「まさかそんなことが…」
厚生労働省が叫んだが、思いはみな同じだった。
「何か具体的な証拠でもあるのですか」
「今の所お話したことが事実としてあるだけです。原因や因果関係
をひとつひとつ証明するとなると、まだかなり時間がかかります」
報告に当った老教授はことさら事実という言葉を強調して答えた。
「もうすでに二十年近くたっている。今さら原因がわからないので
何もできないといういい方では済まされないということを、十分に
ご理解いただきたい」
委員会を開催した官房長官が釘を刺した。
「今流通している物には、問題があるのですか、ないのですか」
経済産業省の次官が眼鏡を拭きながら詰問するようにいった。
「それも今後の結果次第でどうなるとは申し上げられません。今は
流通している物に関連付けられるデータが無いということです」
「ならば、経済産業省として出来ることはありませんな」
「しかし、住民訴訟が起こった場合、監督省庁として経済産業省の
責任が問われることは間違いありません。」
「そんなことは、いわれなくたってわかってるよ。」
法務省に指摘され、経済産業省が憮然としていった。
「だがこれは国民の健康問題だろう。なんで厚生労働省が黙ってい
るんだ」
「いや、こ、このケースは伝染病や食中毒とは違いまして…」
上司の代理で出席した厚生労働省の若造は最初から他の省庁には
押され気味だった。
「エイズの時は危険をわかっていて見過ごしたんだろう。この話と
どう違うんだ」
「で、ですから、今回はさらに発症との因果関係が薄く、だれにも
原因と結果を結び付けられないということで…」
「過去の公害訴訟と同じように、もっと患者が出て逃げられなくな
るまで待てというのか」
「でも、しかし、それじゃ、役所は動けないんです」
「あんた、誰に向かって言っているのかわかっているんだろうね」
経済産業省は、残酷な笑みを浮かべていった。自分と同じスケー
プゴートを作ってまずは安心したらしい。
「電波管理は郵政の仕事だろう」
総務省の代表がぎくりとしたのがわかった。
「たしかに高周波数帯を開放したのは旧郵政省の仕事ですが、電波
管理行政が郵政省の管轄として、健康問題まで含むというのは如何
なものか。もちろん人の健康に害があってはならないのですが、あ
くまで通信の一環として電波管理行政はある訳で、そのために健康
のモニターが必要ならば、前回もその辺の所で厚生省に諮問が出て
いる訳でして…」
「し、しかし、今日の話では特定できないながらも電波が原因とい
うことなんでしょう。電波が人の健康に影響することが前提なら、
郵政さんだって逃げられないでしょう」
「そうだよ。どうせ民間に移管されるんだから、過去の事実は事実
として郵政さんで始末したらどうだい。どうせ最後は金の話だろう。
郵政さんなら資金に困ることもない」
経済産業省も後押しをする。総務省は青くなった。
「そんなこと勝手に決めないで下さい。民営化の話だってこれから
だ。まだ決まった訳ではないんです…」
そもそもの事の起こりは、頻発する青少年の激情犯罪にあった。
普通の、いわゆる不良グループとは違い、『すぐにマジ切れする』
若年犯罪者層には、一定の心理的傾向が見られた。首相の諮問機関
からその調査を命ぜられ、今回の報告をまとめたのが精神医学と社
会心理学の権威者で構成された老教授のグループであった。
報告がユニークである所は、電子工学にまで踏み込んで電波が人
間の思考に与える影響を遺伝学的に捉えた点にある。それは最近の
心理学が遺伝的記憶を大幅に認めたことにも関連していた。いわゆ
るマジ切れ犯罪者の多くは1980年代初期に生まれている。これが郵
政省の携帯電話への高周波数帯解放と時を同じくしていた。
「まず携帯電話の第一世代がアナログで高出力であったことを思い
していただきたい。それまでは車載通信機程度の物しか普及してい
なかった所に携帯電話が一挙になだれ込みました。当時の胎児はさ
ぞうるさかっただろうと思います」
「なぜ影響を受けた年齢層を80年代の前半出生の者に限るのか」
「それは、その後の携帯電話がデジタルに移行したためです。です
から、初期携帯に使われた電波を妊娠したネズミに当て続けた場合
のみ、生まれた仔ネズミの攻撃性がある環境下で異常にに高まると
いうデータになる訳です」
「しかし、実験はネズミで再現しただけだろう」
「例えば、送電線が周辺住民の健康に影響を与えるということは、
アメリカでは判例をふまえて公知の事実となっております。したが
って個体の実験としては、今回の実験が胎児にも影響しうるという
所だけで十分です。さらにこの図を見ていただきたい。人間の場合
でも80年代前半に生まれた犯人の出生地と問題の携帯電話の普及台
数を地域別にプロットすると、このような相関関係が見られます」
地図には携帯電話の普及台数が青い色の濃さで表わされ、犯人の
出生地が赤い点でプロットされていた。それは大阪から広島、山口
と続き福岡まで伸びている。
「このように瀬戸内海の沿岸地域で一致した理由は、初期携帯の使
用者がどのような層の人間であったかを考えるとわかります。高額
の移動電話をあえて使う必要にあった商売はなんでしょう」
「…ヤクザだ」
「そうです。当時この地域には、極めて重大なヤクザの抗争問題が
発生していました。ヤクザは出始めた携帯電話をさっそく取り入れ
て使いました…」
「問題は、そのような激情犯罪症候群となりうる人間の数です」
「私達の推定では、およそ四十万人です」
「四十万か。少ないな」
経済産業省がこともなげにいった。
「しかし、どうするんだ。今さら携帯電話を回収したって何にもな
らんし、人間を回収するわけにはいかんぞ」
「高周波帯を今から制限すれば、日本の通信インフラが根底から覆
ります。首相も大臣もそれを望んではおりません」
「電波の危険性を下手にリークしたら日本中がパニックになります」
さすがに対策案は簡単に出て来なかった。かなり長い間沈黙が流
れた後、文部科学省の技官がおずおずと手を挙げた。
「要は、特定の因子を持った人間が、特定の周波数帯に過敏に反応
するということで理解いたしました。もしこれが機械の話であるな
らば、電波を受ける側に周波数の変換装置をつけると簡単に解決し
ます」
「変換装置とは」
「いわゆるジャマーです。マイクロチップ一個で作れます。ただ、
問題はどうやってそれを人間に取り付けるかです」
農林水産省が手を上げた。
「チップの埋めこみでしたら海外に実績があります。もっともペッ
トや家畜の検疫用の話ですが」
「どうするんだ」
「薄い小さなフイルム状のチップなら、普通の注射器のようなもの
で皮下に挿入できます」
「気に入った。一番安く済みそうだ」
財務省が満足げにうなずく。
「し、しかし、国民に気づかれないようにそれを行うとなると…」
「それくらいは、厚生省で検討したまえ。風疹だろうが、BCGだろ
うが、予防注射は得意だろう」
「では、チップの手配は、経済産業省。実施は、農水省のデータを
もとに厚生労働省。資金は郵貯から政府が形を変えて借入し、金利
だけ財務省に追加予算をお願いするということで、官房長官、いか
がでしょうか?」
「…よし、それで行こう」
秘書官に揺り起こされて、官房長官が目をこすりながらいった。
かくして技術大国日本の優秀な官僚はITの重大局面を乗りきった。