにど
うしてこんな夜中に残業しなければならないのだ。それもアルパカ
大行進の町への侵入阻止なんて。
 そして一番訳が分からないのは、そんな仕事をどうしてこんな引
きかえせなくなる前にきちんと断れなかったのかということだ。結
局自分のことが一番分からないし納得いかない。それが僕のはっき
りできない態度に拍車をかける。

 断ることもできぬまま当日の夜がやってきた。十時過ぎ妻が風呂
に入った隙に出掛ける準備をした。仕事であって別に悪いことをし
ている訳ではないのだが何故か妻にはこのことは言い辛くて結局黙
って出かけることにした。妻が風呂に入っている間に準備をして寝
付いたら抜け出す算段だったが、風呂に入ったはずの妻となぜか短
い廊下でかち合った。
「あなた、どこか行くの?」
妻が心配そうに聞く。結婚するまでは箱入りで育ってきた。ほんの
小さな疑いが心全体を灰色に染めあげているのかもしれない。そう
思うと僕もなんだか焦ってしまってとにかくその場を躱すことだけ
を考えていた。
「いや…、ちょっと煙草を買いに」
「そう…」
妻はより寂しそうな顔でそう言って踵を返した。
いったい僕は何をやっているのだろう?煙草はもう三年も前に止め
て一度も吸っていないというのに。
 
 アルパカ大行進は夜中一時に始まるらしい。そんなのをどうやっ
て止めたらいいか正直僕には分からない。とても武力行使で対応仕
切れる数ではないし、やはり話し合いということになるだろう。大
学でかじった心理学の知識を総動員してシュミレーションしてみた。
どう話すか、の前に百対一でまともに話せるかが心配になった。

 一時十三分。暗闇の向こうから風の音に混じって地響きが聞こえ
てきた。結構な重低音だ。やがて闇の中に怪しく光る無数の目だけ
が浮かび上がってきた。僕はふぅーと溜息をつき、こういう事体の
ために一応買ってきた煙草に百円ライターで火を着けた。駄目だ。
地響きはどんどん大きくなる。目の当たりにして分かった。10t
トラックに突っ込んでいくようなものだ。逃げるしかない。あんな
の止められっこない。闇の中で影がうねり蠢いている。さっさと諦
めて逃げようとアルパカ達に背を向けて町を見下ろしたとき、その
静けさに包まれた町の風景が瞼の裏を通り越してその奥に焼き付い
た。ふっと体が軽くなって、ちょっと心が熱くなって、次の瞬間僕
はアルパカ達の方に向き直ると手に持っていたバットを闇雲に思い
っきり投げ付けた。何となく鈍い音がして行進のスピードが落ちた。
自分が何をしているか分からなくて呆然とする僕の少し手前で行進
が止まった。そして数多の影の中から額から血を流した一際大きな
一頭のアルパカが歩みでて、いきなり怒鳴った。
「またしても…我々の行進を止める気か!」
「えっ、ああ、いや、そうです、近所迷惑にもなるし」
僕の体はまた縮こまり、気は動転していた。
「この俺にバットを投げるとは良い度胸だ!決闘だ!俺が勝ったら
町へ入らせてもらうぞ」
そのアルパカは体もでかいし眼光も鋭く、僕じゃ相手になりそうも
なかった。だいたい下手したら殺されてしまう。なんとか話し合い
に持っていかなければ。
「いや、待って下さい。バットを投げたのはすみません…」
しかしすべてを言い終える前にアルパカの体当たりが僕を吹っ飛ば
した。恐怖だけが僕を塗りつぶす。逃げることしか考えられない。
地面に叩き付けられた僕は早く逃げ出そうと急いで立ち上がろうと
した。その時ポケットから何かが落ちた。
煙草だった。
真新しい煙草の箱。妻の顔が浮かんだ。もう一度夜の町を見渡す。
本当に、僕は何をやっているんだろう。こんなところで、いつまで
も。
「んー?どうしたもう終わりか?」
僕は人をなめた表情でつかつか歩み寄ってきたアルパカの横っ面に
渾身のパンチを叩き込んだ。

 次の朝、気が付いたら僕は家のベッドで寝ていた。昨日のあれは
なんだったんだろう?全部夢なのかとも思ったけど、僕の顔は腫れ
ていたし、拳には高級セーターの原料になるアルパカの毛が着いて
いた。いったい行進はどうなったんだろう?キッチンでは妻がいつ
ものように朝食の準備をしていた。
「あっ、あなた、おはよう」
妻の表情から不安の色は消えていた。いつもの朝だった。僕の腫れ
た顔には特に興味を示さなかった。思ったより腫れていないのかも
しれない。
「なあ、昨日の夜うるさくなかった、なんか、すごく?」
「そんなことないわよ。夜中に誰かあなたのお友達がこっそりあな
たを送ってきてくれたみたいだけど、私眠っちゃてて。挨拶した方
が良かったかしら?」
「いやいや、いいんだよ。うるさくなければ」

 僕は市役所への道を歩く。いつも同じ時間にゴミを捨てている近
所のおばさんに挨拶した。おばさんはにこっとして挨拶を返してく
れた。大行進が町に入った形跡はどこにもない。いつもと変わらな
い朝。そして僕の目にはちょっと違って見える素敵な朝だった。

