第12回3000字小説バトル
Entry9
アメリカのありふれた朝
やす泰
昨夜はやはり泣かれてしまった。
タンパからボストンに向かう飛行機の中で、男はあの時のことを思い出そうとしていた。
コーヒーハウスのいつもの席で、一人きりでベジタリアンチリの夕食をとっていると、赤いチェックのテーブルクロスの向こうにピンク色のエプロンが揺れた。
「コーヒーのお替わりはいかがですか」
褐色の肌、厚い唇にはピンクのルージュがきつめに引かれていた。瞳の中をのぞき込むと、そこに一瞬怖れの色が浮んだ。
悲しい目だった。でも、なぜこの人はそんなに悲しいのだろう。そう思ったら私も引き込まれそうになったの。
(そう、たしかにあの時、俺はそんな目をしていたのかもしれない)
「お替わりをもらおうか」
「えっ、ああ、はい」
いかにも安心したという笑いに男もつられて笑った。
シンディには、生物化学のパテントエイジェントをしていると話した。ボストンの研究所と組んで、すでに特許でひと山当てているんだ。公立高校を出ただけの彼女にはそれ以上のことはわからなかった。あとはどんな嘘でも信じた。いや、信じたがっていたのだろう。
「どうしたんだい。いつもと同じただの出張じゃないか。明後日にはまた帰ってくるさ」
「わかってるの。だけど、へんね。なんだかもう会えないような気がして」
シンディの目からは大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
仲間は嫌ったが、男はシンディと会うことをやめなかった。準備は最終段階に入っている。もう時間はない。上層部との信頼関係のおかげで、最後のわがままは黙認された。その代わり男も、シンディと仲間をたどる線を慎重に閉ざしていた。ほんの気まぐれのつもりだった。しかし、それは昨日まで続いてしまった。結局彼女のアパートには三度泊まった。三度、それが限度だった。
寝室で糊の利いたシャツを着ていると、その音でシンディはぼんやりと目を覚ました。また求めるように手を伸ばしてきたが、男の頭はもう切り替わっていて、作動を開始したプログラムのように後戻りできなかった。
濃いグレーのタイトなデザインの背広を着て、黒の折柄のタイを締める。
「起きなくていい。寝ていてくれ」
明け方まで愛し合った結果、シンディの肉体はまだ眠っているらしい。男はシンディの頬にかるくキスをした。赤ん坊のような寝息の匂いがする。
洗面所で先ほど使った歯ブラシと髭剃りを取り出し、バッグの中にしまった。痕跡は残るだろうが、シンディがいわない限り自分と結びつく物はない。
後ろ手でドアを閉めアパートの外に立つと、この時はまだ自分の中にいるもう一人の自分を完全に閉め出すことができると思っていた。
バッゲージクレームを通り過ぎる。視野の中に知った男の顔があった。鼻の下の髭がひくりと動いて挨拶する。お互い何もいわずに出口からショートタームパーキングに向かった。レンタカーでボストンの市街を抜け三マイルほど南に下ってモーテルの中に車を停めた。髭の男は挨拶もせずにカウンターの前を通り過ぎる。カウンターの中の男も目だけで客を迎え、身体の他の部分はぴくりとも動かさなかった。
薄いドアを開けると、人の汗と消毒薬のまじった臭いがした。ブラインドは降ろされたままで、隙間から赤茶けた陽が差し込んでいる。もう秋だというのに冷房は寒いくらいに効いていた。髭の男は重いキードロップのついた鍵を手渡すと、そそくさと立ち去っていった。
見上げると天井の隅に蜘蛛の巣があった。小さな羽虫が二匹ほどかかっていたが、蜘蛛に動く様子はない。ベッドに腰掛けて男はしばらく蜘蛛に見とれていた。明日まではこの蜘蛛と同居だ。そう考えると妙におかしくなって、笑いがこみ上げてきた。
キャンプ以来、男は時間と戦ってきた。ある時はその速さと競い、ある時はその遅い歩みに耐えることで。蜘蛛は動かない。まるで時の流れに挑むかのようだ。
…バカなことを。男は頭を振って自分の考えを打ち消した。
終末は、神がこの世を創り賜うた時から予定されているのだ。
《大空が裂けて割れ、星々が追い散らされ、四方の海が傾き流れ、全ての墓があばかれる時》
その時は教え通り、自分もまた自分の結末を見るのだろう。
《この世はただつかの間の楽しみにすぎぬ。来世こそは不滅の宿》
アメリカに渡って以来、祈ることは禁止されていた。しかし、男はかまわずに祈り始めた。終末が来ることを知らず、来世を知らぬかわいそうな人々のためにも、神の裁きが軽く済むようにと。
心臓はまだ高鳴っていたが、冷たい床に額をこすりつけていると、男はどうにか冷静さを取り戻した。この後の十数時間をはたして自分は耐えることができるのだろうか。しかし、男には耐えるしか道がなかった。
夜明け前、飛び出すようにモーテルを出ると、男はミーティングポイントに向かった。憔悴した表情はそのまま顔にこびりつき、もはや何の感情も表れなかった。かろうじて訓練が男に予定通りの行動を取らせていた。白い車が後ろから近づいて男を拾う。
コモンパークを過ぎた頃、あたりはようやく明るくなってきた。天気予報は一週間前から東部海岸地方の晴れを正確に予測していた。チェックインの6時半にはまだかなりの時間があった。すべて予定通り。渋滞の前にキャラハントンネルを抜けた。これまで三度のリハーサルがあったが、今日もそれとまったく変わりなく進んでいる。
セントラルパーキングで車を降り、ターミナル2に向かう。灯りのついたローガン国際空港はすでに忙しく働き始めていた。
アメリカン航空のカウンターが並ぶ中、ロサンゼルス行きの表示を探す。むやみと明るい照明の下で、頬杖をついていた女の子がにこりと笑う。
「ロサンゼルス?」
「ああ」
「バッゲージは」
「手荷物だけだ」
「搭乗開始は7時15分になります…」
身体だけが勝手に動いて、いつの間にか手荷物検査のX線カメラの前に着いていた。バッグをベルトコンベアーの上に置こうとすると、右手の小指が取っ手に絡み付いて離れなかった。まずい。とっさに左手で引き剥がす。誰にも見られなかっただろうか。狼狽を隠しながら金属探知機をくぐると、黒人の警備員が手際よくボディチェックを行なった。そうだ。なにも見つかるはずはない。
その時、後ろで荒い呼吸が聞こえた。振り返るとそこには男の仲間が立っていた。顔面が蒼白でみっともないほど震えている。
「どうかしましたか」
ガードマンが気づいたようだ。
「答えるな。分からなかった振りをするんだ」
男は早口のアラビア語で話しかけた。
「どうやら私の同胞のようです。気分が悪いようなので私が面倒を見ます」
男はあらためて警備員にいった。
警備員は面倒から逃れられて明らかにほっとしていた。男は仲間の肩を抱くとゆっくりとゲートに向かった。
搭乗口の前にはもう人が集まり始めていた。倒れそうな男を椅子に座らせ、自分のバッグを開けて中を確かめる。指先が底板の縁にテープで張り付けられたカッターに触れた。神は偉大なり。顔を上げると何人かの視線に触れ、互いに頷きあった。
「ただ今より、アメリカン航空11便、ロサンゼルス行きの搭乗を開始いたします。ご搭乗のお客様は…」
ぽっかりと開いたドアの向こうの暗闇の中に次々と人が吸い込まれていく。男も、もう一人の男を立たせると人の流れの中に巻き込まれていった。
9月11日の朝、アメリカに新しい週が始まった。
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