富士の山の朝は早い。
濃い緑色の木々の葉が、まだ夜露のなごりをうっすらと輝かせ、朝
靄と朝陽の間を早春の清々しい微風に揺れている。
山鳩のゆったりした鳴き声と小さな鳥の囀りが、夜露で濡れた黒
いアスファルトに反射する。
人けの無いゲートに向かって一台のスクーターがやって来た。
白いツナギを着たその男は、鍵の束を荷台のケースから取り出すと、
ゲート脇の少し錆びくれた鉄扉を開けた。そしてタバコを取り出し、
フィルターをちょっと噛んで火を付けスクーターに腰を下ろすと、
ゆっくりと吸い込んだ。
白いツナギがだんだん朝陽の光を浴びて、うっすらと茜色に染ま
る頃、遠くから今にも壊れそうな車のエンジン音が聞こえてきた。
そのワンボックスはゲート前に止まり、中から若い青年が降りてきた。
「おはよう!おやっさん、いつも悪いな」
「なんの西坂君。あんたがやって来るのが、ワシの楽しみじゃよ」
白いツナギを着た白髪の老人は深い皺を一層その色黒の顔に作って
微笑んだ。
老人がゲートを開け、西坂のワンボックスが中に入ってゆく。
少し曲がりくねった車路を登ると広いパドック裏に出た。
老人もゲートの鍵を締め、パドックへスクーターを走らせた。
その姿は老人とは思えない程の若さを感じさせた。
西坂がワンボックスのバックドアを開けると、中には一台のバイ
クとその両脇に沢山の工具類の箱が、狭い車内に積み込まれている。
西坂はスロープを荷台から引っぱり出し、バイクを固定したロープ
を外す。
「どうじゃ、キャブレターの調整は出来たのかな?」
「ああ、徹夜でやったよ、遅くまでかかったんで、まだエンジンは
かけてないんだ」
西坂はゆっくりとバイクをスロープから下ろした。
そのバイクの白いタンクにはブルーのラインが二本、弓を引いた様
に引かれている。作業の途中だったのだろう、カウルはセットされ
ておらず、大きなラジエーターが黒く光っている。
「こいつもワシと同じじゃ、よう元気でがんばっとる!」
「そうだね、こいつもおやっさんと同じだよ、もう老いぼれのくせ
に手のつけ様がないんだから!」
「こら!お前、ワシの事……」
「ごめん、ごめん!わかってるよ、そう言う意味じゃなくて、今で
は部品を探すのも苦労してるって事。でもこいつだけは手放せない
ね……」
西坂はバイクにまたがるとキックペダルをセットし、思いっ切り
踏み込んだ。パアーン、パアーン、鼓動を揺さぶる甲高いエンジン
音が、静かな朝の山並みに静寂を破ってこだました。
「どうなんだ〜今年の新人は?」
「イーストでは西坂って言うのが面白いですよ、なんせ彼は今どき
珍しい市販車改造マシーンで地方GPから出てきたんです、それも
RZですよ」
「RZ?お前何か間違ってねーか?TZだろ?TZ!」
「だから、違うんですって!ホントにRZなんですよ」
編集長の顔が変わる、「ホントかそれ?」
「はい、先週富士で全日本の合同テストの取材に行った時に支配人
が言ってましたから」
「う〜ん、RZか……そうだ!沙織ちゃん行ってくれ。お嬢様でも
取材ぐらい出来るでしょ?エリアの取材だから気楽にね、気楽に!」
「えっ、私でいいんですか?」
「いいよ〜っ。うちは零細だからね、いる人皆でやるの。早く慣れ
てね」
「はい!ありがとうございます。じゃあまず、その支配人にアポ取
ってみます」
沙織は昨夜、ホストクラブで出会ったあの西坂の事だとは、全く
知らなかった。
西坂は富士のコースを走り込む。
2ストロークの軽快なエンジン音が静かな山間に反響し、コースの
形を伝えている。
老人はコーヒーをすすりながら目を閉じ、コーナーの一つ一つを
思い描く。
「あの子も大きくなったもんだ。弘志っさん聞いてるか、あんたの
