第12回3000字小説バトル
Entry24

残光


 開け放ったばかりの窓の向うに、総ガラス張りのビルが見えてい

る。

 淡いグリーンが薄いブルーに溶け込んで、ガラス細工のシルエッ

トが巨大なアークを連想させる。



 目を凝らすと煌めくように虹が映っていた。赤、橙、黄、緑、青、

紫、。おや、七色の筈なのにと、どうしても最後の色が思い出せな

い。今日は、厭味な隊長も盆休みで此所には居ない。少しぐらいゆ

っくりしてもいいだろう。灰皿も不要だ。私が掃除すれば済むこと

だから。煙草の煙の行方に、ぼんやりと藍色のイメージが浮かび上

がり、何だそうかと独り言した。死んだ父の好きだった大島紬の着

流しの色だ。



 正直のところ、父の記憶は薄れ霞んで、覚えてる想い出すらも昔

年の彼方だ。出っぷりとした腹帯と項のくせ毛と汗の匂いくらいし

か残っていない筈なのに、記憶を整合する欠片はもう見当たらない。

 昔から父は酒を飲むか、それ以外は本を読むかだけの男で、一緒

に遊んだ記憶はあまりない。自分自身を振り返ると、その父と同じ

様な生き方をして自分の息子とも接してきた。私は、自分勝手で家

庭を振り返らなかった父を避け、無視することでご破算にしてきた

のだが、長男もその血を素直に引き継いでいるだけのことだ。私の

その様な仕打に父は寡黙を通した。私が息子に今さら何を求めると

いうのか。父の気持ちは私自身で受けとめて墓まで持って行ければ

それで良い。

 この場で、虹の藍色が父と巡り会わせてくれた。これも何かの縁

だと思いながら、睡眠不足の目を擦ってみた。



 昨夜は熱帯夜で、とても寝苦しくてまた同じ夢を見た。

 四畳半程の和室か納戸の様に見える、ひっそりとして無機質な部

屋が在る。銀色に鈍く光輝く何万枚という安全剃刀の刃が埃臭い板

張りに、1センチ間隔でびっしりと天井に向けられ、ドミノ倒しの

要領で隙間なく固定されている。その並びは緻密で、もちろん足の

踏み場などあろう筈もない。

 長男が小学2年の時、貯め続けていたブタの貯金箱から、私は硬

貨ばかりで千円にも満たない金を酒代にと盗んでしまった。その時

の長男の悲壮な深い悲しみの目は、父への取留めのない絶望感に満

ちていた。

 私は、その剃刀の部屋の真中の空間に正座した形で両膝、両腕を

今にも切れそうな荒縄でがんじがらめにされて吊されている。一つ

だけ開いている襖の向うに、赤色のゴブリンがひっそりと鎮座し、

涙目のあの時の長男のごとく、唇を噛んで私を見据えている。ひん

やりとして、静かで陰欝な空気が澱んで、舌を噛み切りたくもなる。

「舌を噛み切る度胸のある男が、あの様な盗みをするものか!」赤

色のゴブリンの沈んだ声がすみずみまで響き渡る。その瞬間、荒縄

が千切れ解け、私は全体重を架けて精一杯墜ちて行こうと歯を食い

しばる。長男の躯をしっかり抱き締めてもう離さないぞと呻きなが

ら、スローモーションで本気で墜ちていく。

 その長男が私の元を離れて二十年の歳月が過ぎた。その間、長男

が家に寄り付くことはなかった。

 救急車のサイレンの音で我に返った。



 ビルの20階から順番に階段を掃きながら降りてくるのが私の仕

事だ。エレベーターを使わないので、誰にも会わなくてす済む。定

年後、6年間も同じ仕事を繰り返してきた。最古参の役立たずの私

には、事務机を拭いたり、電動カーペットクリーナーを動かしたり、

塵箱をひっくり返す役はまず回ってこない。ビル清掃会社の正社員

である三十歳の隊長が、ここでは王様なのだ。

 あと三階分降りれば1階に着く。4階の窓を見ると、手垢のシル

エットが陽光に映えて煩わしくもあるが、一瞬、長男の幼少の頃の

悪戯を思い出させた。ただ、今となっては窓など拭く気にもならな

い。すでに疲れきっている。長男はすでに死んだと、二十年前から