第9回3000字小説バトル
Entry19

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スーパー清水くん

作者 : 鮭二
Website : papyrus
文字数 : 3000
 清水豪はぬか喜びした。
 1月15日は朝から抜けるような青空が広がり、日課となってい
た川原での土管いじりを終えてアパートへ帰る足取りは心なしか軽
かった。彼はかつて修業を積んだカルカッタの空を思い出す。厳し
い修業の成果を発揮する機会を与えられないまま都立高校の物理教
師として過ごした三十年あまりの記憶が、整理されないまま苦々し
く彼の脳裏に漂っていた。
 清水豪は防衛庁から届けられたダンボールを開封し、実直なエン
ジニアが念入りに工具を整えるように調理を始めた。三種類の流動
食をゆっくりと飲み込み、新鮮な蛇の皮を背骨に沿って貼り付ける
と、肛門から喉仏を通った小さな球体が前頭葉に達し、エネルギー
が起動待機状態を回復したことを報せた。寝ている間に自動更新さ
れていくエネルギーを朝の土管いじりによって放出し、決して口当
たりの良好とは言い難い朝食によって新しいエネルギーを満たす。
そのようにして彼は三十年間一日も欠かさず完璧な待機を続けてい
た。
 ただし、そうした朝の日課を終えてしまうと、清水豪は凡庸な人
間生活に呑み込まれていった。かつては敵対する人々の目を欺くた
めに意識的な凡庸さを装っていたのだが、いつしかそれが彼の生活
として定着した。ミドリガメ、ボーキサイト、八目鰻をすり潰した
三種類の鉢を丁寧に洗うと、寿司屋でもらった大振りの湯のみ茶椀
に熱い番茶をいれた。それはどこから見ても老境にさしかかった凡
庸な男の所作に相違なかった。
 茶をひと口すすった彼は、おもむろに立ち上がって神棚に二礼二
拍手一礼を捧げ、御神体の脇に奉納しておいた年賀状の束を手に取
った。なあに、取るに足らないことだがな。三十年間の凡庸な人間
生活で唯一身につけた口癖で自分に呟くと、彼は年賀状を抽選番号
によって分類し始めた。国家的機密が露見することを恐れるあまり、
自己の欲求をことごとく抑えて一般社会との融和を計ってきた彼の
人望は三十年間着実に堆積し、毎年送られてくる年賀状は優に三百
を超えていたのだった。
 1969年1月、安田講堂から機動隊の手によって引きずり出さ
れた清水豪は、拘置期間に大沢の面会を受けた。当時大沢は政権党
の若手議員に過ぎなかったが、キューバ危機からベトナム戦争へ進
んでいく世界情勢の中にあって、無力であり続ける日本に苛立ちを
深めていた。経済的な復興を成し遂げた日本が世界のパワーゲーム
の中で生き残っていくためには、いずれ軍事力が必要となるだろう。
大沢は世界に対峙する学生たちの方法論を実質的な思考で切り捨て
つつも、彼らの中に内包するエネルギーを一笑に付すことはできな
かった。大沢は清水豪の中に、有効に転換し得るエネルギーを見出
したのだった。
 東西冷戦が終結した後も、大沢は何くれとなく彼に励ましの言葉
を送り続けていたが、90年代の初めに政権党内の権力闘争で失脚
して以降、ほとんど音信が途絶えてた。区分け作業を終えた清水豪
は、個人的な不気味さと無邪気さが突出したような事象で埋められ
た新聞を広げ、もはやこの時代に自分の出る幕などあるのだろうか、
との思いに駆られた。
 それでも彼は取るに足らないことに没頭した。できるだけ時間を
かけ、整理されたはがきと社会面に掲載されていた抽選結果とを照
合していった。まったく取るに足らないことだが、と思いつつ、彼
は当選に出喰わすと、おおっ、ひょうっなどとまんざらでもない口
吻を漏らし、抽選結果が上位に向かうに従って、特命戦士に似つか
わしくない温かな汗を手のひらの中に滲ませていった。そして彼は、
一等の当選番号を手中のはがきに見出すや、恥ずかしいほどのガッ
ツポーズを中空に掲げたのである。
 当選したはがきは啓子からのものだった。あけましておめでとう
ございます。先生、ますますモノはお元気でしょうか。わたしは次
男を産んで以来体重増加に歯止めがかかりません。今年はスポーツ
ジムに通おうかと思っております。黒々とした蛇の絵を背景にそう
した言葉が連ねられていた。清水豪は手のひらの汗を拭い、ほっそ
りとした高校生だった啓子がセイウチのような容貌に変身した姿を
思い浮かべた。彼は一等賞品として記されている品物の中からデジ
タルカメラを選び取る。そして、セイウチの啓子を撮影している自
分の姿を想像の中に描き出したのだった。
 啓子が吾妻橋の欄干に立って清水豪と対峙したのは十五年前、彼
女が高校二年の夏休みのことだった。啓子は欄干に立ち、包囲する
警官隊に向かって金のどんぐり一升よこせ、と叫んでいた。刑事部
長は近所のメッキ工場で金色に塗装したどんぐりを一升瓶に詰めて
差し出したが、彼女はすぐに贋物と見抜いて今にも川に飛び込まん
とする勢い。母親は、イニシエーションの手順を間違えたなどと呟
きながら地面に舌を這わせるばかりで動こうとしない。警察は担任
である清水豪に連絡を取った。
 啓子と対峙した彼は、純金のどんぐり一升をすぐには調達できな
い旨を率直に告げた。彼女は渋々それを承諾したものの、今度はロ
ーマ法王に関節技を習いたいと言い出した。清水豪は困惑しつつも
欄干に一歩二歩と近付いた。じゃあわかったよ、先生がローマ法王
に代わって教えて上げるよ、と一気に啓子の腕を取り、カルカッタ
時代に習得したチキンウイングアームロックを仕掛けたが、啓子は
素早く彼の腕に飛びついて逆十字に移行、二人は腕を絡め合ったま
ま隅田川に転落した。
 もはやこれまでかと人々が息を呑んだ次の瞬間、二人は水面に急
浮上した。見れば苦しんだ様子もない。それもそのはず、水面下に
隠されていた清水豪の下半身は生涯初めて「スーパー清水くん」に
変身していたのである。巨大なエネルギーによって膨張した彼の下
半身は素晴らしい浮揚力を示し、啓子の体は軽々と支えられていた。
川面に叩きつけられた衝撃で魑魅魍魎の呪縛から脱した彼女は平生
の穏やかな表情に戻っていた。川原に駆け寄ってくる警官隊とマス
コミの群れを眺めながら、いつまでもこうして先生にしがみついて
いたい、としなやかな指で水面下のモノを擦ってさえいたのだった。
 啓子からの年賀状を眺めながら、清水豪は十五年前の感触を蘇ら
せていた。それは苦難の三十年間にあって唯一ノスタルジックに思
い返すことのできる出来事だった。彼の意識の深層には、しっかり
と啓子の肉感が刻み込まれていた。何としてもセイウチ化した啓子
の体をデジタル画像に残しておきたい。彼は強くそう願った。
 率直な感情が三十年間の過去を彼に直視させた。もう待機はごめ
んだ。彼は安田講堂に立て篭もっていた当時の単純な情熱を取り戻
していた。残り少ない人生をデジタル画像で楽しんで何が悪い。こ
れからは毎朝、啓子のデジタル画像を貼り付けた土管に膨張したエ
ネルギーをぶちまけることにしよう。
 郵便局員は差し出されたはがきと当選番号を照合すると小さな笑
みを浮かべた。
「デジタルカメラでお願いします」
 郵便局員は相手のただならぬ様相にたじろいで、すぐに笑みを引
っ込めた。そして恐る恐るはがきの下部に記された「平成12年」
の文字を指し示した。啓子が何故に昨年の年賀はがきを使って賀状
を認めたのか彼には知る由もない。清水豪の前頭葉に待機していた
小さな玉は肉体の危難を察知して「スーパー清水くん」を起動した。
郵便局の窓口は巨大なエネルギーによってはるか後方へと吹き飛ば
されたのだった。

