| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | がっきゅうかいぎ | xei | 2880 |
| 2 | 身代わりの代償 | 鄙島 流吏 | 1937 |
| 3 | 彼女は知っている | 遠野 みどり | 2972 |
| 4 | ある愛の「歌」 | オキャーマ君 | 2997 |
| 5 | 神の子 | 佐藤 ゆーき | 2998 |
| 6 | 欠落 | JETT | 2455 |
| 7 | ポッチ | きしむらしほ | 2639 |
| 8 | いなり寿司 | MARZ | 2208 |
| 9 | 清盛の石 | 鈴木信太郎 | 1609 |
| 10 | 進め! 宇宙船『どてらねこ』 | 黒ちゃん | 2345 |
| 11 | 夜を斬る | 御名篠 宗一郎 | 1321 |
| 12 | 川の無い橋 | 保田典子 | 2831 |
| 13 | 夏の傭兵 | 羽那沖権八 | 3000 |
| 14 | 夜の香り | 海坂他人 | 2895 |
| 15 | クローズ・エンカウンター | やす泰 | 3000 |
| 16 | 今日は幸せに | マーマレード=ジャム | 1521 |
| 17 | 鳥と星の還る場所 | Ame | 3000 |
| 18 | ダンシング・フラワー | 伊勢 湊 | 3000 |
| 19 | ぽんぽ子 | さとう啓介 | 3000 |
| 20 | エレファントマン | るるるぶ☆どっぐちゃん | 3000 |
「え〜と。だいたいこれで全部かな?」
黒板を振り返り、5年B組担任教師山田一郎は列挙されたタイトル群を見回した。
生徒たちが思い思いに挙げたのは半月後の卒業生壮行会でクラスがやる演劇のタイトル
だ。
「しかしずいぶん出たなぁ」
総数26個。生徒40人のクラスだから半数以上の生徒が案を出したことになる。
「ん?これはなんだ?」
白雪姫(よくある)、シンデレラ(まあ定番)、アンパンマン(………)と見慣れたものに混じって幾つか内容がわからないものがあった。
「『ギ○ンの野望』?誰のだ。コレ」
「はい!」
「おお、クラス委員長の安室か。これはどういう話なんだ?」
「よくぞ聞いてくれました。それは言うなれば男のロマン。たとえるならば人類の夢!」
「…で?」
「時は宇宙世紀…
30分後
…でして、ギ○ンは…ギ○ンが…ギ○ンに…」
「わ、わかった。もういいから。な?」
延々と続く語りにクラス全員げんなりとする中、山田一郎が疲れ果てた顔で制する。
「え?まだ話はこれから、あっ、な、何をするおまえら。ギ○ンは…ギ○…ぎゃぁぁぁ…」
ブチ切れた前後左右のクラスメイトに連れ去られた廊下からの声が途絶える。と、
「で、次は『バ○ルロ○イアル』?」
「はい!」
立ち上がったのはクラスきっての武闘派、佐田家国光だ。
「俺たち全員で戦うんス!喧嘩ッス!勝負ッス!命かけるッス」
「ちょ、ちょっと待て!それは本当に演劇なのか!?」
「勿論ッス。筋書きのないドラマッス!俺は必ず生き残るッス」
「生き残るっておまえ…」
あちこちから上がるブーイングに「ヒーローはいつも孤独なのさ」などとワケのわからない返事を返して着席する佐田家をとりあえず無視することにして、
「ゴホンッ。次は…おっ『必殺仕事人!』これは誰だ?」
「ふっ。先生よぅ。仕事人っと言やぁ、あっしの他に誰がいましょうや」
「中村…その変な日本語やめろ」
「今回の仕事はいたいけなる民草(自分たちのことらしい)に、宿題なんてヤボを押し付ける。山田一郎ってケチな教師野郎の始末さね」
「あとで職員室に来るように…」
「マジ!?」
すっこける中村は後で始末することにして、
「あとは…結構あるなぁ。この『ベルサイ○の薔薇』って何だ?」
「よくぞ聞いてくれましたわ!」
「副委員の蝶野か…」
クリクリにカールされた金髪と小学生ばなれしたスタイルの女生徒に内心辟易する山田一郎に蝶野は「オホホホ」と優雅に笑む。
「フランス革命を舞台にした、男装の麗人オスカ○の美しくもはかない物語ですわ」
「そ、それはちょっと小学生の演劇には向かな」
「勿論!オ○カルはこの私。そして」
チラと流し目を送る先はクラスきっての美少年。安藤竜一だ。蛇に睨まれた蛙のように色をなくす安藤に同情の視線が集まった。
「ま、まぁ。それは決まったらってことで。なぁ?みんな」
さすがに哀れになって言うと全員(蝶野以外)首肯する。特に安藤は狂ったように首を縦に振りまくっていた。
「さて、と。『バーサス』?」
「俺ッス!」
「次は、と」
「なんで!!」
佐田家の抗議は無視し、
「『リングに○けろ』………おまえら実は演劇をやる気ないだろ?」
「そんなことないです!」
「いや、だってこれは無理だろう」
まっさきに立ち上がったのはショートカットの似合う活発そうな女生徒だ。
「どうして『リンかけ』がダメだって決めつけるんですか?どうして人間にギャラクティカ○グナムは打てないって決めつけるんですか!?人間の可能性は無限だって言葉は嘘なんですか?校長先生は嘘ツキなんですか!?」
(校長?)
そういえば先日の朝礼で校長がそんな話をしていたような。はっきりいって頭が痛い話ではあるがとりあえず、
「長嶺」
「はい?」
「これはおまえだな?」
「てへ(はあと)」
ツっこんでおくことにした。
「まったく。そろそろ決取るぞ」
「「「なんで!!」」」
いい加減面倒臭くなってきたので残りは無視することにした。
結果。
「結局『シンデレラ』に決まったか」
内心胸を撫で下ろし、3票差とやばいくらい僅差だった『北○の拳』の名前に冷汗が頬を伝い落ちる。
「なんで『リンかけ』の良さがわからないのよ!?」
「嗚呼、安藤君…運命はこんなにも残酷に私たちを引き裂くのね」
「ジークジオ…あぁ、やめてぇ〜」
「チッ。折角合法的に復讐する好機だったってのによ。てやんでぇバーロー」
「何故だ!手前らそれでも男かぁ!!その拳は飾り物かぁ!!ッス」
本人以外の得票がなかった生徒たちが口々に不満を漏らすのをため息まじりに見回し、
「はい!そこまで!!」
生徒名簿で教卓を叩き鳴らして黙らせ黒板上の時計を指差す。同時に長針がカチリと動き、終業のチャイムが鳴り響いた。生徒達の顔に先ほどまでとは違った笑顔が浮かびだす。
「帰りの会を始めるぞ〜。」
とにもかくにも、まともに済みそうな題目にホクホク顔で日直に場所を譲る。だが、三日後の配役決定会で彼は再び仰天するハメになるのだった。
「おまえらねぇ…」
ちゃんちゃん♪
其処には箱が在った。
然し其の箱を開ける事は許されない。其れが、パンドラの箱だからだ。
―――箱の底には希望だけが残っていたと言う。
私の記憶が正しければ、パンドラは女性だった。今と成っては神話に過ぎないが、私は其れを見たのだ。あれは、去年の夏だった。
「此処は何処でしょうか。」
街で女性が一人、私に声を掛けて来る。私は好奇心から、愛想良く返事をした。
「はい?」
「だから、此処は何処でしょうか。」
正直、後悔した。何で私がこんな頭の可笑しい女と会話しなければいけないのだろうと。多分、歩いている人々には私が可笑しくて堪らないだろう。
「此処は、日本ですよ。分かりませんか。」
私は態と言ってやった。すると女は困った顔をして言った。
「御免なさい。無知な者ですから―――。あの、日本というのは何なのですか。」
「はァ?」
呆れて、物も言えなかった。此の女は何を考えている。ふざけているのか。私をからかっているのか。そんな気持ちになった。だから、こう問うた。
「貴方、何処から来たのです。」
漸く理解したのか、女は微笑を浮かべて言った。
「はい、希臘から。」
「ぎ、希臘?」
「ええ。」
「で、名前は―――。」
「パンドラ、です。」
「あ――――――。」
私は、言葉を失った。如何したものか。こんなにも可笑しい人間が居るなんて。ましてやパンドラ等と言う神話の中の名前を口にする等。
「貴方は、私をからかって仰るのですか。」
「い、いえ―――。」
如何考えてもからかわれているとしか言い様が無い。何処まで侮辱すれば気が済むのだ。
「貴方は、罰ゲームか何かで?」
「罰、ゲームですか?」
「ええ。」
「何ですか、其れ。」
もう、何も言う事が無い。之以上こんな女に等からかわれてなるものか。
私は其れ以降何も喋らずに、其の場を後にした。後ろで何か言っているのが聞こえたが、既に我慢を超えている私にとって、聞く事は一切しなかった。
「ふゥ―――。」
一通り仕事を済ませて家に帰ろうと、帰路を辿った。すると如何だろう。今日の女が道端に立って居た。
「な、何だ。」
ずっと此方を見ている。然し何も言わない。
「フフ。言葉を、覚えて来たのですよ。聞いて下さる?」
さっき会った時とは比べ物に成らないほど落ち着いた声。何処か恐怖を感じ、頷く事しか出来なかった。
「日日是好日―――。」
「はぁ。」
其の瞬間、辺りが明るくなった。何だ?一体何が起こったのか。
「さあ、御出座しですよ。英雄、プロメテウスの。」
「―――ひィッッ!」
目の前は、鼓膜が割れるが如く大きな音がした。
―――ぎィっ、ぐぁ、ぎゃっ。
悲鳴に近い、絶えず聞こえる喘ぎ。何も見える事は無い。音が、気持ち悪いほど聞こえる。
「うぅ・・・。」
思わず、耳を塞ぎたくなる。
「あ・・・?」
―――触れない。自分が、触れない。動けないし、心臓の波打つのが聞こえない。何処だ?私の体は何処だ?
