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第18回3000字小説バトル Entry20
その頃あたしが住んでいた家は、緑に囲まれた一軒家だった。体が弱かったあたしの為に、両親が空気の良い田舎に家を買ったのだった。
玄関を開けるとそこは見渡す限りの草原だった。小さな川が流れていて、強情に、どこまでも真っ直ぐに伸びていた。
ある日、その川の近くで絵を描いている人に出会った。
年はいくつだったのだろうか。あたしには解らなかったが、とにかく随分年上にみえた。
背の高い人だった。あたしが会ったどんな人よりも高く見えた。細長い身体を折り曲げるように屈めてその人は、キャンバスに何か絵を描いていた。
興味を持ったあたしは後に回って、その絵を覗き込んだ。
(あ)
絵を見たあたしは思わず小さな声を漏らした。
綺麗な絵だった。それは草原を描いた絵では無く、真っ黒な背景に色とりどりの、直線や三角や円などの様々な記号が描かれた絵で、そしてそれにも関わらず、確かにその絵は草原だった。草原を表す物は何一つ描かれていなかったけれど、あたしにはそこに草原を吹き抜ける風や、青空を引き裂くような強い陽光が見えたし、それどころか、地中に眠る動物達の死体や、そこから芽吹くていく植物の芽さえ見えた。
この人は本当に絵がうまいんだな、と思った。
「お嬢ちゃん」
その人はキャンバスを向いたままあたしに声をかけてきた。
「こんにちは」
「こんにちは。はじめまして」
穏やかな声だった。
「はじめまして。お嬢ちゃん、絵、好きなのかい」
「ううん、あんまり」
あたしは正直に答えた。
「でもおじさんの絵はちょっと良いなって思うよ」
「そうか」
おじさんは屈み、絵の具を取り出して、パレットに絞った。
「おじさんは絵、好きだよ」
そう言ってまたおじさんは絵に向き直った。
風がひらりと吹く。おじさんの右腕がひらりと動く。木々がさわさわと鳴く。おじさんの筆がさわさわと鳴く。どこかで鳥が飛び立つ。おじさんの筆が空へはためく。そうやっておじさんは少しずつ絵に色を足していった。
「おじさんは絵、好きだよ」
それはなかなか見事な眺めだった。私はその光景にみとれてしまった。
いつの間にか日が暮れていた。おじさんはまだ絵を描いていた。
遠くの山々が、夕焼けに赤く染まり始めている。
「おじさん、あたし帰るね」
おじさんは返事をしなかった。
あたしは立ち上がりながら絵の中を覗き込んだ。
絵は大分進んだようだった。様々な模様。不思議な色使い。その見事な調和の中に、あたしは奇妙な物をみつけた。
それは灰色の塊だった。
ぽつり、とキャンバスの右上の方に、その灰色の塊は置かれていた。活き活きと引かれた他の線や色に比べ、それは酷く異様で、孤独に見えた。
「おじさん、その灰色のは何?」
「これは象だよ」
おじさんはそう答えた。
「象? 象ってあの動物園の?」
「そうだよ」
穏やかな声だった。
「おじさんは象を描いているんだ」
「おかえり。ご飯もうすぐ出来るからね」
家に帰ると台所から母の声が聞こえた。
「何か手伝うことある?」
「じゃあ人参の皮剥いて貰おうかな」
「解った」
母は陽気に鼻歌を歌いながらネギを刻んでいる。
「ごめんね、いつもご飯遅くなって」
「しょうがないよまた仕事始めたんだもの」
「そっか。許してくれるか。良い娘じゃ」
そう言って母はあたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「あんたこっち来てどう? 少しは慣れた?」
「うん。まあね」
あたしは人参を見ながら言った。
「そうね。少しずつだけど顔色も良くなってきてるみたいだし。やっぱり空気の良い所は違うね。無理してでも引っ越して良かったわ」
「そうだね」
