深夜一時、食料と服を詰め込んでお気に入りのキャップを深くかぶり二階の部屋からこっそり月明かりの世界へ抜け出した。中学二年にあがった頃から些細なきっかけで両親と喧嘩をすることが多くなった。そして、ある日とうとう、喧嘩の理由は忘れたけど、このままじゃやっていけないと家を出ようと決心した。僕は親の奴隷じゃない。「誰に育ててもらってると思ってんの」なんていって僕を支配しようとするのなら、出ていってやる。一人で生きるんだ。そうすれば誰も文句は言えない。そう思ってお年玉を積み立てた通帳を持って月明かりの下へ躍り出た。初めて歩く深夜の町は思ったより明るくて、なんだか空気が住んでいてとても気持ちよかった。悪いことをしてるんだ、という認識と、未知の世界に踏み込んでいる、という現実が闇の中の光と影の間でゆらゆら揺れて僕の心臓の鼓動を強めた。
僕の町はすごい田舎町だけど夜中の二時に一本だけ列車が停まる。駅のすぐ側に家があるユウちゃんはトイレに起きたときとかに何度か見たことはあるけれど誰も乗り降りしていないと言っていた。なんでも東京とずっと西を結ぶ長距離鈍行が走っているらしくて、いったいどんな人が乗っているのか僕には想像が付かなかったけど、とにかく、この列車でなら誰にも会わずに遠くへ行けそうだった。「東京へいこう」そう声を出して言ってみると自分でもびっくりするくらいドキドキした。なのに駅が近付くにつれて、家を出たときは小走りだったのがだんだん足が重くなって、駅舎の灯りを見ると思わず足が止まってしまった。
オレなにやってんのかな、なんて少し気弱になりながらも重い足を引きずって駅に足を踏み入れる。あんまりお金ないし、もしかしたら補導されてしまうかもしれない。そんな不安要素が次々と頭に浮かんだ。でも、きっと本当に僕の気持ちを落ち込ませているのは、たぶんあまりに素直になれなくて子供じみた考えをしてしまう自分と、それを分かっているはずなのになぜか親の言うことがどうしても許せなくなってしまう、やっぱり自分自身だった。このまま家出しちゃうか中止にしちゃうか決められないまま、列車が来たらそのとき決めようって考えて無人駅の形だけの改札を抜けてプラットホームに出た。
「涼太くん…どうしたの?」
「うわっ!?」
左手から声がした。屋根が付いたプラットホームのベンチに人影が一つ、二つ、三つ。夏を前にして田んぼの虫が群がる古い外灯が人影を照らすけど、月と違って光が届く場所と届かない場所にはっきりとした輪郭を作り、上手く全体像が捉えられない。
「涼太くんでしょ?どうしたのこんな夜中に」
「川原…か?びっくりさせんなよ、おまえこそなにしてんだよ?ま
さか…」
家出か?と言いかけて口をつぐんだ。深い闇にやっと目が慣れてきて二人の人影が見えてきた。川原の両親。川原と幼馴染みの僕は、小さい頃から家にもよく遊びにいっていた。近所の友達と何人かでイチゴ狩りに連れていってもらったこともある。がっしりした体で明るい父親と、対照的にすらっとした細身で清楚な母親。でも今日は二人とも、いや、いつも明るいはずの川原も含め三人とも暗い雰囲気に包まれている。ベンチの周りには不自然なくらいたくさんの荷物が紙袋に入れられて置かれてある。どう考えても家出じゃないし、この空気は、もっともっと重い。
「おまえ、どっか、引っ越すんか?」
川原は今度はうつむいたまま答えない。こんな川原は初めて見た気がする。なんかすごく痛そうで、こっちも心が痛くなる。なのに聞かずにはいられない。
「みんな知ってんのかよ?なんでオレには言わね−んだよ!」
「ごめん」
そういってうつむく川原に代わって、おじさんが言った。
「涼太くん、ごめんな。恵にはオレが言うなって頼んだんだ。誰にも言うなって。引っ越さなきゃならないのは全部オレのせいなんだ。恵を責めないでくれ」
そういえば川原のおじさんが誰かの保証人になったせいで大変なことになっている、という噂話を商店街で小耳にした。でも、だからって…。
「噂で聞いたことあるだろ?分かってくれるよな、涼太くん。だから、ここで見たことは秘密にして欲しいんだ、誰にも」
「でも…」
「ねえ、お願い。私たち家族のために、ね」
おばちゃんがそう言ってあんまり入ってなさそうな薄い財布から千円札を三枚抜き取って差し出してきた。僕はその手を弾いた。三枚のうち一枚だけ落ちた千円札をおばさんが屈んで拾った。
「だから、そうじゃなくて…」
言葉が続かない。拳を握りしめる。ちくしょー、なんでだよ。泣きそうになるのをじっと堪えて下を向いた。
「ごめんなさい」
おばちゃんがそう言いながらお金を財布に戻した。
「川原、おまえ、いいのかよ?」
搾り出した声はとても自分の声とは思えない。
「うん。ちょっと寂しいけど、行くわ。つぎ行くとこもいいとこみたいだし」
わざとらしいくらい明るい川原の声は少し震えていた。でも泣いてはいなかった。凛としてそう言う川原の姿に悔しさと羨ましさを感じた。そして僕はずっと一緒に過ごしてきた友達が一人、いなくなってしまうことを受け入れた。
「手紙、書けよな。ダメだったら住所書かないでいいから」
「うん、ありがとう」
僕は静かにゆっくりと大きく息を吸った。それからやっと顔を上げて言った。
「おじさん、心配せんでいいよ。誰にも言わんから」
そういって振り向き三人を背にした。駆け出そうとしたとき川原の声に呼び止められ一度だけ振り向いた。
「涼太くんは、なんでここに?」
「んっ?散歩よ、散歩。オレも夜中に散歩くらいしてもええやろ。でも、もう眠くなったから帰る」
「うん…」
「じゃ…行くな」
「涼太くん、ありがとう。元気でね」
そのあと何か言いかけた気がしたが、川原はただ微笑んで小さく手を振っていた。僕も何も聞き返さず「お前も元気でな」と言いながら月明かりの降る町中に駆け出した。
そのあと僕はあんまり親と喧嘩することはなくなった。あの夜の話は誰にもしていない。川原からはときどき手紙が来たけど、やっぱり住所は書いてなくて少し寂しくなった。でも、きっといつかは全てが上手くいって住所の入った手紙が来るだろう。
ただ、あれから僕は夜中たまに部屋を抜け出し、駅に列車を見に行くようになった。あの日からなのか、本当はもっと前からだったのか分からないけど、いまでも川原のことが気になる。最近は来年の受験に追われて夜更かしをすることも多くなった。高校受験とはいえ自分で自分の道を選ばなければいけない時間が迫っている。
一年前のあの日と同じように窓を開け、屋根をつたい、比較的低いところから柔らかく飛び下りる。慣れたものだ。親の寝室に小さな灯りがついていた気がしたけど見返したときにはもう消えていた。直接に光の当たらない闇にまで侵食する月明かりの中を駅まで走る。そして外灯が照らすプラットホームから僕は何をするともなくただ線路を眺める。川原からの手紙にはいくつかの辛い状況も書いてはあったけど必ず最後には「わたしは元気です」と書いてあった。僕には川原に伝えたいことがいくつもある。この線路の先のどこかに川原はいるのだろうか?列車が来て生暖かい風を起こし、しばらく停車してから去っていく。僕は駅の構内に隠れていて列車が走り出すと自分の思いをのせるように去っていく列車をいつまでも目で追った。