第10回3000字小説バトル
Entry23

恋が溶けていく

 家族の縁が薄いという身の上は、男に憧れる女たちにとって一種のブランドだった。物語の主人公のようにヒロイックな男の孤独を、女たちは宝石のごとく手にとって愛でた。男は天涯孤独でなく、男の甘えをつぶし続けた父を憎むというシナリオを書き、新品のバイクのように磨き上げていた。
 男は毎週のように軽々と相手の女を取り替えることができた。でも男を不遜だと言う者はおらず、ドラマはいつまでも続くと誰もが思っていた。男が共演相手の女に事欠くようになると、うまい具合に彼のもとへ転勤辞令が舞い込んだ。
女たちの憧れる物語の中で、男は一瞬の頂上を目指してもくもくと同じペースで動き続けた。
 物語の中で”取替えの利く女”という役回りだった女は、舞台を降りたことで修復困難なほど傷ついたが、一番ひどく傷ついたのは、物語に閉じ込められた男の方に違いない。
 女たちが憧れたのは男自身ではなく物語の方だったのに、男は降りることを許されなかった。もちろん無理にでも飛び降りなかった男にも責任はある。けれど、もとの物語を作ったのは男自身で、いつでも自由に降りられるはずだった。降りるのが危険なほど物語を加速させてしまったのは、女たちの憧れのせいだ。

「彼は気に入った女の子をマークUの助手席に乗せてエル・アールの曲を聴かせたの」
 かつて”取替えの利く女”だった彼女は、醜く変形した自分の心の傷について語った。
エル・アールが一瞬の頂点を過ぎてから4年が経っていた。それがどんな音楽だったかも僕は忘れ去っていた。
「本当にあったことだけれど、ドラマみたいにわかりやすい話だから、この話は自分の状態を知るためにいい指標になるのよ」彼女は言った。
夏の午後8時、車の座席を倒し、僕は彼女の下腹部に触れるタイミングを探った。
「指標って何さ?」僕は聞き返した。
 アルコールが少し入って、僕は彼女の身体が放つ汗の匂いに興奮させられていた。さあ性的興奮に浸ろうと身構えた僕のこめかみに彼女の発した硬質な言葉がぶつかり、僕は少し不機嫌になった。
「この話を思い出すときには、自分がどこに立って物語を眺めているか分かるの」彼女は外側に立って物語を見下ろしているところだと言った。
 僕がもし彼女に恋していれば、彼女の物語を一緒に眺め、美しいと思ったかもしれない。でも僕らは恋人同士でなく、同僚たちに仕組まれて彼女を家に送る途中だった。
更に僕は恋することを極端に嫌っていた。僕の傷は彼女よりもっと古く、彼女にとっての孤独な男は僕にとっての祖母の死と同じ意味を持っていた。
僕には、どちらの傷が大きいとか深いとかいうことは大した問題ではなかった。問題は、彼女も僕もそしてこの世に生きるあらゆる人も、同じように傷と物語を抱えていて、誰も彼女を慰めてあげられる立場にいないことだった。
 それで僕は、もうこの世にいない人の話を彼女に聞かせた。

 祖母は、僕が12歳の年に亡くなり、僕は5年ぶりに母に連れられ祖母の家へ帰った。母は祖母の家を構成する暗さを嫌いあまり寄り付かなかった。湿気た土間の空気、這うゴキブリが見えないほど黒光りする天井、仏壇の隅の暗闇、外付けの便所など、自分の育った家なのにすべてを嫌っていた。でも僕にとって祖母の家の暗さは、恐ろしいけれど冒険の要素を含んだ好ましいものに映った。
 人の死の重みを理解できない僕にとって祖母の死は、別世界にあるはずの冒険の終わりを意味していた。
田舎ではあたりまえの垣根のない庭が珍しく、知らずに他家のビワをほおばった、7歳の頃ような夏休みを迎えることはもうできないと思った。
 祖母の葬儀の間中、僕はうす甘いビワの味を思い返していた。

