僕はもう一度アルパカたちに会わなければならない。清掃局次長 の田辺さんによるとアルパカ桃源郷へは霧が出ていれば少し戸惑う こともあるそうだが十時間あれば余裕で往復できる距離だというこ とだった。 アルパカたちとは先のアルパカ大行進で知り合った。アルパカ大 行進とは十年に一度、いつもはアルパカ桃源郷から出ることのない アルパカたちが、山を下り夜中に町を練り歩くという儀式で、市側 としては市民の安眠を妨害するものをほっとくわけにもいかないの で、毎回どういう基準か分からない選考方法で選ばれた市役所職員 がそれを阻止する業務に当たる。前回その役目を果たしたのが僕だ った。成り行きでアルパカたちの代表と殴り合いになって最後に僕 は気を失った。なのになぜかアルパカたちは行進を中止した。何頭 かは僕を家まで送ってくれもしたようだった。なぜかは分からない。 ちょうど八年前の話だ。 その八年のあいだに僕には二人の子供ができた。両方男の子で元 気に育っている。下の子は二歳で割とおとなしい。僕と妻、両方に 似たのだろう。上の子は小学三年生で誰に似たのか活発なやんちゃ 坊主で夏休みの終わりのある金曜日、いきなり家出した。「たびに でます。しんぱいしないでください」と心配せずにはいられない汚 い字で書かれた短い書き置きがあった。僕はすぐに捜索願いを出し た。 翌日の土曜になっても警察から見つかったという連絡はなかった。 僕はただおろおろする妻に「大丈夫だから、ケンジの面倒を見てて」 と言って自転車で町のあらゆるところを捜しまわった。妻は「何で 大丈夫だって分かるのよ」と半泣きの顔で言っていた。小さい頃か ら箱入り娘で育ってきた妻には免疫がない。心に防壁がない分、壊 れやすい。涙を浮かべる妻の側で下のケンジはおもちゃで楽しそう に遊んでいた。 卑怯なようだけど家出したシンジを見つけられぬまま帰って妻の 落ち込む顔が見たくなくて遅くまで走り回った。隣町にも行った。 何度も携帯電話が鳴ったが警察からのものはなく全てが妻からだっ た。やがて陽は完全に沈み、もう走れないと思ったとき携帯がまた 鳴った。妻からではなかった。市の清掃局次長の田辺さんからだっ た。 「大丈夫かい?大変だね、今回」 「すいません心配かけちゃって」 「実はシンジ君らしき子供を見たというのがいるんだよ」 「本当ですか?どこですか、いったい?見たのは誰ですか?」 矢継早に質問を浴びせる僕に田辺さんは「おちついて」と言って 続けた。 「見たというのははぐれアルパカなんだ、町外れの峠の。アルパカ 桃源郷の近くを小さな子供が歩いてたけど、霧が出てて見失ってし まったって」 僕は田辺さんの家に寄り非公開のアルパカ桃源郷の載った地図を 借りた。「いっしょにいこう」という田辺さんの好意を丁寧に断っ て家に戻ると、懐中電灯と、少し考えてからライターを手にとった。 シンジを連れていない僕を見て泣き崩れた妻に僕は声をかけなかっ た。かけれなかった。いま僕がすべきことは一刻も早くシンジを探 し出すことだ。代わりに言葉のよく分からないケンジに「母さんの ことを頼む」と言い残して峠に向かった。 本当は捜索は警察に任せて妻の側に居てやるべきなのかもしれな い。泣き崩れる妻の側に居てやれない僕は憶病者なのかもしれない。 それでも僕は妻のことを誰よりもよく知っているつもりだ。夜中は 動いてくれない警察に任せるより、夜のうちにシンジを探し出して 目を覚ました妻にたぶん疲れて眠っている息子の顔を見せてやりた かった。 霧は出ていなかったが道は想像以上に険しいものだった。夜の山 道は不気味で自分が遭難しちゃうんじゃないかという恐怖に襲われ た。