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第10回 QBOOKS3000字小説バトル 読んだら投票 書いたら投票 Entry1健太のプライドキッチン 2部 段落、改行などに必ずしも作品と一致していない場合があると思われます。深くお詫びします。 |
Entry1●有馬次郎 文字数=3000 健太のプライドキッチンこの世の中で、彼の一番好きな場所。 それは恐らく、蒸気に濡れ蒸したラードの香りが縞をつくる結婚 式場の厨房キッチンだろう。 そこは、数台の大型換気扇が窓際でくすぶったような羽音をたて ながら、頭上にある扇風機のプロペラの回転音と緩やかに共振して いる空間だ。時間が沈澱して油にまみれている。 長年擦れて鉛色に変色したステンレスの盛り付け台に、諦め疲れ たように深く腰を沈めて掌を拡げて見た。 「いつまでこんな事続けるつもりだい?」健太はササくれだって染 みだらけのコックスーツの両袖に目線を落とした。 「間に合わないな、きっと」汗がヒヤリと首筋をつたい鎖骨に流れ こんだ。失望とも絶望ともとれる溜め息が洩た。 「なにボーツとしてんだ!早く切り上げないと、二人きりの弟の結 婚式に遅れるぞ」料理長の梅島が声をかけた。 「都合が悪けりゃ、行けないと返事してありますから、いいんです よ」顔を上げずに健太が答えた。 「そうは言ってもな、実弟の式なんだぞ! なあ、健よもう上がれ」 周りのコック連中も料理長の声に頷きながら目で合図した。 「こう毎日毎日式場で皿洗っていると、どの結婚式もただの儀礼に 見えて、つまらないです」その言葉は本心だった。 「弟さん、オマエの顔をたてて、この式場を選んだんじゃないのか。 兄想いの立派な弟さんだよ」梅島が死んだ親父のような目でたしな めた。呑べいでお人好しの目がそこにあった。親父のポマードの香 りがほのかに漂って来て、揺れたような気がした。突然鼻腔にツン と孤独が浸み始めた。 「自分はネジが外れて、皿洗いに快感すら覚える壊れた兄貴ですよ。 あいつの単なる儀礼ですよ......」と言いかけて、ダスターで薄汚 れたキッチンストーブの表面の油じみを拭いとった。 業務用の大型シンクには、5層とも順番にお湯が張られ健太が洗 い慣れた皿やカップの類が、湯気の隙間から顔を覗かせている。 想像を絶した数のステンレス皿が天井近くまで何層にも積み上げ られ、何故か新宿副都心を連想させた。 向う側には、幾つもの大型ボールに入ったナイフやフォークやス プーンがぎっしりひしめき合っている。これらの洗い物を、パート のおばさん達と仮洗いをして、大型食器洗乾燥器に放りこむのが彼 の仕事なのだ。2年前のあの事故依頼、転職して誇りを持って打ち 込んできたバイトである。 自分自身を唯一取り戻せる薄汚れた空間と、次々と洗い上がる食 器群。ずっとこの場に埋もれていたくなるのは偽らざる健太の気持 だった。 休む間もなく、湯気の中を漂いさえすれば、これ以上何も考えな くて済むのだから。同じことを繰り返してさえいれば済むのだから。 「健ちゃん、車椅子誰が押すんかねェ?通路狭いしねェ」 パートの良子さんが目を瞬かせて訊いた。 「そりゃ新婦にきまってますよ」 「なんかとても美人らしいね、健ちゃんも、頑張んないとね」 健太は苦笑いを返した。 食器洗剤のボトルを交換しながら、一年前に別れた真理子の言葉 を反芻していた。 「とても辛い、とても苦しい、これ以上貴方を好きになっては、哀 しい結末が待っている気がするの。もう愛せない、ごめんなさい」 ごめんなんて言うなよ。お前は悪くないんだ。まっすぐに人を好き になったのだから。健太は額の汗を拭いながら心で呟いた。 迷わないくらいに人を好きになれることが、とても羨ましかった。 「佐竹のおばちゃん、乾燥機の方がまわりきれてないよ、急がない と、どんどん溜まっちまう」 「鳳凰の間、上がりです。10分後、食器類を引き上げます」 フロアーマネージャーの岸田が伝えてきた。 蒸気と汗と油と残飯の臭いのなかで、換気扇を見上げるとあの時 の弟の顔と重なった。 「......兄さん、こんな体になって迷惑かけます。申し訳ない」 「退院の日だぞ、迷惑なもんか。心配するな」 「.........」 「こうやってオマエの元気な顔見れるだけで......」 弟と真理子と3人の深夜ドライブの事故から2年程経つていた。 辛うじて、後部座席の健太と運転していた真理子は重傷には至らな かったが、助手席で居眠りしていた健太の弟は頚の骨を折って下半 身麻痺の状態に陥ってしまったのだ。静かな日々が、リハビリ時期 になるまで淡々と続いた。自分のせいだと言い張る彼女を励まし、 青い日々の中で心の糸を手繰り寄せるように、健太は彼女を愛し続 けることに没頭した。彼女の方は献身的とも言える程、弟の面倒を 見続けた。狂わなかったのは、たぶんそのおかげだったのだろう。 その一瞬、梅島の声で健太は我に返った。 「バカ野郎! 教会で式始まったじゃねーか。意地張りやがって」 春が二度巡って、今年が三度目の春であった。 「もう間に合わない......。もう戻れない......。真理子、もう悲 しまなくてもいいんだよ。君がまっすぐ生きて行けることが俺自身 を救うことになるのだから。そうだろ?」 乾燥器の扉をやおら開けると、独り言が湯気に捲かれて消えた。 白磁の皿類はすっかり汚れが落ちて、静謐な輝きを淑やかに留め ている。一瞬の清清しい浄福があった。 いつの間にか両の掌を合わせ、何かに向かって自分を許せと拝ん でいた。迷いすらも置き忘れたような生き方しか出来ない兄を許せ。 まっすぐに愛せなくて、業欲だけを君に押しつけるだけだった俺を 許せ。兄想いのお前が選んだ孤絶と苦悩と愛に向かい合うことへの 絶望を何故少しでも俺自身で和らげてやれなかったのか。何故に、 もっと早く君を許してあげられなかったのか。 君の魂を自由にしてやれさえすれば、唯それだけで良かったのだ。 それこそが俺自身を救うことに繋がっていたはずなのに。 健太は忘我の狭間で泡まみれになり、淡々と食器洗い器へ皿を放 り込むという作業を続けた。 今、この瞬間に自分を見失うのが恐かった。自分で答えを出すの が恐かった。皿洗いしか残って居なかった。厨房キッチンの空気だ けが優しく包んでくれていた。後にも先にも経験したことのない穏 やかな充足があった。 健太はそう感じていた。紛いようのない充足であった。 「春の陽気に誘われて......っと」涙を欠伸で誤魔化しながら3階 ホール横の廊下を抜けて、式場の玄関正門の見える窓へ向かった。 風に夥しい数の桜の花弁がどこまでも舞い上がり、青い空に融け こんでいた。その花吹雪の向うにぼんやりと、人々の姿が見えた。 結婚式場の斜前の教会から出て来る長い列が目に入り、目を擦って みた。日差がいくぶん網膜の中で弱まり、午睡の後のような気だる い錯覚のなかに晴れ晴れしい弟の顔があった。その背後には、伏し 目がちにひっそりと佇む女性の姿があった。淡いピンクのブーケを 両手に持ち、弟の耳元で何かを囁いて、健太の方向を指さしたよう に見えた。 ライスシャワーと紙吹雪の舞う祝福の最中でその新婦のティアラ だけが、一瞬だが永遠の煌めきで輝いて見えた。 健太は徐に窓を開けると、今朝から準備していた紙吹雪を風間へ と放ってみた。それは、ひらひらと寂しげに舞って散っていった。 「弟よ! 義妹よ! 今日から決して後ろを振り返らずに生きて行け。 俺がどんな時でも影法師の様に後から支えてあげる。真理子さん、 弟のことをよろしくお願いします」 健太は、生まれて初めて透明な独白をした。 「愛は許すこと。そして許しきること。もしも許すこともプライド なら、愛はきっとプライドになる」 自らの呟きをもって健太は新たなプライドを掴み取った気がした。
Entry2●森田英一 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/6650 文字数=2999 大きな疑問「み、水口先生、あなたの生徒が屋上から飛び降りようとっ」 数学の坂田先生が息を切らしながら職員室に入ってきたのは、校 内が昼休みに入ったときだった。私はフタを開けようとしていた弁 当を慌てて置くと、 「ええ、うそっ。屋上は鍵がかかっているはずですよ」 私は誰に言うのでもなく運動場に向かって駆けだした。 運動場には多くの生徒が上を向いて口を開けていた。私は手で日 光を遮りながら、半信半疑に生徒たちの視線の先を見た。 「河野くん」 私はその身長と少し猫背気味のシルエットをみて、その生徒が確 かに3−7の河野順平だと分かった。 「水口先生、あの生徒は君のクラスの子かね」 いつのまにか隣りにいた教頭が眉間にしわを寄せて言った。 「は、はい」 私は河野くんと教頭のしわを交互に見ながら呟く。「でも、どう して河野くんが」 河野順平はそれほど目立つような子ではないが、普通に友達もい るようだし、いままで特別問題を起こすような子でもなかった。ご く普通の少年なのだ。「いやぁ、普通の子なんですけどねぇ」と今 朝テレビで見た通り魔殺人の容疑者を知る人のインタビューが耳の 奥で鳴った。 「と、とにかく、何とか説得してきなさい」 教頭は苛立ちながら言った。風にのってポマードの嫌な匂いがす る。私は黙ってその場から立ち去ると、いったん職員室に戻って屋 上の鍵を探した。しかし何度見ても茶色いケースに鍵は見あたらな い。私は探すの諦め廊下を駆け抜け階段を一段抜かしで上り屋上の 鉄扉の前まで来て、ゆっくりとドアノブを捻った。息が切れ切れに なる。 僕は運動場を見下ろした。黒い人だかりがまるで蟻のようだ。上 から見ればみんな同じ顔の蟻だった。口々に何か言っているようだ ったが、ただのざわめきにしか聞こえない。「いっしょなんだよ、 おまえら」僕は小さく呟いた。 「あ、開いてる」ドアを押した瞬間、風がびゅうっと吹き、私の髪 を大きく揺らした。思わず瞬きを繰り返す。彼は私のちょうど目の 前で背中を向けていた。明らかに鉄柵の向こう側に立っている。 「河野くんっ」 私はゆっくりと彼に近づいていった。刺激してはいけない、と思 いながら。風は強弱を繰り返しながらあたたかな空気を流し続けて いる。彼の後ろ髪が細かく揺れている。学生服の裾がパタパタと音 を立てているのが聞こえる。 びゅっう 強く風が動いた。その瞬間、彼が大きく揺らいだ。私は声になら ない声を飲む。 また強い風が吹く。でも僕は少しも怖くなかった。むしろ風があ ったほうがいいと思った。と、そのとき背後に人の気配。振り向く とそこには担任の水口がいた。少し驚いたが、僕より先生のほうが 驚いているようだ。その普段は見せない顔がおかしくて、僕は頬を 緩めた。 「どうしたの、先生。そんな顔して」 僕は振り返ったまま言った。 「ど、どうしたのって、河野くん。あなたこそ、そこで何してるの よ」 先生は僕の言葉に面食らったのか、今度は困惑の表情を見せた。 「あはは、僕が自殺でもすると思ったんでしょ」 ――この子、どういうつもりなの―― 私は頭が混乱した。 「そ、そんなこと。思うわけないでしょ。それよりどうして屋上に 上がれたのよ」 私は自分でも不自然と思える調子で精いっぱい答えた。 「へぇ。それじゃ、僕がここで何してるのか分かるんだ」 彼は間髪入れずに言う。「そんなの知らないわよ。それより質問 に答えなさい」私は心の中で思ったが、 「そうねぇ、日光浴とか」 今度は微笑みながら、余裕たっぷりに言ってやった。 「あははは」 僕は先生が精いっぱい気張っているのが、手に取るように分かっ た。声が上擦っている。ただのカタブツだと思ってたけど、可愛ら しいところもあるんだな。 「うん。まぁ、日光浴も悪くないけどね」 ――なによ、この子、気持ち悪い―― 私はどうして彼がいまにも落ちそうな屋上の縁に立って、そんな 余裕の表情をしていられるのかが分からなかった。それに本当に自 殺するつもりでもなさそうだ。悲壮な気配はいまの彼から感じとれ ない。 「先生、人間ってどうして空を飛べないんだろうね」 彼はそう言った。 「え」 私の頭はさらに混乱する。この子、私をバカにしてる。絶対にそ うだ。 「そんなの、決まってるじゃない」 「じゃ、説明できるんだ。どうして飛べないか」 僕は先生の正面に体を向けて真顔で答えた。なぜ人間は空を飛べ ないのか、その問題について「決まってる」と一蹴した先生を少し 軽蔑した。 「人間って、走れるし、泳げるし、水中に潜ったりできるよね。で も空だけはどうしても飛べない」 僕は続ける。「なんで飛べないのさ」 「なんでって、そんなこと言ったって」 私は彼のまっすぐな眼差しを受け止めて、少しひるんだ。この子、 真剣に言ってるんだわ。でも人間は空を飛べないようにできている。 そんなことは周知の事実だ。 「じゃあ、河野くんは飛べると思うの。空を」 私は彼に負けないくらい思い切り真剣な顔でそう問いかけた。風 に乗って下から人のざわめきが、断片的にくぐもって聞こえてくる。 僕は先生の問いかけを聞くと、もう一度踵を返し運動場を見下ろ した。遠くからパトカーのサイレンがふわふわと聞こえた。顔を上 げると、彼方には鳩が群になって大きく旋回しているのも見えた。 僕は大きく息を吸いこんだ。 「うん。飛べると思う。絶対に」 僕には自信があった。 「飛べないのは、人間が空を飛べないのは、飛べないと思ってるか らだよ」 ――この子、やっぱりおかしい―― こんなこと普通の人間が言うセリフじゃない。私は思った。そう か、きっと受験勉強で疲れてるんだ。きっとそうよ。これは現実逃 避だわ。人よりその度合いが大きいだけなのよ。 「河野くん、あなたちょっと疲れてるのよ。ねぇ、落ち着いて話そ うよ」 私は目を細めて、甘えたような口調を投げかけた。 僕は先生のその甘ったるい声に嫌気が差した。 「違う。違うよ、先生。だってさ、先生、前も言ったじゃん。河野 くんは数学に苦手意識があるからダメなんだって。できると思えば できるんだって」 頬をゆるい風が流れた。 「僕さ、あったかい風を体で受けるたびに空を飛びたいなって、ず っと思ってたんだ。それで今日なら飛べると思った。今日の風なら 飛べる自信があるんだ。屋上のドアも開いてたことだしね」 僕はすでに体温と同じになった金属片をぎゅっと握りしめ、ゆっ くりと半歩踏み出した。下から吹いてくる風が睫毛をくすぐる。 私はもはや何も言えなくなっていた。生まれて初めて直面するこ の状況に。生まれて初めて耳にするその思想に。鉄柵を挟んで、手 を伸ばせば届きそうな所にいるのに彼までの距離は遠い。この子は むちゃくちゃなことを言っている。でも、言いたいことは分かって あげたい気もする。だけどやっぱりおかしい。現実的に間違ってい る。 僕は空を飛ぶ。飛べれば、能力の限界や人間の才能や言われもな い誤解や挫折や常識なんか、みんな見下ろしてやる。そんなもの軽 く超えてやるんだ。 「やめなさいっ、河野くん。やっぱり空なんて飛べるわけがないの よっ」 私は駆け寄って、鉄柵を乗り越えようとした。 「先生、限界なんてないんだよ」 僕の体は大きな風をいっぱいにはらんだ。彼が彼たらしめている 最後の接点がコンクリートから離れた。僕は体が上昇していく感じ を味わった。私は小さくなっていく彼の背中と靴底を凝視し続けた。
Entry4●KURO{クロ} 文字数=2960 壺の中にまわりは白で溢れていた。ボクは、その白い光景をなんとなく眺 めていた。思考は緩慢で、同じことの繰り返し。苦痛が心地よくさ え感じ始めていたのだから、重傷だ。 しかし自覚はない。ただ、ぼんやりと昔のことを思う──。 小学生のころのボクは、母の作るお弁当が好きで、遠足が楽しみ だった。容器の中で熟成したおかずが、何とも云えず好きだった。 冷たいのにうまい。 お弁当とは、きっと冷えたくらいがちょうど食べ頃なのだろう。 ただ、ひとつだけ困ったのが、リンゴである。 母は、遠足だというのに紅いリンゴを丸ごと持たせた。いつも、 お弁当に鳥の唐揚げが入っていたのと同じように、リンゴも必ず、 付いてきた。嫌いではない。だが、お弁当のリンゴといえば、やは りウサギだろう。ウサギの形に切られたリンゴ。 漠然とした憧れである。 でも、母にお願いはしなかった。母の、軽くなった弁当箱を差し 出したときの笑顔が、優しくて、 「ちゃんと残さず食べたかい?」 そう言う母に、ボクは笑顔で答えた。 「全部、食べたよ」 その場面が繰り返し、ボクの脳裏で展開した。 ──早朝。 リビング・ダイニングで朝食をとっていると、父がぼさぼさ頭を かきながら、新聞片手に入ってきた。 「ん〜、いい匂いだ。っってオイ。また大根のみそ汁か?」 ボクが啜っているものを見て、父は叫んだ。 「そうだけど、なに?」 「いやだってもう……1週間くらい続けて大根じゃなかったか?」 父が首をひねりながら席に着くと、 「はいどうぞ」 母がお盆にのせたみそ汁、焼魚、ご飯を父の前に置いた。 「オイ、かあさん! どうなってんだ? いつまで大根なんだ!」 父がつっかかると、母はニッコリ微笑んで、 「わたしは、大根派なの」 と言った。父は、頭を突き出して、声をうわずらせた。 「──は? な、なんだ、みそ汁になになに派とかあんのか?」 「ええ、ありますよ」 母はそう言ってボクを見た。ボクは、焼魚をつつきながら、 「ボクも大根派だね」 と言った。母がくすりと笑う。 「なんだよ、それじゃあ、俺は、えーと、そうだな──」 「はやく食べてくださいな、冷めてしまいますよ」 「んあ、ああ……」 父はしばらく自分が何派なのか考えていたようだったが、 「ま、いいか」 新聞片手に食事を始めた。ボクは食事を終えて、鞄を持った。 「いってきまーす」 母はあらいものを片づけながら、 「いってらっしゃい。傘もって行きなさいよ」 溌剌とした声で言うと、 「んん?」 母の声に混じって、新聞のテレビ欄を見ていた父が、 「発掘あるある大辞典……アサリ?」 怪訝そうな声を出した。 「オイ、かあさん、まさか明日から1週間、アサリのみそ汁なんて こと……」 不安そうな父の声を背後に、ボクは外に出た。 くもり空。まだ雨は降っていない。風が強いようだ。学校まで自 転車で20分。雨が降ってくる前に着きたかった。風が強くて雨降 りでは、そのままUターンしてしまいたくなる。道に起伏があり、 普段でさえたいへんなのだ。 しかし、中程まで進んだところで、突然大粒の雨がふりだした。 ボクは急いで傘を開くと、横風であまり意味はなかったが、自転 車をこいだ。道は長い下り坂にさしかかり、ボクは弱いブレーキを かけながら、坂を下った。 交通量は少ない。通勤者は多かったが、ここら一帯の住人は、バ スをよく利用しているようだ。歩道と車道は、白線で区切られてい る。すぐ隣を走るバスが、もうもうと排気をまき散らして走り去っ た。 背負ったカバンに雨の滴が垂れて、ポタポタと音を出す。どうし ても前に傘を傾けるので、うしろまではカバーしきれない。 下り坂の終わりに、十字路があり、ボクはブレーキを強めて止ま ろうとした。 「ピーン」 と弾ける音がして、ボクの鼻先を何かがかすめた。右手にブレー キの抵抗がない。右のブレーキワイヤーが切れた。ボクはわずかに ハンドルをぐらぐらさせて、直進してしまった。とっさに何からし ていいのかがわからなかった。 傘をほうって左手を使う? 足を使って摩擦力で止める? その 場で転ぶ? それらのことを頭の中でごちゃごちゃ考えていたのは、ホンの一 瞬だったのだろう。おそらく1秒か2秒か。しかし、その迷いのな かで、ボクは十字路につっこんだ。傘に隠れて視界はほとんどなか った。 しぶきをあげる車の音だけで、状況を察した。 すべては運なのだろうか? 偶然と必然の違いはなんなのだろう? ボクは足を地面にこすらせてずるずると前進した。路面が滑り、 摩擦力は軽減していた。 ──嗚呼。 数秒後、ボクは十字路を越して、フラットになった道路でピタリ と止まっていた。ふと、車の迫る音がしていたのを思い出す。真横 でそれを聞いてもうだめだ、そう諦観していたのに、今、その音は ない。雨がボクの顔面をぬらした。 ──あの音は? 車の水しぶきをあげて走る音は、静かな雨音に変わっていた。四 肢がしびれて動かない。自分で動かせる部位は顔だけだった。 ボクの身体は今、どうなっているのだろう? しばらくして、誰かがボクの顔を覗き込んだ。苦悶にゆがんだ顔 がすうっと視界から消え、足音が遠ざかる。 希望というのか、ほんの少し、ほっとした。事態の認識はできた、 しかし今、ボクは声すら上げることができなかった。たのみは、通 行人しかいない。いや、しかし……ボクをはねた車の主は、いった いどうしたというのだ? 今の男がそうなのだろうか? そうだろう。 そうに違いない。 だが、ボクを見て、なぜ話しかけてくれない? ボクは薄れゆく意識の中で、がやがやした喧騒と、アスファルト の濡れた匂いに抱かれて、生まれたての赤子のように小さく縮こま る自分の姿を俯瞰した。 まわりは影。自分にだけ、スポットライトがあたる。悲劇の主人 公のような一場面。 今、ボクの身体は、どうなっているのだろう? 気がつくと、白い壁に挟まれた通路を、疾走していた。自力では ない。ボクは依然、身体をうごかすことはできなかった。それでも わずかだが、頭を動かせるようになっていた。頭を左右に向けると、 つるりとした白壁が、縦にスクロールしていていた。ボクはどうや らストレッチャーに乗っているらしい。そういえば、看護婦がボク のすぐ横にいる。まわりは白で溢れていた。 その光景をぼんやりと眺めながら、母のことを想う。母の笑顔が、 すぐ目の前にあるようだった。 やがて、ボクは手術室へと入り、マスクをした無機質的なヒトに 囲まれて、漠然とオペの始まりを待った。 すうっと、魂が抜けるように、ボクの思考が遠ざかった。 麻酔だろうか? それとも……。 ボクは必死に意識をこの場に留めようとした。今、離してしまう のが怖かったのだ。言葉にならない言葉で、何度も何度も母を呼び、 助けを求めた。 なぜ、母なのか? わからない。ただ、真っ黒に腐敗した思考の 中で唯一残った存在は、母だった。他には何もない。 かあさん、ボクを助けて。 しかしボクは、目を閉じてしまった。 もう、あけることができない。意識はまどろみの海へと沈み込む。 抜け出せぬ深淵。黒い世界が、ボクににじり寄る。嗚呼。 ボクはもういない。ボクはきっと焼かれてしまう。焼かれて灰に。 そして壺の中に。 それでもボクは、母の笑みを忘れない。 了