「幸せな記憶の終わりが、どうして心の傷になるの?」彼女は僕に質問を投げかけた。まだ話の途中だった。

 僕が別れの持つ2種類の悲しみを実感したのは、祖母が死んだ半年後のことだった。
 そのころ仲の良い友達の間で小さな別れがあった。一戸建ての家を建てた関係で、隣町の学校に転校するという程度の小さな別れだった。永遠に逢えないわけではなかった。
けれど僕はちっぽけな別れが辛くて、冬休みが終われば転校する友達を避けるようになった。僕は友達をわざと無視したわけではなかったが、目を合わせることがどうしようもなく重たかった。
避け続けるうちにその友達も、僕の姿を見かけると慌てて視線を反らした。友達が転校する日まで、僕は一度も友達を直視することができなかった。
 友達と別れること自体の悲しみは、続く日常に紛れすぐに消え去った。そのあと僕を襲ったのは、友達がいなくなる前にもあとにも同じような日々が続くことへの悲観だった。友達の存在に意味があったのだろうかと考えることは、そのまま僕の存在価値への疑いにつながった。僕がこの世に存在する理由は探しても見つからなかった。
 祖母の死の悲しみが僕を脅かすことはなく、祖母が死んだ事実は人の存在価値を疑うきっかけになっただけだった。僕は別れを経験するたびに、直下型の悲しみよりも、自分がいつか悲しみになじんでしまうという悲観に大きく揺さぶられ、人と出会うこと自体を恐れ、避け始めた。そうして僕は恋をしなくなった。
 
「あなたの物語は12歳で止まるのね」あとに続く物語を探すように、彼女は僕の目を覗き込んだ。
「13歳だったんだ、秋に誕生日が来て」このあとに続く物語はもう存在しなかったから、僕は車のシートに寝転んで目を閉じ、もう話が終わってしまったと態度で示した。
「悲しいのは、」彼女のやわらかな声は、朝の白い光のように僕の閉じたまぶたを透かして入り込んできた。「深い傷は他人に話してもすり減らないことなの、もし傷が減らなくてもいいのなら、私に話してみて」
彼女はもう存在しない僕の物語に向かって語りかけた。何もないところに語る彼女の姿は悲しく見えた。
 似た傷を抱えていても、見出す結果はそれぞれ違った。
内側と外側にそれなりの美しさを備えていても、僕にとって彼女は、恋の対象というより性の対象にしか見えない種類の人だった。
彼女を好きになれないのは残念だけれど、僕は無理をしたくなかった。
 僕が思う恋とは、相手の仕草や話す言葉など小さな物事から順番に惹かれるもので、相手の不幸な影とか幸せになる予感とかいきなり状況に酔うのは恋ではないと僕は思った。
僕が恋をすることは、彼女が引きずり続けている物語を否定することと同じだった。
 僕は彼女に恋をしていないけれど、彼女の身体に触れたいと強く望んだ。僕の手が彼女の下腹部に触れ、やわらかなお腹の上を伝ってゆっくり胸の方へ動いても、彼女は僕を拒まなかった。
彼女もきっと僕を好いてはいないだろう。
前へ進むためにちょっと何かにつかまってみた。僕を抱く彼女の腕からはそんな感じが伝わってきた。
 僕が恋を始めるタイミングにも、まだ少し早いようだった。僕は彼女の汗の匂いに神経を集中させて、彼女の物語に登場した男のようにもくもくと同じ動きを続けた。彼女は僕の下で、かつて物語の主人公であった男のものらしい名前を呼んだ。悲しそうな呼び方だった。僕は少しだけ彼女のことを愛しいと感じた。でもそういう愛しさは、短い時間で粉砂糖のように溶けて消えてしまうと思った。
 僕は彼女の憧れる物語のような恋をしない。自分でも頑固だと思うけれど、僕が彼女を愛することはない。