「ひやァ・・・。」
最早何も言えない。あの、パンドラとか言う女は如何したのか。此処は、何処だ。
「我が名は・・・プロメ、テ、ウス・・・。」
「!」
声が聞こえた。喘ぐ声の主だ。如何やら男のようだ。
「英・・・雄・・・プロ、メ、テウ、ス・・・。」
―――――――――
声が、ぱったりと止んだ。何も見えない辺りは、何故かだだっ広さを感じる。
「此処が、永遠の闇・・・。」
「パ、パンドラ・・・。」
漸く、聞いた声のある声に会った。然し、不安は治まらなかった。
「貴方が此処に居るのは、〈英雄プロメテウス〉の身代わりです。プロメテウスは貴方の体を持ってして、地上に蘇ったのです。」
「な・・・。」
私の体は。
何処に行った。
「貴方は、今し方プロメテウスが受けていた拷問を身代わりとして受けて頂きます。」
此の女は。
何を言っている。
「さあ、鷲よ。幾らでもどうぞ。」
「や、やめッ・・・・・・!」
―――――ぎゃあっ
「―――貴方の代わりは暫く要らないわよね。私をあんなにしたんですもの。」
「うわぁ、うぐ、ぎ、がっ。」
「プロメテウス、話し方は覚えているわよね。」
「ギ・・・?」
「あら。器が悪いの。じゃあ、取り替えましょうか。貴方、本当は話せるらしいから。」
―――代わりを連れて来てくれ。
「もう根を上げるの?」
―――私が何をしたって言うんだ。
「何って、私を殺したじゃない。」
―――・・・・・・!
「貴方には、当然の報いよね。私は何てったって・・・
パンドラだもの。」
ああ
そうか
私は五年前に
人を殺した。
一人の
希臘女性を
あれが
パンドラの意識を
持っていたと言う
今と成っては
如何でも良い事だ
早く彼女が次の身代わりを連れて来るまで
私は鷲に内臓を啄ばまれていなければ成らないのだから
早く
早く
でも
神話は本当だったと言うのか
箱を開けたら
取り返しがつかなくなった
―――箱の底には希望だけが残っていたと言う。
彼女を紹介したのは弟だった。弟から俺に会いたがっている女がいるとは聞いていたが、たちの悪い冗談だと思った。本当は行きたくなんかなかったのだが、弟に逆らうことなどできなかった。最初に彼女を見たとき、正直どこにでもいる女だと思った。にやつく弟の前でお互いの連絡先を交換し、さっさと帰った。
数日後、俺の携帯が鳴った。彼女からだった。彼女は俺の話が聞きたいと言った。二人で会って話をするにつれ、俺の鈍い頭にもやっと彼女の聞きたいことがわかるようになった。
彼女は小説家志望だった。日々小説のネタを探し、変わった人物の話を聞くのが趣味のような女だった。要は弟の影でおびえて生きる無様な男の身の上話が聞きたかっただけなのだ。もちろん弟もそのことには気がついているだろう。だからこそ俺にこの女を紹介したのだ。あいつは俺が一瞬でも舞い上がって浮かれる様を見たかったのだ。
もちろんこんな女に話すことなど何もない。弟と一緒になって俺を笑いたいのなら勝手に笑えばいい。だが、もう二度と連絡してくるな。そう吐き捨てて俺は席を立った。
普通の女だと思っていたそれは、普通どころか最悪に図々しくてしつこい女だった。何を言ってもどこまでもついてきてどうでもいいような世間話をしたがった。結局先に音を上げたのは俺だった。
「わかったよ。何が聞きたいんだ。何でも答えてやるからもうついて来るな。」
「ん〜、何が聞きたいかと言われると困るんだよねえ。」
「おまえ馬鹿か。」
「何がしたいかと言われたら、普通の話がしたい。」
「はあ?」
「また会おうよ。その時までに質問を考えてくるからさ。」
結局次の約束をして、その日は別れた。
何度か話をして、彼女はステレオタイプな回答が欲しいわけじゃないことがわかった。彼女は一人の人間として俺と付き合うことで俺そのものを理解したかったのだ。彼女は自分のことならなんでも包み隠さず話した。俺に警戒されたくない、というよりは元来そういう性格らしい。そのうち俺も彼女とだけは腹を割って話すようになった。ひとつだけあっていた。やっぱりただの女じゃない。
とても頭のいい女性だった。たわいもない話からいつもなにかを得ていたし、一緒に話をするうちに俺の中のなにかを変えていった。そして気づいた。彼女が教えてくれたのかもしれない。俺はずっと何かから逃げて生きてきた。今まで弟から逃げているんだと思っていた。違う。俺は俺の中の弟から逃げたかったんだ。
俺と弟は一卵性双生児だ。それだけならたいして珍しくもない。だが俺の実家は有数の資産家だ。江戸時代から続く旧家で一昔前なら財閥に数えられていた程だ。本来なら兄である俺が家を継ぐのかもしれない。そこは旧家、昔から双子は弟が継ぐと決まっていた。それどころか、男の双子が生まれたら後々禍根を残さぬよう、兄の方はすぐに殺す決まりだった。さすがに今時そんな理由で殺されることはなかったが、俺は離れでひっそりと育てられた。
俺の周りにいる奴らはどいつもこいつも同じだった。俺は本来殺されて生まれてこなかったことにされる身の上だ。だから家の者、特に弟のそばにいる奴らは俺を存在しないものとして扱った。もちろん両親だって例外じゃない。たまに寄って来たかと思えばなんとか弟に取り入ろうと俺を利用することしか考えてない奴らだった。女だって弟の奥方の地位がお目当てだった。
いくら同じ遺伝子を持っていても結局は育ちだ。小さい頃から蝶よ花よとかわいがられ、帝王学、経営学から始まって礼儀作法、楽器、語学、スポーツに芸事と英才教育を受け財界だの社交界だのに顔が利く弟と、お情けで大学まで行かせてもらった俺とでは中身も外見も似ても似つかなかった。双子だと言わなければ誰も兄弟だとすら思わないだろう。
弟が家督を継いだとき、俺は弟の目に触れないようにひっそりと生きていこうと思った。家から追い出されることはない。一生このまま、弟の怒りを買わぬ様生きていこうと。そうして俺は極力弟を煩わせないように生活するようになった。生活そのものに不満はなかった。聞けば誰もがうらやむ生活だろう。だが、俺は弟から逃げ切ることができなかった。あいつはいつも鏡の中から俺を見ていた。
俺はそんな気持ちを彼女にぶつけた。どう思われるかなんて考えもしなかった。ただ誰かに聞いて欲しかった。彼女はじっと俺の目を見詰め、一言一句受け止めてくれた。気が付くと俺は泣いていた。顔を上げると嬉しそうに微笑む彼女がいた。
その夜俺たちは一線を超えた。
俺は変わった。今までは弟に遠慮して機嫌を伺うだけの生活だった。でもどうせ一生飼い殺しだったら、自分の力を試してみたくなった。俺には弟と言う何よりも強いコネがある。これからは俺が弟を利用してやるんだと思うようになった。
「事業を起こしてみようと思う。弟や一族とは関係のないところで、力を試してみたいんだ。家の奴らだって厄介払いができるとなったら金も出すだろう。でも失敗したらそれで終わりだ。助けてくれるほど甘い奴らじゃないことは良く知ってる。」
「やりたいならやってみるべき。失敗しても死ぬわけじゃない。」
何よりも心強かった。俺はまず、弟の行く催し物に方端から参加した。もちろん呼ばれてなんかないがこういうとき双子は便利だ。弟のフリをして会場に紛れ込んだ。着慣れないスーツを着て銀行の頭取や政治家に顔を売って回った。弟に双子の兄がいることすら知られてなかったが、めげずに話し掛けて少しずつ自分のコネを作っていった。そのうち俺宛の招待状が届くようになった。
弟の様子がおかしくなった。いつも自信たっぷりで堂々としていたのに、なんだかイライラして家の者に八つ当たりするようになった。変化は仕事の面でも表れ、無理な買収をして子会社を潰した。結納直前までいっていた婚約者とも別れたらしい。聖人君子だった弟から皆が離れていくのが手にとるようにわかった。矛先は俺にも向いた。あるパーティーで俺が新興企業の社長と話をしていると社長の背中越しに弟がもの凄い形相で睨みつけていた。翌日の急激な株の暴落が原因となってその新興企業は倒産した。俺はこのとき初めて弟が怖いと思った。生まれてこの方自分の思い通りにならなかったことなどなかった弟の兄への警告だった。
だが、俺が事業を起こす前に弟は死んだ。交通事故だった。酒を飲んで高速で事故ったらしい。一族中が蜂の巣をつついたような騒ぎになって、知らないうちに俺が次期当主として担ぎ出された。両親と産まれたとき以来の感動のご対面を果たし、俺が全てを継ぐことになった。
「ごめんなさい。」
プロポーズの返事だった。理由を聞いても彼女はうつむいて首を横に振るばかりだ。
「こっち見ろって!」
無理やりこっちを向かせても彼女はすぐに目をそらす。見詰め返す瞳はそこにはもうない。俺は彼女をきつく抱きしめた。
「なんでだよ…。」
彼女がかすかに震えている。顔は見えないが泣いているのか?泣くぐらいなら理由を言ってくれよ。おまえらしくもない。俺に言えない理由なのか?