Entry5●やす泰 文字数=3000 トータルリコール「まさかそんなことが…」 厚生労働省が叫んだが、思いはみな同じだった。 「何か具体的な証拠でもあるのですか」 「今の所お話したことが事実としてあるだけです。原因や因果関係 をひとつひとつ証明するとなると、まだかなり時間がかかります」 報告に当った老教授はことさら事実という言葉を強調して答えた。 「もうすでに二十年近くたっている。今さら原因がわからないので 何もできないといういい方では済まされないということを、十分に ご理解いただきたい」 委員会を開催した官房長官が釘を刺した。 「今流通している物には、問題があるのですか、ないのですか」 経済産業省の次官が眼鏡を拭きながら詰問するようにいった。 「それも今後の結果次第でどうなるとは申し上げられません。今は 流通している物に関連付けられるデータが無いということです」 「ならば、経済産業省として出来ることはありませんな」 「しかし、住民訴訟が起こった場合、監督省庁として経済産業省の 責任が問われることは間違いありません。」 「そんなことは、いわれなくたってわかってるよ。」 法務省に指摘され、経済産業省が憮然としていった。 「だがこれは国民の健康問題だろう。なんで厚生労働省が黙ってい るんだ」 「いや、こ、このケースは伝染病や食中毒とは違いまして…」 上司の代理で出席した厚生労働省の若造は最初から他の省庁には 押され気味だった。 「エイズの時は危険をわかっていて見過ごしたんだろう。この話と どう違うんだ」 「で、ですから、今回はさらに発症との因果関係が薄く、だれにも 原因と結果を結び付けられないということで…」 「過去の公害訴訟と同じように、もっと患者が出て逃げられなくな るまで待てというのか」 「でも、しかし、それじゃ、役所は動けないんです」 「あんた、誰に向かって言っているのかわかっているんだろうね」 経済産業省は、残酷な笑みを浮かべていった。自分と同じスケー プゴートを作ってまずは安心したらしい。 「電波管理は郵政の仕事だろう」 総務省の代表がぎくりとしたのがわかった。 「たしかに高周波数帯を開放したのは旧郵政省の仕事ですが、電波 管理行政が郵政省の管轄として、健康問題まで含むというのは如何 なものか。もちろん人の健康に害があってはならないのですが、あ くまで通信の一環として電波管理行政はある訳で、そのために健康 のモニターが必要ならば、前回もその辺の所で厚生省に諮問が出て いる訳でして…」 「し、しかし、今日の話では特定できないながらも電波が原因とい うことなんでしょう。電波が人の健康に影響することが前提なら、 郵政さんだって逃げられないでしょう」 「そうだよ。どうせ民間に移管されるんだから、過去の事実は事実 として郵政さんで始末したらどうだい。どうせ最後は金の話だろう。 郵政さんなら資金に困ることもない」 経済産業省も後押しをする。総務省は青くなった。 「そんなこと勝手に決めないで下さい。民営化の話だってこれから だ。まだ決まった訳ではないんです…」 そもそもの事の起こりは、頻発する青少年の激情犯罪にあった。 普通の、いわゆる不良グループとは違い、『すぐにマジ切れする』 若年犯罪者層には、一定の心理的傾向が見られた。首相の諮問機関 からその調査を命ぜられ、今回の報告をまとめたのが精神医学と社 会心理学の権威者で構成された老教授のグループであった。 報告がユニークである所は、電子工学にまで踏み込んで電波が人 間の思考に与える影響を遺伝学的に捉えた点にある。それは最近の 心理学が遺伝的記憶を大幅に認めたことにも関連していた。いわゆ るマジ切れ犯罪者の多くは1980年代初期に生まれている。これが郵 政省の携帯電話への高周波数帯解放と時を同じくしていた。 「まず携帯電話の第一世代がアナログで高出力であったことを思い していただきたい。それまでは車載通信機程度の物しか普及してい なかった所に携帯電話が一挙になだれ込みました。当時の胎児はさ ぞうるさかっただろうと思います」 「なぜ影響を受けた年齢層を80年代の前半出生の者に限るのか」 「それは、その後の携帯電話がデジタルに移行したためです。です から、初期携帯に使われた電波を妊娠したネズミに当て続けた場合 のみ、生まれた仔ネズミの攻撃性がある環境下で異常にに高まると いうデータになる訳です」 「しかし、実験はネズミで再現しただけだろう」 「例えば、送電線が周辺住民の健康に影響を与えるということは、 アメリカでは判例をふまえて公知の事実となっております。したが って個体の実験としては、今回の実験が胎児にも影響しうるという 所だけで十分です。さらにこの図を見ていただきたい。人間の場合 でも80年代前半に生まれた犯人の出生地と問題の携帯電話の普及台 数を地域別にプロットすると、このような相関関係が見られます」 地図には携帯電話の普及台数が青い色の濃さで表わされ、犯人の 出生地が赤い点でプロットされていた。それは大阪から広島、山口 と続き福岡まで伸びている。 「このように瀬戸内海の沿岸地域で一致した理由は、初期携帯の使 用者がどのような層の人間であったかを考えるとわかります。高額 の移動電話をあえて使う必要にあった商売はなんでしょう」 「…ヤクザだ」 「そうです。当時この地域には、極めて重大なヤクザの抗争問題が 発生していました。ヤクザは出始めた携帯電話をさっそく取り入れ て使いました…」 「問題は、そのような激情犯罪症候群となりうる人間の数です」 「私達の推定では、およそ四十万人です」 「四十万か。少ないな」 経済産業省がこともなげにいった。 「しかし、どうするんだ。今さら携帯電話を回収したって何にもな らんし、人間を回収するわけにはいかんぞ」 「高周波帯を今から制限すれば、日本の通信インフラが根底から覆 ります。首相も大臣もそれを望んではおりません」 「電波の危険性を下手にリークしたら日本中がパニックになります」 さすがに対策案は簡単に出て来なかった。かなり長い間沈黙が流 れた後、文部科学省の技官がおずおずと手を挙げた。 「要は、特定の因子を持った人間が、特定の周波数帯に過敏に反応 するということで理解いたしました。もしこれが機械の話であるな らば、電波を受ける側に周波数の変換装置をつけると簡単に解決し ます」 「変換装置とは」 「いわゆるジャマーです。マイクロチップ一個で作れます。ただ、 問題はどうやってそれを人間に取り付けるかです」 農林水産省が手を上げた。 「チップの埋めこみでしたら海外に実績があります。もっともペッ トや家畜の検疫用の話ですが」 「どうするんだ」 「薄い小さなフイルム状のチップなら、普通の注射器のようなもの で皮下に挿入できます」 「気に入った。一番安く済みそうだ」 財務省が満足げにうなずく。 「し、しかし、国民に気づかれないようにそれを行うとなると…」 「それくらいは、厚生省で検討したまえ。風疹だろうが、BCGだろ うが、予防注射は得意だろう」 「では、チップの手配は、経済産業省。実施は、農水省のデータを もとに厚生労働省。資金は郵貯から政府が形を変えて借入し、金利 だけ財務省に追加予算をお願いするということで、官房長官、いか がでしょうか?」 「…よし、それで行こう」 秘書官に揺り起こされて、官房長官が目をこすりながらいった。 かくして技術大国日本の優秀な官僚はITの重大局面を乗りきった。
Entry6●おかず 文字数=1532 ここが感情のキレどころ「原稿は、あがったか」 編集統括部長から声をかけられて僕はイスから飛び上がって答え た。 「い、いえ、まだです」 「『タコでもわかる感情論』にはウチの存亡がかかってるんだぞ」 『タコでもわかる』シリーズは編集部のマニュアル本の主力シリ ーズ。なかでも『タコでもわかる感情論』、通称『タコ感』は今期 の目玉商品だ。だから…… 「著者のケツをバットで張り飛ばしてでも書かせろ」 統括部長の怒鳴り声に圧倒されて、僕はよろよろ歩き出した。 言われるまでもない。業界No1、1800万部突破、平積み強要の イソプレスが『キレる』シリーズから感情系の解説書を出版する前 に、『タコ感』を発売しなければならない。 「いまや若者はマニュアル本を読まなければ正常な感情表現ができ なァい。わがァ、編集部はァ、解説書を通じてェ、社会にィ、蔓延 するゥ、無感情をォ……」 全共闘くずれの編集統括部長の理屈っぽい演説に背中をどやされ て、僕は編集部から飛び出した。 「原稿なるべく早くあげてくださいよ」 僕はプレッシャーをかけているつもりなのだけれど、このライタ ーはちっともこたえていない。三無主義とか呼ばれている世代に属 するこのライターは、何を考えているのかさっぱりわからない。 それにこの人、キレ方を解説する本を執筆しようというだけあっ て、これまで36人も人を刺しているつわものだ。しかも、相手は 一人も死んでなくて、傷害罪で実刑を食らったのはそのうち6回だ け。おまけに、その6回すべてに執行猶予がついている。 「ウチも株式会社リスキーのようにゲーム会社に吸収合併されちゃ いますよ」 僕が言っても、ライターはどこ吹く風で関係ない質問を返してく る。 「で、ここなんだけど。『自分の彼女が別の男とキスをしていると ころを見てしまったとき』ってところ。こんな時の感情も分からな いのかな」 「わからないんですよ。今の10代は」 たしかに、解説するまでもないと思えるような想定だ。でも10 代後半から20代前半の若者の心理をアンケート調査した結果、彼 女が別の男とキスしても「どう感じたらいいのかわからない」と答 える割合が圧倒的に多かった。 「だから、そんな時どういう風に感じたらいいかを解説してほしい んです」 「じゃ、ここだけどさ、『教師や上司に叱られたとき』ってところ。 キレる場合とキレない場合に分けて説明するの?」 「キレる場合は、続編の『タコ感U キレる編』で説明しますから、 解説しなくていいです」 「なるほどね」 ライターがキーボードに向かって原稿を書きはじめたのを見計ら って、僕はライターの仕事場を出た。 次の朝、出勤すると編集部の入り口に一枚の社長通達が貼り出さ れていた。社長通達にはシフトバンクとの合併、さらに『タコ感』 はシフトバンク社の書籍と競合するため発売を中止する旨が記され ていた。 僕はとりあえず頭を整理しようとコーヒーを入れて席に座った。 でも、なにをどう整理すればいいのかさっぱりわからない。『タコ 感』のライターにどう説明しようか悩んでいると、くだんのライタ ーが編集部に訪ねてきた。 「さすがだ」 僕は編集部の床に寝転んだまま、感心していた。彼に刺された37 人目の人間になったのに、ほとんど出血していない。計算し尽くし た刺し方だ。その瞬間を目撃した人がいても、僕が転んだだけにし か見えなかっただろう。だから彼が受けた実刑は6回のままになる だろう。彼はウチの編集部とキレてイソプレスの『キレるシリーズ』 を執筆するという。 心を会社に刺され、体をライターに刺された編集者は、どう感じ たらいいんだろう。 刺された傷のあたりから、いまさら温かいものが広がり始めた。 今なら『刺される編』が書けるのに。薄れて行く視界の中で僕はや っと本気で感じ始めた。
Entry7●のぼりん http://ww1.tiki.ne.jp/~mosi/shot.htm 文字数=3000 針金「鍵は室内からすべて掛けられていました。典型的な密室殺人です よ。しかも死因が奇妙なのです」 「奇妙とは?」 「体中の骨がバラバラになっているのです。両手足は糸の切れた操 り人形のようになってるし、あばら骨はゴリラにでも締め付けられ たように粉々。まるで、クラゲのようになって死んでいたんです。 直接の原因は、胸部圧迫による窒息死だということでした」 「ふうむ。どう考えても普通の殺人事件じゃないな。被害者は多羅 尾博士、科学者で、殺人現場はその研究所という事だね」 入江警部は書類を見ながら呟くように言った。 「研究中は、誰にも邪魔されないように、研究室の鍵を掛けている のが常だったんだね」 「そうです」 と、答えたのは、まだ新米の雷坊刑事だった。 「現場は被害者以外の指紋もなければ、不審な人物の遺留品など、 手がかりになりそうなものは一切ありません。まったくどうやって この犯罪を犯したのか」 「雷坊君、方法が分からなければ動機から探るんだ」 「ところが、怨恨の筋も物取りの筋も今のところ考えられないんで す」 刑事という職業の実際は、地味な捜査活動の積み重ねである。型 にはまった考え方に陥りやすい。この若い刑事も、すでにその落と し穴に落ちてしまっているようである。 入江警部はため息をついた。 「いいかい、被害者は科学者だ。つまり、特殊な人種だよ。まず、 彼が現在、何を研究していたのかを調べたまえ。それからすぐに専 門家を呼んで、被害者がこれまでしてきた特許出願の内容を調査す るんだ。いいね」 雷坊刑事は、はい、と短く答えてすぐに駆け出した。 行動力だけはたいしたもんだ。 雷坊の後ろ姿を見ながら、入江警部は思わずにこりとした。行動 力こそが刑事に求められる一番の資質だということを、彼はよく知 っていたのである。 数日後、二人の刑事は被害者、多羅尾博士の自宅の玄関に立って いた。 チャイムの音で中から出てきたのは、娘盛りは遠く過ぎているが 色香の匂い立つような和服の美女である。 「奥さんの多羅尾幸代さんですね。この度はとんだことでした」 入江警部と雷坊刑事は、息をそろえたように慇懃な物腰で頭を下 げた。 「どうぞお入りになって…」 多羅尾幸代は、何の警戒心もなく二人の刑事を招きいれた。 応接間に通されるかと思ったのだが、そのまま食卓に案内されて、 刑事たちは軽い驚きを感じている。 「ちょうどお昼にうどんを作ったところなのですよ。先日里から送 ってきた讃岐の手打ちうどんです。主人の大好物だったのですが」 幸代婦人は長いまつ毛を閉じて震わせた。 「夫がいなくなってしまってから、食事をいつも多く作りすぎてし まって…。お昼がまだのようでしたら、どうぞ召し上がっていただ けないかしら」 食卓に湯気立つ釜揚げうどんが用意された。二人とも職業柄外食 が多く、家庭料理には餓えている。思わず舌鼓を打った。 「これはこれは、ありがとうございます。では遠慮なくいただきま す」 音をたててうどんを腹に掻き込んだ。 「これはうまい」 「ううむ、やはりうどんは讃岐が本場ですなあ」 すでに表情から曇りが消えて、幸代婦人は満足そうに頷いた。 「ヨーロッパで麺類が発達しなかったのはなぜだか、ご存知かしら ?」 「イタリアにはパスタがあるでしょ」 「パスタはフォークが発明されてからやっと作り出された食べ物よ。 ヨーロッパでは食事の道具は長い間ナイフだけしかなかったの。あ っちには箸がなかったから」 「ほう、ということは我々の食生活を支えている箸が、その利便性 によって麺類を生み出したということですね」 言いながら、入江警部は雷坊刑事に目配せをした。 彼女の薀蓄を聞くのはもういい、そろそろ切り出せ。彼は無言で そういっていたのである。雷坊刑事は、その視線を受けて咳払いを ひとつした。 「さっそくですが」 彼は箸を振り回すようにして、食卓に身を乗り出した。 「実は、多羅尾博士の研究助手の吉田君、ご存知でしょう。彼も今 朝、都内のホテルの一室で殺されました。死因はやはり同じです。 体中の間接がバラバラになっていたのです」 多羅尾幸代は絶句した。 突如、両目から涙を溢れさせた。だが、唇をきっと結んだ意思の 強さが、その場で泣き崩れることだけはかろうじて支えているよう だった。 「同時に、奥さんと吉田君が不倫の関係にあったことも調べが付き ました。申し訳ありませんが、一連の殺人事件の重要参考人として 署までご同行願いたいのです」 「まあ」 幸代は驚いたように顔を上げ、二人の刑事を見比べて視線を動か した。すでにその表情は別人のように変わっていた。 「あなたたち、私を疑っているの?」 「いや、そういう訳じゃないのですが、とりあえず署の方で詳しい お話を聞かせていただこうと思いまして…」 「そう、そういう事情ならわかりました。私は準備がありますので、 どうぞ、お食事をしていてください」 幸代はすでに笑顔に戻っていた。目くるめくような感情の変化で ある。 彼女はそのまま食卓を離れて別の部屋へ出ていった。その仕草は 驚くほど、淡々としている。 「逃げる心配はないでしょうか、警部」 「大丈夫だろう、まだ犯人だと決まったわけじゃないんだ。ここで 逃げ出したら、自ら墓穴を掘ることになるからね。ところで、前に いった、多羅尾博士の研究について調べは進んだかね」 吉田は待ってましたとばかりに手帳を取り出した。そこに一本の 針金のようなものを挟んでいる。それは、繊維と見まがうばかりの 細さだった。 「いいですか、警部」 吉田はその針金を摘まむと、冷たいコップの水に突っ込んだ。 取り出した針金は、見事にのの字を書いている。入江は目を丸く した。 「形状記憶合金です。多羅尾博士はこれですでに特許を取っていま した。特徴は変形に際して驚くべき力を発揮することと、低温で変 形温度をどのようにも設定できるということです。これは画期的な 発明だそうです」 入江は、しばらくその針金をじっと眺めていたが、突然青い顔を して叫んだ。 「雷坊君、この部屋、さっきから急に涼しくなったと思わないか? 」 「今日は少し陽気がいいですからね。気を利かせて冷房を入れてく れたのでしょう」 「そうじゃないよ。驚くべき事だが、あの女、俺たちを殺すつもり だ。いいか、すぐ冷房を切るんだ。このままだと胃が穴だらけにな ってしまうぞ」 雷坊には突然のことで、何がなんだかわからない。 入江警部は、雷坊の目の前に自分のコップを突き出した。そこに は、水の中に入ったうどんの束が、まるで箸のように一直線になっ て、ぴんと堅く固まっていたのである。 後日、押収された多羅尾博士の下着に、あの針金が織り込んであ ることがわかった。冷房によって、一定の温度になると胸を締め付 け、手足の間接を逆に捻じ曲げるような形状がインプットされてい たのである。しかも、決められた時間、決められた形状を保つと、 すぐにもとに戻るという巧妙さだった。 助手の吉田の着ていた下着も同じだった。ホテルの冷房が起爆装 置になって彼を殺した。 夫と情夫の下着を自由にすることができる人物といえば、もはや 多羅尾幸代しかいない。動機は愛憎の縺れと不倫の清算だった。 形状記憶うどんを食った入江警部と雷坊は、丸二日間も腹にカイ ロを巻いていなければならなかった。彼らが麺類を再び食えるよう になる日は、今だにわからないそうである。
