第10回3000字小説バトル
Entry1

『健太のプライドキッチン』

 この世の中で、彼の一番好きな場所。

 それは恐らく、蒸気に濡れ蒸したラードの香りが縞をつくる結婚
式場の厨房キッチンだろう。

 そこは、数台の大型換気扇が窓際でくすぶったような羽音をたて
ながら、頭上にある扇風機のプロペラの回転音と緩やかに共振して
いる空間だ。時間が沈澱して油にまみれている。
 
 長年擦れて鉛色に変色したステンレスの盛り付け台に、諦め疲れ
たように深く腰を沈めて掌を拡げて見た。
「いつまでこんな事続けるつもりだい?」健太はササくれだって染
みだらけのコックスーツの両袖に目線を落とした。
「間に合わないな、きっと」汗がヒヤリと首筋をつたい鎖骨に流れ
こんだ。失望とも絶望ともとれる溜め息が洩た。
「なにボーツとしてんだ!早く切り上げないと、二人きりの弟の結
婚式に遅れるぞ」料理長の梅島が声をかけた。
「都合が悪けりゃ、行けないと返事してありますから、いいんです
よ」顔を上げずに健太が答えた。
「そうは言ってもな、実弟の式なんだぞ! なあ、健よもう上がれ」
周りのコック連中も料理長の声に頷きながら目で合図した。
「こう毎日毎日式場で皿洗っていると、どの結婚式もただの儀礼に
見えて、つまらないです」その言葉は本心だった。
「弟さん、オマエの顔をたてて、この式場を選んだんじゃないのか。
兄想いの立派な弟さんだよ」梅島が死んだ親父のような目でたしな
めた。呑べいでお人好しの目がそこにあった。親父のポマードの香
りがほのかに漂って来て、揺れたような気がした。突然鼻腔にツン
と孤独が浸み始めた。
「自分はネジが外れて、皿洗いに快感すら覚える壊れた兄貴ですよ。
あいつの単なる儀礼ですよ......」と言いかけて、ダスターで薄汚
れたキッチンストーブの表面の油じみを拭いとった。

 業務用の大型シンクには、5層とも順番にお湯が張られ健太が洗
い慣れた皿やカップの類が、湯気の隙間から顔を覗かせている。
 想像を絶した数のステンレス皿が天井近くまで何層にも積み上げ
られ、何故か新宿副都心を連想させた。
 向う側には、幾つもの大型ボールに入ったナイフやフォークやス
プーンがぎっしりひしめき合っている。これらの洗い物を、パート
のおばさん達と仮洗いをして、大型食器洗乾燥器に放りこむのが彼
の仕事なのだ。2年前のあの事故依頼、転職して誇りを持って打ち
込んできたバイトである。
 自分自身を唯一取り戻せる薄汚れた空間と、次々と洗い上がる食
器群。ずっとこの場に埋もれていたくなるのは偽らざる健太の気持
だった。
 休む間もなく、湯気の中を漂いさえすれば、これ以上何も考えな
くて済むのだから。同じことを繰り返してさえいれば済むのだから。

「健ちゃん、車椅子誰が押すんかねェ?通路狭いしねェ」
パートの良子さんが目を瞬かせて訊いた。
「そりゃ新婦にきまってますよ」
「なんかとても美人らしいね、健ちゃんも、頑張んないとね」
健太は苦笑いを返した。

 食器洗剤のボトルを交換しながら、一年前に別れた真理子の言葉
を反芻していた。
「とても辛い、とても苦しい、これ以上貴方を好きになっては、哀
しい結末が待っている気がするの。もう愛せない、ごめんなさい」
ごめんなんて言うなよ。お前は悪くないんだ。まっすぐに人を好き
になったのだから。健太は額の汗を拭いながら心で呟いた。
迷わないくらいに人を好きになれることが、とても羨ましかった。

「佐竹のおばちゃん、乾燥機の方がまわりきれてないよ、急がない
と、どんどん溜まっちまう」
「鳳凰の間、上がりです。10分後、食器類を引き上げます」
フロアーマネージャーの岸田が伝えてきた。
 
