第10回3000字小説バトル
Entry17

ウミウシ

 訓子が目を覚ますと、また島は下流にながされているようだった。少しだけ、向こう岸の景色がちがうのだ。川幅も広くなっているような気がする。まもなく海なのかも知れない、と訓子は思った。
 天気がいいので洗濯物を干した。潮風のきつさも今ではもう慣れてしまった。ややべっとりとした衣服も、むしろ自分の肌には何か潤いのようなものを与えてくれる気がして、訓子はときおりその面を指先で弄んだ。カモメが頭上をにぎやかに舞った
「今日は来るよ」
 笑うように、カモメは言った。訓子ははるか頭上をぐるぐる旋回するカモメをじっと見上げた。
「そう?」
「うん、きっとね」
 カモメは一声大きく鳴くと、どこかへ飛び去っていった。訓子は微笑んでそれを見送った。
 部屋にもどり、小さな鏡台の前に座った。目の下に、うっすらとだが隈があるように見えた。寝不足だったのかも知れない。そういえば昨夜は、波のとどろきがやけに耳についてなかなか眠りに落ちることができなかった。こわい夢を見るような気がして落ち着かなかったのだ。
 あかるいときはこんなに清々しい気持になれるのに、暗闇に一人でいるのはやはり不安だった。
 訓子は唇にうすく紅をひいて笑みをつくった。そうすると、急に表情が華やいで見えた。満足して鏡の中の自分に微笑を向ける。ゆっくりと、立ち上がった。
 潮風に吹かれながら島の端に歩いた。日はずんずん高く昇り、訓子の頭上を激しく照らした。ときおり額に手をやって川面を見渡す。しかしまだ、何ものも見えてはこなかった。
 小さなため息をもらして、訓子は島の端に腰をおろした。
 カモメの鳴き声が遠くから微かに聞こえてきた。訓子はそちらの方向へぼんやりと視線を漂わせた。カモメの鳴き声は、少しずつこちらへ近づいてくる。訓子は唇の端をわずかに歪めた。
 まもなく数羽のカモメを従えた船の姿が見えた。訓子は立ち上がると、目を細めてそれがこちらへ近づくのを見守った。
「今日はいいアサリがありますよ」
 男は船から島に降りると訓子に笑いかけた。「大粒のイキのいいのがたくさん」
 訓子は男が差出したバケツを覗きこんだ。ぴたりと閉じた貝のあいだから黒い二つのつぶがにょきにょき飛び出ているアサリがひしめいていた。
「これから味噌汁なんか、いいですよ」
「食べていってくれるの?」
 男は答えずに、にやにや笑った。
「他には?」
「うん、今日はこれだけ。あと、これ、ウミウシ、と」
 訓子はそのバケツの中を覗いた。ぬおっとした固まりがうねうねとうごめいていた。
「よかったら、あげますよ」と、男が言った。「一人で寂しいんだったら」
「ありがとう」と、訓子は答えた。「かわいいわね」
 男は笑うと、訓子の手をとった。訓子は彼の手を引いて、自分の家へと歩き出した。
 家へもどると、訓子はたくさんのアサリを塩水にしばらくつけてからざばざばと洗った。大きな鍋にたっぷりの湯をわかす。男はいつもたくさん食べた。この前はマグロを一匹ほとんど食べた。訓子がちょっとつまんだのを除いて。それでもまだ足りなさそうに不満のため息をもらしていた。仕方ないので庭で育てているキュウリを出すと、それをまるごとぼりぼり食べた。
 今日もきっとアサリだけじゃ足りないだろう。
 訓子は大鍋いっぱいにアサリの味噌汁をつくりながら、男に食べてもらえるものを考えた。キュウリは小さいのがいくつか残っているだけだった。ワサビがあったが、ワサビまるごとを男が喜んで食べるかは訓子にもちょっとわからなかった。もっといろいろつくっておけばよかった。しかし、男はしじゅうやってくるわけではなかったし、訓子はあまりものを食べない生活をしていた。
「いい匂いですね」
 男がバケツを手に訓子のそばにやってきた。「お腹が減ってきたな」
 訓子は男に体を寄せながら、大鍋に山盛りの味噌を溶いた。男は訓子の肩に手をまわした。バケツの中でちゃぷん、と音がした。
 たくさんのアサリの味噌汁を、男はやはりあっという間に平らげた。すぷりすぷりと貝殻からアサリの身を唇ではがして吸い込みながら、うまそうににこにこと笑って食べ続けた。訓子はそのようすを見守りながら、ほんの2、3個のアサリとわずかな味噌汁をすすった。バケツから、ちゃぷん、と音がした。
「ねえ、足りないんでしょう」
 訓子は頭をのけぞらせて碗をすすっている男に言った。「でも、食べてもらえるものがなくって」
「ううん」
 男はあわてたようすで首を振った。「最近はもう、そんなに食べないんだ。食べようったって調達できないのもあるけど。それに慣れちゃったのかな」
 男は碗の中をひとなめすると、ごちそうさま、と言って横になった。
「ちょっと寝てもいい?」
「どうぞ」
「おいでよ」
 訓子は笑うと男の隣に並んで横たわった。
 男の首筋のあたりに鼻をあたまをつけて目を閉じる。塩辛い汗の匂いがするどく鼻孔を刺激した。訓子は男の鎖骨に自分のほおをむりむりとこすりつけた。男はそれでもよほど眠かったのか、すぐに静かな寝息を立て始めた。
 バケツの方から、ちゃぷん、と音がした。
 訓子はうねうねとうごめいているウミウシの体を頭に思い描いた。ちゃぷん、と、はねているのだろうか、息でもしてるのだろうか。ウミウシは何を食べるのだろう。自分と一緒に暮してくれるのだろうか。ちゃぷん、ちゃぷん。

