第12回3000字小説バトル
Entry15

天狗

 タバコの煙の向こう側、見積りをしている谷野さんがいて、少し

呆れ顔の室井が立っている。

「あ〜あ、何やってんす?さっき僕の言ったこと聞いてなかったっ

すか?外注にやらせて下さいよ外注に。時間もったいないっすよ」

 室井の少し崩れた日本語だ。

 近藤は午前の柔らかい陽射しを背にして、溜った書類に目を通し

ながらその会話を静に聞いていた。



 谷野さんは50才で、前いた会社が倒産してしまい3ヶ月前に9

人のスタッフと共にこの会社にやって来た。室井は入社3年目を迎

え、仕事にも慣れて今が一番楽しい時だった。近藤には別のアシス

タントの女の子がいたが、この6月に結婚で会社を辞めてしまい、

7月から谷野さんと室井が近藤の課に配属された。



 うす雲で陽射しの弱くなったビルの屋上。

 コンビニから買ってきたパンと牛乳を昼食がわりに食べる。眼下

に山手線がゆっくりと流れては止まっていた。近藤はその何でもな

い風景が好きだった。わりと涼しげな風が吹くこの場所は、近藤に

とって何か懐かしい空気が流れていて、気持ちを落ち着かせるには

いい場所だった。

(ちかごろ風が涼しいな)と近藤は感じた。すると突然、背中で湿

り気を帯びた風を感じ、それにまとわり付く様に室井の声がした。

「課長、オッさんにあの仕事は無理っすよ。だいたい今どきブレー

ンを使えないで何が出来るんです?失敗しなきゃいいっすけど。尻

拭いは嫌っすよ」

 くわえタバコの室井が立っている。

「室井、人にはやり方があるだろ。それに谷野さんも今のままで良

いとは思ってない。この件は俺がお願いしたんだ。お前の口出しす

る事じゃないよ」

 山手線の内回りが目黒駅のトンネルからすーっと抜け出して来る

のが見えた。その景色を見つめたまま背中で応えると、湿り気を帯

びた風がゆっくりと引いていった。

「あいつの言う通りだ」

 近藤は短く吐き捨てた。すると不意に懐かしい声が、耳の奥で鮮

明に聞こえた。



 ――「近ちゃん、学校から帰ったら滝神社にきてな」――



 近藤は小学校の頃、よく近所の子供達と草野球をやっていた。

 キャッチャーは酒屋の中ジン、ショートは鍛冶屋のタカ、サード

は黒んぼの良彦、センターが武やんで、ピッチャーが彼だった。

『近ちゃん、今日は俺にピッチャーやらして、いいやろ?』

『武やんはセンターだろ?俺やだよ外野は』

『なあ、頼むけん今日だけやらして。な?』

 武やんのしつこさに負け、彼は仕方なくピッチャーを譲った。

 その日は、川向こうのリトルリーグの奴等との真剣な試合で、そ

んな試合に自分が投げないのはどうか? と思ったが、武やんでも

良いとみんなが言ったので、彼は渋々センターを守った。武やんは

豪速球を投げるが、なかなかストライクが獲れず、フォアボールの

ランナーが毎回出ていた。点差が5点、(このままじゃ負けてしま

う)彼は3回から武やんにピッチャーを変わるように言った。そこ

から彼は最終回まで無失点で押さえきった。打点はしぶといタカの

ヒットを皮切に、良彦のホームランなどで逆転し、なんとかユニフ

ォームの坊ちゃまチームに勝った。

 夕暮れの帰り道、喜ぶみんなと一緒に彼は有頂天だった。

 危なかった試合運びの流れを変えた、まさに英雄気取りになって

いた。

『武やんがあのまま投げたら、物凄い点差で負けてたかもな!』

 彼は空でも飛んでしまいそうなぐらいに浮足立って言った。

 彼には武やんのその時の悔しい気持ちが見えていなかった。みん

なと別れ、武やんと二人になった彼はまた、つまらない事を口にし

た。

『武やんの球はホントに早いんだな、俺びっくりしたよ。でもあの

コントロールじゃな〜』

 彼としては自然な言葉だったが、武やんの気持ちは深く傷ついた。

それから一週間、武やんは誰とも口をきかなかった。