あたしは小さくそう答えた。
両親は快活な人達だった。父はこの引っ越しの為に仕事を辞め田舎の会社に就職し、母もその少々苦しくなった家計を支えるため夜遅くまで働き、そしてそれでも二人は快活なままで、早くもこの環境に適応していた。
とても強く、とても美しい人達で、だからその輝きが、もしかしたらあたしを弱くしていたのかも知れない。
「ただいま」
玄関で父の声が聞こえた。
「お、帰ってきた。じゃあご飯にしよっか」
「うん」
親子三人で夕飯を食べた。ご飯の暖かさが喉にしみて、右手の人差し指の爪の形がやけに気になった。
「どうした? 具合悪い?」
「なんでも無いよ。ご飯おいしいね」
「良かった。もっと食べてね」
「うん」
爪をじっと見ていると、あの灰色の塊が重なって見えた。
おじさんはあれを象だと言っていた。
あのおじさんは今頃どうしているだろう、と思った。
「こんにちは」
「こんにちは。今日は天気が悪いね。夕立がくるかもしれん」
おじさんは次の日も同じ場所で絵を描いていた。次の日も次の日も次の日も。
「そうだね」
おじさんの象は少しずつ大きくなっていった。
荒い灰色の塊は徐々に画面を占領していき、それでもその象は草原の中に独りで、その孤独は増していくばかりだった。
「おじさん」
「なんだね」
「象、好きなの?」
「好きというか、まあ何だろうね」
「ねえおじさん」
「うん?」
「象、描くのやめたら?」
おじさんはあたしの言葉を聞くと、ゆっくりと振り向いた。
「何でそんなことを言うのだい?」
あたしはおじさんの顔をその時初めて見た。
おじさんは思っていたより若かった。なかなか整った顔をしていたけれど、黒目が小さく、濃かったのが気になった。何かが張り付いている色だった。どうしようも無い何かが。
「何で、って」
ごう。
風が、強く吹いた。あたしの帽子が風に乗って飛んでいった。
「取ってきてあげよう」
おじさんは笑ってあたしに背を向けた。直ぐにおじさんの顔はあたしには見えなくなった。
おじさんは帽子の飛んでいった方へ歩き出した。帽子は風に乗って何処までも飛んでいく。
あたしはキャンバスと共に残された。
あたしはそのキャンバスやイーゼルがひどく古い物だったことに気が付いた。あのおじさんの目と同じように黒がかってみえた。おじさんには色々あったのだろうな、と思った。どうしようも無い何かが、色々あったのだろうな、と思った。
あたしはキャンバスを手に取った。思っていたよりずっと軽かった。
キャンバスの中の象は孤独だった。独りだった。それはなんだか、とても悲しかった。
あたしはキャンバスを持ち直し、勢いをつけ、空へと投げた。あたしには、そうするしか無い、と思えたのだ。
キャンバスは緩く放物線を描いて飛び、川の中へ落ちた。象はくるくる回りながら沈み、あっという間に見えなくなった。
あたしは急に恐くなった。とんでも無いことをしてしまった、と思った。
「お嬢ちゃん、拾ったぞー」
後からおじさんの声が聞こえた。
あたしは走り出した。後ろを見ずに走り出した。
草を蹴散らし、花を践み散らし、あたしは走った。
(違うの。そうじゃ無いの。あたしはただ)
ただなんだったのだろう。ただ。ただ何だったのだろう。
あたしは走り続けた。
いつの間にか雷が鳴り出していた。夕立だった。雨が強くあたしを打った。あたしは走り続けた。背の高い草の中を、自分を小さく思いながら、あたしは走り続けた。
「おかえり。雨酷かったねえ」
家に帰ると母が居た。
あたしは母に抱きついた。
「ん、どうした? 何かあった?」
母はあたしを優しく抱いてくれた。
あたしはいつの間にか泣き出していた。
あの象の目がとても優しかったことを、思い出した。
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