第9回3000字小説バトル
Entry20

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牛の背

作者 : 越冬こあら
Website : 連絡先
文字数 : 3000
 村へ向かう一本道を黒い牛が牛飼を背に乗せて歩いていきました。
牛はその地方でよく見かける農耕用の水牛でした。漆黒の体に黒い
目が光り、頭頂には二本の立派な角が生えていました。粗末な着物
をまとった牛飼は村に牛を売りに行くところでした。
 売られる先は肉屋でした。牛はもう高齢でしたので、ただの肉と
して売買されるのでした。牛はそれを知ってか知らずか鼻息を荒く
して、村に向かう一本道を歩いていきました。
 女房に先立たれ、一人息子を流行り病で無くした牛飼は、天蓋孤
独の身の上でした。牛飼は質素に暮らしていましたから、自分一人
の食い扶持は裏の畑で賄えましたが、年々かさむ租税を納める為に、
今年は家族同然にひとつ屋根の下で暮らした牛を金に替えねばなり
ませんでした。
 晩夏とはいえ、その日は特に蒸し暑く、太陽は天から牛の背中と
手拭を巻いた牛飼の頭に容赦無く灼熱を注ぎました。牛飼の汗は全
身から湧いてきて、牛の背中に後から後から滴り落ちて、牛の背中
を濡らしました。その湿り気とぎこちない牛の背骨の動きのために、
牛飼の股と尻は擦れて炎症を起こしていました。
 その日の朝早く、博徒は村に着きました。博徒は村の中心から少
し離れた木陰に茣蓙を敷いて、商売の準備にかかりました。博徒は
茣蓙の上に座り込み、布に包まれた骰子を取り出し、手の上で転が
しました。自分の思い通の目が続くまで、何度も何度も転がしまし
た。小一時間も骰子を転がしていた博徒は調子が出てきたのか、快
心の笑みを浮かべ、舌なめずりを繰り返しました。
 牛飼は峠に差し掛かりました。牛は息を荒くして、必死の思いで
峠を登っていきました。牛飼は掛け声とともに牛のわき腹を蹴り上
げて、勢いをつけました。炎症の為、牛飼の下半身は激痛を訴えま
したが、痛みは当然の罰のように感じられ、牛飼はさらに激しく体
を揺らし、峠を登っていきました。そんな牛と牛飼の様子を山賊は、
峠の森の木陰から眺めていました。山賊は何を思ったのかむさ苦し
い歯を見せて微笑み、刀を一振りしたかと思うと地面に座り込み、
目を閉じました。
 牛飼はやっとの思いで峠を越えました。しばらく行くと、道の両
側は赤い花の咲き乱れる草原となりました。道沿いの大きな樹木迄
来ると牛飼は牛を降り、休憩をとりました。牛は大きな樹木に括ら
れて、近くの草を食んでいました。牛飼はなんとか牛を殺さずに済
む方法は無いものかと考えていました。考えても仕方が無いことは
わかっていましたが、考えずにはいられませんでした。
 草原を渡る風に乗って黄色い蝶が一匹、牛の背中にとまりました。
牛は顔を上げずに尻尾で蝶を追いました。追われた蝶は、しばらく
するとまた、牛の背中に戻って来ました。牛はまた蝶を追いました。
追われた蝶は、また舞いました。牛の尾が追い蝶が舞いました。牛
飼はその繰り返しを無言で眺めておりました。
 いつの間にか黄色い蝶は何処かへ飛んで行きました。牛飼は牛の
背に乗り、牛はまた歩き出しました。
 太陽が天の中心に昇る頃、牛飼は村に着きました。牛飼は肉屋に
行き、裏口に廻りました。肉屋の主人は汗をかきながら、大きな包
丁を砥いでいました。肉屋の主人の武骨な手が包丁を砥石に擦り付
け、砥石は濁った水を垂らしていました。牛飼は肉屋の主人に声を
かけ、短い交渉の末に牛と引き替えにいくばくかの金を受け取りま
した。肉屋の主人は牛の手綱を受け取ると、厳つい腕で牛を裏庭に
引いて行きました。牛飼は引かれていく牛の黒い目を最後に見まし
た。牛は唸り声を立てるでもなく、肉屋の主人に引かれていきまし
た。
 村には市が立っていました。牛飼は市に並んだ様々な商品を見る
ともなしに歩いていきました。市の外れの木陰には人だかりが出来、
博打を打っておりました。その様子にふと立ち止まった牛飼を目ざ
とく見つけた博徒は、賭博に加わるよう勧めました。
 最初のうちは辞退していた牛飼も博徒の甘言に乗せられ、試しに
小銭を張ってみました。骰子が振られ、歓声があがり、牛飼の掛け
金がずいぶん増えて返って来ました。気を良くした牛飼は、博徒に
誘われるままに、もう一度張って、もう一度当てました。そのうち
牛飼の頭には、牛の代金を増やして牛を買い戻して連れて帰ろうと
いう考えが浮かび、掛け金をだんだん増やしていきました。骰子が
振られ、歓声があがり、勝負が繰り返されました。博徒は牛飼をそ
こそこ勝たせ、牛飼は勝負に熱中していきました。骰子が振られ、
歓声があがり、勝負が繰り返されました。
 太陽が西に傾き、蜩がけたたましく鳴き始めた頃には、牛飼は儲
けるどころか元手の金まですっかり使い果たしてしまいました。牛
飼は自分の犯してしまったたいへんな間違いにようやく気が付きま
した。牛飼は博徒に早口で事情を説明し、いくらかの金の返済を要
求しましたが、博徒は聞く耳を持たず、牛飼を睨み返すと、新たな
鴨を求めて人だかりに目を泳がせました。
 どうしようもない後悔と自己嫌悪の念を抱いて、牛飼は一本道を
帰っていきました。牛を無くし、その代金を無くし、この先どうや
って暮らしていくか、牛飼は途方にくれました。牛飼は仕方なく、
途方にくれながら歩いていきました。
 夕闇が迫る頃、牛飼は草原に差し掛かりました。一陣の風が吹き、
牛飼はここで草を食んでいた牛を思い出し、涙を流しました。牛の
尾が追い蝶が舞った光景がまざまざと蘇り、今頃は肉屋の主人の手
にかかって殺されてしまった牛を思って泣き出しました。いつの間
にか牛の尾は博徒の器用な手と成って、蝶は骰子に変わっていまし
た。骰子が振られ、歓声があがり、牛飼いの金が巻き上げられてい
きました。そのうちに博徒の器用な手は肉屋の主人の武骨は手とな
り、包丁を研ぎ始めました。砥石からは牛の血がどくどくと流れま
した。牛飼は大声で泣きながら一本道を歩いていきました。
 ようやく峠にたどり着き、峠を上りきった頃には、牛飼の涙も枯
れていました。すると突然、刀を振りかざした山賊が飛び出して、
牛飼の行く手を遮りました。山賊は牛飼が牛に乗って村に向かった
のを見て、帰りにその代金を巻き上げてやろうと待ち伏せしていた
のでした。歩き疲れ、泣き疲れ、驚いて声も出ない牛飼は、ただた
だ首を横に振り続けました。山賊は金を求めて牛飼を散々脅しつけ
ましたが、言うことを聞かない牛飼に腹を立て、刀を振り回し始め
ました。山賊は怒りに任せ狂ったように刀を振り回し、とうとう牛
飼を切り殺してしまいました。山賊は相手を殺したことにも気付か
ずに刀を振り回し続けていましたが、やがて正気に返り、牛飼の死
体から金を奪おうと衣服を剥いで必死に探しました。いくら探して
も金が見つかるわけも無く、山賊はようやく諦めて峠の森に引き上
げました。
 手塩にかけた牛を無くし、その代金を無くし、命まで無くした牛
飼は天への道を歩いていきました。全てを無くしてしまいましたが、
暮らしを立てる心配も租税を納める苦労も暑さも寒さも痛みも無く
なりました。
 しばらくすると、行く手に黒い牛が見えてきました。牛は後ろか
らやって来た牛飼に気付くと立ち止まり、首を垂れました。牛飼は
牛の前まで来ると牛の黒い目を見つめ、やがてその背に跨りました。