Entry8●ラクク 文字数=2106 恋愛体質「もう開放してあげる。」 真美はそう言って、背を向けた。その背中をただ見詰めることしか できない。冷静になったのは遠くからにゃおんの声が聞こえてきた おかげだった。 にゃおんは真美が拾ってきた猫だ。今ごろ捨て猫なんているんだな とそう驚いた俺に、真美は首を傾げて、迷い猫かもしれないと呟い た。面倒だから、迷い猫にしろ、捨て猫にしろ、届けはださなかっ た。にゃおんは毛並みの整った小奇麗な猫だったからもしかしたら 本当に飼い猫だったのかもしれない。真偽の程はわからず、結局数 ヶ月たってもにゃおんはまだ家にいる。 「何いってんだよ。」 俺は真美に声をかけた。しかしいつもならどんなに機嫌の悪いとき でも俺の呼びかけには応える真美が今日は無視をする。俺の声など 聞こえないと、そう言いたげな素振りで。 「真美、開放とか・・・何言ってんだ。」 否定の言葉が我ながら白々しかった。わかっている。真美を追い詰めた のは俺だと。 それでもそれを認めるのは勇気がいった。自分の意地のために真美 を手放そうとする臆病者だと自分で認めたくはなかったのだ。 「訳のわからないこと言ってないで、部屋に入れよ。」 立ちふさがっていた、ドアの前から体をどけ、廊下に立ちすくむ真 美の背に視線を投げかけたまま暗い空間を指で差した。昨日まで、 二人で暮らしていた空間、そしてこれからもずっと暮らしていける と思っていた空間。俺だって、こんなふうな別れ方はしたくはなか った。 孝彦は俯いていた。俺とほぼ同じ背なので普段は見えない旋毛が茶 色の髪の中ではっきりと見えた。 泣いているのか笑っているのか、それさえもわからないが切羽詰っ たこの瞬間でも真美は取り乱してはいなかった。それは確かだ。 「・・・・・ごめん。」 最後の言葉だった。真美は6年暮らしていたマンションから、着の身 着のまま、あんなに可愛がっていたにゃおんも連れて行かずにいなく なった。 足音がひそやかに消えていくのが悲しかった。自分で言い出したこ となのに、行くなと叫びたくなった。今のままの二人ではこの関係 が長続きしないとわかっているのに。 今ごろはどこにいるのだろう真美は。 「・・・・・にゃおん、腹へったか。」 黄金週間だというのに、仕事が片付かず、結局家に持ち帰りになっ た。 4年前の新型の動作ののろいコンピューターにいらいらしながら、 俺はキーをかたかたと鳴らしていた。 提出する予定のレポートを2種類仕上げて、一息つく。それを待ち 飽きたとばかりに隣のリビングにいるにゃおんが泣き喚く。 「そういや朝から何もやってね。」 餌入れを見るとすっかり空になっていた。今、にゃおんにやる餌も ない。 これは飼い主としてはあまりに酷いだろう。幾ら忙しかったといっ ても、猫の餌にまで気が回らないようではかなりいかれている。 にゃーおんっ。とにゃおんが一際高く猫の声を響かせた。 「あー!にゃおん、しーっ、ここ猫禁止なんだって。リビング床薄 いし外に聞こえたらどーすんだ。」 口に指をたてて人間にするように猫に言い聞かせたが、いかんせん 猫だ。聞く様子もない。 拾ってきたときは子猫だったが、今ではすっかり大人の大きさで、 声も当然太くなっている。 にゃーっ。 「・・・しょうがねえーな。餌買いに行くか。」 よっこらしょっとすっかり重くなったにゃおんを掬い上げるように 持ち上げて、隣室に移す。 ここなら俺が買いにいっている間多少暴れても音が外に漏れる心配 はないだろう。 買い物に行くのは何日ぶりだろう。いや、それどころか、スーパーに 行ったことさえ、俺は数えるほどしかない。今までそういう事は皆真 美がやってくれたからだ。 真美がいねえと不便だな・・・。 ぼんやりとそう思って、自分を慌てて叱る。真美と上手くいかなくなっ たのはまさにそれが原因だからだ。 ベッドにちょこんと座り、何と問い掛けるように見上げるにゃおんの頭を 軽く撫でる。 にゃっ?とにゃおんが首を傾げた。 「多分、あれだな・・・。まあ、ようは自分に自身がないんだよな。」 にゃーんと、にゃおんが馬鹿にしたように首を振った。にゃおんは何でも わかっているようだ。真美がいなくなったときも全然動じなかったから。 あんなに彼女に懐いていたのに。多分、泣いても仕方ないと知っていたの だろう。真美はもう自分からは戻ってこないと。 真美は俺を縛っているのが嫌になったのだ。俺はそれに気付いていながら 何もしなかった。 今度は俺が自分から真美に縛られてくれといわなければいけない。 「今度は俺から行かなきゃいかんのだよ、にゃおん。」 じゃあ早く行けよというようににゃおんが薄い紺色のシーツの上に寝そ べった。 尻尾をぱたりとふり目を瞑る。アールグレイの目が消えて見えなくなった。 簡単にいえるなら苦労はしないんだけどな・・苦笑しながらにゃおんが 丸くなるのを見届けた。「好きだ。愛している、そばにいてくれ、なん て今更言えるかよ。」 口に出すと鳥肌が立ちそうだ。つくづく俺は恋愛体質じゃないらしい。 「やっぱり言った方がいいか・・にゃおん。」 にゃんにゃんにゃん・・・灰色の尻尾はすっかり隠れて見えなくなった。 今ならまだ間に合うよ・・そう言っているように聞こえた。
Entry10●杜水晶 文字数=2283 砂に咲く薔薇
男は歩いていた。ただひたすら歩いていた。 ぼろ布のようになってしまった身体を打つ細かい砂の嵐。 服は見るも無残な姿に変わっており、もう既に何ヶ月も洗っていな い髪は、汗で顔に張り付き、そのうちの数十本はかたまって、いくつ もの房をつくっていた。 男は、自分の前に横たわっている果ての見えない砂漠を、その光を 宿さない虚ろな目で眺めていた。 「おかしいなぁ……」 地図はきちんと頭の中に入っているはずだった。都にいたときに、 関連する書物は全て読みあさり、何度も何度も道を確認したのだから。 旅に出てからどれだけの月日が過ぎたのだろう。ほんの数ヶ月前の はずなのに、もう数十万年も歩いたように感じられる。 男は生まれ育った都を頭に思い描いていた。 色とりどりに咲き乱れる花。赤、白、黄色……。彼の故郷は1年を 通してずっと暑く、花が絶えることはなかった。咲く花は全て原色の、 目に鮮やかな花ばかりで、いつも彼の気持ちを楽しくさせていたくれ たことも、今となってはもう思い出だ。 「このまま俺は、もう死んでしまうのだろうか……」 男は空を振り仰いだ。それは真っ青で、本当に透明な蒼だった。 その蒼は、この世に存在するあまたに存在する蒼の、全ての源であ る原始の蒼だと男は思った。 この原色の蒼は、男に故郷の花を思い出させた。 「花といえば……。あの娘は元気でいるだろうか……」 男には、故郷に婚約者であり、幼なじみでもある愛する娘がいた。 「確かもう今年17になっているはずだが……」 恋人を思い出すときだけ、男は幸せだった。心は暖かい想いで満た され、生きていてよかったと実感するのだ。彼女を思い出すためだけ に、今の今まで命を繋いできたのかもしれなかった。 自分に、そして故郷の彼女にかけて誓ったから。 ―――――必ず生きて彼女の元へ戻る、と……。 彼女のことが、好きだった。心の底から、きっと愛していた。 そう断言できる証拠は、この生ける屍である男そのものだった。 生きて故郷に帰って、彼女の激しい想いを受け入れるに足る強い自 分になれたなら、その時こそ自分の彼女への想いを、成長した自分に 絶対の自信をもって、彼女に告げるのだ。 そのために男は旅に出た。自信を持って彼女を愛せるようになるた めに。だから、もしこんな場所で男が死んでしまえば、何のために苦 しみ、今まで生きぬいてきたのか分からない。 男はなんとしても生き延びなければならなかった。 あの頃の不甲斐なかった自分。 お互い想い合っていたことがわかっていたのに、彼女に言わせてし まった弱い自分。 男は懐かしく、彼女に愛を告げられたときのことを思い出した。 瞼を閉じる。 すると、もうそこは男の故郷…………。 彼女は手に、赤い赤い薔薇の花をもっていた。 きっと、数千本はあったであろう。なぜならその花束で、彼女の顔 も、そして髪の毛の一点たりとも見えなかったのだから。 薔薇の赤い色彩と、娘の羞恥心とで、顔は朱に染まっていた。そし てその瞳には、薔薇を差し出されて呆然としている男の顔が映ってい た。 「好きです。そして、これが私の気持ちです」 少女は半ば、押し付けるようにしてその薔薇の花束を差し出す。 鮮烈な、紅……。これが、彼女の愛。 激しすぎる色だった。そして、想いだった。 「だめだ、受け取れない」 少女は微動だにしない。 「好きです」 黙って、それだけを告げる。 その動作が、彼女という人物をあらわしていた。 だから、男も言うのだ。 「だめだ、受け取れない」 はじめて少女の顔が崩れた。 はじめは精一杯、今の表情を保とうと努力するが、しだいに堪えき れなくなって、大きな黒い瞳にはみるみる涙が盛り上がる。 そして、それは一筋、二筋……と、彼女の頬に幾筋もの流れをつく った。 「…………どうして?」 震える声で一言。これが彼女の精一杯。 「君の想いは激しすぎるから」 こんな彼女にだからこそ、はっきりと言う。 「私のこと、嫌い?」 「好きだよ、愛してる。けれども……」 娘は食い入るように男の瞳を見つめる。 「けれど、俺の想いは、君ほど強くない。俺には……君を愛する資格 などない」 たしか、これが彼女と過ごした最後の時間だった。 心の底から逢いたいと想う。そして願った。 ―――――生きて彼女の元に戻りたい。 しかし、そんな途方もない望みが叶うはずもない。 ふと、男は足元に視線を落とす。 そこには変わった形の石があった。 それは、あの彼女のくれた薔薇とそっくりの形をしていた。色はま るで彼女の唇のようで、それに少し透明感をたした感じだ。 男は彼女の名をつぶやいた。 突如としてそれは起こった。 まるで男の声に反応したかのようにその石が粉砕し、辺りに飛び散 って―――――――――――――――――……………光が満ちる…… ………。 ―――――――――――――――――――溢れる光り……光りの洪 水………。 辺り一面の花畑だった。赤、白、黄色……故郷の花々でその花畑は 覆われている。 そしてその中には、数千本もの薔薇の花束を携え、佇む少女。 「…………………」 男は少女の名を呼び、あの時素直に言えなかった一言を、 「愛してるよ」 その少女は微笑んで、男の方へ走り来る。そして薔薇の花束を差し 出し、 「好きです」 男は今度こそ、その気持ちを受け取る。 「これからは、永遠に一緒だよ」 当たり一面の原色の花、花、花、…………。 少女の手にはいっぱいの、赤い薔薇、薔薇、薔薇………。 そして、男の夢、夢、夢………。 永遠に続く、それは夢、夢、夢、夢………――――――幻………。
Entry11●さとう啓介 文字数=3000 微熱の風富士の山の朝は早い。 濃い緑色の木々の葉が、まだ夜露のなごりをうっすらと輝かせ、朝 靄と朝陽の間を早春の清々しい微風に揺れている。 山鳩のゆったりした鳴き声と小さな鳥の囀りが、夜露で濡れた黒 いアスファルトに反射する。 人けの無いゲートに向かって一台のスクーターがやって来た。 白いツナギを着たその男は、鍵の束を荷台のケースから取り出すと、 ゲート脇の少し錆びくれた鉄扉を開けた。そしてタバコを取り出し、 フィルターをちょっと噛んで火を付けスクーターに腰を下ろすと、 ゆっくりと吸い込んだ。 白いツナギがだんだん朝陽の光を浴びて、うっすらと茜色に染ま る頃、遠くから今にも壊れそうな車のエンジン音が聞こえてきた。 そのワンボックスはゲート前に止まり、中から若い青年が降りてきた。 「おはよう!おやっさん、いつも悪いな」 「なんの西坂君。あんたがやって来るのが、ワシの楽しみじゃよ」 白いツナギを着た白髪の老人は深い皺を一層その色黒の顔に作って 微笑んだ。 老人がゲートを開け、西坂のワンボックスが中に入ってゆく。 少し曲がりくねった車路を登ると広いパドック裏に出た。 老人もゲートの鍵を締め、パドックへスクーターを走らせた。 その姿は老人とは思えない程の若さを感じさせた。 西坂がワンボックスのバックドアを開けると、中には一台のバイ クとその両脇に沢山の工具類の箱が、狭い車内に積み込まれている。 西坂はスロープを荷台から引っぱり出し、バイクを固定したロープ を外す。 「どうじゃ、キャブレターの調整は出来たのかな?」 「ああ、徹夜でやったよ、遅くまでかかったんで、まだエンジンは かけてないんだ」 西坂はゆっくりとバイクをスロープから下ろした。 そのバイクの白いタンクにはブルーのラインが二本、弓を引いた様 に引かれている。作業の途中だったのだろう、カウルはセットされ ておらず、大きなラジエーターが黒く光っている。 「こいつもワシと同じじゃ、よう元気でがんばっとる!」 「そうだね、こいつもおやっさんと同じだよ、もう老いぼれのくせ に手のつけ様がないんだから!」 「こら!お前、ワシの事……」 「ごめん、ごめん!わかってるよ、そう言う意味じゃなくて、今で は部品を探すのも苦労してるって事。でもこいつだけは手放せない ね……」 西坂はバイクにまたがるとキックペダルをセットし、思いっ切り 踏み込んだ。パアーン、パアーン、鼓動を揺さぶる甲高いエンジン 音が、静かな朝の山並みに静寂を破ってこだました。 「どうなんだ〜今年の新人は?」 「イーストでは西坂って言うのが面白いですよ、なんせ彼は今どき 珍しい市販車改造マシーンで地方GPから出てきたんです、それも RZですよ」 「RZ?お前何か間違ってねーか?TZだろ?TZ!」 「だから、違うんですって!ホントにRZなんですよ」 編集長の顔が変わる、「ホントかそれ?」 「はい、先週富士で全日本の合同テストの取材に行った時に支配人 が言ってましたから」 「う〜ん、RZか……そうだ!沙織ちゃん行ってくれ。お嬢様でも 取材ぐらい出来るでしょ?エリアの取材だから気楽にね、気楽に!」 「えっ、私でいいんですか?」 「いいよ〜っ。うちは零細だからね、いる人皆でやるの。早く慣れ てね」 「はい!ありがとうございます。じゃあまず、その支配人にアポ取 ってみます」 沙織は昨夜、ホストクラブで出会ったあの西坂の事だとは、全く 知らなかった。 西坂は富士のコースを走り込む。 2ストロークの軽快なエンジン音が静かな山間に反響し、コースの 形を伝えている。 老人はコーヒーをすすりながら目を閉じ、コーナーの一つ一つを 思い描く。 「あの子も大きくなったもんだ。弘志っさん聞いてるか、あんたの RZだ。あの時と同じ音だよ」 西坂がピットロードに入ってきた。微細なアイドリングが老人の 前で止まった。グローブを外しヘルメットを脱ぎながら、 「おやっさん、悪いんだけどそこのスタンド取ってくれ!」 床に転がったスタンドを老人は「よいしょ」と持ってきた。 「どうだ?調子はいい様だな!」 西坂はスタンドを受け取りマシーンを立てると、キャブレターを見 ながら 「そうだな〜、やっぱこいつも取っ換え時かな〜。スロットルバル ブがダメだ、地方GPじゃあこれでも勝てたんだがエリアじゃもう 無理だね」 老人は嬉しそうな瞳で西坂の話しを聞きながら、アルミカップに入 ったコーヒーを差し出した。 「どうじゃ、いっぷくでもせんか?」 「おっ!ありがとう。おやっさん気が利くね〜、どう?僕のチーム に来ませんか?」 西坂は冗談ぽく笑ってコーヒーをすすった。 「ワシゃ、あんたの練習場の手伝いだけでいいんじゃ、本番でこん な所にワシみたいな老いぼれがいたら邪魔でしょ〜がないじゃろ?」 老人は笑いながら言った。 「でもいい音じゃ〜、弘志っさんを思いだしたわ。覚えとるか?」 西坂は軽く頷くとコーヒーを口に含んでなじませた。 「弘志っさんは、地方GP戦でこのRZをMFJの規定に合わせ改 良し、プライベートで戦った。ランキングは4位止まりで終わった が、その走りは「サーキットの神風」と言われた程で、走り出すと 誰も止められない速さがあったな。だが転倒も多くて、ポイントに なるレースは数える程しか無かった。かみさん、お前のお袋さんも 病気で入院したこともあって仕方なくバイクを降りたんじゃが……」 去年、交通事故で死んだ親父の想い出を、老人が懐かしそうに語る。 「いやだね〜おやっさん、そんな事は俺だって知ってるよ、今更な に言ってんだい、もうぼけちまったか?ふふふ」 西坂は苦笑いでごまかした。 プルルル・プルルル ピットの内線が鳴った。 老人は受話器を取ると事務所と何かを話している。 西坂はマシーンのカウルを外し、エンジンのチェックを始めた。 「……そうですか、では明日の午後でもよろしいですかな……」 老人は受話器を置き、西坂の前でにっこりと微笑んだ。 「西坂さん、あんたやっぱり注目されてますよ、明日ワシにバイク 雑誌の取材が入ったんだが、どうも西坂さんの取材をしたいらしい 、どうしますかね?」 西坂はマシーンのオイルを抜きながら、老人の問いに首を横に振 った。 「だろうな、ま〜ワシが会ってみるから気が向いたら連絡をおくれ」 老人は優しい眼差しでそう言うと、「そろそろ事務所に戻らんとい かん」と独り言を呟き 「じゃあ、西坂さんエリアGP頑張ってくださいね!」 老人はそそくさとピットを出てスクーターに乗った。 西坂は慌てて、パドック裏に出ると 「おやっさん、今日はありがとう!まるでプライベートコースだっ たよ」 ゆっくりと走るスクーターの上から老人は、後ろ向きに左手をヤン チャに振りながら、緩やかな坂道を下って行く。 ピットに戻るとRZのシルエットが、眩しいグランドスタンドの 光を受けて紺影に浮かびあがっている。西坂はそのRZのタンクに そっと触れて、グランドスタンドを見つめた。 今では親父の残してくれたこのRZが唯一のチームメイトだ。ス ポンサーも親父もいない。 今年イーストエリア選手権でランキング3位に入賞することが出 来れば、念願の全日本に行ける。親父と約束した願いが叶う……。 西坂はピットの中にたたずみ、歓声で沸き上がるグランドスタン ドを想い浮かべながらそっと呟いた。 「これから、これからやっと始まる……」 その時、一瞬の微熱をもった風が、西坂の頬をサッとすり抜けた。