 彼はもう少しで、大事な友達を失うところだったが、ある不思議

な夢がきっかけで、彼は武やんに謝る事ができた。



 彼はある夜、はっきりとしたその不思議な夢を見た。

「近ちゃん、学校から帰ったら滝神社にきてな」

 武やんが、放課後の薄暗い教室でうつ向いたままそう言うと、長

い廊下を駈けて消えた。

 薄暗い木々に囲まれた無数の石段を登った。下段の鳥居をくぐっ

た時には気付かなかったが、杉林の中に所々しめ縄が巻かれて白い

短冊が揺れている。ジメジメとした空気が足取りを押さえつける様

な感じだ。石段を登りきると、朱色の大きな木造の神社が見える。

境内をゆっくり進むと、大きな杉の木の間から白い陽射しが差し込

んでいる。狛犬の下に座り込んで、武やんの来るのを待つ。時折ザ

ワザワと杉の木が揺れるのだが、風が吹いている様子は無い。

 小さな恐怖が頭を持ち上げる、じっと武やんが来ることを信じる。

急に辺りの木漏れ日が消え去り、淀んだ暗い影に包まれると、冷た

い風と共に杉の葉が騒めき、辺りに落ちてきた。そして頭上から野

太い声がした。

「お前が天狗だと?」

 その声の方を仰ぎ見ると、サーっと白い大きな影が目の前に降り

てきた。(天狗だ!)声にならない驚きと恐怖で身体が動かない。

その天狗はゆっくりと廻りながら見つめている。

「お前が天狗という証拠を見せてみろ」

 何を言っているのかさっぱり分からず、うつむき気味に天狗をチ

ラリと見た。天狗の赤い顔の中央に太く突出した鼻が上下に小さく

動いている。手には柏の大きな葉っぱが妙な金色に輝き、天狗が振

るたびに、黄金色の粉が舞っている。高下駄の先には獣の様に黒く

て大きな鋭い爪が、食い込むように下駄を包んでいた。

 震えながら小さな声で

「僕……、人間です」

「そうだろうな、でもどうしてそんなに鼻が高いんだ」

 言われて自分の鼻を触ると、妙に長く突出している鼻にビックリ

し、急に怖くなって泣き出した。泣きながら目の前の天狗を見ると、

大きな葉っぱを仰ぎながらじっと見つめ、厳しい声で言った。

「人間のくせに天狗の様になりおって、何がしたいと言うのだ。そ

んなに自分が偉いと思うのか。人間を見下す天狗の世界で生きて行

けるとでも思ったか?人間は人間だ、大人しく互いを支え合って生

きていけ、欲を出してワシ等の仲間になろうとは何と愚かな人間だ。

しかし、どうしてもなりたいと言うのならワシがお前を連れていく

が、それでもいいか!」

 胸を詰らせ、引きつる涙声でお願いした。

「僕は天狗様になりたくはありません、どうか許してください」

 天狗は黙ったまま頷くと、大きな金色の葉っぱを目の前でゆっく

りと振った。すると長く伸びていた鼻は見る見る小さくなり、手を

当ててみると元の鼻に戻っていた。天狗をもう一度見ようと思った

瞬間、サーっと飛び上がり、杉の木の白い短冊を揺らしながら薄暗

い木々の闇に消えていった。

 彼はその時やっと気付いた。自分が人の気持ちも考えず、いい気

になっていたのだと。

(なにが偉いんだ。人として偉いって、こんな事じゃない)人をさ

げすんで見つめる自分を恥じた。



 夕方、近藤は室井を飲みに誘った。

 明々とした居酒屋のカウンターで、近藤は焼酎を飲みながら

「お前、こうなったらおしまいだ。こうなったらな」

 自分の鼻に両拳を当てて、カウンターを向いたまま静に言った。

 室井は不思議そうに、首をちょこっとかしげビールを飲み干すと。

「課長、なにやってんです?……アッ、お娘ちゃんビールもう一杯

ね!」

 カウンターに落ちた室井の影が一瞬、天狗に見えた。

 近藤はしょうがない奴だなと言った感じで宙を見つめ、虚しく微

笑んだ。











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