ずっと思い通してきたのだから。

 こうやって、順番に階段をを掃きながら、各階の窓からほんの数

分間だけ下界を見下ろす様にして眺めるのが私の唯一の楽しみとな

っている。死んだ父が私の年齢の時は、何を楽しみに生きていたの

だろうか。長男が私を無視し続けるように私も父を無視し続けた。

私もあと十年で死んだ父の年齢になる。長男はやはりその時も、私

を無視しているのであろうか。私の楽しみなどに思いを巡らす事も

なく。



 今日も、もう少しだ。もう少しで終るのだ。まだ死ねないぞ。私

は深呼吸を何度も繰り返した。

「シーッ、ハッ、シーッ、ハッ」

 気分も落ち着いたので3階の窓から外を見てみると、真向かいの

ビルの2階にある喫茶店がいつもの様に目に入った。目を凝らすと、

窓越しに四十代くらいのサラリーマン風の男が、文庫本を左手に、

ハンカチを右手にせわしない動作を繰り返している。コーヒーを飲

むわけでも、煙草を吸うわけでもなく、汗をしきりに拭いている。

時折、空を仰ぐ様にしたかと思うと、肩を落す。表情まではよく掴

めないが、7〜8人の客のなかではとても寛いでいるようには見え

ない。2階のロッカー室から双眼鏡を持ってきて、スモークガラス

越しに覗いて見た。二十年音信不通の長男にも良く似ている。長男

なのかもしれないと思いたかった。ハッとして、胸の奥がしんと冷

えはじめた。よく見ると、彼は本など読んではいない。読書をカモ

フラージュに泣いているのだ。こちらを見据えて、滴り落ちそうに

なる涙を溢すまいと空を仰ぎ、汗を拭くふりをして、そっと拭って

いる。あ、また本をめくり、汗を拭き、空を仰いだ。



 男というものは、時として訳もなく泣く事がある。心の底のその

また底に訳は沈んで隠れて見つけられない。想えば、自分もこの男

の年齢の時があった。恐らく泣いた事もあったはずだ。そう思った

瞬間にこの男が長男と完全に重なった。そして父を無視し続けた自

分と重なった。もしかすると、この男は会えない自分の父のことを

想い出しているのではないか。私が会えない息子のことを窓を覗く

たびに思いだすように。独りよがりの気休めでも許されるなら何故

かそう信じてみたかった。

「もう少し泣きなさい。そこで、その席で。だれも見ていないから」

私はつぶやいた。

「何も心配しなくていいよ。もう充分だ」どこからか、聞き慣れた

声が聞こえたような気がした。

 双眼鏡を持つ手が震えだすと同時に、その男は席を立った。私は

独り取り残された気分になった。深い懺悔にも似た心境に、私は今

にも押しつぶされそうになった。

 頭の中心から感情が腹の中へ急激に降りてきて、どうすることも

できなくなった。深い嗚咽が堰を切って私の両肩を震わせ続けた。

私の視野は、水中めがねの様に濡れそぼり、夕暮れの踊り場にたた

ずんだまま、上階へも下階へも行けそうになかった。



 叶うものなら、沈み込む様に独りになりたかった。私はただ、深

く眠り込む様に蹲って泣きたかった。

 誰にもこの姿を見られたくなかった。それも死んだ父以外には。

素直にそう思えた時、私はやっと父に受け入れられた気がしたのだ。

微かに藍の着流しのナフタリンとポマードの香りが蘇ってきた。そ

して私は先程の男を会えなかった長男なのだと信じることで、息子

自身の可愛い愛しい魂を受け入れることが出来る様な気がした。

「大人になったなぁ。あまりに立派すぎて君の前に顔を出す事も叶

わない。」

「カシャ!ガシャン」弾けるように、音が応えた。非常階段扉の施

錠の音だろう。



 長くて短い人生のなかで、遠くから霞むように響いてくる乾いた

音だった。
















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