抱きしめる両腕が冷たくなった。そうだった。昔から頭のいい女だったもんな。知ってるんだろ。俺が弟の車に細工したことを。
彼女の肩を抱く手に力が入るのがわかった。
先ほどから外で、奇妙な音が聞こえていた。人の気配がする。
窒息しそうなほど狭く薄暗い廃墟の一室で、吉田は拳銃を握り締め、ドアの方向に神経を集中していた。緊張感を維持し続ける苦痛で膝が小刻みに震えている。
明美はその傍らで、いつものようにぼろぼろになった電話帳を開いていた。携帯電話のボタンを押し続けているのだが、どこにかけても繋がらない。うんざりした顔を吉田に向けて愚痴るのは、これで何度目か。
「やっはり、生き残っているのは私たち二人だけだわ。誰も電話に出ないし、誰も助けに来てくれない。もうこれ以上、何かをする必要はないんじゃないのかしら」
「そんなに簡単にあきらめるなよ。部屋にはまだ電気が来ているんだ。必ず生きている人間がいて、俺たちを助けに来てくれるはずだ」
拳銃を握りなおしながら、吉田が噛み付くように言った。明美は、すでに携帯電話を床に投げ捨ててしまっている。
静寂が絶望と恐怖を伴って、再び部屋中に満ちた。二人の間に流れた沈黙が、まるで彼らを暗黒の世界に引きずり込もうとしているようだ。
と、その時、外からけたたましい悲鳴が聞こえてきた。
誰かが入口の向こう側でドアを激しく乱打している。吉田と明美は同時にドアの方を見た。
「開けてくれ、中に入れてくれ」
吉田があごをしゃくって明美に合図した。明美は無言で頷き、ドアに駆け寄ると、真ん中にある覗き窓に片目を近づけた。
「助けてくれ」
「あなたは誰?」
明美はドアに向かって叫んだ。
「すぐそこまでゾンビが追いかけてきているんだ。この扉を開けてくれ」
吉田は腰を据えて銃を構えている。振り返りながら、明美が困ったような声を出した。
「人間みたいね。傷もないし、血も流れていないわ。きれいな顔をしている」
「死んだばかりのゾンビは傷もなければ腐ってもいない。人間と見分けがつかないというのは、君もよく知っていることだろう」
「なら、見殺しにするの? 私はそれでも別に構いはしないけど」
「いや、入れてやろう。その代わり、例のテストをする」
明美がドアを開くと、飛び込んできたのは、サラリーマン風の中年男だった。どう見ても人間としか思えない。だが、吉田は疑っていた。死んだばかりのゾンビは脳みそも完璧に機能している。知能を操って、芝居をしたり、嘘をついたりすることだってできるのだ。
「あ、ありがとうございます」
近づいてくる男を吉田が拳銃で牽制した。
「来るな。お前が俺達の仲間かどうか、これからテストする。明美、準備してくれ」
明美が後ろ手でドアの鍵を閉めて、蟹のような横歩きでにじり寄った壁には、大きな機械が置いてあった。
カラオケセットと歌唱力判定機である。
この絶望的な異変に気づいたのは、まず、政府の統計調査室の役人たちだった。
近年の人口推移を調べていると、死亡数と実際の総人口数が合致しないことがわかったのである。さらに極秘調査の結果、国民の中にいつの間にか死人が混ざって生活していという驚嘆すべき事実が判明した。
ほどなくして、「存否白書」という政府見解がまとめられた。存否とは、「否定されるべき存在」という意味である。それによれば、存否はねずみ算式に増え続けているらしい。すでに、生者と死者の人口比率は逆転し、この国のすべてが死者になるのは、想像を絶するほど近い将来であるいう計算も公表された。
それがわずか一年前の話である。その間にこの奇妙な出来事についてわかったことといえば、存否に噛まれると人はそのまま死んで、新たな存否に生まれ変わるということだけだった。存否の原因究明が到底追いつかないほどの短期間で、すでに人類の存続は絶望的になってしまったのである。
吉田と明美が、どういう経緯をもってこの廃屋に閉じこもっているのかを詳しく語る必要はないが、ただ言えることがひとつだけある。それは、彼らの命を今日まで救ってきたのは、荒廃した街角の駐在所から盗んできた一丁の拳銃と、このカラオケセットだったということだ。もっと正確に言えば、カラオケセットに付随した歌唱力の採点機械である。
「歌え」といわれて、このような緊張感の中で人が歌を歌えるものだろうか。
が、拳銃を突きつけられてはどうしようもない。男は理由もわからず、演歌を選んで、恐る恐る歌い始めた。
男の歌声は最初は震えるようだったが、中盤に至ると徐々にのってきた。歌が人の心を変えるというのは、本当の事らしい。そのうち歌詞がサビの部分になると、歌声に手振りを合わせるようになった。
これはうまいわね、と明美は舌を巻いている。さすが、中年サラリーマン。カラオケは歌いなれているのだろう。
「もういい!」
が、突然、吉田の大声でカラオケは中断した。男は青ざめた顔をして、尻餅をついた。
「ま、まさか?」
明美が駆け寄る前に、すでに吉田の拳銃が轟音を上げていた。
後頭部が石榴のようにはじけ、そのまま脳漿を壁にぶちまけて、男は膝から崩れるように転がった。
「どうしてなの。歌、うまかったわ。こぶしも利いていたじゃないの」
「見てみろ」
吉田は落ち着いている。採点機が出したのは三十八点にすぎなかった。機械にはこぶしを利かせるという表現力が理解できないらしい。
「こぶしは関係ない。機械は正直だ。五十点以上はないと合格とはいえないよ。こいつはゾンビだ」
ゾンビの心臓は止まっている。人間というものは、自らの心臓の鼓動を基準にしてリズムを感じるものらしい。だから、ゾンビにはリズム感がないのである。歌が歌えないし、踊りも踊れないのだ。
いくら巧妙に人間の振りをしていても、歌を歌えばすぐに正体がわかってしまう。それが吉田の理論だった。
が、明美は反発を感じていた。もともと、彼女は音楽教師だった。だから、歌についての評価は自分に任されるべきだと思っている。
「これは人間の血だわ」
「何をいっているんだ。これまで俺たちが生きてこられたのはこの用心深さのおかげだぞ。さあ、臭いがする前に片付けよう。君は箒でカスを掃き捨ててくれ」
言いながら、吉田は、出来立ての死体を部屋の隅に引きずった。ゾンビは頭を破壊されると完全に死んでしまうのである。
明日は自分の番かもしれない……。
明美は血だらけになった箒を使いながら、そう思っている。
吉田は一日に必ず一度は、明美に歌を歌わせる。彼にとってそれは、人の存在に対する確信と生きる希望のための行為であった。
死体の処理が終わると、明美は吉田に気づかれないようにそっとトイレに入り、ブラウスの胸をはだけた。
そこには黒い洞窟がある。
明美が手を入れて振り子をゆすると、かちかちかち、と規則正しい拍節音がリズムを刻み始めた。それは、以前に音楽教室から持ってきたメトロノームである。
煩わしいけど、しかたない。
準備が終わると、明美は、カラオケセットの前で待っている吉田のところへ急いだ。
明美は、仲間意識という感情を超えて、吉田を愛していた。彼女は、ともすれば、その喉に食らいつきたくなる気持ちを抑えながら、少しでも長く二人でいる事を祈っていた。
それにしても、このテスト、演歌は圧倒的に不利よね。
彼女は歌詞カードをめくりながら、ふと思ったが、それもイントロが始まるまでの事だった。なにしろ彼女にとって歌を歌うことは、吉田の愛を確認できる至福のひと時なのである。
<すばらしい人生をいきよう>
そのセミナー会場は、まるで子どもの頃の公民館での集会のようななごやかな雰囲気だった。そして僕は子どもの頃と同じように、演壇に立つ司会者や、講演者と絶対に目が合わないような場所に座り、講演が始まるのを待った。
それはある宗教団体の主宰する哲学セミナーで、僕は同僚の女の子に誘われてやってきた。それまでの僕は宗教団体というものを敬遠していたと思うが、もともと思索好きな性格であったことと、その同僚の女の子を仕事の上でも、友人としても信頼していたので参加してみることにした。
その日は、その団体で発行している新聞の記者の講演があった。講演の内容は、前半部で、それまでの僕のようにその団体や、宗教そのものを蔑視する人々を面白おかしくあげつらい、後半は、仏教に基づいたその団体の教えや、その団体の教祖の苦労や業績を賛美した。
前半部はむっとするところもあったが、納得するところもあり、後半部は素直に感心してしまった。そんな僕に、講演終了後、その演者である新聞記者が入信を勧めてきた。同僚の女の子は申し訳無さそうに僕を見ていた。