Entry12●羽那沖権八 http://www.geocities.co.jp/Bookend-Soseki/4587/ 小説屋やまもと 文字数=3000 貨道「店員さん、よろしいですか?」 商品を並べていた三島雄平に話し掛けて来たのは、老いた紳士だった。 「!?」 雄平は取り落としそうになったノンカロリー圧縮米を両手で持つ。 「なんの――用?」 「これ、使えますか」 老紳士は流れる様な動きで、それを差し出した。 「え? 実貨?」 「はい」 実貨――電子マネーの普及により、各国で発行中止になりつつあ る紙と金属の貨幣だった。 「んなもん出されてもねぇ」 本来なら、商品を持って出口のゲートを通れば、客のパーソナル コードに反応して、支払いが自動的に済む。店員の姿を見る必要す らない。 「そうですか」 老紳士が寂しげな笑みを浮かべ、実貨をしまおうとした時。 チャリン。 硬貨同士の触れ合う澄んだ金属音が鳴り響いた。 (あ――) なぜか雄平の耳には、その爽やかな音が、いつまでも残っていた。 「わはははははは、マジかよ、みっちゃん?」 休憩室で店長が、文字通り腹を抱えて笑う。 「そんな奴いたの、今時? 二十二世紀にもなろうって時代に?」 「幻や幽霊でなけりゃね」 雄平は瓶コーヒーを飲む。 「幽霊と紙一重だって。どこの健常者が実貨なんて持ち歩くかっ ての。あー、おかしい」 笑いすぎたのか、店長は涙目になっている。 「そもそもありゃあ、余りを返さなきゃいけねえんだぜ。最低で も計算検定四級は取らなきゃ」 「それは……難しいかな」 「そうそう。そんな客は迷惑迷惑。今度来たら塩か金属の実貨でも ぶっつけて追い払っちまえ」 空瓶を持って、雄平は立ち上がった。 なぜか、店長に対する不快感を覚えながら。 「あれ? こんな所に?」 その日、雄平が足を止めたのは、コインショップの前だった。 いつも勤務後に立ち寄る駅ビルの本屋の奥、書籍売場と文房具売 場の間。見えてはいたが、完全に通り過ぎていた店。 「へぇ」 ショーケース内には、和同開珎や一分銀、はたまた平成、と年 号と打たれた紙幣までが、ずらりと並んでいた。 「……綺麗だ」 お金が綺麗。 そんな事考えも――いや、お金の形を意識した事自体、なかった。 (これさえ、あれば) 老人から実貨を受け取り、残りを返す自分の姿が脳裏に浮かぶ。 彼は何かに導かれるように、数枚の紙幣と硬貨をポケットに入れた。 そしてゲートをくぐった後、携帯端末を確認する。 「あ……思ったより高い」 アパートの部屋で、雄平は机に向かう。 パチ、パチパチ……パチ。 「えと、百三十一円、と」 満足げに頷いてから、彼は算盤の珠を戻した。 「さあ、次!」 数字の書かれた紙を、目をつぶって何枚か取る。それをさっと机 の上に並べ、たどたどしい手つきで算盤を弾き続けた。 一時間ほど算盤の練習を続けた雄平は、今度は本を開く。 「ええと、『いらっしゃいませ』『千円お預かりします』、『三 百円のお返しです』、『毎度ありぃ』――は、違うのか」 雄平は眉を寄せる。 「客――お客さんと話す事って、ほとんどないんだよなぁ」 古本屋で買った敬語の本をめくる。 「実貨を使うのに、こんなに勉強が必要とは思わなかったな」 それから雄平は、ビデオに自作のラベルが付いたディスクを入 れ、再生する。 過去の映画やドラマの接客シーンが次々に表示されていく。 雄平はじっと画面を見つめる。 (商品を見て計算して、実貨を受け取って釣りを返して頭を下 げる) 「綺麗だな……」 小さく首を振る。 「いや、実貨の方が、二千年以上も昔から使われてたんだ」 一ヶ月が過ぎた。 商品を自分のポケットやバッグに入れた客がゲートをくぐっ て出て行こうとする。 (ええと、二千四百……二円。計算は完璧、だが) 大きく深呼吸をした。 『……ありがとうございました』 かすれた声が、喉の奥に貼り付いたまま出て行かない。 (っ。今日こそ! これが言えないで実貨は使えない!) 『ありが……』 (ええい!) ぐっと腹に力を入れて足を踏ん張った。 「ありがとうございました!」 「!?」 客はびくっとして僅かに振り向くと、走って出て行ってしまった。 「――みっちゃん! 何客驚かしてんだよ!?」 ほとんど同時に店長が走って来た。 「いや、挨拶を」 「バカ、どこの世界に客と喋るスーパーの店員がいるんだ」 好奇の目で雄平たちを見る客を、店長は睨み返して追い払う。 「でも」 「いいから、来い!」 雄平は店長に控え室に引っぱり込まれる。 「――お前の仕事は店員だぞ? 客と喋る事じゃない。ったく、悪い 評判でも立ったらどうするつもりだ」 チャリン。 何か雄平が言おうとした時、ポケットの中で硬貨が鳴った。 「なんだ、今の!」 店長は彼のポケットに手を突っ込み実貨を引っ張り出す。 「なんかおかしいと思ったら、実貨だと? 事もあろうに実貨だと? このオタク野郎!」 「なんでそんなに実貨がいけないんだよ? 実貨のやり取りって、綺 麗なんだよ?」 「こっちは仕事してんだよ! お前の趣味に付き合う理由はこれっぽ っちもない!」 キンッ。 床に投げ付けられた硬貨が、音を立てて転がった。 「……趣味――そう、趣味かも知れない」 雄平はしゃがんで実貨を拾う。 「でも俺は、実貨の扱い方を勉強していて思ったんだ」 硬貨を集め、ポケットに収める。 「実貨を使う姿には美がある。そこに文化があった、って」 それから雄平は店長に深く頭を下げた。 「辞めさせて頂きます」 数年後。 割烹着姿の雄平が、厨房の前で出来上がりを待つ。 (未練だな) 無言で並べられるこだわりも工夫もない蕎麦を、黙々と運ぶ。 (お客さんはいても、声一つ――) 「――こんにちは」 「!?」 反射的に雄平は入口を向く。 客に見覚えがあった。忘れた事もなかった。 「おや、新しい店員さんですね」 微笑んだのは、間違いなくスーパーで実貨を使おうとしたあの老 紳士だった。 「あ、いや、その」 「失礼。注文をお願いしてよろしいですか? 生憎端末を持ち合わ せていないもので」 厨房から店主が雄平に目配せする。逆らわずに言うことを聞け、 そんな身振りだった。 雄平は一度深呼吸をしてから、記憶を総動員して言葉を選ぶ。 「はいっ、ご注文をどうぞ」 「ほぅ……?」 老紳士は驚いたような顔でまじまじと雄平を見た後、にっこり微 笑んだ。 「月見蕎麦を頼みます」 「う、うけ、承りました――店長、月見蕎麦一つ」 三分と経たないうちに、機械的に作られた月見蕎麦が、カウンタ ーに置かれる。 「お待ち――たせしました」 雄平は記憶を総動員しながら声を掛け、蕎麦を運ぶ。 「どうもありがとう」 礼を言う老紳士の仕草は、芸術的と言えるほどサマになっていた。 「いえ、そのええと、ゆっくりどうぞ」 それだけようやく言って、雄平は老紳士のテーブルを離れた。 (や、やった、やったぞ) 鼓動の高鳴りを押さえられぬまま雄平は仕事に戻る。 二十分ほどして、老紳士は箸を置いた。 「御馳走様。実貨で申し訳ありませんが、お代は置いておきますよ」 紙幣を一枚テーブルに置いて立ち上がろうとする。 雄平はその一瞬に、釣り銭を計算し、ポケットから――。 「釣りはいらないよ」 あくまでさらりと、老紳士は言った。それは、この芸術的時間を締 め括るのに、充分な優雅と粋に満ちていた。 (美しい……) 雄平はただ無駄になった釣り銭を、割烹着のポケットの中で握り 締めていた。 一期一会を基本とした実貨を使う芸事、「三島流貨道」が拓かれ るのは、これから二十一年後の事である。
Entry13●小吉(コキチ) 文字数=2995 逃げる男 「ねぇ、結婚しようよ」 私が彼にそう言ってからもう3カ月が過ぎていた。 その間、私達は何度もデートをしてその倍くらいの数のセックス をして、タイミングを見ては、私はそれとなくプロポーズの返事の 催促を繰り返した。でも彼はそんな私を上手にあしらい続けた。も しくは、のらりくらりとかわし続けた。 例えばある時は「明日にでも結婚しよう」と言い、またある時は 「実は僕はゲイなんだ。だから結婚はできないんだ」と言って笑っ た。どちらも嘘である。それもみえすいた方の。 でも私は彼の嘘をいつも許してしまう。例え一時は怒ってしまっ ても、次に会う時までには許せてしまう。彼はそうやって、私を笑 わせたり、怒らせたり、時には泣かせたりしてプロポーズの返事を ぼかし続けていた。 頭がきれて、いいかげんで、変わっていて、何を考えているのか が今一つ見えなくて、嘘の上手い人だった。 上手い嘘というのは、完璧で見破られない嘘のことではなくて、 相手に見破らせておいて許しをもらえる嘘のことだと、彼に教えて もらった気がする。 単に彼のことが好きだったから許せたのかもしれないけれど・・ ・。 「あいつはやめておいた方がいいよ」 彼のことを好きになり始めた頃に、友人が私に忠告してくれた。 私の友人と同時に彼の幼馴染みでもあり、私達を引き合わせた張本 人の言葉だ。 「どうして?」 好きな男と自分との共通の友人にこんなことを言われて、理由を 聞かない女なんかいない。 「あいつはお前には捕まえられない」 友人は少しだけ笑顔で言い切ったのをよく憶えている。 「あいつはガキの頃から女にもてた。周りの女に騒がれて目に 見えて人気があったわけじゃないが、なんとなくもてた」 半分は以外だった。彼は決してもてる顔ではなかったからだ。 残りの半分は、私もなんとなく彼にひかれていったのだから素直 に納得できた。 「それで、あいつはどの女とも上手くつきあって、どんな女と も上手く別れた。基本的にはイイ奴だから当然といえばそれまで だけど、そういうことが上手くできる奴ってのは少ないんだ。1 人、2人の女ならまだしも、多くの色んなタイプの女と付き合っ た上でそれができる奴ってのは、案外見つからない」 「付き合うなって言うようには聞こえないんだけど」 もっとはっきりと彼のことを教えてほしかった私は、わかりに くそうな顔をして友人に先をせかした。 「女を不幸にするってタイプとは正反対だから、別に付き合う なって言ってるわけでもないんだ。だけど、ただ、お前の友人と してあいつはお薦めできないってだけなんだ。」 「話しがちっても見えてこないゾー」 友人は自分に矛盾がないと思っているようで、少しだけ可笑し かった。 「どう言ったらいいのかわかんないけど、あいつはどんな女か らも結局は逃げ切ってしまうんだ。女だけじゃなくて、いろんな 物事から上手く逃げるんだよ。あいつがネガティブな奴っだて意 味じゃなくて、何っていうか・・・、どういうわけか『逃げる』 ってことにすごくこだわってる奴なんだよ」 友人は説明しにくそうに、でも私の為に言葉を選びながら話し たが、結局は意味がよくわからなかった。例え理路整然と筋の通 った忠告だったとしても、友人の忠告で想いが止められるくらい なら、誰も苦労はしない。 それからしばらくして私は彼と付き合い始めた。 「なんとなく、逃げたくなったから」 突然、会社を辞めた彼はそう言った。 私は忘れていた友人の忠告をその時に思い出した。 「逃げるのが好きなの?」 ある日、私は何気なく彼に尋ねてみた。 「好きとか嫌いじゃなくて、突然いろんなものから逃げたくな るんだ」 彼はとても嬉しそうに答えた。 その日から二人でいる時に、私は彼を注意深く観察するように してみた。すると、いろんな人との約束から私との他愛ない会話の 中まで、常に彼は巧妙な逃げ道をつくっていることに気がつくよう になった。 「なんとなく、無性に逃げたくなる。誰だってそんな時があるだ ろ。だからその為の準備を前もってしておくんだ」 なんとなく、というのは彼の口癖かつ、原動の最も重要な理由に なるらしい。 「でも皆は逃げるとは限らないじゃない。むしろ大半の人は逃げ ないものなのよ」 「人は人だよ。僕は逃げたくなったら逃げる」 確かに彼は誰よりも逃げるのが上手かったし、逃げ切れる頭脳と 体力を持ち合わせていた。そして友人が言ったように、ネガティブ に嫌な事からどこかに逃げ込むのではなく、どちらかと言えば、前 向きに逃げている。まるで逃げるのが楽しくて仕方がないようだ。 「全身全霊をかけて、真剣に、全力で逃げる」 彼は真面目な顔でそう言ったこともあった。そして照れ笑いを浮 かべる。ここまで言い切られると、逃げることで何かに挑戦してい るようにも見えた。 だから私は彼にプロポーズをした。しっかりと捕まえておかなけ れば、ある日突然「なんとなく」というよくわからない理由で、彼 が私から逃げてしまう予感があったからだ。 でも結局彼は私の前からいなくなった。 私は彼を逃し、彼が私から逃げたと言うのが正しいのかもしれな い。 でもそれは私だけではなく、家族や、知人友人、その他大勢の人 達や物事から彼は見事に逃げたということでもあった。 いつからこんなことを考えて、計画したのだろうか。 今さら考えてもどうしようもないことだった。 別れは一本の電話に乗って訪れた。突然の訃報だった。 「逃げろ、全力で」 彼の言葉と悪戯っぽい笑顔を思い出して、私は「馬鹿っ」と呟く ことしかできなかった。涙は少しずつゆっくりと流れて、しばらく は止めることができなかった。 私は仕事を休んで通夜も葬式にも顔を出し、喪主を勤める彼の 両 の手伝いをした。初対面だたっが、幼馴染みだった友人が彼の両 親に紹介してくれた。あまりに突然のことで気が動転している御 両親を見ていると、胸が締め付けられる思いがして、少しだけ涙 が出た。 彼はいなくなる前に、一人で葬儀屋を手配し、戸惑う両親に喪 主を勤めさせ、多くの人を招いて、葬式後の宴会の段取りまで用 意していた。足りないのは死体とどこにもない死亡届け。それで も「なん となく」という死因一つで、彼は皆に立派な葬式を挙げさせた。 もちろん、不祝儀はなしでだ。 葬式の最後に両親に事情を話すと、父親は怒り、母親は足を運ん だ人全員に謝ってくれた。でも皆は逆に、父親をなだめ、母親にお 礼を言った。気づいていなかったのは両親だけだった。葬儀に訪 れた多くの人に彼が理解されていることがとても嬉しかったし、 羨ましかった。私や友人を含め、彼のことをよく知る人は大いに 笑い楽しむことができた。 それは彼の人柄を表す素敵な御葬式だった。 上手い嘘というのは、完璧で見破られない嘘のことではなく て、相手に見破らせておいて許しをもらえる嘘のことだと、彼に 教えてもらった気がする。 嘘だから許してね。だって嘘なんだから。嘘でごめん。 それは文字で書いてしまうと、あまり出来の良く無いフィクシ ョンの言い訳みたいだ。 いつか再び彼に会った時、結婚していても、おばあちゃんにな っていても、私はもう一度プロポーズの返事を催促してやろうと 心に誓った。 なんとなく、どこかで会える気がしたから。 彼は「いきる」事からは絶対に逃げない人だから。
Entry14●海坂他人 文字数=2980 ふたしかな記憶笙野頼子を好きだった女性と喧嘩わかれしてから、ちょうど一 年になろうとしている。 梅雨がはじまり、時に夏のように蒸し暑い日があるようになっ た。私は発表のあてもなく書きためている稚拙な書評のために『 タイムスリップ・コンビナート』を読み、あれこれと文章の組み 立てを考えていた。するうち、 (ああ、あれから一年になるのか……) と、ふと思い寄ったのであった。 しかし、私は彼女(かりにNとする)について何を知っている わけでもない。 「笙野頼子のファンだった」という記憶も、思い返してみると怪 しく、それはNの友人の、Aという別の女性のことがすり替わっ ているようでもある。 ああ、そうだった……Nが本当に心酔していたのは笙野頼子で はなく、川上弘美であり、同好会まで作るほどだった。私はその 時、 「将来、自分自身が作家になろうという者が、他人の追っかけを しているのはどうなのだろうか」 という意味のことを公開日記に書き、Nはそれを気にして、然ら ざる旨をあれこれと弁明して来たのだった。 これが去年の正月のことで、その頃すでに半年後の、決定的な 衝突は予見されていたようでもある。 Nに対し、私は少なからぬ尊敬の念を抱いていた。将来は純文 学作家として名を成すのであろうと思っていたので、他の作家の 追っかけのような真似をするのは心外なことに、口惜しく感じた のであった。 先に述べたように、私はインター・ネットを通して知り合った Nについて、当時も今も知るところはごく少ないのである。実際 に彼女の小説を読んだこともなかったような気がする。しかしN 自らが語る経歴と、時に洩らす言葉などからは、自分の持たない カードをいくつも持っていることが感じられた。 私と同年輩であるNは、大学は文学部に学び、しかるべき文学 研究を身につけたようであった。トマス・ピンチョンなどという 唐人の名をきいたこともある。 そして卒業後、あるいは在学中からであろうか、同人誌に属し、 実作を試みたらしい。さらに私から見てあまりにも眩しい事は、 いくつかの作品は文芸誌の新人賞に応募され、二次予選まで通過 した実績を残していた。 職業としては出版社に籍を置き、作家の謦咳に接する機会も少 なからぬようであった。自らも時に文章を草して、ささやかな小 冊子ながら活版にされることもあるらしかった。 これらは、私の周囲には薬にしたくとも無い、 ――文学の香り であり、私は自分も何とぞしてその世界に入り込みたいものだと、 切望しているのであった。 しかしそれらのカードを一つも持っていない事は、どうにもな らなかった。 全く畑ちがいの理学部で、化学を専攻したが、私は、もともと その学問に対する熱意を欠いていた。まるで火事の焼け出されの ように、全くの無用者として自分を大学から放逐した私は、どこ からどうなって自分はここに至ったのであろうかと、考えること が多かった。 そこで私は、文学に関する素養は全く持たないまま、書くこと に救いを求めた。このようにして書くわざに入るのは、よくない ことである。何かを書かねばならぬと思いながら、私には何も書 くことがなかった。 インター・ネットで知り合う同士は、実際に顔を合わせること は少ないものである。Nと私も、電話線を通した書き文字のやり 取りだけで終わって不思議はなかったが、実は一度だけ、私が上 京した時に会っている。それも共に半日、秋葉原という街を歩き まわった。 確か、去年の二月であった。詳しい経緯はここには略す。他に 二人の人間がいたが、しかし初めて東京の街を歩き、初めてネッ トで知り合った人間と対面した興奮から、私はその時のことをほ とんど覚えていない。Nと交わした片言隻句すら、私の脳髄から は消え失せている。 かろうじて、Nの声だけは耳に再現できそうである。低めの声 で、落ち着いた話しぶりであった。華やかさや、艶を装わせる様 子は、全くなかった。 あるいは、女性としては高めの上背、ややしゃくれ気味の顎、 歩く時になんとなく膝が伸びきらない感じ、それらすべての外貌 は私に、都会的な、知的な女性という印象を与えた。いかにも、 難解に先鋭化する現代文学を、胸先三寸に畳み込んでいる遣い手、 のように思われた。 しかしなんと言っても、私の中に残ったNという存在は、書 き文字を通じて鮮やかに定着されているのであった。 Nが私に最後に残していったのは、 「矜持が無い」 という詞であった。この烙印を数度にわたり続けざまに捺して、 Nは私の視界から消え去ったのである。 いま「矜持」と辞書で引いてみると、 「自分自身をエリートだと、積極的に思う気持ち。プライド。」 とあり、確かにNとのつき合いを通して、私には左様なものは全 く無かったと言える。 去年の五月、Nが、 「今回の○○(雑誌名)新人賞受賞作を読んで、感想を聞かせて くれませんか。」 と言ってきたことがあった。私はさっそく座り読み御免の書店に 赴き、その作品を読み、感想文を綴って自らのホーム・ページに 載せた。 その折、Nはどうもこの作品を評価していないように思われた 故、私の感想にも批判的な調子が混じった。相手の意を迎える卑 しさが、私には確かにあった。 依然として私は、何かを書かねばならぬと思いながら、何を書 けばよいのか判らないまま、暗中に模索していた。盲滅法に作品 らしきものを書いて、あちこちの雑誌やコンクウルに送ったが、 全く省みられなかった。 そこで私は、去年の六月に、××誌に送ろうと考えていた作品 の閲読を、Nに乞うた。賞を得る自信などは無かったので、正直 に、その旨を述べた。のちにNは、これを指して「矜持がない」 と非難したのである。 Nは私の文章を読んで、箸にも棒にもかからぬものと判定した ようであった。が、そうは言わず、 「××は傾向がはっきりしませんね。TさんやAさんを落とす とは何事たい、と思っています。」 とだけ、語った。TさんAさんとは、やはり将来は作家として 立つのだろうと思われる、Nと親しい人々である。お前は×× に出す資格など無い、と諷されたようなものであった。私は大 いに悲観した。 悲観した結果、私は、ネットの世の中から消え失せてしまい たいものだと考え、一と月の間、そうした。後でそれを知った Nは俄然、先に述べた如く、 「矜持がない」「精神病者」 等々の極印を私に加えた。端的に言って、Nは自分の詞がその ような影響を持ったことに、衝撃を受けたのである。 去年の七月末のことであった。数日にわたって続いた攻撃に 応対するうち、受像器に向かいながら私はついに鼻血を出した。 それでもNは手を緩めず、さらに、 「鼻血はティッシュを詰めれば治る、しかし心の傷は……いや、 皆まで言う必要はあるまい。」 と豪語したのだった。鼻血を出させるほどに相手を責めつけたと いう事実を認識できぬ位、Nの「心の傷」は深いもののようであ った。 先日、新聞を見ていたら、富岡多恵子という作家が、鼎談の中で、 「才能とは、それで生きていくよりない人間が行う、努力のこと である。」 と語っていたのを読み、私はたいへん感銘を受けた。 あれから一年して、矜持のない私は未だに、××誌に送るべく文 章を書いている。Nもまた、小説の稿を起こしているであろうか… …。黄色い絨毯に落ちた血の染みは、どこか判らないほど薄くなっ てしまった。