でも今は田辺さんから借りた地図を信用するしかない。それに なにかしら因縁めいた確信もあった。シンジはアルパカ桃源郷にい る。僕は新月の闇の中、頼り無い懐中電灯の明りだけを頼りに獣道 を進んだ。やがて獣道の先がすっと開けた。地図ではこの先がアル パカ桃源郷ということになっている。僕は一度懐中電灯を消し、買 ってきたタバコの真新しいセロファンを破り一本くわえると持って きたライターで八年間吸っていなかったタバコに迷わず火を着けた。 深く吸い込んで、全てを飲み込みそうな闇の中に煙りを吐いた。や がて闇の向こうに見覚えのある眼光がいくつも現われた。 「こういう時間に何の用だか知らんが、この先に人間を入れるわけ にはいかん」 闇の中から歩みだして来たのは額に傷がある年老いた大きなアル パカだった。闇に目が慣れて星明かりの下でもうっすらとだけどそ の顔を見ることができた。その顔には見覚えがあった。忘れようが ない。八年前のあの日、僕の人生の中で唯一といっていい殴り合い をした相手だ。 「夜中に来たのはすみません。ただどうやら息子がこの先に迷い込 んでしまったようで」 「おまえは、あの時の…」 暗くて見えなかったのか、それとも年老いて視力が落ちたのかア ルパカは声を聞いてから僕が分かったようだった。 「ええ、また会うことになりましたね」 「おまえは、我々が町に入るのは止めたくせに自分はづかづかこの 桃源郷に入り込むつもりか?」 「すいません。でもそうするしかないんです」 次の瞬間、アルパカの体当たりがもろに入って、僕は吹っ飛ばさ れた。体中に衝撃が走り意識が飛びそうになる。それでも僕は倒れ なかった。倒れられなかった。ここで倒れたらもう言い訳は出来な い。僕は本当の憶病者だ。 「妻が待ってるんだ。息子を…」 有無を言わせず二撃目が入った。やっぱり勝てそうにはない。そ れでも倒れられない。八年前とは違う。違わないといけない。 「シンジはどこだっ!」 叫んだ。鳥が一斉に飛び立った。目がかすむ。闇の中の目が少し づつ減っていく。目を閉じちゃいけないのに。またアルパカの影が 近付いて来た。 体当たりはしてこなかった。側に来たのはあの老アルパカではな くまだ幼い小さめのアルパカだった。背中に眠ったシンジを乗せて いた。老アルパカが言った。 「勇敢な子じゃ。この山を抜けて海を見たかったらしい。じゃが崖 で足を滑らせて桃源郷に落ちて来た。手当てはしてある。たいした 怪我じゃなかったが、わしらを見て驚くかもしれんから薬で眠らせ てある。明日の昼には目覚めるじゃろう」 「ありがとうございます」 「あんたにようにておる」 「僕はこの子のように冒険はできません」 「いや、無茶するところはそっくりじゃよ」 「ぼくは、ただ…」 そのとき、八年前どうして自分がこのアルパカと殴り合いまでし て大行進を止めようとしたのか分かった気がした。ずっと今まで分 からなかった。いまそれは確かにしっかりと僕の中にある。 「さてさて、わしらはもう眠うてたまらん。昼行性じゃからな。自 分で降りれるか?」 「大丈夫です」 僕はそういってシンジを背中にかるった。そして振り返ったとき には、もうそこには誰もいなかった。 家に辿り着いたときにはもう陽は明け始めていた。ケンジは自分 のベッドで寝ていたが、妻はリビングでテーブルに突っ伏したまま 寝ていた。シンジをベッドに寝かそうとも思ったけどやっぱりやめ て、L字のソファーの短いほうにシンジを寝かせ、長いほうに自分 が寝そべった。数時間後に妻の驚きと喜びの泣き声で目を覚ますだ ろう。ひどく疲れててゆっくり眠りたくもあったけど、まあ、それ も悪くないか、と思って僕はそのまま目を閉じた。