 ちゃぷん。

 ヨーデルの歌声で訓子は目が覚めた。隣にいたはずの男の姿は見えなかった。訓子はあわてて立ち上がると家を出た。
 庭先に男は立っていた。訓子はほっとして男の背中に触れた。
「ずいぶん派手だね」
 男は訓子を振り向くと、向こう岸を指差した。そこではスイスの民俗衣裳に身をつつんだ一団が、こちらに向かってヨーデルを高らかな声で歌っていた。
「ヨーグルト売りなの」
 訓子は男を見上げて言った。「ときどき、山の方から下りてくるみたいなの」
 ヨーデルの一団は晴れやかな表情で手を振りながら、籠を掲げてみせた。ヨーグルトがたくさん入った籠。
「買ったことはあるの?」
「ううん」
 訓子は首を振った。「だって、向こう岸にはあたしは行けないから」
「そうか」
 男の足下のバケツから、ちゃぷんちゃぷん、と音がした。おもわず訓子はバケツを見下ろす。ウミウシがくねくねとせわしなく体をうごかしていた。
「こいつが騒いだんだよ」と、男が笑いながら言った。「あの歌が聞こえてきたら。だから連れてきたんだ」
 ウミウシはヨーデルのリズムに合わせて華麗に踊っていた。ヨオレリヨオレリレエリレリホオウ。
 訓子はしゃがみこんでウミウシの踊りをじっと眺めた。レエリレリホオウ。
「ヨーグルト買ってきてもいいかな」
 男はにやにや笑いながら訓子を見下ろした。「食べたことないけど。なんだかおいしそうだから」
「あたしの分も買ってくれる?」
「もちろん」
 男は大きくうなずいた。「きっともうすぐここも海に出るよ。そしたらもう、あんなの食べられないかも知れない」
 そう言うと、男はバケツを手に持った。「これを代金にします」
 訓子は弱々しく微笑むと、うなずいた。
「また今度、かわいいのを連れてくる。だから」
 男は訓子の耳にキスをすると、船のある場所へと歩いていった。ヨーデルの一団は訓子に向かって激しく手を振った。訓子も笑って彼らにたくさん手を振った。ちゃぷん、と、男がぶらさげたバケツから、大きな音が聞こえた。