まわりは白で溢れていた。ボクは、その白い光景をなんとなく眺
めていた。思考は緩慢で、同じことの繰り返し。苦痛が心地よくさ
え感じ始めていたのだから、重傷だ。
しかし自覚はない。ただ、ぼんやりと昔のことを思う──。
小学生のころのボクは、母の作るお弁当が好きで、遠足が楽しみ
だった。容器の中で熟成したおかずが、何とも云えず好きだった。
冷たいのにうまい。
お弁当とは、きっと冷えたくらいがちょうど食べ頃なのだろう。
ただ、ひとつだけ困ったのが、リンゴである。
母は、遠足だというのに紅いリンゴを丸ごと持たせた。いつも、
お弁当に鳥の唐揚げが入っていたのと同じように、リンゴも必ず、
付いてきた。嫌いではない。だが、お弁当のリンゴといえば、やは
りウサギだろう。ウサギの形に切られたリンゴ。
漠然とした憧れである。
でも、母にお願いはしなかった。母の、軽くなった弁当箱を差し
出したときの笑顔が、優しくて、
「ちゃんと残さず食べたかい?」
そう言う母に、ボクは笑顔で答えた。
「全部、食べたよ」
その場面が繰り返し、ボクの脳裏で展開した。
──早朝。
リビング・ダイニングで朝食をとっていると、父がぼさぼさ頭を
かきながら、新聞片手に入ってきた。
「ん〜、いい匂いだ。っってオイ。また大根のみそ汁か?」
ボクが啜っているものを見て、父は叫んだ。
「そうだけど、なに?」
「いやだってもう……1週間くらい続けて大根じゃなかったか?」
父が首をひねりながら席に着くと、
「はいどうぞ」
母がお盆にのせたみそ汁、焼魚、ご飯を父の前に置いた。
「オイ、かあさん! どうなってんだ? いつまで大根なんだ!」
父がつっかかると、母はニッコリ微笑んで、
「わたしは、大根派なの」
と言った。父は、頭を突き出して、声をうわずらせた。
「──は? な、なんだ、みそ汁になになに派とかあんのか?」
「ええ、ありますよ」
母はそう言ってボクを見た。ボクは、焼魚をつつきながら、
「ボクも大根派だね」
と言った。母がくすりと笑う。
「なんだよ、それじゃあ、俺は、えーと、そうだな──」
「はやく食べてくださいな、冷めてしまいますよ」
「んあ、ああ……」
父はしばらく自分が何派なのか考えていたようだったが、
「ま、いいか」
新聞片手に食事を始めた。ボクは食事を終えて、鞄を持った。
「いってきまーす」
母はあらいものを片づけながら、
「いってらっしゃい。傘もって行きなさいよ」
溌剌とした声で言うと、
「んん?」
母の声に混じって、新聞のテレビ欄を見ていた父が、
「発掘あるある大辞典……アサリ?」
怪訝そうな声を出した。
「オイ、かあさん、まさか明日から1週間、アサリのみそ汁なんて
こと……」
不安そうな父の声を背後に、ボクは外に出た。
くもり空。まだ雨は降っていない。風が強いようだ。学校まで自
転車で20分。雨が降ってくる前に着きたかった。風が強くて雨降
りでは、そのままUターンしてしまいたくなる。道に起伏があり、
普段でさえたいへんなのだ。
しかし、中程まで進んだところで、突然大粒の雨がふりだした。
ボクは急いで傘を開くと、横風であまり意味はなかったが、自転
車をこいだ。道は長い下り坂にさしかかり、ボクは弱いブレーキを
かけながら、坂を下った。
交通量は少ない。通勤者は多かったが、ここら一帯の住人は、バ
スをよく利用しているようだ。歩道と車道は、白線で区切られてい
る。すぐ隣を走るバスが、もうもうと排気をまき散らして走り去っ
た。
背負ったカバンに雨の滴が垂れて、ポタポタと音を出す。どうし
ても前に傘を傾けるので、うしろまではカバーしきれない。
下り坂の終わりに、十字路があり、ボクはブレーキを強めて止ま
ろうとした。
「ピーン」
と弾ける音がして、ボクの鼻先を何かがかすめた。右手にブレー
キの抵抗がない。右のブレーキワイヤーが切れた。ボクはわずかに
ハンドルをぐらぐらさせて、直進してしまった。とっさに何からし
ていいのかがわからなかった。
傘をほうって左手を使う? 足を使って摩擦力で止める? その
場で転ぶ?