RZだ。あの時と同じ音だよ」
西坂がピットロードに入ってきた。微細なアイドリングが老人の
前で止まった。グローブを外しヘルメットを脱ぎながら、
「おやっさん、悪いんだけどそこのスタンド取ってくれ!」
床に転がったスタンドを老人は「よいしょ」と持ってきた。
「どうだ?調子はいい様だな!」
西坂はスタンドを受け取りマシーンを立てると、キャブレターを見
ながら
「そうだな〜、やっぱこいつも取っ換え時かな〜。スロットルバル
ブがダメだ、地方GPじゃあこれでも勝てたんだがエリアじゃもう
無理だね」
老人は嬉しそうな瞳で西坂の話しを聞きながら、アルミカップに入
ったコーヒーを差し出した。
「どうじゃ、いっぷくでもせんか?」
「おっ!ありがとう。おやっさん気が利くね〜、どう?僕のチーム
に来ませんか?」
西坂は冗談ぽく笑ってコーヒーをすすった。
「ワシゃ、あんたの練習場の手伝いだけでいいんじゃ、本番でこん
な所にワシみたいな老いぼれがいたら邪魔でしょ〜がないじゃろ?」
老人は笑いながら言った。
「でもいい音じゃ〜、弘志っさんを思いだしたわ。覚えとるか?」
西坂は軽く頷くとコーヒーを口に含んでなじませた。
「弘志っさんは、地方GP戦でこのRZをMFJの規定に合わせ改
良し、プライベートで戦った。ランキングは4位止まりで終わった
が、その走りは「サーキットの神風」と言われた程で、走り出すと
誰も止められない速さがあったな。だが転倒も多くて、ポイントに
なるレースは数える程しか無かった。かみさん、お前のお袋さんも
病気で入院したこともあって仕方なくバイクを降りたんじゃが……」
去年、交通事故で死んだ親父の想い出を、老人が懐かしそうに語る。
「いやだね〜おやっさん、そんな事は俺だって知ってるよ、今更な
に言ってんだい、もうぼけちまったか?ふふふ」
西坂は苦笑いでごまかした。
プルルル・プルルル ピットの内線が鳴った。
老人は受話器を取ると事務所と何かを話している。
西坂はマシーンのカウルを外し、エンジンのチェックを始めた。
「……そうですか、では明日の午後でもよろしいですかな……」
老人は受話器を置き、西坂の前でにっこりと微笑んだ。
「西坂さん、あんたやっぱり注目されてますよ、明日ワシにバイク
雑誌の取材が入ったんだが、どうも西坂さんの取材をしたいらしい
、どうしますかね?」
西坂はマシーンのオイルを抜きながら、老人の問いに首を横に振
った。
「だろうな、ま〜ワシが会ってみるから気が向いたら連絡をおくれ」
老人は優しい眼差しでそう言うと、「そろそろ事務所に戻らんとい
かん」と独り言を呟き
「じゃあ、西坂さんエリアGP頑張ってくださいね!」
老人はそそくさとピットを出てスクーターに乗った。
西坂は慌てて、パドック裏に出ると
「おやっさん、今日はありがとう!まるでプライベートコースだっ
たよ」
ゆっくりと走るスクーターの上から老人は、後ろ向きに左手をヤン
チャに振りながら、緩やかな坂道を下って行く。
ピットに戻るとRZのシルエットが、眩しいグランドスタンドの
光を受けて紺影に浮かびあがっている。西坂はそのRZのタンクに
そっと触れて、グランドスタンドを見つめた。
今では親父の残してくれたこのRZが唯一のチームメイトだ。ス
ポンサーも親父もいない。
今年イーストエリア選手権でランキング3位に入賞することが出
来れば、念願の全日本に行ける。親父と約束した願いが叶う……。
西坂はピットの中にたたずみ、歓声で沸き上がるグランドスタン
ドを想い浮かべながらそっと呟いた。
「これから、これからやっと始まる……」
その時、一瞬の微熱をもった風が、西坂の頬をサッとすり抜けた。