第10回3000字小説バトル
Entry14

ふたしかな記憶

 笙野頼子を好きだった女性と喧嘩わかれしてから、ちょうど一年になろうとしている。
 梅雨がはじまり、時に夏のように蒸し暑い日があるようになった。私は発表のあてもなく書きためている稚拙な書評のために『タイムスリップ・コンビナート』を読み、あれこれと文章の組み立てを考えていた。するうち、
(ああ、あれから一年になるのか……)
と、ふと思い寄ったのであった。
 しかし、私は彼女(かりにNとする)について何を知っているわけでもない。
「笙野頼子のファンだった」という記憶も、思い返してみると怪しく、それはNの友人の、Aという別の女性のことがすり替わっているようでもある。
 ああ、そうだった……Nが本当に心酔していたのは笙野頼子ではなく、川上弘美であり、同好会まで作るほどだった。私はその時、
「将来、自分自身が作家になろうという者が、他人の追っかけをしているのはどうなのだろうか」
という意味のことを公開日記に書き、Nはそれを気にして、然らざる旨をあれこれと弁明して来たのだった。
 これが去年の正月のことで、その頃すでに半年後の、決定的な衝突は予見されていたようでもある。

 Nに対し、私は少なからぬ尊敬の念を抱いていた。将来は純文学作家として名を成すのであろうと思っていたので、他の作家の追っかけのような真似をするのは心外なことに、口惜しく感じたのであった。
 先に述べたように、私はインター・ネットを通して知り合ったNについて、当時も今も知るところはごく少ないのである。実際に彼女の小説を読んだこともなかったような気がする。しかしN自らが語る経歴と、時に洩らす言葉などからは、自分の持たないカードをいくつも持っていることが感じられた。
 私と同年輩であるNは、大学は文学部に学び、しかるべき文学研究を身につけたようであった。トマス・ピンチョンなどという唐人の名をきいたこともある。
 そして卒業後、あるいは在学中からであろうか、同人誌に属し、実作を試みたらしい。さらに私から見てあまりにも眩しい事は、いくつかの作品は文芸誌の新人賞に応募され、二次予選まで通過した実績を残していた。
 職業としては出版社に籍を置き、作家の謦咳に接する機会も少なからぬようであった。自らも時に文章を草して、ささやかな小冊子ながら活版にされることもあるらしかった。
 これらは、私の周囲には薬にしたくとも無い、
――文学の香り
であり、私は自分も何とぞしてその世界に入り込みたいものだと、切望しているのであった。
 しかしそれらのカードを一つも持っていない事は、どうにもならなかった。
 全く畑ちがいの理学部で、化学を専攻したが、私は、もともとその学問に対する熱意を欠いていた。まるで火事の焼け出されのように、全くの無用者として自分を大学から放逐した私は、どこからどうなって自分はここに至ったのであろうかと、考えることが多かった。
 そこで私は、文学に関する素養は全く持たないまま、書くことに救いを求めた。このようにして書くわざに入るのは、よくないことである。何かを書かねばならぬと思いながら、私には何も書くことがなかった。

 インター・ネットで知り合う同士は、実際に顔を合わせることは少ないものである。Nと私も、電話線を通した書き文字のやり取りだけで終わって不思議はなかったが、実は一度だけ、私が上京した時に会っている。それも共に半日、秋葉原という街を歩きまわった。
 確か、去年の二月であった。詳しい経緯はここには略す。他に二人の人間がいたが、しかし初めて東京の街を歩き、初めてネットで知り合った人間と対面した興奮から、私はその時のことをほとんど覚えていない。Nと交わした片言隻句すら、私の脳髄からは消え失せている。
 かろうじて、Nの声だけは耳に再現できそうである。低めの声で、落ち着いた話しぶりであった。華やかさや、艶を装わせる様子は、全くなかった。
 あるいは、女性としては高めの上背、ややしゃくれ気味の顎、歩く時になんとなく膝が伸びきらない感じ、それらすべての外貌は私に、都会的な、知的な女性という印象を与えた。いかにも、難解に先鋭化する現代文学を、胸先三寸に畳み込んでいる遣い手、のように思われた。
 しかしなんと言っても、私の中に残ったNという存在は、書き文字を通じて鮮やかに定着されているのであった。

 Nが私に最後に残していったのは、
「矜持が無い」
という詞であった。この烙印を数度にわたり続けざまに捺して、Nは私の視界から消え去ったのである。
 いま「矜持」と辞書で引いてみると、
「自分自身をエリートだと、積極的に思う気持ち。プライド。」
とあり、確かにNとのつき合いを通して、私には左様なものは全く無かったと言える。
 去年の五月、Nが、
「今回の○○(雑誌名)新人賞受賞作を読んで、感想を聞かせてくれませんか。」
と言ってきたことがあった。私はさっそく座り読み御免の書店に赴き、その作品を読み、感想文を綴って自らのホーム・ページに載せた。
 その折、Nはどうもこの作品を評価していないように思われた故、私の感想にも批判的な調子が混じった。相手の意を迎える卑しさが、私には確かにあった。
 依然として私は、何かを書かねばならぬと思いながら、何を書けばよいのか判らないまま、暗中に模索していた。盲滅法に作品らしきものを書いて、あちこちの雑誌やコンクウルに送ったが、全く省みられなかった。
 そこで私は、去年の六月に、××誌に送ろうと考えていた作品の閲読を、Nに乞うた。賞を得る自信などは無かったので、正直に、その旨を述べた。のちにNは、これを指して「矜持がない」と非難したのである。
 Nは私の文章を読んで、箸にも棒にもかからぬものと判定したようであった。が、そうは言わず、
「××は傾向がはっきりしませんね。TさんやAさんを落とすとは何事たい、と思っています。」
とだけ、語った。TさんAさんとは、やはり将来は作家として立つのだろうと思われる、Nと親しい人々である。お前は××に出す資格など無い、と諷されたようなものであった。私は大いに悲観した。

 悲観した結果、私は、ネットの世の中から消え失せてしまいたいものだと考え、一と月の間、そうした。後でそれを知ったNは俄然、先に述べた如く、
「矜持がない」「精神病者」
等々の極印を私に加えた。端的に言って、Nは自分の詞がそのような影響を持ったことに、衝撃を受けたのである。
 去年の七月末のことであった。数日にわたって続いた攻撃に応対するうち、受像器に向かいながら私はついに鼻血を出した。それでもNは手を緩めず、さらに、
「鼻血はティッシュを詰めれば治る、しかし心の傷は……いや、皆まで言う必要はあるまい。」
と豪語したのだった。鼻血を出させるほどに相手を責めつけたという事実を認識できぬ位、Nの「心の傷」は深いもののようであった。

 先日、新聞を見ていたら、富岡多恵子という作家が、鼎談の中で、
「才能とは、それで生きていくよりない人間が行う、努力のことである。」
と語っていたのを読み、私はたいへん感銘を受けた。
 あれから一年して、矜持のない私は未だに、××誌に送るべく文章を書いている。Nもまた、小説の稿を起こしているであろうか……。黄色い絨毯に落ちた血の染みは、どこか判らないほど薄くなってしまった。