「もう開放してあげる。」
真美はそう言って、背を向けた。その背中をただ見詰めることしか
できない。冷静になったのは遠くからにゃおんの声が聞こえてきた
おかげだった。
にゃおんは真美が拾ってきた猫だ。今ごろ捨て猫なんているんだな
とそう驚いた俺に、真美は首を傾げて、迷い猫かもしれないと呟い
た。面倒だから、迷い猫にしろ、捨て猫にしろ、届けはださなかっ
た。にゃおんは毛並みの整った小奇麗な猫だったからもしかしたら
本当に飼い猫だったのかもしれない。真偽の程はわからず、結局数
ヶ月たってもにゃおんはまだ家にいる。
「何いってんだよ。」
俺は真美に声をかけた。しかしいつもならどんなに機嫌の悪いとき
でも俺の呼びかけには応える真美が今日は無視をする。俺の声など
聞こえないと、そう言いたげな素振りで。
「真美、開放とか・・・何言ってんだ。」
否定の言葉が我ながら白々しかった。わかっている。真美を追い詰めた
のは俺だと。
それでもそれを認めるのは勇気がいった。自分の意地のために真美
を手放そうとする臆病者だと自分で認めたくはなかったのだ。
「訳のわからないこと言ってないで、部屋に入れよ。」
立ちふさがっていた、ドアの前から体をどけ、廊下に立ちすくむ真
美の背に視線を投げかけたまま暗い空間を指で差した。昨日まで、
二人で暮らしていた空間、そしてこれからもずっと暮らしていける
と思っていた空間。俺だって、こんなふうな別れ方はしたくはなか
った。
孝彦は俯いていた。俺とほぼ同じ背なので普段は見えない旋毛が茶
色の髪の中ではっきりと見えた。
泣いているのか笑っているのか、それさえもわからないが切羽詰っ
たこの瞬間でも真美は取り乱してはいなかった。それは確かだ。
「・・・・・ごめん。」
最後の言葉だった。真美は6年暮らしていたマンションから、着の身
着のまま、あんなに可愛がっていたにゃおんも連れて行かずにいなく
なった。
足音がひそやかに消えていくのが悲しかった。自分で言い出したこ
となのに、行くなと叫びたくなった。今のままの二人ではこの関係
が長続きしないとわかっているのに。
今ごろはどこにいるのだろう真美は。
「・・・・・にゃおん、腹へったか。」
黄金週間だというのに、仕事が片付かず、結局家に持ち帰りになっ
た。
4年前の新型の動作ののろいコンピューターにいらいらしながら、
俺はキーをかたかたと鳴らしていた。
提出する予定のレポートを2種類仕上げて、一息つく。それを待ち
飽きたとばかりに隣のリビングにいるにゃおんが泣き喚く。
「そういや朝から何もやってね。」
餌入れを見るとすっかり空になっていた。今、にゃおんにやる餌も
ない。
これは飼い主としてはあまりに酷いだろう。幾ら忙しかったといっ
ても、猫の餌にまで気が回らないようではかなりいかれている。
にゃーおんっ。とにゃおんが一際高く猫の声を響かせた。
「あー!にゃおん、しーっ、ここ猫禁止なんだって。リビング床薄
いし外に聞こえたらどーすんだ。」
口に指をたてて人間にするように猫に言い聞かせたが、いかんせん
猫だ。聞く様子もない。
拾ってきたときは子猫だったが、今ではすっかり大人の大きさで、
声も当然太くなっている。
にゃーっ。
「・・・しょうがねえーな。餌買いに行くか。」
よっこらしょっとすっかり重くなったにゃおんを掬い上げるように
持ち上げて、隣室に移す。
ここなら俺が買いにいっている間多少暴れても音が外に漏れる心配
はないだろう。
買い物に行くのは何日ぶりだろう。いや、それどころか、スーパーに
行ったことさえ、俺は数えるほどしかない。今までそういう事は皆真
美がやってくれたからだ。
真美がいねえと不便だな・・・。
ぼんやりとそう思って、自分を慌てて叱る。真美と上手くいかなくなっ
たのはまさにそれが原因だからだ。
ベッドにちょこんと座り、何と問い掛けるように見上げるにゃおんの頭を
軽く撫でる。
にゃっ?とにゃおんが首を傾げた。
「多分、あれだな・・・。まあ、ようは自分に自身がないんだよな。」
にゃーんと、にゃおんが馬鹿にしたように首を振った。にゃおんは何でも
わかっているようだ。真美がいなくなったときも全然動じなかったから。
あんなに彼女に懐いていたのに。多分、泣いても仕方ないと知っていたの
だろう。真美はもう自分からは戻ってこないと。
真美は俺を縛っているのが嫌になったのだ。俺はそれに気付いていながら
何もしなかった。
今度は俺が自分から真美に縛られてくれといわなければいけない。
「今度は俺から行かなきゃいかんのだよ、にゃおん。」
じゃあ早く行けよというようににゃおんが薄い紺色のシーツの上に寝そ
べった。
尻尾をぱたりとふり目を瞑る。アールグレイの目が消えて見えなくなった。
簡単にいえるなら苦労はしないんだけどな・・苦笑しながらにゃおんが
丸くなるのを見届けた。「好きだ。愛している、そばにいてくれ、なん
て今更言えるかよ。」
口に出すと鳥肌が立ちそうだ。つくづく俺は恋愛体質じゃないらしい。
「やっぱり言った方がいいか・・にゃおん。」
にゃんにゃんにゃん・・・灰色の尻尾はすっかり隠れて見えなくなった。
今ならまだ間に合うよ・・そう言っているように聞こえた。