「ねぇ、結婚しようよ」
私が彼にそう言ってからもう3カ月が過ぎていた。
その間、私達は何度もデートをしてその倍くらいの数のセックスをして、タイミングを見ては、私はそれとなくプロポーズの返事の催促を繰り返した。でも彼はそんな私を上手にあしらい続けた。もしくは、のらりくらりとかわし続けた。
例えばある時は「明日にでも結婚しよう」と言い、またある時は「実は僕はゲイなんだ。だから結婚はできないんだ」と言って笑った。どちらも嘘である。それもみえすいた方の。
でも私は彼の嘘をいつも許してしまう。例え一時は怒ってしまっても、次に会う時までには許せてしまう。彼はそうやって、私を笑わせたり、怒らせたり、時には泣かせたりしてプロポーズの返事をぼかし続けていた。
頭がきれて、いいかげんで、変わっていて、何を考えているのかが今一つ見えなくて、嘘の上手い人だった。
上手い嘘というのは、完璧で見破られない嘘のことではなくて、相手に見破らせておいて許しをもらえる嘘のことだと、彼に教えてもらった気がする。
単に彼のことが好きだったから許せたのかもしれないけれど・・・。
「あいつはやめておいた方がいいよ」
彼のことを好きになり始めた頃に、友人が私に忠告してくれた。私の友人と同時に彼の幼馴染みでもあり、私達を引き合わせた張本人の言葉だ。
「どうして?」
好きな男と自分との共通の友人にこんなことを言われて、理由を聞かない女なんかいない。
「あいつはお前には捕まえられない」
友人は少しだけ笑顔で言い切ったのをよく憶えている。
「あいつはガキの頃から女にもてた。周りの女に騒がれて目に見えて人気があったわけじゃないが、なんとなくもてた」
半分は以外だった。彼は決してもてる顔ではなかったからだ。残りの半分は、私もなんとなく彼にひかれていったのだから素直に納得できた。
「それで、あいつはどの女とも上手くつきあって、どんな女とも上手く別れた。基本的にはイイ奴だから当然といえばそれまでだけど、そういうことが上手くできる奴ってのは少ないんだ。1人、2人の女ならまだしも、多くの色んなタイプの女と付き合った上でそれができる奴ってのは、案外見つからない」
「付き合うなって言うようには聞こえないんだけど」
もっとはっきりと彼のことを教えてほしかった私は、わかりにくそうな顔をして友人に先をせかした。
「女を不幸にするってタイプとは正反対だから、別に付き合うなって言ってるわけでもないんだ。だけど、ただ、お前の友人としてあいつはお薦めできないってだけなんだ。」
「話しがちっても見えてこないゾー」
友人は自分に矛盾がないと思っているようで、少しだけ可笑しかった。
「どう言ったらいいのかわかんないけど、あいつはどんな女からも結局は逃げ切ってしまうんだ。女だけじゃなくて、いろんな物事から上手く逃げるんだよ。あいつがネガティブな奴っだて意味じゃなくて、何っていうか・・・、どういうわけか『逃げる』ってことにすごくこだわってる奴なんだよ」
友人は説明しにくそうに、でも私の為に言葉を選びながら話したが、結局は意味がよくわからなかった。例え理路整然と筋の通った忠告だったとしても、友人の忠告で想いが止められるくらいなら、誰も苦労はしない。
それからしばらくして私は彼と付き合い始めた。
「なんとなく、逃げたくなったから」
突然、会社を辞めた彼はそう言った。
私は忘れていた友人の忠告をその時に思い出した。
「逃げるのが好きなの?」
ある日、私は何気なく彼に尋ねてみた。
「好きとか嫌いじゃなくて、突然いろんなものから逃げたくなるんだ」
彼はとても嬉しそうに答えた。
その日から二人でいる時に、私は彼を注意深く観察するようにしてみた。すると、いろんな人との約束から私との他愛ない会話の中まで、常に彼は巧妙な逃げ道をつくっていることに気がつくようになった。
「なんとなく、無性に逃げたくなる。誰だってそんな時があるだろ。だからその為の準備を前もってしておくんだ」
なんとなく、というのは彼の口癖かつ、原動の最も重要な理由になるらしい。
「でも皆は逃げるとは限らないじゃない。むしろ大半の人は逃げないものなのよ」
「人は人だよ。僕は逃げたくなったら逃げる」
確かに彼は誰よりも逃げるのが上手かったし、逃げ切れる頭脳と体力を持ち合わせていた。そして友人が言ったように、ネガティブに嫌な事からどこかに逃げ込むのではなく、どちらかと言えば、前向きに逃げている。まるで逃げるのが楽しくて仕方がないようだ。
「全身全霊をかけて、真剣に、全力で逃げる」
彼は真面目な顔でそう言ったこともあった。そして照れ笑いを浮かべる。ここまで言い切られると、逃げることで何かに挑戦しているようにも見えた。
だから私は彼にプロポーズをした。しっかりと捕まえておかなければ、ある日突然「なんとなく」というよくわからない理由で、彼が私から逃げてしまう予感があったからだ。
でも結局彼は私の前からいなくなった。
私は彼を逃し、彼が私から逃げたと言うのが正しいのかもしれない。
でもそれは私だけではなく、家族や、知人友人、その他大勢の人達や物事から彼は見事に逃げたということでもあった。
いつからこんなことを考えて、計画したのだろうか。
今さら考えてもどうしようもないことだった。
別れは一本の電話に乗って訪れた。突然の訃報だった。
「逃げろ、全力で」
彼の言葉と悪戯っぽい笑顔を思い出して、私は「馬鹿っ」と呟くことしかできなかった。涙は少しずつゆっくりと流れて、しばらくは止めることができなかった。
私は仕事を休んで通夜も葬式にも顔を出し、喪主を勤める彼の両親の手伝いをした。初対面だたっが、幼馴染みだった友人が彼の両親に紹介してくれた。あまりに突然のことで気が動転している御両親を見ていると、胸が締め付けられる思いがして、少しだけ涙が出た。
彼はいなくなる前に、一人で葬儀屋を手配し、戸惑う両親に喪主を勤めさせ、多くの人を招いて、葬式後の宴会の段取りまで用意していた。足りないのは死体とどこにもない死亡届け。それでも「なんとなく」という死因一つで、彼は皆に立派な葬式を挙げさせた。もちろん、不祝儀はなしでだ。
葬式の最後に両親に事情を話すと、父親は怒り、母親は足を運んだ人全員に謝ってくれた。でも皆は逆に、父親をなだめ、母親にお礼を言った。気づいていなかったのは両親だけだった。葬儀に訪れた多くの人に彼が理解されていることがとても嬉しかったし、羨ましかった。私や友人を含め、彼のことをよく知る人は大いに笑い楽しむことができた。
それは彼の人柄を表す素敵な御葬式だった。
上手い嘘というのは、完璧で見破られない嘘のことではなくて、相手に見破らせておいて許しをもらえる嘘のことだと、彼に教えてもらった気がする。
嘘だから許してね。だって嘘なんだから。嘘でごめん。
それは文字で書いてしまうと、あまり出来の良く無いフィクションの言い訳みたいだ。
いつか再び彼に会った時、結婚していても、おばあちゃんになっていても、私はもう一度プロポーズの返事を催促してやろうと心に誓った。
なんとなく、どこかで会える気がしたから。
彼は「いきる」事からは絶対に逃げない人だから。