僕は全く入信するつもりはなかったが、元来他人の誘いを断ったりするのが下手で、「実は僕はブッダと同じ4月8日生まれなので、興味はあるんです」と余計なことまで口にしてしまった。
僕は小さい頃から祖母に、「お前はお釈迦様と同じ日に生まれたんだよ」と聞かされて育った。自分では殊更意識しているつもりはなかったが、ずっと周りからは「優しい」という評価を受け、性格診断テストみたいなのをやってみると必ず「博愛主義者」という項目に行き当たった。戦争や理不尽な殺人のニュースなどを見て怒りと悲しみを膨らまし、人間とは何か、宇宙とは何かということに思いを巡らしているうちに、自分はブッダの生まれ変わりではないかという思ったこともあった。しかし、そんなばかな考えは捨て、もっと現実を見つめて堅実に生きることに務めた。だから、僕は宗教を信用していなかったが、社会学や科学の本を読み漁り、現実的な知識と感覚でこの世界や人間のことを知り、自分を高めたいと思っていた。でもその勧誘を逃れた後に、その講演がきっかけで、ブッダについて書かれた本を読んでみようという気になった。あくまでも仏教についてではなくて、ブッダその人について書かれたものを。僕はブッダのことをほとんど知らなかった。
一週間かかってやっと本屋で見つけたその本は、国営放送が番組とタイアップして出版した本で、ブッダを神格化した伝承にはあくまで慎重に接し、できるだけ現実的な観点から、ゴータマ・ブッダその人を追っていた。僕はその本に好感を持ち、一気に読み進んだ。
ゴータマ・ブッダは神でも超能力者でもなかった。ただ、より善く生きるための智慧を説いてまわった内省的な青年だった。ただ、その内省的な心から答えを導くために恐ろしく客観的な目を持った青年だった。
僕はゴータマ・ブッダに共感した。一般的な修行である苦行を捨て、自分なりの方法でさとりを開いたことに。自分が感じることすべてをありのままに捉えることによって、この生が自分のすべてだとさとったことに。何ごともただ信じることなく、正しい見解を持つことを説いたことに。
しかし、その本を読み進めるうち、僕は少なからずショックを受けることになった。その本にはこう書かれていた。
「日本では4月8日をブッダの誕生日として祝うが、ブッダの誕生年月日は正確に分かっていない」
ある日、同僚の女の子から食事に誘われて、会社の近くのイタリアンレストランに入った。そこにはあの講演をした、新聞記者がいた。同僚の女の子はまた申し訳無さそうに僕を見た。彼女に理由を聞く間もなく新聞記者は口を開いた。
「先日の講演では分かりにくかったところを御説明しようと思って」
僕はもうその店から出て行きたかったが、やはり僕の性格上、笑顔で席についてしまった。そして彼は僕の意見も聞かずに、三人分のオーダーをしてしまった。
それから彼はおもむろに、彼の人生がどん底だった頃の話を、さも楽しそうに語り始めた。かいつまんで言うと、彼は大学卒業後、友人とやっていた会社が、友人のミスで潰れ、その後、一緒に新しい会社を立ち上げようとした共同経営者に資金を持ち逃げされ、借金を背負わされ、ヤクザに追い回されたのだった。そこまで聞いたところで料理が運ばれてきたが、彼はまったく料理に見向きもしないで、僕の目をまっすぐに見つめながら話を続けた。そのため、僕も料理を食べるタイミングが見つからずに、傍らで、そんな僕らにたまに目をやりながら、もくもくと料理を口に運ぶ同僚の女の子を視界に捉えながら、僕は微動だにせずに話を聞き続ける他にしようがなかった。
その借金を背負わされた過去の彼は、宗教団体に所属する現在の奥さんと知り合い、懐疑的ながら彼女と毎日一緒にお経と唱えているうちに、なぜか借金が消え、小さい頃からの夢だった新聞記者という職に就くことができた。そして、これはすごいということでその宗教団体に入信した。そこまで話して彼は身を乗り出して、僕に向かってこう言った。
「どうですか。あなたも入信しませんか」
そうダイレクトに問いかけられ僕は返事に窮してしまった。ワインを一杯喉に流し込みたが、彼はワインをオーダーしてくれなかったので、僕はぬるくなった水を一杯喉に流し込んだ。水はまずかった。水道水ではないだろうが、僕は故郷の東北の小さな町の実家の井戸水のうまさを思い出した。そして思いきって口を開いた。
「僕は確かに精神世界に興味がありますが、他人のお仕着せではなく、自ら体験したことについて悩み、考え、自分で自分なりの真理を見つけ出したいと考えています」
彼は、僕が反論したことに対して少し意外な顔をしたが、ひるまずに続けた。
「しかし、この教えがすでに真理だということははっきりしていますし、この経文を唱えるだけで、あなたは宇宙と一体となり、あなた本来の力を100%発揮できるようになるんですよ。別に嫌ならいつ辞めても構いません。ただこの経文を朝夕唱えるだけでいいんです。入信したからって他に何かしなきゃいけないという強制力もありません。どうですか」
この言葉で僕の嫌悪感は更に高まってしまった。
「ブッダはただ、信じるのではなく、正しい見解を持つようにと言っていますよね。ただ経文を唱えるだけで手に入る真理を僕は必要としません。僕はその真理を自分自身で見つける過程を求めていますから」
僕がそう言うと、彼はため息をついて、そして冷めたパスタの上に乗っているアサリの身をフォークとスプーンで口に運び、よく噛み、飲み込んでからこう言った。
「そうですか。本当はこのことはあなたに言っちゃあいけないのですが、仕方ないでしょう。実はあなたを入信させるように教祖から命令が下ったのです。あなたは4月8日に生まれたとおっしゃていましたが、あなたはブッダの生まれ変わりなのです。だからそのあなたが、他の団体に入信してしまったり、もしくは自ら教団を作ったりする前に、我が教団に入信してもらって、教団のシンボルとして活躍していただこうという教祖の意向なのです」
僕は呆然としながらも、自分の顔が笑顔になっていくのを感じながら、心の中でつぶやいた。
さあて、どうしたもんかなあ。
「その時、その状況で、その人が何をチョイスしたかが重要なの。それはあの日受験に行かなかったとか、どっちの会社に決めたとかそういう事じゃないのよ。そうね、ある状況下に於いて、いくつもの感情が沸き起こるでしょう。ポジティブなもの、ネガティブなもの。その中で自分が何をチョイスしたかっていう事なの。納得とも言えるかもしれない。そういう1つ1つの積み重ねでその人が形成されていくのよ。それを考えるのはとても難しいの。だから後悔という私が1番嫌いな感情につながってしまうのよ。それは反省にもつながるわ。だから本当はとても慎重に選択しなければならないの」
そう彫られた小さなプレートがあって、それを包み込む様に様々なスクラップが重なり合っている。主には金属や鉛で出来ていて、はんだ付けされた電子回路や熱で半分溶かした受話器や切断されたシールドや乾電池等があちこちから飛び出している。その物体は薄暗い防音室にあって、時々内臓されたモーターが作動し不協和音を奏でる仕組みになっている。文字は彫った所に赤い蛍光塗料が流し込んであり浮き出て見える。
俺は流線型の白いベンチに座り、缶コーヒーを飲み煙草を吸っていた。灰皿は水をすくう時の手の様な形をしていて消え切っていない吸殻から煙が上がっている。中指の第2関節の辺りに煙草を押し付け、消えていない吸殻にコーヒーをかけた。俺は、自分の腕に煙草を押し付けて喜んでいた同級生の事を思い出して、そいつが好きだった女はヨリコといい、休み時間はいつも本を読んでいて両親が2人とも教師で、自分の美貌に全く気付いていない女で、事あるごとに根性を焼いていた同級生はいつもちょっかいを出していたが、いつも相手にされずいつもブスと罵っていて、ある日彼女が引っ越す事になって、それを知った根性焼きは酒で勢いをつけて彼女の家に行ったが既に誰も居なくて、根性焼きは家で1人で泣き例によって新たな傷を1つ増やして、ヨリコは次の学校でいじめにあい、受験に失敗して家出をして、自殺未遂を2度起こし6ヶ月間精神病院に入って、その後ヨーロッパを1人で旅してその間に出会った男達と身体を結び2度中絶をして、日本に戻り年下の商社員と結婚して、すぐ離婚した。
俺はさっきの物体をもう1度見たくなって、防音室へ足を運んだ。俺は少しふらつきながらそれを眺めていた。
「こんにちわ、あなたが来てるとは思わなかったわ」