 天に向かう一本道を黒い牛が牛飼を背に乗せて歩いていきました。
漆黒の体に黒い目が光り、頭頂には二本の立派な角が生えていまし
た。

第9回3000字小説バトル
Entry21

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こんにちは

作者 : 羽那沖権八
Website : http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/4587/
文字数 : 3000
 それを受信したのは、NASAでもグリニッジでもなかった。
「――こんにちは、あなた方は知的生命体ですか?」
「な!?」
 大統領は周囲を見回す。
「私はそこにはいません。あなた方の神経に直接声を伝えています
――意味が分かりますか?」
 と、その時、勢い良くドアが開き、スーツ姿のシークレットサー
ビスが数名入って来た。
「閣下!」
「君たちも聞いたか。スピーカーを見つけろ!」
「はい! 閣下はご避難を!」
 シークレットサービスに囲まれる様にして、大統領は執務室から
出た。
「私たちに敵意はありません。信じて下さい」
 廊下に出ても声が聞こえてきた。耳の側で喋られている様に、は
っきりと。
「走れ!」
 しかし、議事堂から出ても、専用車に乗っても、声は付きまとっ
てきた。
「――はぁ、はぁ、はぁ、い、一体、どこにスピーカーがあるんだ」
 地下五〇〇メートルに建造された核シェルターの中で、すっかり
服を着替えた大統領とシークレットサービスたちは呆然と座り込ん
だ。
「スピーカーというのがどんな事か分からないので答えかねますが、
多分それはありません」
 声は相変わらず大統領たちの耳の側で聞こえた。
「何が目的だ、私の命か、金か、兵器か?」
「落ち着いて下さい」
 静かに声は言った。
「私たちはあなたたちの惑星の住人ではありません。友好関係を結
ぶために接触したのです」
「なに? エイリアンって事か?」
「若干ニュアンスが違いますがそんなものです。私たちはこの惑星
から七億光年ほど離れた星系の住人です」
「本当、なのか?」
「ええ」
 大統領はしばらくの間、黙って考え込んでいた。
「あの……どうなさいました?」
「分かった。君の言う事を信じよう」
「ありがとう。分かって頂けると信じていました」
 大統領は手鏡を取り出し、外交スマイルを確認した。
「それで、君たちは何色――いや、何星人とお呼びすればいいのか
な?」
「大地を意味する『ク』人と呼んで頂ければ結構です」

「――よろしいのですか、大統領閣下」
 シェルター内の会議室で、陸軍司令が苦い顔をする。
「確かにコミュニストの罠の可能性も考えた。それを否定する証拠
もない」
 大統領は政府重鎮たちを見回す。
「だが、罠を肯定する証拠もない。接触しなければ、何も分からん
のだ」
「ですが!」
「警備は万全を期する予定です」
 海軍司令が口を挟む。
「まあ陸軍司令の懸念ももっともだと思います。万一という事もあ
りますからね」
 情報部長官が眉をひそめる。
「危険が何だ異星人だぞ。開国の祖から我々を支えてきたのは、常
に開拓者精神ではなかったか?」
「閣下……」
「ハイリスク・ハイリターンは世の常だ。あの声を伝達する技術一
つ取っても、リスクを冒すに足るものではないか?」
 陸軍司令はしばし沈黙した後、頷いた。
「……分かりました。陸軍は、全力を挙げて、閣下をお守りします」

 太平洋上に停泊した空母の滑走路上で、歓迎式典の準備が進む。
「順調そうだな、艦長」
 艦橋から大統領は滑走路を眺める。
「うむ。だが、狙撃用員は、本当に不要なのか?」
 空母の艦長は、不満そうな顔をしていた。
「誰だって、銃口を向けられたままでは歓迎されているとは思わな
いだろう? シークレットサービスと、自爆用核弾頭一発で充分だ」
「もしもク人が、核を無効化する技術を持っていたとしたら?」
 眼下で、クレーンが演台に使う鉄骨を吊り上げていた。
「それこそ這い蹲ってでもその技術を教えて貰うさ。もしもク人が
本物の異星人なら、このコンタクトで我が国の技術力は大幅に上が
る筈だ」
「言葉通り友好的な人類であることを願うが」
 艦長はホルスターから拳銃を抜き、弾丸を確認した。

 翌日。
「空母の甲板というのはどうも暑いな」
 ハンカチで額を拭いながら、大統領は隣の陸軍司令に囁く。
「ええ。海で戦う連中の感覚は分かりません」
 太平洋の強い日差しが滑走路に反射する。報道のカメラマンたち
も、汗を拭っていた。
「予定の時刻の五分前か」
「閣下」
 秘書官が報告に来る。
「宇宙局によると、ク人の宇宙船と思しき飛来物は、事前に知らさ
れたルートのみならず、太陽系内に一切確認できないとの事です」
「なんだと!?」
「やはり、いっぱい喰わされたのでは……」
「まさか、そんな!」
「お待たせしましたか?」
「!!」
 ふと気付くと、大統領の隣りに当たり前のように誰かが立ってい
た。
「な!?」
 咄嗟にシークレットサービスたちが、大統領と侵入者の上に覆い
被さる。
「ク人の代表です」
 一瞬前にいた場所から、十メートルほど離れた場所で、侵入者―
―ク人の代表は頭を下げた。
 その姿は、尻尾らしき器官がある事を除けば、人間とほとんど変
わらない。
「ど、どどどど、どうやってここに――ええい、どけ!」
 大統領はシークレットサービスの下から這い出す。
「デビッド・カッパーフィールドか貴様は!」
 陸軍司令は今になって銃を抜いて構えた。
「ああ、申し訳ありません。我々の移動法はそちらでは一般的では
ありませんでしたか」
「……極度に進化した科学は、それを理解できぬ者にとって魔法と
変わらない、か」
 大統領はシークレットサービスたちを下がらせ、無理矢理外交ス
マイルを浮かべた。
「地球へようこそ。歓迎する」
 無数のカメラのシャッター音が響き渡った。

