第10回3000字小説バトル
Entry6

ここが感情のキレどころ

「原稿は、あがったか」
 編集統括部長から声をかけられて僕はイスから飛び上がって答え
た。
「い、いえ、まだです」
「『タコでもわかる感情論』にはウチの存亡がかかってるんだぞ」
 『タコでもわかる』シリーズは編集部のマニュアル本の主力シリ
ーズ。なかでも『タコでもわかる感情論』、通称『タコ感』は今期
の目玉商品だ。だから……
「著者のケツをバットで張り飛ばしてでも書かせろ」
 統括部長の怒鳴り声に圧倒されて、僕はよろよろ歩き出した。
 言われるまでもない。業界No1、1800万部突破、平積み強要の
イソプレスが『キレる』シリーズから感情系の解説書を出版する前
に、『タコ感』を発売しなければならない。
「いまや若者はマニュアル本を読まなければ正常な感情表現ができ
なァい。わがァ、編集部はァ、解説書を通じてェ、社会にィ、蔓延
するゥ、無感情をォ……」
 全共闘くずれの編集統括部長の理屈っぽい演説に背中をどやされ
て、僕は編集部から飛び出した。

「原稿なるべく早くあげてくださいよ」
 僕はプレッシャーをかけているつもりなのだけれど、このライタ
ーはちっともこたえていない。三無主義とか呼ばれている世代に属
するこのライターは、何を考えているのかさっぱりわからない。
 それにこの人、キレ方を解説する本を執筆しようというだけあっ
て、これまで36人も人を刺しているつわものだ。しかも、相手は
一人も死んでなくて、傷害罪で実刑を食らったのはそのうち6回だ
け。おまけに、その6回すべてに執行猶予がついている。
「ウチも株式会社リスキーのようにゲーム会社に吸収合併されちゃ
いますよ」
 僕が言っても、ライターはどこ吹く風で関係ない質問を返してく
る。
「で、ここなんだけど。『自分の彼女が別の男とキスをしていると
ころを見てしまったとき』ってところ。こんな時の感情も分からな
いのかな」
「わからないんですよ。今の10代は」
 たしかに、解説するまでもないと思えるような想定だ。でも10
代後半から20代前半の若者の心理をアンケート調査した結果、彼
女が別の男とキスしても「どう感じたらいいのかわからない」と答
える割合が圧倒的に多かった。
「だから、そんな時どういう風に感じたらいいかを解説してほしい
んです」
「じゃ、ここだけどさ、『教師や上司に叱られたとき』ってところ。
キレる場合とキレない場合に分けて説明するの?」
「キレる場合は、続編の『タコ感U キレる編』で説明しますから、
解説しなくていいです」
「なるほどね」
 ライターがキーボードに向かって原稿を書きはじめたのを見計ら
って、僕はライターの仕事場を出た。

 次の朝、出勤すると編集部の入り口に一枚の社長通達が貼り出さ
れていた。社長通達にはシフトバンクとの合併、さらに『タコ感』
はシフトバンク社の書籍と競合するため発売を中止する旨が記され
ていた。
 僕はとりあえず頭を整理しようとコーヒーを入れて席に座った。
でも、なにをどう整理すればいいのかさっぱりわからない。『タコ
感』のライターにどう説明しようか悩んでいると、くだんのライタ
ーが編集部に訪ねてきた。

「さすがだ」
 僕は編集部の床に寝転んだまま、感心していた。彼に刺された37
人目の人間になったのに、ほとんど出血していない。計算し尽くし
た刺し方だ。その瞬間を目撃した人がいても、僕が転んだだけにし
か見えなかっただろう。だから彼が受けた実刑は6回のままになる
だろう。彼はウチの編集部とキレてイソプレスの『キレるシリーズ』
を執筆するという。
 心を会社に刺され、体をライターに刺された編集者は、どう感じ
たらいいんだろう。
 刺された傷のあたりから、いまさら温かいものが広がり始めた。
今なら『刺される編』が書けるのに。薄れて行く視界の中で僕はや
っと本気で感じ始めた。