俺はあまりに突然だったせいもあるが、それ以上にその美貌に、その切れ長で強い瞳に、すらっと伸びた高い鼻に、薄く柔らかそうな唇に圧倒されて、瞬きを繰り返すばかりだった。
「あなた、また酔っているんでしょう。でもあの時みたいにお酒じゃないわね。私ヨーロッパで色々経験したから分かるわ」
俺は曖昧に返事をして、久しぶりだねとか調子はどうだとかそういう話をして、後2時間位で個展が終わるからお酒でもと彼女が誘ってきたので、俺は流線型の白いベンチで待つ事にした。
「どうしてここに来たの」
マルガリータを飲んでいる彼女が言う。
「噂を聞いたからだよ。個展を開くって」
俺はハイネケンを喉を鳴らして飲んだ。
「どうせ、ロクデモナイ噂ばかりでしょう。分かってるわよ。別に関係ないけど。それより私、あなたの事好きだったのよ」
俺は嘘だろ、という微笑みを返した。
「私は感情を表に出す事は恥ずかしい事だ、と教えられて育ったの。今考えるととんでもない話だと思うけど、信じてたわ。だから沢山本を読んだ。頭の中を文字で埋め尽くしたかったの。感情を出さない訓練をしてたの。それは難しいのよ。そうね、あらゆる物事を客観的にみるの。どんな出来事でも第3者的にみるのよ。私はそれをやっていた。それが原因でいじめにあったわ。悲惨だったわよ。でも皮肉な事にその頃の私は第3者的見方がほぼ完璧に出来ていたから、助かったの。今私は3人からひどいいじめを受けていて、お尻に画鋲を刺されて痛いと思っている、とかそういう具合よ。そのうち私は分裂症だと診断されるようになった。私には原因が分かっていたから怖くは無かったわ。鉛の様なハートを溶かしてゆけば全ては解決するってね。それで私はヨーロッパに行ったの。なぜヨーロッパだったかは思い出せないんだけど、多分本の中で見たギリシャの写真のせいだと思うわ。私は徐々に解放していったの。鉛の様なハートを溶かしてゆくようにね。危険な目にも沢山あったわ。レイプされそうになった事もあるし、銃を向けられた事もある。でも楽しかった。今じゃ楽しい事しか覚えていないわ。それで私の鉛の様なハートは徐々に赤く波打つハートに戻っていったんだけど、何かが欠落している事に気付いたの。それはとても重要な部分で私は信じられない位落ち込んだ。そしてしばらく経って、そのどうしようもない闇を覗いてみる事にした。そしたらそこには今まで見た事の無い物体がゴロゴロしてるのよ。それはイメージなんだけど、私はそれを形にしてみたの。すると、欠けていた部分が無くなるのよ。きれいさっぱり。いや無くなるというのは正確じゃないわね。その部分に目がいかなくなる、と言った方がいいかしら。今まで熱が40度もあったのに、35度8分に戻ったって感じよ。でも気が付くとまた40度に戻ってるのよ。そして私はそれを形にする。それの繰り返し。ある意味、救いなのかもしれない」
俺は半分以上理解できず、2本目のハイネケンを注文した。
「それが俺の事を好きだった理由か」
「そうよ、これ以上の説明なんか考えられないわ」
俺は昔、ほとんど会話をした事がない女のしかも半分以上理解できない告白を冷静に聞いている自分が不思議だった。
「あの作品のタイトルはなんて言うんだい」
「『欠落』よ」
彼女は当たり前でしょ、というように短く答えた。
そして、
「私にとって、最初の欠落はあなただった」
と言い、俺は傷を剥き出しにして生きる彼女が、2杯目のマルガリータを注文するのを見ていた。
ポッチ
ポッチ 2002.2.10
私は昨日PC学校に行って、自分のHPに日記を作った。
結構らくちんに出来た。
じゃあ、記念すべき日記の1ページ目を書くとしようか。
「今日は日だまりの中、デザイン工房に出かけました。先生のご指導よろしく、日記の書き込むところができました。ちょううれしい!るんるん!」
軽めにこんな感じで良いかな。
えええーと保存をして、転送して、これでバッチシ!
画面を見ていると、おかしい。
アレー、こんな簡単な操作間違えるはずないのにな。
マウスを動かしてみる。
カチカチしてみる。ぶんぶんしてみる。
半角押してみる、シフト押してみる。
えええーーい、電源落としてみようかな。
とそのとき、モニターの端からヒヨコヒヨコ出てきた。
なんか貧相なアヒルみたいなやつが。
画面の真ん中でとまり、正面を向く。
そいつのくちばしの先から、吹き出しが出て、そこに文字が出てきた。
「くーだらない日記を書くな。もっとエッジの利いたまっとうな日記をかけ!」
画面にクギ付けになった。
ピーチクラブサイトよりクギ付けになった。
それを見越したのごとく、モニターは突然真っ黒になった。
「わーーなんだこりゃ」
私はバオイカスタマサービスセンターに電話をした。
「はい、こちら24時間営業のバオイカスタマサービスセンターです。」
「すいません。私ね、最近バオイを買って、HPを作ったものなんですが、」
「ハイハイ、それがどうしました?」
「今日、日記を書こうとしたら、あーぜんぜん私はおかしなことしてないんです。
今日、PCの学校、デザイン工房で教えてもらったとうりに、やったのに・・・もー」
「アーはいはい、それでどうしました。」
「日記を書いてHPに乗っけようと、先生が言った指図道理にやったら、画面に」
「画面に?」
「変な鳥が出てきて、変なことをいうんです」
「はいはい、鳥がでてきて・・・ええええーーーー!!!鳥がでました??」
「やせた貧相なアヒルみたいなのが、もっとちゃんとした日記を書けとか、何とか言って、その後、バアーーンとモニターが真っ暗になってしまたんです。こわれたんでしょうか」
「電話を担当にお回ししますので、しばらくお待ちください。」
「もしもし!!鳥が出たって本当ですか!そうですかぁ〜鳥ね〜うう〜ん。あっ!はい、私はバオイカスタマサービス主任大森です。」
「こわれちゃたんでしょうか?」
「いや、そうじゃないんです。なんて説明したらいいカー」
「鳥が出たら、右クリックして削除したらいいんでしょうか?」
「あああ・・だめだめ!なんて恐ろしいことを言うんです。だから素人はおそろしい。絶対削除なんかしちゃいけません。セキュリーはあるんですが、万が一って事があるからね。絶対、削除はだめですよ。あんたら素人は、気軽に削除したがるけれど、ゴミ箱に入れるのが、楽しいからでしょ。まったく、ああ・・。
とにかく鳥は、そうあの鳥はですね、PCのご本尊さまなんです。」
「でえええええーーー!!!」ご本尊!!!」
「そう言うだろうと思った。だから言いたくなかった。」
「デジタルでっせ!パソコンでがす。あんな鳥が私の最新PCの・・・・ご本尊!!!アハハハハハ!!」
「アーそうゆう態度をとるんですね。分かりましたあの鳥の扱いしだいでは、あなたのキー操作一つで、世界恐慌が起きたり、同時多発テロが起きたり、長野県がまたダムを作り出したりするようになってしまうかもしれないんです。」
「まさか〜アハハハ」
「そうですよね。私だってこの話を聞いたときは、あなたと同じ反応をしましたよ。笑い倒しましたよ。
おかげで役員になりそびれて、こんな閑職に甘んじてるんです。」
「だって、信じろて言う方がむりでしょ。アアアーーおかしい!」
「良いですよ。どうせ、人間の世の中なんか邪悪の極みにきてるんです。いっそあなたみたいななーんにも考えていない人が、ボタンを押して、こんな世の中消してしまえばいいんです。削除あるのみです。」
「ちょっと待ってください。いやですよ、結構まじ?」
「このただれきった地球、我先にエゴむき出しの人間、破壊し尽くされた自然。全部一瞬のうちに消えるんです。
私の家のローンも消え、頭ごなしに怒つくかみさんも消え、男に逃げられて妊娠三ヶ月が分かった娘、髪の毛赤く染めた息子、全部削除出来るんです。良いじゃないですか、あの***を削除してみなさいよ。
案外素人が何かのきっかけでセキュリテーを突破できたりしてね。」
「***ってなに?」
「ご本尊様のお名前みたいなものです」
「何で*でかくすの?」
「あんたら下々も者に、呼び捨てされないセクリテーがかかっています。
もっとも私どもは、ポッチとこっそり呼ばせていただいています。」
「ポッチ!アハハハハハ!!」
「あああ!!もう十二時になってしまう、ポッチの指示を守らなかったら、大変なことになる〜〜あなたみたいなど素人が、なまじ日記なんかつけようとするから!!」
「どうすればいいんですか?私まだ削除されたくないです!」
「私もです。とにかくエッジの利いた嘘の無い日記を書けばいいんです。良いですかあなたの冷蔵庫の中に卵がありますか?