 驚き醒めやらぬうちに式典が終了した後、大統領とク人は船室で
テーブルを囲んだ。
 厳選されたコーヒーと菓子がテーブルに並ぶ。
「さ、どうぞ」
「お気遣いには感謝しますが、我々はものを食べなくなって久しい
ので」
「これは失敬」
 大統領は、カップをテーブルに戻す。
「しかし、君たちの母艦はどこにあるのだ? いくら何でも、七億
光年の距離を瞬間移動したわけでは――」
「目的地のイメージを掴むことさえ出来れば、距離は関係ありませ
ん」
 間が空く。
「す、素晴らしい技術だな」
「ははは、この技術が確立したのは、ほんの二百年前ですよ」
「――失礼だがあなたの年齢は?」
「四百二十一歳になります」
「四百!?」
「長命術が確立される前は、百年がせいぜいでしたが」
「技術交換を願っていましたが、これでは教わる事だけかも知れま
せんな」
「いえいえ、互いに学ぶ事は多いと思います。では早速本題に入り
ましょうか」
「そうですな」
 大統領が目配せすると、パソコンと無数のディスクの乗ったワゴ
ンが運ばれて来た。
「急な事で漏れも多いが、地球の文化作品や科学技術論文の数々だ」
 一通り大統領自身が使って見せる。
「――ええ、と、その、これは?」
「まあ優れた技術を持った君たちにはあまり役に立たないかも知れ
ないが」
「いえ、そんな――では、我々からはこれです」
 ク人は一本の針をテーブルの上に置いた。
「これは、なんです?」
 多少色の変わったただの針にしか見えない。
「今まで我々が発見した尾軟細骨のポイントが全て分かります」
「は、え?」
「あの……尾軟細骨は、もちろんご存じです、よね?」
「それはその……」
「あれ? 別の呼び方するのかな、ほら、あるじゃないですか」
 ク人は自分の尻尾のような物を手に取って、大統領に見せる。そ
こには、針が無数に刺さっていた。
「針を刺す事で、栄養が摂取出来たり、楽しい物語が見えたり、体
力が回復したり、惑星一つ破壊出来たりする、こういう器官なので
すが……」
 必死に説明するク人を、大統領は曖昧な顔で眺めていた。自分の
尻をそれとなく触りながら。

第9回3000字小説バトル
Entry22

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シェル

作者 : 小径
Website :
文字数 : 2716
  朝起きた。歯を磨(デンター)き、階下に降り、家族(5人)
と食事(ぎすぎすした空気の中)をして、トイレ(TOTO)を済まし、
スーツ(ノーブランド)を着込み、靴(タニノ・クリスティ)を履
いて玄関口に立ち、思い出した。と、妻が。放り投げた。曲線を描
いて落下する。
 渡された。妻は疎ましげに「忘れ物」といった。
ショットガンDa。
「ショットガンじゃないか!?」
目を細めた。侮辱するかのように、
「ばか?何いってんの」
「いや! ショットガン!」
「寝ぼけてるの? 鞄でしょ」
…鞄? 
 受け取ったショットガンを眺め回した。黒光りする銃体と長い砲
身が、異常なほどの重量で俺に凭れかかってくる。弾が入っている。
取り出す。単榴弾だ。
「違くて。いや、書類とか入る奴で…」
 妻は消えていた。溜息を吐き時計を見た。時間が迫っていた。仕
方なく、駅へと向かう。
 商店街(閑古鳥)を抜け、駅前(ビルのみ盛況)の建物を越えて、
駅口を(定期券)くぐり、ホームへ…
 信じられないことだが。
 ホーム構内では、辺りの人間、学生も会社員も公務員も明らかな
犯罪者も、一様にショットガンを持っている。混乱する頭にも電車
はすぐに来た。流れと共に、乗り込む。
「ねえ。鞄変えたんだ? かわいい〜」
「へへ、いいでしょう?」
 そんな会話も聞こえてきた。ピンク色のショットガンに可愛げな
キーホルダーを着けているOLの会話か。 グリップを握った。電車
内でぶっ放したい衝動に襲われた。が、それはあっけないほど、あっ
さりと自制心の前に消えうせる。溜息が漏れた。
 やるせない気分の中、座席に座り損ね、ドア付近でショットガン
に凭れ掛かかり、 何かから逃れるように流れる景色を見て、時間
を過ごした。
 駅(元駒井)で、降りた。並の喧騒。足早に駅を去る。会社に着
くなり、
「係長。いい鞄ですね」
「いや、ショットガンだろ?   お、お前もか!」
 部下の平賀も、ショットガンを後生大事に構えていた。が、
「へ? だって、鞄がないと仕事ができないじゃないですか?」
「そ、それじゃ、何も入らないだろう。鞄て言うのは、もの入れる
…」