それらのことを頭の中でごちゃごちゃ考えていたのは、ホンの一
瞬だったのだろう。おそらく1秒か2秒か。しかし、その迷いのな
かで、ボクは十字路につっこんだ。傘に隠れて視界はほとんどなか
った。
しぶきをあげる車の音だけで、状況を察した。
すべては運なのだろうか?
偶然と必然の違いはなんなのだろう?
ボクは足を地面にこすらせてずるずると前進した。路面が滑り、
摩擦力は軽減していた。
──嗚呼。
数秒後、ボクは十字路を越して、フラットになった道路でピタリ
と止まっていた。ふと、車の迫る音がしていたのを思い出す。真横
でそれを聞いてもうだめだ、そう諦観していたのに、今、その音は
ない。雨がボクの顔面をぬらした。
──あの音は?
車の水しぶきをあげて走る音は、静かな雨音に変わっていた。四
肢がしびれて動かない。自分で動かせる部位は顔だけだった。
ボクの身体は今、どうなっているのだろう?
しばらくして、誰かがボクの顔を覗き込んだ。苦悶にゆがんだ顔
がすうっと視界から消え、足音が遠ざかる。
希望というのか、ほんの少し、ほっとした。事態の認識はできた、
しかし今、ボクは声すら上げることができなかった。たのみは、通
行人しかいない。いや、しかし……ボクをはねた車の主は、いった
いどうしたというのだ?
今の男がそうなのだろうか? そうだろう。 そうに違いない。
だが、ボクを見て、なぜ話しかけてくれない?
ボクは薄れゆく意識の中で、がやがやした喧騒と、アスファルト
の濡れた匂いに抱かれて、生まれたての赤子のように小さく縮こま
る自分の姿を俯瞰した。
まわりは影。自分にだけ、スポットライトがあたる。悲劇の主人
公のような一場面。
今、ボクの身体は、どうなっているのだろう?
気がつくと、白い壁に挟まれた通路を、疾走していた。自力では
ない。ボクは依然、身体をうごかすことはできなかった。それでも
わずかだが、頭を動かせるようになっていた。頭を左右に向けると、
つるりとした白壁が、縦にスクロールしていていた。ボクはどうや
らストレッチャーに乗っているらしい。そういえば、看護婦がボク
のすぐ横にいる。まわりは白で溢れていた。
その光景をぼんやりと眺めながら、母のことを想う。母の笑顔が、
すぐ目の前にあるようだった。
やがて、ボクは手術室へと入り、マスクをした無機質的なヒトに
囲まれて、漠然とオペの始まりを待った。
すうっと、魂が抜けるように、ボクの思考が遠ざかった。
麻酔だろうか? それとも……。
ボクは必死に意識をこの場に留めようとした。今、離してしまう
のが怖かったのだ。言葉にならない言葉で、何度も何度も母を呼び、
助けを求めた。
なぜ、母なのか? わからない。ただ、真っ黒に腐敗した思考の
中で唯一残った存在は、母だった。他には何もない。
かあさん、ボクを助けて。
しかしボクは、目を閉じてしまった。
もう、あけることができない。意識はまどろみの海へと沈み込む。
抜け出せぬ深淵。黒い世界が、ボクににじり寄る。嗚呼。
ボクはもういない。ボクはきっと焼かれてしまう。焼かれて灰に。
そして壺の中に。
それでもボクは、母の笑みを忘れない。 了