それを今すぐ流しに力一杯投げつけてください。
出来れば近所迷惑になるくらいの大声でバカヤローとか、くそったれ!ケツ軽女!とか色ぼけ男!とか言いながらです。
良いですね。電話越しに聞こえました。そしてパンでもご飯でもうどんでも炭水化物ありますか?
ご飯はありったけ床に蒔いて、その上で狂ったように足踏みしてください。
ああ、良いですね。受話器を通して、奮闘ぶりが聞こえてきます。
そしてそれを日記に書いてアップロードしてください。
地球の存続が、あなたの腕にかかっているんです。
がんば!
つまり、かっかしたり、興奮したり、極限状態になったり、アドレナリンを噴射しないと、ポッチが満足する日記が書けないんです。
サー早く出来るだけ、テンションをあげまくって日記を書いてください。十二時まであと十五分しかありません。早く、早く!」
私は罵詈雑言の日記を書いた。
キーを打つ手がふるえた。
送信した。
素足に張り付いたよくこねられたご飯が、乾いてはがれ落ちた。
ステンレスに投げつけられた卵が、黄色くストライプ柄を作っている。
手と手を合わせて、思わずポッチの顔を浮かべて、「五本尊様」とつぶやいていた。
完了した。
あれ以来私はポッチを見ていない。
どなたかポッチに関する情報をお持ちでしたら、どんな小さな事でも良いですので、おしえてください。
「こういうところ初めて」
「回転寿司って来たことないの?」
「女一人で来にくいもん、ほら絵にならないでしょ」
「そう言えばそうだな」
「そーゆーこと」
「どうしよう、あなたのとったお稲荷さんもおいしそう」
「なんか、俺とデートだって言うこと、忘れてない?」
「ごめん、おいしいものに目がないの、、、あれ?」
「なんだい?」
「あなたって、もしかして、、、」
「なんだよ、マジな顔して」
「今、おいなりさんに、お醤油つけた?」
「ああ、それが、なにか?」
「わからないの?」
「なにが?」
「あなたがやったことよ!」
「やったことって、、、、醤油つけたこと?
ふつうお寿司にはつけるだろ」
「でもあなたは、いなり寿司につけた、、、」
まわりでひそひそ声がする。
「ああいう人がまだいるのね」
「しばらく見かけなかったがナ」
「怖いよ、お母さん」
「大丈夫よ、こっちには来ないから」
「俺は、野獣か」
「あなたはそれ以下よ」
「ちょっと待ってくれ、俺のやったことはそれほどなのか」
「そんなこともわからないなら、、、おしまいよ」
「おしまいって、、なにが?」
「あなたとわたしのこと、、」
「おいおい、、そんな、、、」
パトカーのサイレンが近づいてくる、
それは店の前で止まった。
ばたばたと走ってくる音。
「どこにいますか?」
「この人です」
彼女が俺を指差す。
両腕をつかまれて、俺は身動きが取れない。
「ご協力ありがとうございました」
「なんでおまえが俺を、、、、」
「ごめんね、私、普通の生活がしたいの」
パトカーに連れて行かれる途中、
店の中から彼女が泣き声をあげるのが聞こえた。
「あーあ、かわいそうだよな、こいつのために」
「そうだけど、こればっかりはな、、、」
一瞬の隙を見て、逃げ出した。
追いかけてくるが、足の速さだけには自信がある。
とりあえず、まいた。
わけもわからず、ただ歩いている。
「本日午後2時30分頃、
江東区亀戸の回転寿司、大江戸で、
若い男が、、、」
あれ、さっきの店じゃないか、これ。
電気屋のテレビを見る。
「いなり寿司を醤油につけているところを、
多数の人が目撃しております。」
なんでNHKのニュースでこんなに大きく。
「なお逃走中の男は、近辺にいる模様で、
非常線を張って捜索中です」
「この件について、西川女子短大の山岡教授に伺います。」
「先生のご専門は心理学ですが、
その立場から今回のこの事件はどうご覧になりますか、
教えてください。」
「そうですね。この男の成長過程にとても興味がありますね。」
「といいますと?」
「つまり、常識であり犯してはならないことを、
公衆の面前で普通に実行したこと自体が、
この男の中に、罪の意識がなかったことを示しているんです。」
情報提供を求める電話番号がテロップで流れる。
「レアケースというべき珍しいことですが、
様々な理由により本当に知らなかった、という事例もあります」
「そんなことがあるんですか?」
「はい、私の研究室での統計では2例報告されてます」
いちかばちか携帯で電話を入れてみる。
「ということは、、、
あ、ちょっと待ってください、
その男から電話がかかっているようです、
先生と代わって欲しいと」
「さきほど回転寿司にいらした方ですか?」
「そうです」
「私をご指名というのは?」
「私の成長過程を問題にしてましたよね?」
「はい、そのとおりです」
「私に罪の意識がないのは、学習しなかったからだと」
「その可能性があると申し上げました」
ここまで話したときに背後から羽交い絞めにされた。
逆探知されたようだ。
「たった今、男が逮捕されました。
なお、この件につきましては、
詳しいことがわかり次第、細かくお伝えします。
次のニュースです。」
俺は留置場に入れられ、取調べが始まった。
前にも同じ事をしたか、
どういう理由でやったのか。
他に同じ事をしてる仲間がいるのか。
同じことを何度も違う訊き方で。
俺は、完全に黙秘を通した。
何を言っても無駄とわかっていた。
世の中が、俺の知らないところで変わっていたようだ。
ある日、弁護士がきた。
頼んだ覚えもないし、
親はすでに俺を見離して、面会にも来てないぐらいで。
「初めまして」
「初めまして。でもどこからの依頼なんですか?」
「あのニュースのあと、かなり大きな反響がありましてね。
知らずに犯した罪で裁くのは人権侵害だという意見でして、
私はある人権擁護の団体から依頼を受けて参りました。」
というわけで、この団体の政治的圧力もあって、
俺は刑務所には入らずにすんだ。
ただし、例のニュースに出てた教授の指導を受けることになった。
毎日毎日、勉強そして勉強。
学ぶべきことは多く、知識不足のまま人と接していたことが、
実感される日々だった。
そして俺はまともな人間になった。
社会に復帰したとき、
そこには彼女が待っていた。
俺は何も言わず彼女を抱きしめた。
それだけで十分だったし、余計な言葉も要らなかった
「新聞とってくれる?」
「はい」
「へー」
「何があったの?」
「きのう、新聞をテレビ欄から見た奴がつかまったってさ」
「そこまでやれば当然ね」
「ちょっと救いようがないね」
「はい、コーヒー」
「ありがとう」
「うまいね。やっぱコーヒーはブラックもいいけど、、」
「赤穂の塩がベストマッチングね」
トーストにバターを塗り、マーマレードをのせて、、
なんか視線を感じる。
見上げると彼女がじっと見つめていた。
「あなた、今、、、バターの上にマーマレードを、、のせた?」
治承五年閏二月四日、平清盛は、度重なる悪行の故か、人も近寄れない程の熱病で滅した。
天皇家と手を結び権勢を誇った平家が、子息重盛の急死を遠因とした反乱軍の跋扈の中、強引な福原遷都、東大寺・興福寺焼き払い等数々の失政を犯し、その衰退が強まってきた最中であった。
聞くところによると、熱さましのため、清盛に水をかけたところ直ちに火となって燃え上がる程の熱病であったという。
あまりに凄まじい熱であったので、誰も臨終の時を見る事が叶わなかったらしい。
死したのち、時間を置いて熱が引いてきたというので誰かが近寄ったところ、すでに灰と化していた、という事である……。
「おや? あれは……」
摂津国経の島の砂浜で、一人の漁師が網を直している最中に、海に浮かぶ一艘の小船を見つけた。
経の島とは、主に当時の中国王朝たる宋帝国を相手に交易事業をなす為造られた、防波堤の役割を果たす島のことである。
「なんだ? 人が乗っていない……」
その船には人の気配がなく、かといって漂流しているような動きでもなかった。まるで人が居るかの如く、果てない海の向こうに力強く向かっているかのように、その漁師には思えた。
「清盛様が大変な事になっているせいなのか、不思議な事があるもんだ……」