 ショットガンを指差して言ってやる。平賀は、怪訝に応じた。
「………さっきから、なに言ってるんですか? 変ですよ」
「変? 俺が?」
 刹那。
 ばぎゃぁああん。と、爆裂音が響き渡り、天井の蛍光灯が消し飛
ぶ。
 白色の砕片や粉末が中空を漂う。急いで、下に目を向ければ、シ
ョットガンの黒い銃口が、他の蛍光灯の光に照らされて、不気味な
鈍さで輝いていた。
「はい。承りました。弊社に5時・・・ですね。はい、はい」
「な、何なんだ?」
電話か。鹿島真弓が。電話の受け答えながら、今しがた鉛の散弾を
噴き上げた、長身の散弾銃を構えていた。
平賀が口笛を吹いた。高いド♯。心から感心したように、感嘆の声
をあがる。
「さすが、社長の娘ですね。鞄も違うなぁ!」
「そうじゃないだろ」
 呆然とした呟きには、誰も耳を貸さない。慣れたことなのか(そ
んな事があるはずが無いが)誰騒ぐ事無く、適当に自らの仕事に励
んでいる。
 学生(闘争と逃走の青春)の頃、ショットガンが欲しくて欲しく
てたまらなかったことを思い出した。無論、ミサイルでも洋弓でも
要求を何でも呑む政治家でも構わなかったが。
と、鹿島がこちらを向いた。ストレートロングの髪に、白粉がこび
りついていた。何か言おうとして、
「かか……」
「ん?」
 鹿島の言葉を聞こうと振り返った。
 刹那に。
 他の場所でショットガンが炸裂した。爆発音とガラスが砕ける音
と共に、今度は何があったか、断末魔の絶叫が響いた。悲鳴が伝染
する。他のショットガンも次々と咆哮を上げ、天井を砕く。ガラス
に皹が入る。穴だらけの書類が宙を舞う。血が飛び散る。一瞬で、
会社は戦場となった。「なんだよおお」体を屈めて、流れ弾を避け
る。
 同じように、机の陰に体を隠している鹿島。ぽろぽろと落ちてく
る砕片が、頭を白くするが、動ずる事無く、先程言いかけた言葉を
繋いだ。爆発音の飛び交う中、声を張り上げるわけでもなく、
 「係長。部長がお呼びです!」
 「あ、ああ。ああ!」
思い出した。今日は、部長に契約書を渡す日であった。匍匐前進で、
弾の飛び交う中、部長室に向かい、ドアを開け……。忘れてきたこ
とを思い出した。
 「鞄の中に入れっぱなしだ……」
 「東君。待っていたよ」
 思い出した。自分の名前は東だった。それにしても、此処はこん
な部屋だったか?暗い中、幻光で照らされた人型のシルエットが、
声をだしている。のか?ようだ。 
掠めた疑問を打ち消した。
 ドアを閉めなおすと、人型は何一つ動作することなく、淡々と述
べた。
「さっそく、契約書を渡したまえ」
「す、すいません。ちょっと、……その、鞄に入れたままなんですっ
。」
語尾がかすれる。体が汗ばむ。シルエットは、怪訝な雰囲気をにお
わした。
「忘れた?鞄はしっかり持ってるじゃないか。もっとましな言い訳
をしたらどうだ」
 言われて、手にしっかりショットガンを持っていることに気が付
いた。狼狽し、振り回しながら、
「だ、だってこれは、ショットガンじゃないですか! 鞄じゃない
!」
 淡々と。
「鞄だろう。頭でもおかしくなったんじゃないか?」
 なんだかおかしくなってきた。狂ったように笑いながら壊れてし
まいたくなってきた。
 いわれてみれば、鞄をショットガンというなんてばかげている。
自分ひとりが馬鹿げているのだ。、世界全てが馬鹿げていることな
ど、ありえない。
 そうだ。誰もこれをショットガンなどとは思っていないんだ。な、
俺だけ、馬鹿げているんだ。ショットガンと鞄。取り違えようが
ないじゃねえか! 
 「あ、思い出した」
 それで運動も止めたんだった。人型は、なんだって? と言った。
 不敵に、早口で告げる。告げてやる。
「部長」
急ぎ、グリップを引き、弾を薬室に送り込む。
「鞄には、鞄の使い方があるんですよね」
 ドアが爆発した。外から大量の人間が入ってきた。即座に俺を包
囲した。ドイツもこいつも、殺意と敵意を漲らし、俺に、”鞄”を
向けている! そのなかには、娘(うるせえ)も妻(不倫歴長)も
婆さんも爺(禿)さんもお隣さん(おせっかい)も、電車内で話し
ていたOLもいた! 学生もいた! 犯罪者風の(ムショに逆戻りし
やがれ)男も! 寿司詰めになった室内で、俺は笑った。狂ったよ
うに哄笑を上げた。
 狂いながら、弾の装填された散弾銃を人型に向けた。 トリガー
を握り締めた! 己への反動と同じくして、人型がぶっ飛ぶ。同時
に、体が砕けちるのを感じた。それでも馬鹿笑いが止まらない。
砕けた背骨でゆっくりと旋回する。背後の連中にショットガンを見
舞ってやった。