Entry15●伊勢 湊 文字数=3000 夜行列車深夜一時、食料と服を詰め込んでお気に入りのキャップを深く かぶり二階の部屋からこっそり月明かりの世界へ抜け出した。中 学二年にあがった頃から些細なきっかけで両親と喧嘩をすることが 多くなった。そして、ある日とうとう、喧嘩の理由は忘れたけど、 このままじゃやっていけないと家を出ようと決心した。僕は親の 奴隷じゃない。「誰に育ててもらってると思ってんの」なんてい って僕を支配しようとするのなら、出ていってやる。一人で生き るんだ。そうすれば誰も文句は言えない。そう思ってお年玉を積 み立てた通帳を持って月明かりの下へ躍り出た。初めて歩く深夜の 町は思ったより明るくて、なんだか空気が住んでいてとても気持 ちよかった。悪いことをしてるんだ、という認識と、未知の世界 に踏み込んでいる、という現実が闇の中の光と影の間でゆらゆら 揺れて僕の心臓の鼓動を強めた。 僕の町はすごい田舎町だけど夜中の二時に一本だけ列車が停ま る。駅のすぐ側に家があるユウちゃんはトイレに起きたときとか に何度か見たことはあるけれど誰も乗り降りしていないと言って いた。なんでも東京とずっと西を結ぶ長距離鈍行が走っているら しくて、いったいどんな人が乗っているのか僕には想像が付かな かったけど、とにかく、この列車でなら誰にも会わずに遠くへ行 けそうだった。「東京へいこう」そう声を出して言ってみると自 分でもびっくりするくらいドキドキした。なのに駅が近付くにつ れて、家を出たときは小走りだったのがだんだん足が重くなって、 駅舎の灯りを見ると思わず足が止まってしまった。 オレなにやってんのかな、なんて少し気弱になりながらも重い 足を引きずって駅に足を踏み入れる。あんまりお金ないし、もし かしたら補導されてしまうかもしれない。そんな不安要素が次々 と頭に浮かんだ。でも、きっと本当に僕の気持ちを落ち込ませて いるのは、たぶんあまりに素直になれなくて子供じみた考えをし てしまう自分と、それを分かっているはずなのになぜか親の言う ことがどうしても許せなくなってしまう、やっぱり自分自身だっ た。このまま家出しちゃうか中止にしちゃうか決められないまま、 列車が来たらそのとき決めようって考えて無人駅の形だけの改札 を抜けてプラットホームに出た。 「涼太くん…どうしたの?」 「うわっ!?」 左手から声がした。屋根が付いたプラットホームのベンチに人影 が一つ、二つ、三つ。夏を前にして田んぼの虫が群がる古い外灯 が人影を照らすけど、月と違って光が届く場所と届かない場所に はっきりとした輪郭を作り、上手く全体像が捉えられない。 「涼太くんでしょ?どうしたのこんな夜中に」 「川原…か?びっくりさせんなよ、おまえこそなにしてんだよ? まさか…」 家出か?と言いかけて口をつぐんだ。深い闇にやっと目が慣れて きて二人の人影が見えてきた。川原の両親。川原と幼馴染みの僕 は、小さい頃から家にもよく遊びにいっていた。近所の友達と何 人かでイチゴ狩りに連れていってもらったこともある。がっしり した体で明るい父親と、対照的にすらっとした細身で清楚な母親。 でも今日は二人とも、いや、いつも明るいはずの川原も含め三人 とも暗い雰囲気に包まれている。ベンチの周りには不自然なくら いたくさんの荷物が紙袋に入れられて置かれてある。どう考えて も家出じゃないし、この空気は、もっともっと重い。 「おまえ、どっか、引っ越すんか?」 川原は今度はうつむいたまま答えない。こんな川原は初めて見た 気がする。なんかすごく痛そうで、こっちも心が痛くなる。なの に聞かずにはいられない。 「みんな知ってんのかよ?なんでオレには言わね−んだよ!」 「ごめん」 そういってうつむく川原に代わって、おじさんが言った。 「涼太くん、ごめんな。恵にはオレが言うなって頼んだんだ。誰 にも言うなって。引っ越さなきゃならないのは全部オレのせいな んだ。恵を責めないでくれ」 そういえば川原のおじさんが誰かの保証人になったせいで大変な ことになっている、という噂話を商店街で小耳にした。でも、だ からって…。 「噂で聞いたことあるだろ?分かってくれるよな、涼太くん。だ から、ここで見たことは秘密にして欲しいんだ、誰にも」 「でも…」 「ねえ、お願い。私たち家族のために、ね」 おばちゃんがそう言ってあんまり入ってなさそうな薄い財布から 千円札を三枚抜き取って差し出してきた。僕はその手を弾いた。 三枚のうち一枚だけ落ちた千円札をおばさんが屈んで拾った。 「だから、そうじゃなくて…」 言葉が続かない。拳を握りしめる。ちくしょー、なんでだよ。泣 きそうになるのをじっと堪えて下を向いた。 「ごめんなさい」 おばちゃんがそう言いながらお金を財布に戻した。 「川原、おまえ、いいのかよ?」 搾り出した声はとても自分の声とは思えない。 「うん。ちょっと寂しいけど、行くわ。つぎ行くとこもいいとこ みたいだし」 わざとらしいくらい明るい川原の声は少し震えていた。でも泣い てはいなかった。凛としてそう言う川原の姿に悔しさと羨ましさ を感じた。そして僕はずっと一緒に過ごしてきた友達が一人、い なくなってしまうことを受け入れた。 「手紙、書けよな。ダメだったら住所書かないでいいから」 「うん、ありがとう」 僕は静かにゆっくりと大きく息を吸った。それからやっと顔を上 げて言った。 「おじさん、心配せんでいいよ。誰にも言わんから」 そういって振り向き三人を背にした。駆け出そうとしたとき川原 の声に呼び止められ一度だけ振り向いた。 「涼太くんは、なんでここに?」 「んっ?散歩よ、散歩。オレも夜中に散歩くらいしてもええやろ。 でも、もう眠くなったから帰る」 「うん…」 「じゃ…行くな」 「涼太くん、ありがとう。元気でね」 そのあと何か言いかけた気がしたが、川原はただ微笑んで小さく 手を振っていた。僕も何も聞き返さず「お前も元気でな」と言い ながら月明かりの降る町中に駆け出した。 そのあと僕はあんまり親と喧嘩することはなくなった。あの夜 の話は誰にもしていない。川原からはときどき手紙が来たけど、 やっぱり住所は書いてなくて少し寂しくなった。でも、きっとい つかは全てが上手くいって住所の入った手紙が来るだろう。 ただ、あれから僕は夜中たまに部屋を抜け出し、駅に列車を見 に行くようになった。あの日からなのか、本当はもっと前からだ ったのか分からないけど、いまでも川原のことが気になる。最近 は来年の受験に追われて夜更かしをすることも多くなった。高校 受験とはいえ自分で自分の道を選ばなければいけない時間が迫っ ている。 一年前のあの日と同じように窓を開け、屋根をつたい、比較的 低いところから柔らかく飛び下りる。慣れたものだ。親の寝室に 小さな灯りがついていた気がしたけど見返したときにはもう消え ていた。直接に光の当たらない闇にまで侵食する月明かりの中を 駅まで走る。そして外灯が照らすプラットホームから僕は何をす るともなくただ線路を眺める。川原からの手紙にはいくつかの辛 い状況も書いてはあったけど必ず最後には「わたしは元気です」 と書いてあった。僕には川原に伝えたいことがいくつもある。こ の線路の先のどこかに川原はいるのだろうか?列車が来て生暖か い風を起こし、しばらく停車してから去っていく。僕は駅の構内 に隠れていて列車が走り出すと自分の思いをのせるように去って いく列車をいつまでも目で追った。
Entry16●太郎丸 http://www.toshima.ne.jp/~takuto_k/index.html 文字数=3000 代償「そろそろ帰るわ」 ネクタイを結び終わった佐竹は、土産のケーキをぶら下げながら キッチンから出てきた早苗にキスした。 「今度いつ来れるの?」悲しそうな声で早苗が見上げた。 「今度の土曜は泊まれるから、なっ」 もう一度キスをすると佐竹は家路を急いだ。 「淳子。ケーキ買ってきたぞー」 佐竹が声をかけると妻の聡子と娘の淳子は、ケーキの声を聞いて 台所に集まった。 「わぁ、ラモールのチーズケーキだ。これって今評判なんだよね。 パパがこんなの買ってくるなんて、浮気でもしてるんじゃないの?」 「そんなに小遣い貰ってないよ」娘の冗談に、佐竹は笑い返した。 「バカいってんじゃないのこの子は。パパがそんな事するわけない でしょ。ねぇ」 聡子も笑って紅茶の準備を始めた。 【淳子ちゃん。誕生日のプレゼントは何がいいのかな? おじさん には選べません。明日は学校休みでしょ。一緒に選んで欲しいな。 連絡待ってます】 【淳子〜したいよ〜がまんできねえ。淳子のあそこにチュ】 【佐久間のおじさま。誕生日覚えててくれたんだ。感激です。明日 の3時にいつもの喫茶店で待ってます。淳子】 【弘之ったら、エッチなんだから、そんなメール貰ったら私だって 変な気分になっちゃうじゃないの(笑)明日はユッコ達と買物行く んだけど、3時の待ち合わせだからそれまではOKよ。昼頃車で迎 えにきてね。ニャンニャン】 「一度位、どっか泊りがけで出かけようよ。ね、いいでしょ?」 「そうね、今度の土曜だったらうちのは出張でいないから、どっか 温泉でも行こっか。でもヒロ君こんなおばさんでいいの?」 「なに言ってるんだよ。全然おばさんじゃないよ。聡子さんじゃな きゃ俺ダメなんだよ。今度の土曜だったら4時位に迎えに行くよ。 ね。じゃあどっか探しとくからさ。必ずだよ」 「うん。じゃ、連絡待ってるわ」聡子は、ちょっと潤んできた下半 身の火照りのせいか、甘えた声で受話器を置きながら、遊んでいた 左手の薬指をブラウスの上から尖り始めた乳首に移動させた。 「父さん。最近なんか若くなった感じがするわよ。いい人でも出来 たの?」久しぶりに帰って来た実家で、早苗は佐久間に笑顔を見せ た。早くに母を無くし、父ひとり娘ひとりの生活だったが、大学に 入った時から早苗は一人暮らしをしていた。だがたまに実家には戻 ってきていた。早苗はいけないとは思いながらも、高校生頃から続 いている父の身体が忘れられなかった。 「何いってるんだよ。それより早苗も早くいい人見つけて紹介しろ よな」佐久間はちょっと驚いて、娘はやっぱり鋭いなぁと感心しな がらも、話題を変えた。 「それよりせっかく帰ってきたんだから、一緒に風呂に入ろうよ。 久しぶりにお前の身体を見せてくれよ」 「もう父さんったら、エッチなんだから」早苗は風呂場へ向かった 父の後を追って、ブラウスのボタンに手をかけた。 「あぁ…。はふっ、うーん」 上になった聡子は、弘之の事を思い浮かべながら、やっぱり若い 子の方がいいなぁと、突き上げてくる佐竹の分身に突き動かされな がら、そのもの足りなさを感じていた。 「いくぞ、いいか? いいか?」 佐竹は若いピチピチした早苗の肌を思いながら、上になっている 聡子のぽってりとした乳房を両手で抱え上げた。 大きくなった弘之を咥えながら、淳子は佐久間のこってりとした 技巧のある攻めを思い出し、堪えられなくなった弘之を思わず噛ん でしまい「ごめん」と口の中に入った白いねっとりした液を飲み込 みながら言った。 弘之は淳子とはメールで知り合い、外でしか会っていなかったの で、聡子と苗字が同じだとは知っていても、まさか親子だとは思っ ていなかった。 佐久間と佐竹は同じ会社の同僚だったが、顔を知っているだけで、 まさか各々の娘と付合っているなどとは、もちろん夢にも思ってい なかった。 そんな三組が同じ日の同じ時間に、偶然にも同じホテルのロビー で待ち合わせをしてしまった。それが始まり、いや終わりだった。 最初に気付いたのは聡子だった。娘が見るからにおじさんと呼べ る年代の男性と腕を組んで歩いていた。 思わず柱の後ろに弘之といっしょに隠れ、大きくなった心臓の鼓 動を抑えようとしたが、その鼓動は大きな太鼓を叩いているように、 音響効果のあるロビー中に「ドーン・ドーン」と響き渡った。 あまりの大きな音になんだろうと、みんなが集まりだした中に佐 竹と早苗も混じっていた。 佐竹が聡子と目が会うと、聡子の鼓動は一層大きくなりロビーに いた人達は両手で耳を抑えた。 佐竹はというと焦って汗を流し、その滝のように流れる汗はハン カチで拭っても拭いきれるものではなく、集まってきている人の足 元に流れ始め、その汗で滑って転ぶ人が続出した。その中に淳子も いた。 転んだ拍子に叫んだ淳子の声に共鳴して、玄関脇の一枚ガラスに ミシっと音がするとヒビが入り、ロビー脇で営業していたラウンジ で休んでいた人達の目の前に置かれた水の入ったコップも割れ、騒 ぎは一層大きくなった。 パニックだった。ホテルの従業員達は元凶の聡子と佐竹、それか ら淳子をそれぞれの連れと一緒に、ホテルカウンターの後ろの小部 屋に連れていったが、それが大きな間違いだった。 それぞれの連れを目撃した彼らは、相手を大きな声で罵り始め、 その大きな声は高層ホテルの地下深く埋められた土台に影響し、ホ テルは振動を起こし、震度7でも大丈夫だと大見得を切っていたホ テルの従業員や、ロビーに居合わせた地方から出てきた客達の上に、 豪華なホテル自慢のシャンデリアがスローモーションでも見ている ように落下し、血の川を作った。 その血の川はロビーから玄関を出てタクシー乗り場を越え道路に 出、走ってくる車のタイヤをスリップさせ、スリップした車の1台 は道行く人達をなぎ倒し、近くの店のショーウィンドー目掛けて飛 び込んでいった。 最悪だったのは、スリップの影響で発生した玉付き事故で、最後 に当たって信号待ちしていた車が交差点に飛び出し、運悪く走って 来たガソリン満載の車にぶつかり、横転したガソリン車は交差点角 のビルにぶつかって爆発炎上したことだった。爆発と同時にビルが 傾き、しっかりしているはずの高層ビルが、観客の多くなった人達 の前で傾きが段々大きくなり、とうとう隣の高層ビルに肩を寄せた。 拠りかかられたビルはその又隣のビルに、まるでドミノ倒しの様 に次々と倒れていった。 ビルから落下するガラスだけでなく、人や机や、トイレットペー パーなどを避けながら、次はどっちに倒れるのかを予想しながら逃 げ惑う人達は、近くにいた占い師に聞いたが「ビルに手相は無いん で、私には解りません」と逃げられ、思い思いの方角へと逃げ出し た。 中にはどこ吹く風としゃがみ込んでいたり、ビルの下敷きになり ながらも、携帯で「スゲーんだぜ」と親指で打っている若者もいた。 ビルの倒壊でガソリンスタンドが爆発し、燃えながら飛び上がっ た車が離れた隣のスタンドへと飛び火し、そこも爆発という連鎖も あって、火は街中を舐めまわした。 東京は火の海と化し、新興宗教は火の中を掛け廻りこの国は滅び ると騒ぎ立てた。 自衛隊の通信基地も機能しなくなり、何を勘違いしたのか過激な 総理は、報復として世界中に持っていないと宣言していた核兵器ミ サイル発射を命令しそうになっていた。 ホテルの小部屋では、三組の罵り合いはまだ続いていた。
Entry17●一之江 http://www05.u-page.so-net.ne.jp/qd5/s-kumiko/ 文字数=3000 ウミウシ訓子が目を覚ますと、また島は下流にながされているようだった。 少しだけ、向こう岸の景色がちがうのだ。川幅も広くなっているよ うな気がする。まもなく海なのかも知れない、と訓子は思った。 天気がいいので洗濯物を干した。潮風のきつさも今ではもう慣れ てしまった。ややべっとりとした衣服も、むしろ自分の肌には何か 潤いのようなものを与えてくれる気がして、訓子はときおりその面 を指先で弄んだ。カモメが頭上をにぎやかに舞った 「今日は来るよ」 笑うように、カモメは言った。訓子ははるか頭上をぐるぐる旋回 するカモメをじっと見上げた。 「そう?」 「うん、きっとね」 カモメは一声大きく鳴くと、どこかへ飛び去っていった。訓子は微 笑んでそれを見送った。 部屋にもどり、小さな鏡台の前に座った。目の下に、うっすらとだ が隈があるように見えた。寝不足だったのかも知れない。そういえば 昨夜は、波のとどろきがやけに耳についてなかなか眠りに落ちること ができなかった。こわい夢を見るような気がして落ち着かなかったの だ。 あかるいときはこんなに清々しい気持になれるのに、暗闇に一人で いるのはやはり不安だった。 訓子は唇にうすく紅をひいて笑みをつくった。そうすると、急に表 情が華やいで見えた。満足して鏡の中の自分に微笑を向ける。ゆっく りと、立ち上がった。 潮風に吹かれながら島の端に歩いた。日はずんずん高く昇り、訓子 の頭上を激しく照らした。ときおり額に手をやって川面を見渡す。し かしまだ、何ものも見えてはこなかった。 小さなため息をもらして、訓子は島の端に腰をおろした。 カモメの鳴き声が遠くから微かに聞こえてきた。訓子はそちらの方 向へぼんやりと視線を漂わせた。カモメの鳴き声は、少しずつこちら へ近づいてくる。訓子は唇の端をわずかに歪めた。 まもなく数羽のカモメを従えた船の姿が見えた。訓子は立ち上がる と、目を細めてそれがこちらへ近づくのを見守った。 「今日はいいアサリがありますよ」 男は船から島に降りると訓子に笑いかけた。「大粒のイキのいいの がたくさん」 訓子は男が差出したバケツを覗きこんだ。ぴたりと閉じた貝のあい だから黒い二つのつぶがにょきにょき飛び出ているアサリがひしめい ていた。 「これから味噌汁なんか、いいですよ」 「食べていってくれるの?」 男は答えずに、にやにや笑った。 「他には?」 「うん、今日はこれだけ。あと、これ、ウミウシ、と」 訓子はそのバケツの中を覗いた。ぬおっとした固まりがうねうねと うごめいていた。 「よかったら、あげますよ」と、男が言った。「一人で寂しいんだっ たら」 「ありがとう」と、訓子は答えた。「かわいいわね」 男は笑うと、訓子の手をとった。訓子は彼の手を引いて、自分の家 へと歩き出した。 家へもどると、訓子はたくさんのアサリを塩水にしばらくつけてか らざばざばと洗った。大きな鍋にたっぷりの湯をわかす。男はいつも たくさん食べた。この前はマグロを一匹ほとんど食べた。訓子がちょ っとつまんだのを除いて。それでもまだ足りなさそうに不満のため息 をもらしていた。仕方ないので庭で育てているキュウリを出すと、そ れをまるごとぼりぼり食べた。 今日もきっとアサリだけじゃ足りないだろう。 訓子は大鍋いっぱいにアサリの味噌汁をつくりながら、男に食べて もらえるものを考えた。キュウリは小さいのがいくつか残っているだ けだった。ワサビがあったが、ワサビまるごとを男が喜んで食べるか は訓子にもちょっとわからなかった。もっといろいろつくっておけば よかった。しかし、男はしじゅうやってくるわけではなかったし、訓 子はあまりものを食べない生活をしていた。 「いい匂いですね」 男がバケツを手に訓子のそばにやってきた。「お腹が減ってきたな」 訓子は男に体を寄せながら、大鍋に山盛りの味噌を溶いた。男は訓 子の肩に手をまわした。バケツの中でちゃぷん、と音がした。 たくさんのアサリの味噌汁を、男はやはりあっという間に平らげた。 すぷりすぷりと貝殻からアサリの身を唇ではがして吸い込みながら、 うまそうににこにこと笑って食べ続けた。