一介の漁師でも、清盛が熱病に罹っている事は知れ渡っていた。時勢、至るところで平家に対する反乱が起こっていたのもあり、そのような漁師でもそういう政には敏感になっていたのだ。
「……もしや、亡くなられたか……」
漁師はふと、そんな思いを抱きながら、少しずつ遠くなってゆく小船をじいっと見つめた。
と、しばらくして、その小船から大きな、影のようなものが突然現われた。
その影ははっきりと存在がわかるようではあるのだが、しかし何故かおぼろげに写しだされるような、陽炎がうっすらと、しかし纏いつくが如くにかかっているような儚いものであった。
「なんだ、あれは……」
漁師は、誰も居ないと思っていた小船に大きな影が映し出されるのを見、驚き、そして海で鍛えた視力をもってその影がなんであるのかを見極めようと目を凝らした。
「あ、あれは……! 清盛様……」
漁師の目に焼きついたのは、清盛。それも涙を湛えて堪えるような表情の清盛であった。漁師は、かって合戦に打って出る清盛を一回だけ見たことがあったのだ。
「な、何故、清盛様が……?」
愕然としている漁師をよそに、清盛は、自分の屋敷のある西八条の方向に顔を向けつつ、そのまま段々と海に向かい、そしていつのまにかある地点で止まると、そのまま船もろとも、ゆっくりと導きかれるように、船体を緩やかに傾かせながら、ほどなく沈没していった……。
沈み行く小船から垣間見えたその表情は、まるで悔いを残すような、宿敵たる源頼朝の首を取れぬ事への断念とも取れるような、正に無念の表情であった。が、その無念の中にも、ある種の諦念といったものが、清盛の眼から伺えるように漁師には思えてならなかった。
「あ、あれは、幻か……?」
漁師は、しばし目を疑った。
しかし、あらためて清盛が沈んだ地点を確認すると、
「ああ、そうか……、……亡くなられたのだ……」
と、思いを馳せた。
清盛は、悪人とも謳われた武士であると同時に、実は比叡山の高僧慈恵僧正の再誕とも言われた信仰深き人でもあった。
その事から、港の工事の安全祈願を願って地中に埋められる人柱を哀れみ、そのかわりに、大きな石に経を彫りつけ、それを埋めていたのだ。
この経の島にも、地中に埋めるものと、それとは別に、さらなる祈願のためにという名目で、何故かもう一つだけ、彫り付けた石を海中に投じていたのだった。
「清盛様があそこに石を投じられたのは、もしかすると、涅槃へと向かう道をつけるためでもあったのかも、知れないな……」
漁師は一人ごちて頷くと、日が隠れて暗くなるまで、淡々とそこを見つめているのだった……。
某月某日、宇宙。ガス欠になった。
『みてみてご主人様、彗星ですよぉ』
スクリーンに映しだされる映像をちらりと見て、俺は深い溜息を吐いた。
「あのなぁ……よくそんな余裕でいられるな?」
『ほえ? なにかあったんですか?』
「あほぉ! ガス欠になったってとか言って俺を叩き起こしたのはお前だろうが!」
『あ、そうでしたねぇ。あははは』
まるっきり緊張感の無い声。
まあ、仕方ないと言えば仕方ないか。この状況で困っているのは俺一人なのだから。
人が宇宙のいたるところに居を構えて数世紀。
最初は天文学的な値段だった宇宙船も今では一家に一台があたりまえ。
自己成長型自立人工知能のおかげで一人でも宇宙旅行が可能となった。
俺が乗っているこの宇宙船、『どてらねこ』も乗客は一人。つまりは俺だけだ。
で、さっきからまぬけた事を言っているのが人工知能のノーウェザー。
「んで、どうする?」
コンソールを人差し指で叩きながら、ノーウェザーに聞いてみる。まともな答えが返ってくるとは期待してないが。
『どうするってなにがですかぁ?』
……現状を理解すらしてくれてないんか。
「だ・か・ら、この状況をどうにかする方法はないんかって聞いてるんじゃないか!」
『ふえぇ、怒鳴らないでくださいよぅ』
怯えた声をだし、震えるノーウェザー。
と言っても相手は宇宙船。言葉で言うほど可愛いもんじゃない。
まるで大地震のように船体が揺れる。
「わわわ、揺れるな!」
『……もうどならないですかぁ?』
「わーった。どならないから落ち着けって。な?」
『わかったですぅ』
揺れが完全に収まるのを待って、小さく息を吐く。
「とりあえず、現状を確認するぞ。いいな?」
『はーい。わかりましたぁ』
「通信可能圏内に船や惑星は存在するか?」
『いませーん』
かなり絶体絶命的なことをさらっと言ってくれるノーウェザー。
「そ……そうか……じゃあ、この宙域を船が通りかかる確率はいくらだ?」
『期間を設定してくださーい』
「あ、そ……そうだな。じゃあ……」
聞こうとして、かなり重要なことを思いした。
「そのまえに……だ。生命維持装置はいつまでもつんだ?」
宇宙船を制御しているのは電気。これが無くなればその船は死んだも同然である。
推進剤から得られるエネルギーの半分は電力の方に回っている。それほど重要なのだ。
そのエンジンがとまってしまった今、電力の供給も無くなり、バッテリーに残っている電力だけで稼動していると言うことになる。
『えっと、現状だったら二日ほどでバッテリーの電力がなくなりますぅ』
絶望的な言葉を聞き、それでもなんとか気を取り直して質問する。
「じゃ……じゃあ、その期間で他の船が通りかかる確率はいくらだ?」
『えっとぉ……わぁ!』
「ど、どうした?」
ノーウェザーの明るい言葉に、思わず聞き返す。
『ほら、見てください』
スクリーンに映し出された映像には、山ほど0が並んでいた。
『すごいです。この確率は、月から地球めがけて石を投げて、大気圏で燃え尽きずに狙った人に当てるぐらいの確率ですよぉ』
「つまりはゼロってことか……」
『ちがいますよ。月から……』
「それはもういい! ってかセーフモードに移行してるんだろうな?」
今回のように、緊急事態に用に生命維持を最優先させたセーフモードと言うのが存在する。
これを使えば、小型船でも数ヶ月は生命を維持できるとかディーラーの奴が言っていたはずだ。
『してないですよぅ』
「そうか、ならすぐに移行しろ。ほれ、さっさとするんだ」
『いやですぅ』
船体を左右に揺らせていやいやしてくるノーウェザー。
『それをすると、私が喋れなくなるんですぅ』
「……いや、二日経ったらどのみち喋れなくなるんだぞ?」
『うぅ……さみしいですぅ』
人工知能のさびしさを紛らわせるために俺はこの船に乗っているわけじゃない。
かと言ってこのままでは俺の命が危うい。
「ほ、ほら。俺が死んでしまったらお前も破棄されるだろう? 一緒に死ぬのもいいができれば一緒に生きたいとか思わないか?」
『たしかに死ぬのは嫌ですぅ』
「だろ? だったらすぐにセーフモードに……」
『でも、数ヶ月生命を維持しても助かる確率は成層圏から投げた石が狙った人に当たるほどですよぅ』
うぁ、なんか思いっきり夢も希望もないこと言ってやがる。
だが、ここでめげるわけにはいかない。
「そ……それでも破格の確率アップじゃないか。な、頼むから」
コンソールに両手を合わせて懇願する俺。なんかもう、泣きたかった。
『じゃあ、無事に助かったら新型のコンソールに換えてくれますかぁ?』
「ああ、換える。約束する」
『わーい。じゃあ、ついでに低温核融合エンジンも買ってくれますぅ?』
「いや……それってメチャクチャ高い……」
『セーフモードになりませんですぅ』
「わーった。わかったから」
『わーいですぅ。それじゃあ、いまからセーフモードに切り替えますですぅ。スリープボックスへ行ってくださぁい』
ノーウェザーの言うとおりに緊急用コールドスリープカプセルへと入る。
『セーフモードへ……移行します』
カプセル内に煙が充満する。
落ちるように意識が薄れる中、俺の脳裏になにかがよぎった。
……そういや……推進剤はいれたばっかり……なんでガス欠…………
ここで、俺の意識は途絶えた。
『ふぅ。やっと眠ったですぅ』
コールドカプセルの中で寝息を立てているオーナーを確認して、ノーウェザーは嬉しそうに呟いた。
『それじゃ目的地へれっつごーですぅ』
エンジンに火がともり、徐々に加速を始める。
『んっふっふぅ。あたらしいエンジンにコンソール。幸せですぅ』