第9回3000字小説バトル
Entry23

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正義の味方だ。サラリーマン

作者 : 太郎丸
Website : 太郎丸の落書き
文字数 : 3000
「君〜ぃ。もう若くないんだから白いシャツの下に絵のついた下着
なんか着ちゃぁいけないの位わかるだろぉ。困るねぇ。だから奥さ
んに逃げられるんだよ、ぇえ」
 禿げた課長が私の顔を見るなり苛めてきた。
「はっ。申し訳ありません課長。ちょっとこれから、○△に行かな
くちゃならないんで、お叱りは帰ってきてからという事で…」
 私は頭を下げると見積もりをカバンに入れ、エレベーターに飛び
乗った。はぁーっ。やっぱりこれじゃぁ目立つよなぁ。私は胸に浮
かぶ大きなSのマークを見て、昨夜の事を思い出していた。

「あーなったは、地球の為に戦えまーすかー? 正義のたーめに自
分を犠牲に出来まーすかー? キィーッ!」
 新橋の汽車の前で私を呼び止めたのは、どこかの宗教勧誘かとも
思える、イントネーションのおかしな、擬音を発する私と同じ40
位のおっさんだった。
「ショッカーめ。私がやっつけてやる。へ〜んし〜ん。トォーッ」
 酔っていた私は仮面ライダーになると、ショッカーに向かってラ
イダーキックをお見舞いしてやった。…つもりだったが、彼はさっ
と身を躱し私は地面とキッスをしていた。
「むふぅ。なかなかやるなぁ…」
 私は口に付いたガムとタバコの吸殻をとってゆっくり立ち上がる
と、醒めはじめた酔いがいとおしく、彼を無視して帰ることにした。
「ちょっとおマッチ下さーい。あーなたは正義の味方になりたくな
いですねぇ」
「それを言うなら、『なりたくないのですか?』でしょ。日本語覚
えなさい。じゃ、そいうことで。さいなら」
「言葉なんかなんでもいいのでーす。言いたい事が伝わる事がだー
いじんですからね」
 鼻白んだ私に正論を言ったその男は、白いシャツを手渡した。
「なにこれ? 金なんか無いよ」
「何を言っとーるのですか? こーれはちょーぢんシャツです。こ
れを着ればあなったはちょーぢんでーす。どぞよろしく」
 唖然としてシャツを手にした私を置いて、彼はさっさと別の男に
声を掛けていた。…まっ、いっか。

