第10回3000字小説バトル
Entry19

遠い海から来た人

彼は、「遠い海からやってきた人」だった。
 静かな物腰と、白い肌に纏わりつくような赤い髪が何よりも彼のことを物語っていた。「遠い海からやってくる人」は、私たちには何の害もない。ただ彼らのその赤い髪や、白い素肌を見ていると何かしらやましい気持ちになるのだ。
ある者は言う。「彼らは神なんだよ」
ある者は言う。「彼らは魔性のものさ」
どちらも本当かもしれないし、違うかもしれない。
「遠い海からやってきた人」に聞いても、彼らは笑うだけで返事を返さなかった。
 もう一つ、彼らの特徴がある。彼らの目は、一度も開かれることがなかった。盲目なのだ。その真の目を見たものは、彼らのとりことなってしまうという噂さえ流れている。眉目秀麗な彼らの目が閉じられているというのは、何かしら禁断の香りを漂わせていた。完全なものの欠陥。その欠陥さゆえに、彼らはさらに完全体であった。
 私が彼とであったのは、ある冬の日の浜辺であった。どんよりとした空に、灰色のにごった海水が押したり引いたりしていた。海かもめが時々悲しげな声を空に張り上げながら旋回していた。周りには冷たい空気だけがあり、私の他に誰も浜辺を歩こうなどという殊勝な人の面影はなかった。
 私はただぼんやりと砂浜を歩いていた。コートの襟を立て、自分のことを考えていた。この数年間、否が応でも会社の雑務に追われてきた日々。働くことが楽しかった日々もあるが、それはいつの頃からか惰性にとって変わった。そんな自分を客観的に見つめている自分が嫌で、ある日妻にも何も言わずに退職届を出した。
「いいんじゃないの。また新しい仕事を探せば。休息だと思ってしばらくゆっくりしてみれば。」
 思ったよりも妻は冷静に受け止めていた。小さな美容店で働く妻は、自分に技を身につけているせいなのか、金銭面の不安さえも口に出さず、私の言葉を素直に受け止めてくれた。
 何日もただぼんやりと家で日々を過ごし、家事をこなし、気が付いたら私はそうして冬の海を歩いていた。
 私が行く海岸には、岩場と砂浜が混在している。釣りにはいいが、海水浴には少し危険といえる場所である。しかしその分酔狂に遊びに来る人の数も少なく、空き缶や花火の跡などに汚染されずにきれいに自然のまま残されていた。
 そんな岩場に、ゆらゆらと浮かんだ赤いものを見たときにオカルティックな感傷を抱いたことはいたしかたなかったのかもしれない。
 海くらげのようにゆらゆらと揺れるものは、赤く長い男の髪だった。よくあるような茶色っぽかったり、金髪が交じり合うような赤毛ではなく、深紅の、血の色の髪だった。それは海水の満ち引きによって、ゆらゆらと揺れていた。
 私は恐る恐る近寄って岩場に引っかかっているものを見た。若い男だった。透けるような肌は、冷たい海水の中に沈み、白を通り越して青白くなっていた。そしてその両目はしっかりと閉じられていた。
 本来なら、すぐにでも近寄って助け起こさなければならなかったのだろう。だが、そのときに私が思ったことは「見なかったことにして立ち去りたい」だった。実際私の足はすくんで動かなかったのだ。
 そんな時に、男の口がかすかに動いた。いや、気がしただけなのかもしれない。しかしそれは瞬間的に私を縛っていた緊張の糸を切ることとなった。
 私は駆け寄ると、急いで若い男を引き上げにかかった。男は身体に何も身につけてはいず、ぐったりとしていた。私は同姓の裸体に思わず目をそらした。ただその唇が鮮烈な赤い色をしていたことだけが印象に残った。「冬の海」「深紅の髪」それよりなぜこの男は冬の海に浸かっているのだろう。「遠い海から来た人」という言葉がやっと私の頭に浮かんだ。今まで気付かなかった方がおかしいのだ。
 私は男をコートでくるむと、そっと血の気を失せた頬を叩いた。わずかな反応があった。男の身体は冷え切っていたが、致命的というほどではなかったようだ。私はホッとすると同時に、関わってしまったことを同じに悔いてもいた。
 男はそっと手を伸ばして私の手を握ると、「ありがとう」と一言いった。私はうなずいたが、後で男は目が見えないことに気付いた。
 私はとりあえず男を支えると、今はもう誰もいない「夏の店」へ向かった。夏の海水浴客のためのちょっとした店だった。夏にはラムネやパラソルが並び、色鮮やかになるのだが冬の今は、灰色にくすんでそこにあった。商品が何もないからなのだろうか、木の戸をそっと押してみると意外に簡単に戸は開いた。
 中は板ではなく、床が土のつくりになっている。誰か花火でもしたのか、何かの燃え屑が残っていた。私はポケットに入っていたライターでそれらに火をつけると、男に身体を温めるように言った。
 私はそのまま小屋を出て、何か燃えるものを探しに歩いた。岩場に生える木の枝を何本か折って持ち帰っては、小さなキャンプファイヤーにくべた。男は眠っているのか、起きているのかわからなかった。じっとして、ただ静かに状況をあるがままに受け止めていた。
 見かけが派手なだけに、それは何かしら荘厳で、そして同時に邪悪な感じがした。ただ男の周りには見えない何かがあった。気配が違った、色が違った、感じる空気が違った。私はそれに飲み込まれそうな気がして、少しはなれたところに座って、男が身動きをするのを待った。
 その間私は男を十分観察することができた。相手には自分が見えないということの優越感が私を大胆にしていた。会社ではどんな時も人の顔をじっくりと観察することなどなかった。そんな私が、彼のことをくまなく見ていた。その髪も、すっと整った鼻梁も、閉じられた瞳も、コートから出た白い肌も、見た。
 ふと気付くと、男は私の傍らににじり寄って来ていた。私は少し後ずさりした。してはいけないことをしてしまった小さな子供のように私は自分のことを恥じた。男は私の向かいに居直ると、
「私には見えません、あなたがどんな顔をしているのかも、背が低いのか、高いのかさえも」
 といった。
「少し触ってもいいですか?」
 私は恐れに、思わず身を引いたが、彼にはわからないようだった。私の良心が痛んだ。そして思わず返事をしていた。
 男はまず私の両頬をその冷たい白い手で包んだ。そして、私の髪を優しくなで、鼻梁を指先でたどり、唇に優しく触れた。私の閉じられた瞼をそっとなぞり、その手はしだいに肩の方へと下りていった。しばらく男は私に触れていた。私はまるで時が止まっているかに感じた。男の指先が私から離れた時、私は思わず男を突き飛ばしたい衝動に駆られた。しかし逆に男は、初めて男と肉体関係を持った処女のように頬を紅色に染めていた。男は興奮していた。
「意外と思ったよりは若かったのですね。背も高そうだ。こちらに来てから初めてできた友達があなたです。」
 男はそう言うと、長い赤い髪を後ろに掻き揚げた。静かな表情にわずかに歓喜の笑みが浮かんだ。なのに相変わらずその両目は静かに閉じられている。
 いきなりどっと疲れが来た。私はそっと小屋から這い出ると、後ろを振り返らずに冬の浜辺を歩き去った。まるで何事もなかったかのように、灰色の海は打ち寄せ、海かもめは悲しげな声を冷たい空気に響かせていた。