 蒸気と汗と油と残飯の臭いのなかで、換気扇を見上げるとあの時
の弟の顔と重なった。
「......兄さん、こんな体になって迷惑かけます。申し訳ない」
「退院の日だぞ、迷惑なもんか。心配するな」
「.........」
「こうやってオマエの元気な顔見れるだけで......」

 弟と真理子と3人の深夜ドライブの事故から2年程経つていた。
辛うじて、後部座席の健太と運転していた真理子は重傷には至らな
かったが、助手席で居眠りしていた健太の弟は頚の骨を折って下半
身麻痺の状態に陥ってしまったのだ。静かな日々が、リハビリ時期
になるまで淡々と続いた。自分のせいだと言い張る彼女を励まし、
青い日々の中で心の糸を手繰り寄せるように、健太は彼女を愛し続
けることに没頭した。彼女の方は献身的とも言える程、弟の面倒を
見続けた。狂わなかったのは、たぶんそのおかげだったのだろう。

 その一瞬、梅島の声で健太は我に返った。
「バカ野郎! 教会で式始まったじゃねーか。意地張りやがって」
 春が二度巡って、今年が三度目の春であった。
「もう間に合わない......。もう戻れない......。真理子、もう悲
しまなくてもいいんだよ。君がまっすぐ生きて行けることが俺自身
を救うことになるのだから。そうだろ?」
乾燥器の扉をやおら開けると、独り言が湯気に捲かれて消えた。

 白磁の皿類はすっかり汚れが落ちて、静謐な輝きを淑やかに留め
ている。一瞬の清清しい浄福があった。

 いつの間にか両の掌を合わせ、何かに向かって自分を許せと拝ん
でいた。迷いすらも置き忘れたような生き方しか出来ない兄を許せ。
まっすぐに愛せなくて、業欲だけを君に押しつけるだけだった俺を
許せ。兄想いのお前が選んだ孤絶と苦悩と愛に向かい合うことへの
絶望を何故少しでも俺自身で和らげてやれなかったのか。何故に、
もっと早く君を許してあげられなかったのか。
 君の魂を自由にしてやれさえすれば、唯それだけで良かったのだ。
それこそが俺自身を救うことに繋がっていたはずなのに。

 健太は忘我の狭間で泡まみれになり、淡々と食器洗い器へ皿を放
り込むという作業を続けた。

 今、この瞬間に自分を見失うのが恐かった。自分で答えを出すの
が恐かった。皿洗いしか残って居なかった。厨房キッチンの空気だ
けが優しく包んでくれていた。後にも先にも経験したことのない穏
やかな充足があった。
健太はそう感じていた。紛いようのない充足であった。

「春の陽気に誘われて......っと」涙を欠伸で誤魔化しながら3階
ホール横の廊下を抜けて、式場の玄関正門の見える窓へ向かった。

 風に夥しい数の桜の花弁がどこまでも舞い上がり、青い空に融け
こんでいた。その花吹雪の向うにぼんやりと、人々の姿が見えた。
結婚式場の斜前の教会から出て来る長い列が目に入り、目を擦って
みた。日差がいくぶん網膜の中で弱まり、午睡の後のような気だる
い錯覚のなかに晴れ晴れしい弟の顔があった。その背後には、伏し
目がちにひっそりと佇む女性の姿があった。淡いピンクのブーケを
両手に持ち、弟の耳元で何かを囁いて、健太の方向を指さしたよう
に見えた。
 ライスシャワーと紙吹雪の舞う祝福の最中でその新婦のティアラ
だけが、一瞬だが永遠の煌めきで輝いて見えた。
 健太は徐に窓を開けると、今朝から準備していた紙吹雪を風間へ
と放ってみた。それは、ひらひらと寂しげに舞って散っていった。

「弟よ! 義妹よ! 今日から決して後ろを振り返らずに生きて行け。
俺がどんな時でも影法師の様に後から支えてあげる。真理子さん、
弟のことをよろしくお願いします」
健太は、生まれて初めて透明な独白をした。

「愛は許すこと。そして許しきること。もしも許すこともプライド
なら、愛はきっとプライドになる」

 自らの呟きをもって健太は新たなプライドを掴み取った気がした。