訓子はそのようすを見守り ながら、ほんの2、3個のアサリとわずかな味噌汁をすすった。バケ ツから、ちゃぷん、と音がした。 「ねえ、足りないんでしょう」 訓子は頭をのけぞらせて碗をすすっている男に言った。「でも、食 べてもらえるものがなくって」 「ううん」 男はあわてたようすで首を振った。「最近はもう、そんなに食べな いんだ。食べようったって調達できないのもあるけど。それに慣れち ゃったのかな」 男は碗の中をひとなめすると、ごちそうさま、と言って横になった。 「ちょっと寝てもいい?」 「どうぞ」 「おいでよ」 訓子は笑うと男の隣に並んで横たわった。 男の首筋のあたりに鼻をあたまをつけて目を閉じる。塩辛い汗の匂 いがするどく鼻孔を刺激した。訓子は男の鎖骨に自分のほおをむりむ りとこすりつけた。男はそれでもよほど眠かったのか、すぐに静かな 寝息を立て始めた。 バケツの方から、ちゃぷん、と音がした。 訓子はうねうねとうごめいているウミウシの体を頭に思い描いた。 ちゃぷん、と、はねているのだろうか、息でもしてるのだろうか。ウ ミウシは何を食べるのだろう。自分と一緒に暮してくれるのだろうか。 ちゃぷん、ちゃぷん。 ちゃぷん。 ヨーデルの歌声で訓子は目が覚めた。隣にいたはずの男の姿は見え なかった。訓子はあわてて立ち上がると家を出た。 庭先に男は立っていた。訓子はほっとして男の背中に触れた。 「ずいぶん派手だね」 男は訓子を振り向くと、向こう岸を指差した。そこではスイスの民 俗衣裳に身をつつんだ一団が、こちらに向かってヨーデルを高らかな 声で歌っていた。 「ヨーグルト売りなの」 訓子は男を見上げて言った。「ときどき、山の方から下りてくるみ たいなの」 ヨーデルの一団は晴れやかな表情で手を振りながら、籠を掲げてみ せた。ヨーグルトがたくさん入った籠。 「買ったことはあるの?」 「ううん」 訓子は首を振った。「だって、向こう岸にはあたしは行けないから」 「そうか」 男の足下のバケツから、ちゃぷんちゃぷん、と音がした。おもわず 訓子はバケツを見下ろす。ウミウシがくねくねとせわしなく体をうご かしていた。 「こいつが騒いだんだよ」と、男が笑いながら言った。「あの歌が聞 こえてきたら。だから連れてきたんだ」 ウミウシはヨーデルのリズムに合わせて華麗に踊っていた。ヨオレ リヨオレリレエリレリホオウ。 訓子はしゃがみこんでウミウシの踊りをじっと眺めた。レエリレリ ホオウ。 「ヨーグルト買ってきてもいいかな」 男はにやにや笑いながら訓子を見下ろした。「食べたことないけど。 なんだかおいしそうだから」 「あたしの分も買ってくれる?」 「もちろん」 男は大きくうなずいた。「きっともうすぐここも海に出るよ。そし たらもう、あんなの食べられないかも知れない」 そう言うと、男はバケツを手に持った。「これを代金にします」 訓子は弱々しく微笑むと、うなずいた。 「また今度、かわいいのを連れてくる。だから」 男は訓子の耳にキスをすると、船のある場所へと歩いていった。ヨ ーデルの一団は訓子に向かって激しく手を振った。訓子も笑って彼ら にたくさん手を振った。ちゃぷん、と、男がぶらさげたバケツから、 大きな音が聞こえた。
Entry18●逢澤透明 http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/2435/ 文字数=3000 肉体の輝き深夜まで仕事をして、誰もいない部屋に帰ってくる。玄関を開け てひっそりとした暗い部屋に入る。三十を過ぎて一人暮らし。田舎 の母からは見合いしろ結婚しろと圧力がかかる。別に結婚したくな いわけじゃないけど、つき合ってきた男はどれもロクでもないヤツ ばかり。気がつけば周囲はみんな片付いていて、気に入った男は 皆、既婚。笑うのが苦手で仕事が好きで、男に媚を売ろうともしな い女がこの歳になれば、十人並みの容貌をどんなに化粧でごまかし ても、言い寄る男はほとんどいないし、言い寄る奇特な男をこちら が気に入るわけもない。 寂しいのは私だけじゃないと言ってみたところで、この寂寥感が どこかに吸い込まれていくわけでもなく、暗い部屋は暗いままで留 守電のランプすらついていない。 あかりをつける気もおきず、三万八千円で買った安物の通販ソ ファに座り込む。窓のカーテンの隙間から街灯の光が差し込んで、 ぼんやりと私の身体が照らされる。私は今日の昼休みに立ち寄った デパートの輸入雑貨コーナーで買ったヘンケルの赤いキッチンハサ ミをバックから取り出してソファの前にあるガラステーブルの上に 置く。 そして、いつものように両手を開いて、目の前にもってくる。 私の手にはなんの特徴もない。 切り傷ひとつ、ついていない。 秋津美紗子というあまり有名でない昭和初期の作家が好きで、特 に「日暮生活」という自伝を何度も読んでいる。明治三十三年だか 四年だかに、瀬戸内の島で貧しい漁師の三番目の娘として生まれた 彼女は、十八歳になると勤めていた郵便局を突然辞め、先に進学の ため東京に出ていた幼なじみの秋津喜一郎を頼って上京。同時に二 人は結婚し、赤ん坊をもうけた。けれどもアナーキスト詩人として 活躍していた喜一郎は、戦争の色が濃くなってくると政府から弾圧 を受け、投獄された後、原因不明の獄死。その後、流行病で幼い子 供も亡くしてしまう。三十を前にひとりになった美紗子は、女給と して働きながら雑誌「婦人会」の新人賞に小説を投稿。見事入選し て作家となった。しかし、いくつかの作品を発表した後、庶民の立 場から社会を見据える作風から戦中は作家活動を停止せざるを得 ず、また終戦後には精神的な病のため、思うように執筆できなく なった。 自傷癖。 東京が空襲に見舞われるころから彼女は自分で自分を傷つける病 に悩まされた。ナイフや包丁、あるいは鋏で自分の腕や足、時には 胸や顔さえも傷つけた。そのあまりの酷さ耐えきれず、彼女は自ら 精神病院へ出向き、入院した。担当した医師が、彼女の小説を読ん でおり、彼の強い奨めで、自伝を書き始めた。これが後に「日暮生 活」として出版されることになる。だが二年四ヶ月に及ぶ治療は芳 しい効果もなく、最終的に病院を脱走した彼女は、岡山から故郷の 島へ渡る途中、連絡船から瀬戸内海へ身を投げてしまう。 彼女がなぜ自分を傷つけるようになったのか。 この疑問に答えるのはひどく難しい。特別な人気のない彼女には 評論らしきものもなく、たよりになるのは数少ない小説の巻末にあ る解説と、彼女自身による「日暮生活」ぐらいだ。 ところが解説といえば、同じ人間(鶴城真一という大学教授だ) が繰り言のように同じ話を書いているだけで、何冊読んでも情報は 増えない。一方「日暮生活」は、もともと空想好きだった美佐子が 精神的におかしくなっていたこともあり、自伝といいながら現実と 妄想が区別なく書かれている。そのうえ、五〇年以上もたった今で は、そこに書かれている出来事のどれが事実であり、どれが虚構で あるのか、また虚構が何を暗示しているのか、確かめようもないこ とばかり。 唯一の解説者である鶴城氏によれば、晩年、彼女が自傷癖にとり つかれたのは、夫と子供の死があいつぎ、しかも社会情勢上、小説 を書くことすらも禁じられたことが、精神を蝕んだのだと、あっさ りと何の疑問もなく説明されている。 しかし、ほんとうにそうだろうか。 鶴城氏は触れていないが、「日暮生活」には、彼女が自傷行為に 及ぶにいたった過程が書かれてある。 「日暮れ時に、ぼんやりと長屋の二階からおもてをみていると、な んだか急に、落ちていく夕陽のかわりに、なにか明るいものを用意 しなければとおもいました。(中略)そうして、ああ、わたしを切 り裂けばよいのだ、そう考えたのです」 そして彼女は「まっすぐ台所へむかい、立てかけてあった包丁 を」つかんで、しかも「水ですすいで」から、左手の甲を「切りひ らいた」のだった。 「わたしは微かに痛みを感じながらも、ぼんやりとその光をみてい るのだった」 この章の記述はここで終わっている。いったいどうして「明るい もの」がほしくて自分を傷つけるのか、そして、最後に彼女がみる 「光」とはなんなのか。 「日暮生活」の最後の章にある、精神病院での医師とのやりとり に、こんなくだりがある。 「先生。先生はお医者様だから、わたしよりなんでも知っていらっ しゃるようですわね」 と、体温をはかりにきた菅谷先生に、わたしはまたちょっかいを 出してみました。 「いやいや、わたしはね、精神科の医者なんぞをやっておりますが ね、人間のこころというものが、とんとわからないのですよ。あな たのほうがおそらくよく知っていることでしょう。さあ、わきをあ けて」 菅谷先生はいつものように、わたしのわきのしたに、体温計をは さみこんでくれました。 「まあ、ご謙遜。わたしだって人さまのこころなんて、わかりませ んわ。それでも先生。からだのことなら、先生の知らないことを しっておりますわよ」 「ほう、なんでしょう」 「先生、手術で生きている人を切ったことはおありでしょう」 「ええ、これでも医者ですから」 「でも、先生、暗闇のなかで切ったことはないでしょうね」 先生はすこし驚いたような困ったような顔をして、目の玉をくる りとまわして、わたしは先生のその表情が五歳のこどものようにあ いらしく、いとおしい。 「ええ、そういうことはないですね。暗闇では手術ができませんか らね。それで、それがなにか」 「先生、わたしたちのからだの内部は輝いているのですのよ。皮膚 に遮られてみることはできないのですけれど」 「まさか、わたしは明るいところでは切ったことがありますが、光 などなにも見えませんでしたよ」 「フフフ、先生、空に浮かぶお月さまも昼に顔を出すときは、光っ ておりませんでしょう」 私は両手を眺めるのをやめて、ソファから立ち上がり、ベッドの 下に隠してある旅行用のスーツケースを引っぱり出す。そして、ソ ファの前に戻り、スーツケースを開けて、中身をガラステーブルへ 並べる。数は百以上あるだろう、それらは小さなガラステーブルの 上には乗り切らず、床へと進出する。柳刃、薄刃、出刃、洋包丁、 三徳包丁、中華包丁、ペティナイフ、アーミーナイフ、アウトドア ナイフ、ダイビングナイフ、カッターナイフ、剪定ハサミ、芽切り ハサミ、クラフトハサミ、キッチンハサミ。 私は左手を開いて、目の前にもってきて、今日買ったハサミを右 手にもつ。すると、彼女が現れる。安物の通販ソファに座る私を見 下げて立っている。 彼女はいつもきまって同じ事をいう。 「知らないでよいことだって、あるのよ。世の中には」 私はハサミを放り投げ、そして笑った。大声で笑い、それから卑 屈に笑い、無理矢理笑い、笑いに笑って笑いながら、泣いていた。
Entry19●瀬田 春風 文字数=2946 遠い海から来た人 彼は、「遠い海からやってきた人」だった。 静かな物腰と、白い肌に纏わりつくような赤い髪が何よりも彼のこ とを物語っていた。「遠い海からやってくる人」は、私たちには何の 害もない。ただ彼らのその赤い髪や、白い素肌を見ていると何かしら やましい気持ちになるのだ。 ある者は言う。「彼らは神なんだよ」 ある者は言う。「彼らは魔性のものさ」 どちらも本当かもしれないし、違うかもしれない。 「遠い海からやってきた人」に聞いても、彼らは笑うだけで返事を返 さなかった。 もう一つ、彼らの特徴がある。彼らの目は、一度も開かれることが なかった。盲目なのだ。その真の目を見たものは、彼らのとりことな ってしまうという噂さえ流れている。眉目秀麗な彼らの目が閉じられ ているというのは、何かしら禁断の香りを漂わせていた。完全なもの の欠陥。その欠陥さゆえに、彼らはさらに完全体であった。 私が彼とであったのは、ある冬の日の浜辺であった。どんよりとし た空に、灰色のにごった海水が押したり引いたりしていた。海かもめ が時々悲しげな声を空に張り上げながら旋回していた。周りには冷た い空気だけがあり、私の他に誰も浜辺を歩こうなどという殊勝な人の 面影はなかった。 私はただぼんやりと砂浜を歩いていた。コートの襟を立て、自分の ことを考えていた。この数年間、否が応でも会社の雑務に追われてき た日々。働くことが楽しかった日々もあるが、それはいつの頃からか 惰性にとって変わった。そんな自分を客観的に見つめている自分が嫌 で、ある日妻にも何も言わずに退職届を出した。 「いいんじゃないの。また新しい仕事を探せば。休息だと思ってしば らくゆっくりしてみれば。」 思ったよりも妻は冷静に受け止めていた。小さな美容店で働く妻は、 自分に技を身につけているせいなのか、金銭面の不安さえも口に出さ ず、私の言葉を素直に受け止めてくれた。 何日もただぼんやりと家で日々を過ごし、家事をこなし、気が付い たら私はそうして冬の海を歩いていた。 私が行く海岸には、岩場と砂浜が混在している。釣りにはいいが、 海水浴には少し危険といえる場所である。しかしその分酔狂に遊びに 来る人の数も少なく、空き缶や花火の跡などに汚染されずにきれいに 自然のまま残されていた。 そんな岩場に、ゆらゆらと浮かんだ赤いものを見たときにオカルテ ィックな感傷を抱いたことはいたしかたなかったのかもしれない。 海くらげのようにゆらゆらと揺れるものは、赤く長い男の髪だった。 よくあるような茶色っぽかったり、金髪が交じり合うような赤毛では なく、深紅の、血の色の髪だった。それは海水の満ち引きによって、 ゆらゆらと揺れていた。 私は恐る恐る近寄って岩場に引っかかっているものを見た。若い男 だった。透けるような肌は、冷たい海水の中に沈み、白を通り越して 青白くなっていた。そしてその両目はしっかりと閉じられていた。 本来なら、すぐにでも近寄って助け起こさなければならなかったの だろう。だが、そのときに私が思ったことは「見なかったことにして 立ち去りたい」だった。実際私の足はすくんで動かなかったのだ。 そんな時に、男の口がかすかに動いた。いや、気がしただけなのか もしれない。しかしそれは瞬間的に私を縛っていた緊張の糸を切るこ ととなった。 私は駆け寄ると、急いで若い男を引き上げにかかった。男は身体に 何も身につけてはいず、ぐったりとしていた。私は同姓の裸体に思わ ず目をそらした。ただその唇が鮮烈な赤い色をしていたことだけが印 象に残った。「冬の海」「深紅の髪」それよりなぜこの男は冬の海に 浸かっているのだろう。「遠い海から来た人」という言葉がやっと私 の頭に浮かんだ。今まで気付かなかった方がおかしいのだ。 私は男をコートでくるむと、そっと血の気を失せた頬を叩いた。わ ずかな反応があった。男の身体は冷え切っていたが、致命的というほ どではなかったようだ。私はホッとすると同時に、関わってしまった ことを同じに悔いてもいた。 男はそっと手を伸ばして私の手を握ると、「ありがとう」と一言い った。私はうなずいたが、後で男は目が見えないことに気付いた。 私はとりあえず男を支えると、今はもう誰もいない「夏の店」へ向 かった。夏の海水浴客のためのちょっとした店だった。夏にはラムネ やパラソルが並び、色鮮やかになるのだが冬の今は、灰色にくすんで そこにあった。商品が何もないからなのだろうか、木の戸をそっと押 してみると意外に簡単に戸は開いた。 中は板ではなく、床が土のつくりになっている。誰か花火でもした のか、何かの燃え屑が残っていた。私はポケットに入っていたライタ ーでそれらに火をつけると、男に身体を温めるように言った。 私はそのまま小屋を出て、何か燃えるものを探しに歩いた。岩場に 生える木の枝を何本か折って持ち帰っては、小さなキャンプファイヤ ーにくべた。男は眠っているのか、起きているのかわからなかった。 じっとして、ただ静かに状況をあるがままに受け止めていた。 見かけが派手なだけに、それは何かしら荘厳で、そして同時に邪悪 な感じがした。ただ男の周りには見えない何かがあった。気配が違っ た、色が違った、感じる空気が違った。私はそれに飲み込まれそうな 気がして、少しはなれたところに座って、男が身動きをするのを待っ た。 その間私は男を十分観察することができた。相手には自分が見えな いということの優越感が私を大胆にしていた。会社ではどんな時も人 の顔をじっくりと観察することなどなかった。そんな私が、彼のこと をくまなく見ていた。その髪も、すっと整った鼻梁も、閉じられた瞳 も、コートから出た白い肌も、見た。 ふと気付くと、男は私の傍らににじり寄って来ていた。私は少し後 ずさりした。してはいけないことをしてしまった小さな子供のように 私は自分のことを恥じた。男は私の向かいに居直ると、 「私には見えません、あなたがどんな顔をしているのかも、背が低い のか、高いのかさえも」 といった。 「少し触ってもいいですか?」 私は恐れに、思わず身を引いたが、彼にはわからないようだった。 私の良心が痛んだ。そして思わず返事をしていた。 男はまず私の両頬をその冷たい白い手で包んだ。そして、私の髪を 優しくなで、鼻梁を指先でたどり、唇に優しく触れた。私の閉じられ た瞼をそっとなぞり、その手はしだいに肩の方へと下りていった。し ばらく男は私に触れていた。私はまるで時が止まっているかに感じた。 男の指先が私から離れた時、私は思わず男を突き飛ばしたい衝動に駆 られた。しかし逆に男は、初めて男と肉体関係を持った処女のように 頬を紅色に染めていた。男は興奮していた。 「意外と思ったよりは若かったのですね。背も高そうだ。こちらに来 てから初めてできた友達があなたです。」 男はそう言うと、長い赤い髪を後ろに掻き揚げた。静かな表情にわ ずかに歓喜の笑みが浮かんだ。なのに相変わらずその両目は静かに閉 じられている。 いきなりどっと疲れが来た。私はそっと小屋から這い出ると、後ろ を振り返らずに冬の浜辺を歩き去った。まるで何事もなかったかのよ うに、灰色の海は打ち寄せ、海かもめは悲しげな声を冷たい空気に響 かせていた。
Entry20●瀬小林 祐悟
http://ip.tosp.co.jp/i.asp?i=xsouzou 「ゆーご」と「創造塾」のページ
文字数=2198
{[ (^-)(-^) ]} (フタリノセカイ・・・刹那的恋愛)
{[(^-) ]} (-^)・・・トウトウ
{[(^-) ]} (-^)・・・キチャッタ
{[(^-) ]} (-^)・・・ドウシテモ
{[(^-) ]} (-^)・・・アイタクテ
{[(^-) ]}ヾ(-`;) リサデス。イイカシラ
{[(^-)ヨイヨ ]}(ー`)/ オジャマンボー☆スルネ
{[ (^-)(-^) ]} ズットアイタカッタンョ・・
[しばらく ふたりのせかい・・・・]
とうとう出会ってしまった運命のフタリ・・・。
このヒトだったのネ。すぐにわかるのさ。
少しでも話をしてみると。
素直な自分でいられる。
そういうフタリだったから・・・・
激しい恋愛の予感がした。
それは不思議な出会いだった。
ふいにお互いが偶然にも出会ってしまった。
逢瀬を重ねるたびに想いはつのる・・・・・
なにも手につかなくなる時は増してゆき・・・・
連休中の二泊三日、
彼女はとうとう家出・・・・外泊の始末。
夜が深まりゆく・・・
ますます濃度は加速していく・・・・・
ただただずっと一緒にいるだけさ。
見詰め合い、目をそらし、
ゆるやかに抱き合うフタリ・・・
激しさもやがては飽和し、
お互いの存在がただ切なくなってきて・・・
途切れていた会話。言葉にはならなくて。
今夜はずっと一緒にいれるのよね・・・。
ようやくそれに気づき安心したら、
なんだか馬鹿みたい。
いつもの自然なフタリの会話が始まるというよ。
りさ :ゆーごは本当は女の子なんでしょ。
とっても可愛いわ。ヽ(´ー`)ノ
ゆーご:どこが?25歳のいいオッサンだよ。
ヒゲの生えた女の子なんて
気持ち悪いぜ。(´Д`)ノ
りさ :それはあなたの外見のことでしょ。
ゆーごの中身は女の子よ。
だって、あなたにそっくりな女の子、
教室にいるもん。
いつも詩とか書いてて・・・。
しかもとっても明るいのよ。
なんだかふわふわしてて
浮いてるような感じの瞳をしている。
ゆーご:へー。そんなもんかな?