 朝のシャワーを終えると、雨が続いて洗濯していなかったツケを
思い出し、昨日のシャツが目について着てしまった。
 貰ったシャツは結構着心地が良かった。しかし気がつくと胸には
赤く大きく『S』のマークが描いてある。
 着る時に気付かなかったというのもオカシナ話だが、着る時には
あんな目立つマークは無かった。着る前に広げて前後を確認したん
だから絶対だ。やっぱり着る前はこんなマークは無かった。絶対に
無かった。無かった。なかった。無かったぞーっ。
 と、無かったを何回いっても、着てしまってから脱げない事に気
付くというのは悲しい。
 仕方なくYシャツは着たが、やはりマークは目だった。

 チンという音と共に空いたドアが私を現実に戻し、携帯で約束の
確認をする。着替える時間は取れそうもない。約束の時間が迫って
いた。仕方がないから、このまま行ってしまおう。
 約束の時間3分前に受付けでバッチを貰った私は、バーゲン品の
ブラの山から他社の製品を見つけ出し、手触りを味わって商品部の
部長の所へと向かった。部長は応接室で真っ赤な口紅を描きながら
待っていた。

「貴方ひょっとしたら…。あっ、そうか。鈴木さんってばケントっ
て名前だったわねぇ」
 彼女は、大きな胸に変形した『W』の文字が浮かぶTシャツを着
ていた。
「あれっ!? 大城部長。それ、私のとおんなじ奴ですか?」
 私はじっと彼女の大きなお腹…、いや胸を見つめた。
「こらっ。そんなに見つめちゃダメよ。恥ずかしいじゃないの」
 私はちょっと華やいだ彼女の声を聞きながらも、彼女と目が合わ
せられなかった。私が独身になったという情報をどこからか仕入れ
た独身の彼女は、最近私に絡んでくる。…しかし、このシャツは伸
縮性がいいらしい。
「や、やっぱりそれって、脱げないんですか?」
「……」
「えっ?」
 彼女はため息をつくと、私に説明してくれた。
 このシャツを着ると今まで眠っていた能力が開花し、超人になる
こと。そしてこの事は絶対に秘密であること。って説明を受けてし
まったが、今、秘密って…。まぁ。いいか。

 彼女の言葉を借りれば、それを着てくるくる廻るとワンダーウー
マンに変身するという。彼女の変身した姿を思い浮かべた私は、込
上げて来る胃液をなんとか落ち着かせ、ワンダーウーマンの、あの
エッチなコスチュームを頭から追い出した。
 そしてどうやら私はあのスーパーマンになるのではないかという。
しかし高所恐怖症の私は空は飛びたくないし、あんなタイツ姿にも
なりたくはない。

 ビールのグラスをテーブルに置くと、胸のマークに目がいった。
本当に私はスーパーマンなんだろうか? 確かに大城部長の名前も
安奈というあの年代にはちょっと無い名前だから、ワンダーウーマ
ンの名前であるダイアナ・プリンスとは、似ていなくもない。
 だが私の名前もケントではあるが、鈴木という苗字ではいくらな
んでもクラークにはならないだろう。
 正義感が人一倍強いわけではないし、体力だって学生時代に何も
していなかった私は、はっきりいってケンカに弱い。殴られるのは
イヤだし、殴るのも恐い。こんな私が超人なんかになって一体何が
出来るんだろう。

「キャー」
 その時、隣の席で女性の叫び声が聞こえると、私にどっと寄りか
かってきたものがあった。
「た、助けて下さい」
 叫びをあげた女性は、私の背中にしがみつくと体の向きを罵声の
発する方へ椅子ごと向かせてくれた。
「おじさん。いい格好するこたぁないんだから、ケガしないように
あっち行ってな」
 三人組らしい男達の一人が、私に向かって猫なで声で話し掛けて
きた。
「は、はい」
 私はもちろん席を外そうとしたが、背中の女性がしっかりと私の
シャツを掴んで離そうとしないので、動けなかった。
「なんじゃあ! やろうってのかオイ」
 そんなつもりは毛頭ないが、彼女が背中から声を出した。
「当たり前でしょ。あんた達みたいなクズは、この人にやっつけら
れるわよ」
 何をバカなことをこの女は言ってるんだ。私はしっかり青くなっ
たはずだ。酔いがすっかり醒めてしまっている。
 どうにか移動しようとした私は、力任せに立ちあがるとシャツの
ボタンが取れて、『S』のマークが表れた。
「オ、オイ。見ろよ。スーパーマンだぜ」
 笑いをこらえた声が、私の胸を見て仲間に呼びかけた。
「おぉーっ。こりゃぁ恐ぇや。ハッハッハッハ…」
「いやぁー、このおっさん。笑わせてくれるぜ。…おい早くどっか
いっちまえよ」
 蹴飛ばされて飛んできた椅子が私の手に当たった時、私は変わっ
ていた。近くには電話ボックスなんか無いのに…。

「どうーか、許して下さい」
 私は、土下座していた。
 額どころか、鼻も唇も一身に床に擦りつけていた。
 三人組の男達も私の背中に隠れようとした女性も、唖然としてい
たが、一番驚いたのは私だった。何故こんな事をしているんだろう。
 この世に生を受けてから、こんな事はしたことがない。

 拍子抜けした男達は、すっかり気勢をそがれて帰っていった。も
ちろん女性も男達がいなくなると、そそくさと帰った。
 私はスーパーマンじゃなくて、土下座男になってしまったのだろ
うか。

 あれから相変らずシャツは脱げないが、汗をかいても汚れないし
綺麗だった。
 変わった事といえば、課長に誉められる様になった事と、仕事が
何故か楽しくて楽しくて仕方がない様になった事だろうか。

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