そういやそんなことを言うヒトもいるね。
りさ :(¬_¬)ジロ ・・・・。
もう!!
ほかのヒトのハナシなんてしないでよ。
ゆーご:するどいのね・・・・・。 (´Д`|||)
りさ :そんなのすぐわかっちゃう。
可愛いわね・・・・。ヾ(´○` )
ゆーご:ちっとも可愛くねーよ。(´Д`;
りさ :えっ!? (ノ゜ο゜)ノ
ゆーご:テメエだよ。
言っとくけどオマエぐらいの
年頃の女の子には一応はよ
普段は「先生」って
いわれてるんだぜ (;.−)y^^^^^
りさ :それ笑っちゃう!!
きゃはは。
Ψ(`∀´)Ψ 本当はこんななのにね。
結構尊敬とかされてたりするんだ?
(*^ー^)ノ~~☆:
ゆーご:実はね (´Д`)ノ
りさ :ふーん。やっぱそうなの??
実は大人なんだネ。
わたしかなり年下だけど
ゆーごを支えていけるのかしら。
前に好きなタイプの話をした時に
そういってたよね。 ( ・_・。)
ゆーご:あれ??
自分のことを年下に思ってた訳??
(´Д`)ノ
ヒトのこと「可愛い」とか言いやがるクセに。
だいたい、下の名前で呼んでくるじゃねーかよ、
呼び捨ててでさ。
りさ :先生ゴメンね ( ・_・。)ノ~~☆
これからは先生ってきちんと呼ぶね。
ゆーご:(´Д`|||)
それはヤバイ感じになるから止めてね。
マジで。
大体、先生だなんて呼ばれたくねーんだよ。
仕事の時だけにして欲しいよ。
理想的な聖職者になり続けるのは、
しんどいのだよ。
りさ :ヾ(@°▽°@)ノあはは
犯罪者だね「センセ」
ゆーご:ワザとだろ。ワザとか。
クソー☆からかいやがったな
Σ( ̄□ ̄;
りさ :(^-)/
ううん そうでも ないDE~~~
{[ (;.−)y^^^^^ (*^-')ノ~ ]}
(続く・・・・・・かどうかはわからない。)
このハナシは大方のところフィクションのつもりです・・・
今、僕はえらく年下の娘と付き合っています。
彼女は超明るいクセに
時々シリアスな一面もみせてくれます。
「ただ楽しければいいのよ」そういう人生観。
そこのところがすごくお互い気に入ってます。
気楽です。このヒトといると。
絶対的に安心できるヒトが存在していると
なんだか僕も集団行動が
できるような気がしてきます。
どんなことがあっても、彼女がいますから・・・・
ただ、こんなに激しい若若しい恋愛は
懐かしいというか
久しぶりなので
なんとなく刹那的な恋愛になりそうな気がします
僕が初恋の相手らしいですよ。なんてこった。
やがて彼女にも僕にも、
別の好きなヒトが現れると思います。
なんとなくそれはお互い
わかってるような気もします。
それまでの束の間かも知れませんが、
じっくりと
僕も彼女もフタリノセカイを楽しいみたいです。
ではまた (*^ー^)ノ~~☆:.・*.マ.:タ.:ネ
Entry21●蔵田 燐(くらた りん) http://www.geocities.co.jp/Bookend-Shikibu/9280/ 青空文学館 文字数=2699 暖かい雨 「ねえ、マジ」 「だからやるって言ってんじゃん」 森島あつきは中川裕介の返事にため息をついた。 五月。二人の上に広がる青空。音もなく流れていく雲。遮るもの は何もない。足元から昼休みのざわめきが伝わってくる。しかしゴ ールデンウィーク明けの校舎は、どこか気だるさを残しているよう だった。 いつの頃からか自殺という単語を口にするようになった中川。生 きてたってしょうがないじゃん。それが自殺の理由。だからって死 ぬことないじゃん。あつきはそれ以上の言葉を返せない。そして今、 二人は自分達の通う高校の屋上にいる。中川が今日と決めたのは、 雨が降ったら濡れるから。 「なんで死ぬわけ」 「何回も言ったろ。お前、生きててなんかいいことあった?」 「ないよ、けど…。お前、好きなヤツとかいないの」 「何それ」 「だから、いればそいつのこと思ったら死ねないだろ」 「いない」 いともあっさりした答えだった。 「じゃあさ、オレはどうなんの。友達ひとり減っちゃうんですけど」 それまでフェンス越しに校庭を見下ろしていた中川が、座ってい るあつきの隣に腰を下ろした。太陽だけが一億五千万キロの彼方か ら二人を見ている。 「友達なんてすぐにできるだろ」 黙っているあつきに中川は続ける。 「お前んちのオヤジとお袋って仲いい?」 「ああ?」 「うちの親見てると思うわけ。なんで結婚したのかなあって」 「うん」 「二十年くらい前?恋人だったわけじゃん。で、好きだから結婚し た」 「ああ」 「でも変わってくだろ、いろいろ」 「まあね」 「友達もおんなじってこと。大学行って就職してバラバラになれば、 自然に会わなくなる。そうだろ」 「そうかな」 あつきは反論したかったが、やはり言葉がみつからなかった。 「じゃ、オレそろそろ行くわ」 中川はフェンスによじ登ろうと手をかけた。 「ナカ、ちょっと待てよ。待てったら」 目の前で人が、それもよく知っている友人が自殺を図ろうとして いるのに、夢の中のように体が重く止める手に力が入らない。 「おいっ!」 背後からの大声に二人が振り向くと、校舎との出入口のドアの前 に蒼白の男性教師が立っていた。と、次の瞬間には腹の出た中年と は思えない速さで中川に駆けより、フェンスから引きずり下ろした。 火事場の馬鹿力ってこういうことかと、あつきは思った。 退屈な生徒達の日常に刺激を与えてしまった二人は、それからし ばらくの間好奇の目にさらされることになり、顔を合わせることす らできなくなった。死ななかったんだからよしとする学校側に、中 川は母親を呼び出されたものの、形ばかり事情を聞かれただけで終 わった。しかし、あつきの方は頭に血がのぼった担任にさんざん問 いつめられた。 「じゃあ、森島君は中川君が自殺するって以前から知ってたってい うの」 「あ、はい…」 「どうして誰にも相談しなかったの!」 「いや、あの、相談って、そういう問題じゃ…」 「じゃあ、どういう問題なのっ!」 「金子先生、落ち着いてください」 苦虫を噛み潰した顔で教頭が割って入る。 「中川君が飛び降りようとするのを君は黙って見ていた。そうだね」 「黙って見てたわけじゃ…」 「でも、止めなかった。それはなぜ」 「ナカ、中川の言ってることが正しいっていうか…よくわかるから …止められなかった?」 首をかしげるあつき。 「中川君の言ってることって?」 金子が血走った目を向ける。 「生きてたってしょうがないって」 ひいっという悲鳴が金子の口から漏れた。長い間教師をやってい るけどこんなことは初めてとか、あなた達の世代は残虐なゲームや 漫画で育っているから命の大切さがわからないという意味のことを ブツブツつぶやく金子を、興奮しないでと教頭がなだめる。 「先生にはわからないと思う」 はっきりとした口調に金子と教頭はハッとして、あつきの顔を見 た。 「命がどうとかじゃなくて…。もし中川が苛められてるとか、なん か悩んで死ぬっていうんだったら、オレ絶対止めてた。誰かに相談 したかもしれない。けど中川が言ってるのはそういうことじゃない んです。うまく言えないけど」 ついに教師や両親が納得できるような答えは、二人の口から得ら れなかった。一時は、またこんな問題を起こされては困ると二人に 精神鑑定を受けさせる話まで出たが、結局何も処分が下されること はなかった。 梅雨に入ったのか、ここ数日すっきりしない天気が続いている。 帰宅したあつきはケータイを取り出して自分のベッドに寝転がり、 中川のそれにかけた。何度か呼び出し音が鳴って相手につながった。 『もしもし』 『あ、ナカ?やっとつながった』 『ああ、お前も切ってただろ』 『イタ電めちゃめちゃすごくて』 『オレも。悪いな、お前にまでヤな思いさせて。金子、すごかった んだって?』 『別に。お前、森島には関係ないって言ってくれたんだろ。だから 退学とかなんなくてすんだんだって、うちの親言ってた』 『違うよ。これが表沙汰になったらヤバイじゃん。なんで退学にな ったのかって。自殺未遂ってわかったら学校の名前に傷がつくじゃ ん』 『そっか』 『そういうこと』 『まださ』 『ん?』 『死にたいと思ってる?』 『う〜ん、どうかなあ。当分やめとくわ。今度失敗したら間違いな く精神病院入れられるし』 『でも、いつかはやる?』 『多分ねー』 『あのさ、初めて話した時のこと覚えてる?』 『あつきと?体育祭かなんかん時?』 『じゃなくて、雨の日』 『ああ、傘』 『そう』 『入れてもらったね、そういえば』 遡ること一年前。新入生の肩書きもとれた頃。下校間際に降りだ した雨。あつきは、濡れながら自分を追い越して走っていくクラス メイトに声をかけた。 『思い出した?で、思うんだけど』 『うん』 『ナカの話さ、ナカの言う通りだと思うんだけど』 『なんの話』 『だから、いつか友達じゃなくなるって話』 『ああ、それ』 『でも、やっぱオレ、傘忘れたら入れてほしいわけ。お前が持って なかったら、また入れてやるし』 『サンキュー』 『だから死ぬの、ちょっと延期しない?』 『ちょっとって?』 『例えば卒業するまでとか。なんか、そういうのってオレにはすご い大事だから』 『傘が?』 『傘だけじゃないけど。何言ってるかわかんないか…』 電波のフィルターを通した小さなため息が、中川の耳に届いた。 『すごいよくわかる』 中川は立ち上がって部屋の窓を開け、ケータイを持っていない右 手を外に出してみた。手のひらにあたる雨が、次に来る季節を教え てくれている。 『あったかいわ、雨』 『雨?お前、どこにいんの?』 『いや、うちだけどさ。あつきの言ってることわかるよ』 『ほんと?じゃあ、それだけだから。切るわ』 『ああ、また明日』
Entry22渡瀬ミウ(わたせみう) http://www31.tok2.com/home/MIU 文字数=2245 帰り道 近くの神社でお祭り騒ぎ 暗い道 そこを抜ければほら、人だかり 楽しそうな笑い声 うれしそうなはしゃぎ声 風が色々運んで来る 今日は縁日… 「ねぇ、いっしょに見て回らない?」 鳥居をくぐったところで、急に声をかけられた。 「えっ?」 声のする方、参道から少し離れたところに目を向けると、そこに は狐のお面をかぶった、ゆかた姿の子供がいた。 「ねぇ、いっしょに遊ぼうよ」 ほんわかとした声。恐らく女の子。 もちろん僕はこう答える。 「うん、いいよ」 今日は縁日 近くの神社でお祭り騒ぎ 長い階段 そこを抜ければほら、お店の行列 たこ焼き、わたあめ、りんごあめ 射的にくじ引き、金魚すくい はしゃぎまわる子供達 子供に戻る、大人達 今日は縁日… 「ねえ、キミ、いくつ?」 狐のお面がきいてくる。 「十才」 ぶっきらぼうに答える僕。 「じゃあ、私の方がお姉ちゃんだね」 「あたし、一人っ子だから弟がほしかったの」 「あ、そういえば名前、まだ言ってなかったね。私、はる」 「僕は、ゆうた」 「ゆうた、君…。ゆうたって呼んでいい?」 「いいよ」 「やった!」 うれしそうにはしゃぐ、はる。 そして、僕の手を取り、 「さ、いこう!」 今日は縁日 近くの神社でお祭り騒ぎ 楽しい出店 そこを抜ければほら、また暗闇 楽しそうな賑わいも、 眩いばかりの提灯も、 そこまで届かぬ境内裏 今日は縁日… 僕とはるは、色々と見て回った。 二人ともお金が無かったので見るだけだったが。 金魚すくい、射的、お化け屋敷、 ヨ−ヨ−すくいに、くじ引き、ポップコ−ン、わたあめ。 でも、見てるだけでも十分楽しかった。 「おもしろいね!」 はるが、その一つ一つに歓声を上げている。 「うん」 僕もつられて笑顔になる。 時間が過ぎていく。 楽しい時間。 過ぎるのは、あっという間。 そして、お店もはなれていき、僕達二人は境内裏にたどり着いた。 薄暗い境内裏。さっきまでいた所とは、まるで別の世界。 賑わいも、ざわめきも、風に乗ってわずかに聞こえてくるだけ。 そんな境内裏。 「はる、なんで狐のお面をつけてるの?」 静かなのはきらいじゃないけど、女の子と二人でいるのはドキド キする。 何かしゃべっていなくちゃ、ドキドキがばれてしまいそうになっ た。 「…」 狐のお面が僕の顔をずっと見ている。 「…、でも、ゆうたもつけてるよ、ロボットのお面」 「え?」 あわてて顔に手を持っていくと、そこには確かにプラスチックの 感触。 「あれ?なんで、僕もつけてるんだ?」 「気にしちゃだめだよ。だって今日は縁日なんだから」 「そうだね」 不思議だったけど、僕はそれ以上考えるのを止めた。だって、お 面をつけていた方が真っ赤になった僕の顔を見られなくてすむし、 何よりその方が自然だと感じたからだ。 「あ、ゆうた、誰か来た」 お店がある方から、何人かやって来る。 小さな影。子供。 「お、仲間がいたぞ」 その子供達も、僕達を見つけて駆け寄ってきた。 「おれ、あきとってんだ」 「ぼく、たかし」 「あたし、ゆめこ」 ……。次々とやって来て、自己紹介をする。 みんな、お面をつけていた。 ぶた、ヒ−ロ−、たぬき、ねこ、いぬ…。 同じお面は一つもない。 「せっかくだから、かくれんぼしようぜ」 ヒ−ロ−のお面が言う。 「えーっ!こんな暗いのに?」 「せっかくこれだけいるんだし、面白いって」 「でも、なんかこわいな」 「いいじゃない、やりましょうよ」 「でも…」 「じゃあ…」 わいわいざわざわ、みんなでおしゃべり。 僕も、はるもそれに加わっている。 …。 ……。 ………。 やがて、どこからとも無く、僕を呼ぶ声が聞こえてきた。 「あ、いかなくっちゃ」 ふと、誰かがそう言う。 それにつられて、みんなもしぶしぶながらに、 「そうだな、もうかえるか」 「またあそぼうね」 「えーもっとあそびたかったのに」 「またあそべるって」 「うん、じゃあ、またね」 一人、二人と夜に消えていく。 そして最後まで残っていた僕と、はる。 「ゆうた、行こ?」 ちょっと泣いているような、震えた声。 「でも…」 行く…。 どこに? 行く場所…。 帰る場所…。 帰る? 帰る家? そう言えば、僕はどこから来たんだっけ…? 「はるも、いっしょについていってあげるから」 「いっしょに?」 どこに? いっしょに? はるが僕の手をにぎる。 「さあ、こっちよ…」 ふとはるの顔を見ると、もうお面は無くなっていた。 お面の下の顔。それは、写真でしか見たことの無い、僕の生まれ るほんの少し前に死んでしまった、お姉ちゃんの顔。 「お姉ちゃん…?」 不思議だった。どうしてお姉ちゃんがここにいるのだろう。 「どうして…?」 「ゆうた。ゆうたも、もうここにいちゃだめなの」 ここにいちゃだめ? ここって…? 「さぁ…」 徐々に消えてゆく、お姉ちゃんの姿…。 そして、徐々に消えていく、僕…。 今日は縁日 近くの神社でお祭り騒ぎ 楽しい時間 そこを抜ければほら、もう終点 楽しかったあの時も、 楽しかったあの場所も、 そこにあるのは思いでだけ 今日は縁日 近くの神社はお祭り騒ぎ 一年一度のお祭り騒ぎ だけど悲しいお祭り騒ぎ 戻らぬ時間 そこを抜ければほら、懐かしい世界 誰かが君を呼んでるよ 誰かが君を見ているよ あの日あの時渡った岸が また目の前に現れる 今日は縁日………
Entry23谷本みゆき 文字数=3000 恋が溶けていく 家族の縁が薄いという身の上は、男に憧れる女たちにとって一種 のブランドだった。物語の主人公のようにヒロイックな男の孤独を、 女たちは宝石のごとく手にとって愛でた。男は天涯孤独でなく、男 の甘えをつぶし続けた父を憎むというシナリオを書き、新品のバイ クのように磨き上げていた。 男は毎週のように軽々と相手の女を取り替えることができた。で も男を不遜だと言う者はおらず、ドラマはいつまでも続くと誰もが 思っていた。男が共演相手の女に事欠くようになると、うまい具合 に彼のもとへ転勤辞令が舞い込んだ。 女たちの憧れる物語の中で、男は一瞬の頂上を目指してもくもくと 同じペースで動き続けた。 物語の中で”取替えの利く女”という役回りだった女は、舞台を 降りたことで修復困難なほど傷ついたが、一番ひどく傷ついたのは、 物語に閉じ込められた男の方に違いない。 女たちが憧れたのは男自身ではなく物語の方だったのに、男は降 りることを許されなかった。もちろん無理にでも飛び降りなかった 男にも責任はある。けれど、もとの物語を作ったのは男自身で、い つでも自由に降りられるはずだった。降りるのが危険なほど物語を 加速させてしまったのは、女たちの憧れのせいだ。 「彼は気に入った女の子をマークUの助手席に乗せてエル・アールの 曲を聴かせたの」 かつて”取替えの利く女”だった彼女は、醜く変形した自分の心 の傷について語った。 エル・アールが一瞬の頂点を過ぎてから4年が経っていた。それが どんな音楽だったかも僕は忘れ去っていた。 「本当にあったことだけれど、ドラマみたいにわかりやすい話だから、 この話は自分の状態を知るためにいい指標になるのよ」彼女は言った。 夏の午後8時、車の座席を倒し、僕は彼女の下腹部に触れるタイミ ングを探った。 「指標って何さ?」僕は聞き返した。 アルコールが少し入って、僕は彼女の身体が放つ汗の匂いに興奮 させられていた。さあ性的興奮に浸ろうと身構えた僕のこめかみに 彼女の発した硬質な言葉がぶつかり、僕は少し不機嫌になった。 「この話を思い出すときには、自分がどこに立って物語を眺めている か分かるの」彼女は外側に立って物語を見下ろしているところだと言 った。 僕がもし彼女に恋していれば、彼女の物語を一緒に眺め、美しい と思ったかもしれない。でも僕らは恋人同士でなく、同僚たちに仕 組まれて彼女を家に送る途中だった。 更に僕は恋することを極端に嫌っていた。僕の傷は彼女よりもっと 古く、彼女にとっての孤独な男は僕にとっての祖母の死と同じ意味 を持っていた。 僕には、どちらの傷が大きいとか深いとかいうことは大した問題で はなかった。問題は、彼女も僕もそしてこの世に生きるあらゆる人 も、同じように傷と物語を抱えていて、誰も彼女を慰めてあげられ る立場にいないことだった。 それで僕は、もうこの世にいない人の話を彼女に聞かせた。 祖母は、僕が12歳の年に亡くなり、僕は5年ぶりに母に連れら れ祖母の家へ帰った。母は祖母の家を構成する暗さを嫌いあまり寄 り付かなかった。湿気た土間の空気、這うゴキブリが見えないほど 黒光りする天井、仏壇の隅の暗闇、外付けの便所など、自分の育っ た家なのにすべてを嫌っていた。でも僕にとって祖母の家の暗さは、 恐ろしいけれど冒険の要素を含んだ好ましいものに映った。 人の死の重みを理解できない僕にとって祖母の死は、別世界にあ るはずの冒険の終わりを意味していた。 田舎ではあたりまえの垣根のない庭が珍しく、知らずに他家のビワ をほおばった、7歳の頃ような夏休みを迎えることはもうできない と思った。 祖母の葬儀の間中、僕はうす甘いビワの味を思い返していた。 「幸せな記憶の終わりが、どうして心の傷になるの?」彼女は僕に質 問を投げかけた。まだ話の途中だった。 僕が別れの持つ2種類の悲しみを実感したのは、祖母が死んだ半 年後のことだった。 そのころ仲の良い友達の間で小さな別れがあった。一戸建ての家 を建てた関係で、隣町の学校に転校するという程度の小さな別れだ った。永遠に逢えないわけではなかった。 けれど僕はちっぽけな別れが辛くて、冬休みが終われば転校する友 達を避けるようになった。僕は友達をわざと無視したわけではなか ったが、目を合わせることがどうしようもなく重たかった。 避け続けるうちにその友達も、僕の姿を見かけると慌てて視線を反 らした。友達が転校する日まで、僕は一度も友達を直視することが できなかった。 友達と別れること自体の悲しみは、続く日常に紛れすぐに消え去 った。そのあと僕を襲ったのは、友達がいなくなる前にもあとにも 同じような日々が続くことへの悲観だった。友達の存在に意味があ ったのだろうかと考えることは、そのまま僕の存在価値への疑いに つながった。僕がこの世に存在する理由は探しても見つからなかっ た。 祖母の死の悲しみが僕を脅かすことはなく、祖母が死んだ事実は 人の存在価値を疑うきっかけになっただけだった。僕は別れを経験 するたびに、直下型の悲しみよりも、自分がいつか悲しみになじん でしまうという悲観に大きく揺さぶられ、人と出会うこと自体を恐 れ、避け始めた。そうして僕は恋をしなくなった。 「あなたの物語は12歳で止まるのね」あとに続く物語を探すように、 彼女は僕の目を覗き込んだ。 「13歳だったんだ、秋に誕生日が来て」このあとに続く物語はもう 存在しなかったから、僕は車のシートに寝転んで目を閉じ、もう話 が終わってしまったと態度で示した。 「悲しいのは、」彼女のやわらかな声は、朝の白い光のように僕の閉 じたまぶたを透かして入り込んできた。「深い傷は他人に話しても すり減らないことなの、もし傷が減らなくてもいいのなら、私に話 してみて」 彼女はもう存在しない僕の物語に向かって語りかけた。何もないと ころに語る彼女の姿は悲しく見えた。 似た傷を抱えていても、見出す結果はそれぞれ違った。 内側と外側にそれなりの美しさを備えていても、僕にとって彼女は、 恋の対象というより性の対象にしか見えない種類の人だった。 彼女を好きになれないのは残念だけれど、僕は無理をしたくなかっ た。 僕が思う恋とは、相手の仕草や話す言葉など小さな物事から順番 に惹かれるもので、相手の不幸な影とか幸せになる予感とかいきな り状況に酔うのは恋ではないと僕は思った。 僕が恋をすることは、彼女が引きずり続けている物語を否定するこ とと同じだった。 僕は彼女に恋をしていないけれど、彼女の身体に触れたいと強く 望んだ。僕の手が彼女の下腹部に触れ、やわらかなお腹の上を伝っ てゆっくり胸の方へ動いても、彼女は僕を拒まなかった。 彼女もきっと僕を好いてはいないだろう。 前へ進むためにちょっと何かにつかまってみた。僕を抱く彼女の腕 からはそんな感じが伝わってきた。 僕が恋を始めるタイミングにも、まだ少し早いようだった。僕は 彼女の汗の匂いに神経を集中させて、彼女の物語に登場した男のよ うにもくもくと同じ動きを続けた。彼女は僕の下で、かつて物語の 主人公であった男のものらしい名前を呼んだ。悲しそうな呼び方だ った。僕は少しだけ彼女のことを愛しいと感じた。でもそういう愛 しさは、短い時間で粉砂糖のように溶けて消えてしまうと思った。 僕は彼女の憧れる物語のような恋をしない。自分でも頑固だと思 うけれど、僕が彼女を愛することはない。
Entry24翠葉 文字数=2999 月の花 とある新興住宅地で、噂になっている事があった。 毎週土曜日になると、住宅地のど真ん中を通っている道近くの公 園にスーツ姿の男性が現われ、 「月の花を咲かせたいので、貴方の時間を頂けませんか?」 と言うのだ。怪しげな宗教家と断ると、 「時間といっても睡眠中の時間です。勿論その分体が休めないとい う事はありません。下さるならご希望の夢を見せて差し上げます。 一度だけお試しになりませんか?」 としつこく勧める。 「これが月の花です」 彼は手に下げた袋から一鉢取り出すと、誰が見ても美形なその顔 立ちで微笑む。その可憐な花にか彼にかは判らないが、大抵の女性 はつい頷いてしまうそうだ。相手が男性の場合は、大概酒場で声を かけられる。 ただしこちらは妖艶な美女だったが。 ともかく何の被害もないし、広い住宅地には色々な人がいるもの と、住民は割り切って接していた。 平日真夜中の午前1時、俊平は天体望遠鏡を持って噂の公園に来 ていた。趣味が天体観測という彼には、自分の住むマンションの屋 上という観測には最適の場所がある筈だったが、あいにくと鍵がか けられていて、次に見通しがいいのはこの公園だった。 静寂に包まれた公園で、俊平は望遠鏡を木々が邪魔にならない所 に設置した。レンズを覗いて見える星のきらめきに飽く事なく目を 奪われていると、ふいに肩を叩かれた。 「!」 声にならない程驚いて振り向くと、すぐ側に男女が立っていた。 「あなたは星を見ているのですか?」 「そうですけど………」 「月も見ますか?」 男が言い、俊平はこれが噂の二人かと思った。確かに美男美女で あり、女性はみとれるほど美しい。 「見ますよ」 「夢は見ますか?」 こんな夜中にも勧誘かと思いつつ、答えた。 「何だよ、時間の代わりに好きな夢を見せてくれるのか?」 「………そうよ。何が見たい?」 女が艶のある声で囁いた。 「俺は………月の夢が見たいな」 俊平はなにげに答えた。 「本当に?」 「まあね」 「ならばあなたを、招待します」 男が言い、女が俊平に腕をからめた。男は天空を真っ直ぐに指差 した。 「私達の住居にですよ」 停電で暗闇の中に一本だけ灯された蝋燭が、何かの拍子にフイと 消えた。いつもは隠れた闇の存在が視界の全面を支配する、そんな 体験を俊平は思い出した。 最初は雲に隠れたかと思った。だが違った。 満月から半月へ、半月から三日月、細い細い一本の線に。月は刻 々と姿を変え、光を失い、天空から消え去った。 ポコリと天空に黒い穴が空き、そこから銀色の線が地上に流れる と、俊平の前にUFOがスッと現れた。 「さあ、どうぞ」 男はワゴン車サイズの発光する物体を、指差した。 「こ、これは………」 「私達の住居ですよ。貴方達の言葉で言うとUFOですね」 「じょ、冗談はやめてくれ。あんた達、う、宇宙人か」 「そうよ。あの月は私達が改造した乗り物よ。あまり長く宙を空け ておくと、他の人に気づかれるわ。行きましょう」 女は俊平の背後から体に腕を回した。そのまま軽々と持ち上げら れ、俊平はなすすべもなくUFOに連れ込まれた。 ワゴン車サイズのUFOは外見と違い、とても広かった。座り心 地のいいソファらしき物に腰掛け、眼下に青い地球を見ながら、俊 平は男から説明を受けていた。 「私達は月の花の栽培業をしています。これがその花です」 俊平は幾重にも花びらが重なった白い花を一鉢見せられた。シャ クナゲに酷似したそれは、時々七色の光を放った。 「私達は白い色を”月”と言います。月の花は、星の隕石で育ちま す。隕石を得る一番早い方法は星を崩す事、私達は”花”と言いま すが、貴方達の言う”月”に”花”を咲かす事にしたんです」 俊平は、唾を飲み込んだ。 「もっと判りやすく言えよ」 「月を破壊します。もう宇宙連合に許可は取ってあります」 女が俊平の隣に突如腰掛けた。甘い香りが鼻腔をくすぐる。 「けど月は貴方達の鑑賞物だそうだから、どれくらい関心があるか、 月の夢を見たいと希望するかで調査したのよ。そしたらあなただけ だった」 俊平は顎先に指をかけて、自分の方を向かせた女を振り払った。 「君は月の夢を見たいと言った。だから救う。破壊の際、地球に隕 石は落とさないつもりだが、万が一の場合に備えて月を愛する者は 一緒に連れて行く。明日にはお帰しします」 それだけ言うと、二人は部屋を出ようとした。 「――待て。そんな事させない」 震えながら俊平は立ち上がった。体中の筋肉が緊張で悲鳴を上げ ていた。 「月が好きな奴は沢山いる。学者だって、俺のクラブの奴もそうだ。 こんなUFOに乗り切らないくらい、いる」 「………千人程なら収容出来ます。明日までに集まりますか?」 振り返ると、男はドアに寄りかかりながら言った。 「それは」 不可能だ。男は意地悪く笑い、俊平を手招きした。続き部屋に通 されると、突然目の前が、あまたの星々で占領された。 「我々は、この広大な宇宙で幾多の星系と取引しています」 部屋全体がスクリーンで、俊平は宙に浮いているような錯覚に、 一瞬捕われた。 「月は本当に小さな星。このスイッチで住居と分離します」 男は天の川に浮かぶ二つのスイッチの内、黄色を指差した。 「こっちが月破壊よ」 女が赤いスイッチを差す。にじみ出る色気がうっとおしくケラケ ラと笑いながらアッサリ押してしまいそうな、そんな風に思えた。 「やめろ。月には人類の初足跡があるし、物語もある。昔から人々 に愛されてるんだ。頼むからやめてくれ」 「もう、遅いです」 男はスイッチを押し、軽い振動で地球が遠ざかっていった。 「こっちも押す?」 「やめろっ」 俊平は駆け出した。決して足は速くない。それでも女をスイッチ から引き離して押さえ込むには十分だった。 武器などない。だが緊張しきった腕は女の首に廻され、尋常では ない力で締め上げようとしていた。体全体から汗が流れて、そのく せ体温が下がっている気がした。 「苦しい………」 女が呻き声をあげた。 「やめないなら俺はこいつの首を締め上げる」 男は壁を背にした俊平にゆっくりした歩調で近づくと、微笑んだ。 「判りました。破壊しません」 「――本当か」 「ええ。多くの人が夢に見ずとも月を大切にしていると知りました から。あなたは今すぐ地球に帰します」 「俺が降りた途端、破壊するんじゃないのか」 「我々は暴力は好みません。あなたを捕らえる事は簡単ですが、紳 士的行為に反します」 男は俊平の腕をそっと、女の首から外した。途端に女が咳込み、 床に座り込んだ。 「地上へ」 男が命じると、UFOは地球に帰還した。 ――俊平が戻ると、地球は既に朝を迎えていた。 無断外泊を両親に怒られた後、夢心地のまま俊平は学校に行った。 彼らは約束を守り、数年たっても月は天空にあった。 俊平が去った直後のUFOではこんな会話が交わされていた。 「兄さん、今回はやりすぎよ」 「痛かったか?腕は簡単に外せただろう」 「外すなとテレパシーで伝えてきたのは兄さんでしょ。それより今 回は宇宙連合のお使いで、地球人の意識調査が目的なのに、月を破 壊するなんて嘘ついて」 「あれは本当だよ。あまりに地球人が宇宙に関心がないなら、仕事 に役立つし破壊してもいいと許可はもらった」 「関心ないわけないでしょ。あちこちに宇宙衛星があるし」 「そうだな。今回の報告に大きく書いておくよ。“地球人は月を愛す” とね」
結果発表
第10回3000字バトルチャンピオンは、
『貨道』羽那沖権八さん作に決定しました。
羽那沖権八さん、おめでとうございます。
票を得た方もそうでなかった方も、次回でまた頑張ってくださいね。
感想票をお寄せいただいた読者の皆様ありがとうございました。
得票
『貨道』 羽那沖権八さん作───4票
『夜行列車』 伊勢湊さん作───3票
『月の花』 翠葉さん作───1票
『逃げる男』 小吉さん作─── 票
『健太のプライドキッチン』有馬次郎さん作───1票
『ここが感情のキレどころ』おかずさん作───1票
『恋が溶けていく』谷本みゆきさん作───1票
『代償』 太郎丸さん作───1票
『微熱の風』 さとう啓介さん作───1票
●推薦作品:『夜行列車』伊勢 湊さん作
色々な作品があり、迷ってしまいましたが、印象の強さで選ばせて頂きました。
●推薦作品:『貨道』羽那沖権八さん作
読んだ後、心が温かくなるような作品でした。
とても印象に残りました。次の作品も読んで見たいです。
●推薦作品:『月の花』翠葉さん作
今回の24作品がもし本屋に並んでいたら、迷わず、翠葉さんの「月の花」を
買うと思います。
読みやすく分かりやすいストーリーですが、もっと深い内容を描いているように
も思えます。本屋で出逢って一気に全部立ち読みし、もっと読みたくて買って帰
りたくなるタイプの作品です。
他に買うとすれば、2冊まとめて、小吉さんの「逃げる男」と一之江さんの「ウミ
ウシ」を買います。
2作品とも雰囲気が心地良かったです。作者の方には失礼ですが、家で床にゴロン
と寝転んでくつろいで読みたい感じがします。
4番目には、逢澤透明さんの「肉体の輝き」を買います。作品に登場する秋津美
紗子という作家に惹かれました。もし売っていれば秋津さんの「日暮生活」も一緒
に買うと思います。作品の世界にどっぷりハマって、通勤電車の中でも手放せな
い一冊になりそうな作品ですね。
5番目には、『こういう小説もあるんだ』と後学のために、小林祐悟さんの
「{[ (^-)(-^) ]}(フタリノセカイ・・・刹那的恋愛)」を買うと思
います。将来こういうパーソナルな内容の小説が流行るかもしれないですね。先行
投資で第1刷を買っておきたいところです。(…ってことは将来売りさばくつもりっ
てことですよね。小林さんごめんなさい。)
これ以上はおこづかいが足りないので買えません。
●推薦作品:『貨道』羽那沖権八さん作
私のベスト・スリーは他に太郎丸さんの『代償』、一之江さんの『ウミウシ』だった。
『貨道』という着想がまずいかにもありそうで面白い。便利になればなったで人は
情緒を求めてレトロに回帰したりするものだ。さらになんでもかんでも「道」にして
しまう日本文化の特質をよく突いている。……「小説道」なんてのもあったりしてね。
●推薦作品:『逃げる男』小吉さん作
人生に逃げられる事なんてそうそうない――まさか。
多分、彼はまたどこかで逃げ回っていて、その逃亡を続けたいが故に生き続けている
のでしょう。執着のない人生の何と軽やかな事か。
続編を書こうとしても、するりと逃げられるかも。
●推薦作品:『貨道』羽那沖権八さん作
不思議な感じ。優しいような厳しいような、甘い感もあるけど。
選んだ理由は、それかな。ぴぴんっと波長が合ったというか。
●推薦作品:『貨道』羽那沖権八さん作
今回の作品の中では、「貨道」が良かったと思い、これを推薦します。
作品中の主人公の気持ちが素直に表現出来ていて、読んでいて内容に
すんなり入り込めました。それと、22世紀になっても物価があまり現
在と変わらないところは、逆にリアルさがあり、今のデフレ状態がか
なり落ち込み、尚且つその状態からの立ち上がりがまた更に長引いた
様子は読んでいる自分を「そうかもしれない」などと思いめぐらせる
ところがありました。
その他の作品で良かったものは「健太のプライドキッチン」「夜行列
車」が良かったと思います。いい作風だなと思ったのは、「missing
link」「ウミウシ」「帰り道」です。
●推薦作品:『健太のプライドキッチン』有馬次郎さん作
正直に言って作品の完成度とか、いかに洗練されているかで考えると
この作品は苦しいものがありますが、加点法で考えたときに心を揺さぶる
力があったと思います。プロの小説家の書いたものには人の心を揺さぶる
力があり、そのうえで洗練された完成度も持っている気がします。
なのでへたに完成されて、蓋をされてしまったものよりも、伝わってくる
感情の強いこの作品に資質と魅力を感じました。
●推薦作品:『夜行列車』伊勢湊さん作
基本的にこういうストーリーが好きだから、かもしれませんが。
一番、素直に読めた、というのがまず第一条件です。他の作品はすこし疑問
が残ったのが多かったので。
文章の構成も、顛末も違和感なく進んでいく。それにメッセージもある。
その情景がイメージできる。
良かったと思います。
あと、惜しいなぁ、と思ったのは、
『貨道』と『代償』でしょうか。貨道のほうは、おもしろいアイデアだなぁと
思ったのですが、実貨を利用することに対しての、異常なまでの反発に違和感
がありました。もっとそのバックグランドを明確にすれば、すごくいいと思い
ます。
代償は、ある意味すごいと思うんですが、登場人物をもっと整理してかき分け
る必要があると思います。きっと初めて読んだ人は混乱するでしょう。でも、
パワーありますね(笑)。
●推薦作品:『夜行列車』伊勢湊さん作
せつないなあ。夜2時の列車には悲しい思い出ありって。
文章力、ネタ、余韻、それぞれに楽しませていただきました。
●推薦作品:『ここが感情のキレどころ』おかずさん作
字数的に、3000字にはほど遠く、以前の規約からいえば
反則の作品であることはわかっていて、あえてこの作品に一票。
他の規約を守っている作品は、この作品に字数違反というペナルティを与えて
も勝てなかったということです。
作品自体は、違和感なく読ませる文章と展開、次々と繰り出されるアイデア
で最後まで飽きずに読めました。内容はともかく、読ませるという一点で他を
凌駕していると思いました。
●推薦作品:『恋が溶けていく』谷本みゆきさん作
冒頭から続く文章が「クサイ」と思ったのでやや期待がもてないと思いながら
読み進めたのですが、これが登場人物の女性の話ということであると、一気に
リアリティが感じられました。いかにも、です。この計算はちょっと感動しま
した。もっとも「読むのヤメ」と、読者を失ってしまう可能性もあると思いま
すが。
とにかく読み進めようという気にさせる文章です。どこかで読んだことのあ
るような文体にも思えますが、知性が感じられます。さり気ない知性の感じら
れる文章は読む者に心地よさをあたえると思います。
内容については、愛のあるなし、という境界線を引くことを拒む、というこ
とを切実に訴える何かを感じました。恋とは何なのか。それは誰かが定義づけ
すべきものなのか。恋もしくは愛をともなわないセックスは醜いものなのか。
セックスをするという関係に、ただそれだけの関係にでも何らかの意味を見い
出すこともできるのではないか。逆に、だからこそそこにわずかでも愛があっ
たという見方だってできるのではないか。そんな物語に思えました。
方向性を個人的に支持したく思います。明確に几帳面に、自分のなかで見えた
物語をあるがままに写し取ろうとされた作品だと思います。筆力を感じました。
●推薦作品:『代償』太郎丸さん作
前半部分の人間関係は入りくんでいてわかりづらかったが、
後半にたたみかけるような「代償」というか悲劇(喜劇)は
映像として捉えるとおもしろい。
●推薦作品:『微熱の風』さとう啓介さん作
今回3000字の中で私の印象に残った作品の寸評を少し述べたいと思います。
推薦作品は次の4作品です。
「微熱の風」(さとう啓介さん) この作品で感じるものは、まず第一に清清
しさと作品自体の持つ微熱のような捕らえ所のない青春の情熱です。ストーリ
ーとこの作品だけでは終れない余韻、もっと続くであろう予期せぬ展開など、
バイク好きにはもちろんのこと、それ以外の人をも柔らかく引き込む魅力で溢
れています。露骨な美観的表現を避ける作者の持ち味が出ています。是非続き
を読んで見たくなる作品です。動と静がうまく調和しています。広々とした空
間を照れながら内気にそして見事に表現している。
「夜行列車」 (伊勢湊 さん) この作者の作品は1000字も素敵な物が多
くて私も個人的なファンです。前回の3000字「アルパカ行進曲」もとても
良かった。今回はせつない少年期のトラウマがさりげなく感じられ、初恋にも
似たほろ苦さとやるせなさ、少年期への無限の憧憬などなどが感じられます。
この作風、この文体はこの作者ならではのもので完成されています。静かに哀
しい程切なくなります。ノスタルジー的描写の勝利です。この作者にはある種
の憧れみたいなものを感じています。
「代償」 (太郎丸さん)
タイトルから見ても、途中で行き着く展開は読めてくるのですが、期待を裏切
る非現実性と現実 性のギャップがとてもおもしろいです。この作者の色気を含
んだこのパターンを私は初めて読んだのですが、シリアスでもコメディーでも
ない点で、うまく読ませる作品だと思います。 ニンマリしたくなります。読後に。
「ウミウシ」 (一之江さん)
この作者の作品は基本がしっかりしていると思います。この方の作品はストー
リー重視で読ませて唸らせる作品が多い様に思います。そして雰囲気をとても
大切にしているのを感じます。ただ今度の作品はなんとも不思議な世界 が現出
しています。ある男と主人公と海とウミウシとヨーグルトとローレライ、暗号
の様な不思議な不条理をも感じつつ、つい読み込んでしまう魅力とうまさがあ
ります。
性格の違う4作品で、どれも好きなのですが今回はストーリーのつづきを読みた
くなる「微熱の風」を推薦します。照れのない男はつまらない。なにかの雑誌
に書いてました、参考までに。
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