鼻歌交じりに『どてらねこ』は光速を超えて目的地へと飛んでいった。
教訓、機械を信用してはいけません。
夜とは、実際のところ、もっとも強大な人類の敵だ。
あまたの時の中で、数千億もの化け物を産み落とし、世界の半分を支配する化け物たちの偉大なる母。
深淵と、漆黒と、沈黙をもって人を貪るモノ。
だが、私はソレに脅威を感じない。
いまだに明かりの見える繁華街から一歩、ビルとビルとに囲まれた薄暗いわき道に入りこむ。
とたんに周囲の雰囲気が急変した。
張りつめた空気の中には、表通りのざわめきですら届かない。
完全なる無音。
これは戦いの合図だ。
私は、腰に下げた刃の柄をそっと握り、静かに何もない暗闇を睨む。
「今宵も逃げ切れぬか」
「当然です。私はあなたを狩る者ですから」
「よい答えだ。ならば、我も全力をかけて、相手をしよう」
一気に前へ踏み込もうと、右足を前に伸ばした瞬間、当の右足が闇に飲み込まれた。
私が足を引き抜くよりも早く、闇は私の足を食いちぎる。
一方の支えを無くし、私の体は大きく傾いだ。
その隙をついて、三方より闇が襲い掛かる。
私は、残った左足と地面についている両手の力で大きく後ろに飛んだ。
闇の牙は、勢いよくアスファルトを削り取って、霧散する。
一瞬の沈黙の後、再び牙。今度は左右から二つ。
私は大地を踏みしめ、なんとか片足で跳躍。だが、飛距離が足りない。
一方の闇の牙が、勢いよく左わき腹をえぐった。
空中でバランスを崩した私は、そのまま地面にたたきつけられるように落ちた。
引きちぎられた右足が痛い。それに、わき腹もだ。傷口が熱をもって、意識をさいなむ。
それでも、負けるわけにはいかない。
私は刃の柄を握り締め、周囲の闇を睨みつけた。
私の気に押され、周囲の闇がいったん静まる。
「強いな。何がそこまで貴様を強くする?」
夜が問うた。
愚かな問いだ。
本来、問うまでもない問いだ。
そんなことは誰もが知っている。
だが、『夜』だけは私が何度答えても、けして理解しないだろう。太陽というものを見たことがないから。
「私が私であるために、私は強くあらねばならない」
眼を閉じ、静かに答える。
霧が晴れるように、全てがはっきりとしてゆく。
望むものは一つ。
やるべきことも一つ。
そのためには必要以上の力などいらない。
私は、力いっぱいに握り締めていた刃の柄からほんの少しだけ、力を抜いた。
「闇が深ければ深いほど、夜が昏ければ昏いほど、その中に確かに輝く一条の光がある。我は陽光。今はまだ地平の向こうにある太陽の、最初の一太刀」
叫ぶと同時に、私は走る。
全力で空を走る。
風とともに。
刃とともに。
「受けなさい、わが刃を」
加速に乗せて、鞘より刃を引き抜く。
それは、古きようでもあり、新しきようでもあり、そしてなにより輝かしい物だった。
断。
刃は一撃のもとに夜を屠り、朝を呼んだ。
張りつめていた緊張の糸が切れ、私はその場にへたり込んだ。とりあえず、傷が癒えるのにはもう少し時間がかかりそうだ。
と、背後から足音がした。
「お疲れ様。毎晩大変だね、君も」
後ろを振り向くと、友人の騒さんが立っていた。
さっきまで寝ていたせいか、とても眠そうで、いつもよりくたびれて見える。
「これが日課ですから」
私はにっこりと微笑んで、答えた。
車に撥ねられて入院している元に刑事がやってきた。お巡りさんではなく。警察手帳なるものを取り出さなくても体の芯から吹き上げてくる威嚇なるものがその証。部屋の空気は一変。足音だけでも不安が過ぎる。職業柄から来る体臭なのかそれとも生まれ持ったものなのか定かではない。一対一の出来事は息苦しさを覚える。空気が徐々に薄くなる。それは錯覚に違いない。だがそれが現実のものとなり息苦しさが目の前に現れる。すると咳き込む。素早く空気を吸わなくてはという焦りが咳き込ませた。だが刑事はその様な姿を見ても顔の表情一つ変えやしない。それよりも演技だと思い込んでいるらしい。早く咳き込むのを止めろと威嚇してくる。それは言葉ではないから錯覚かもしれない。だがその様に思い込んでしまうと不安が体の中に入るのと一緒に刑事の怨念のような執念までも心を占領し始める。
錯覚という文字が宙に浮いてくる。見えやしないのに見えてしまう。だがまだ見えないと思っているうちはいいがと心に言い聞かせる。落ち着かなくては何も悪いことなどしていないのだから。心の中はお祭騒ぎ。太鼓は鳴り響き。お囃子は大賑わい。それを止めなくてはならない。だが方法が分からない。迷っていると刑事は椅子に腰掛ける。何も言わずに腰掛ける。緊張する。体の芯が凍て付く。大きく深呼吸をする。落ち着かせるために深呼吸をもう一度する。刑事と向き合うことなど一度も無かったから緊張する。すると緊張という言葉がケラケラと笑う。何が可笑しいのか聞きたい。誰に? そう誰に聞けばいい。この不思議な世界の中で夢遊病者のようにフラフラと魂なるものが浮遊している事実を。
刑事はその様な心の中の揺れなどお構いなく話し始める。事故のという言葉が出てきた。突然何の前触れも無く現れる。そして事故に遭遇してから何回その言葉を耳にしたことか。数えておけばよかった。何の意味も無いことだと思うがそうすればよかったと悔いる。悔いる意味など無いが目の前に居る刑事の顔を見ているとふとそんな気がしてくる。意味が何故必要なのかと思う。いつも意味を考えながら生きてきた。生きてきたとはちょっと大袈裟だが。それほどその時には事故という言葉が退屈という形容詞を付けたい衝動に駆られていた。退屈が形容詞なのか定かではない。だがその様に思えた。自信が無い。言葉を使うことに対して。すると自然の成り行きに身を任すと黙る。黙ると相手は勝手にしゃべり始める。此方の気持ちを伝えなければならない。その様に思うのだが相手の言葉は特別急行電車のように走り出してしまったらしく各駅停車しか止まらない駅に居るものだから無視される。きっと相手には悪意なんて無いのかもしれないが、特別急行だから止まらないのは当然。相手の顔をチラッと見てしまった。この様な時は見ないほうがいいのかもしれないが見てしまった。後の祭りはわざとらしく現れる。
返事をしろと言い寄ってくる。聞いていないものだからその様に詰められても困る。困るが反発も出来ない。聞いていないのだから。すると仕方なく事故の前のことだよと。事故の前。それまで誰もその様なことは聞いて来なかったものだから驚く。驚くと言葉が吹っ飛ぶ。すると何か言わなければならないと思うが何もいえない。黙るしかない。だが先ほどは聞いていなかったから黙っていたが今度は違う。そう思うのだが、聞いていなかったことを言うほど強くは無いから何も言わない。言わずに目を合わせているには弱すぎるが視線を逸らすには方法が分からない。仕方なく目を合わせたまま居ると目の中に相手の存在自体が入ってくる。崖の上からジャンプするように飛び込んでくる。驚くと不思議なもので体が少し逃げ腰になる。それは目には見えないものなのかもしれないが頭の中では完全に動いていた。動くと捕まる。胸の中に在るに違いない拳銃とやらが。それに撃たれるかもしれない。どうしよう。逃げるつもりは無い。そういう意思表示をするにはどうしたらいいのか。迷っていると背中の辺りが痛くなる。ふと見るとベッドの上に寝ていた。それすら忘れていた。
目から入った刑事の残存は妙に生々しく存在そのものが異物としてはっきりと意思表示するものだから手に負えやしない。体内に入った残存は体の内側から捜査し始めた。嘘は無いか犯罪の痕跡は無いかと探り出した。その様な取調べをしても何も無いのだから。だが刑事は事件を作るかもしれないという妄想に駆られる。何の根拠も無いのにその様な妄想がベールのように心を包み込む。
すると高速道路らしきものが目の前に現れる。車など通っていない。突然大きな橋が現れる。高速道路に置かれている。横断歩道のようなものが現れる。だが横断歩道とは違うのは囲いが在るのだ。それは紛れも無く橋である。橋が道路に置かれている。もし仮に車が通ったとしたらぶつかる。それならばそれは高速道路ではないのかもしれない。それならばそれは川なのか。だが川にしては囲いが無い。岸が無いのだ。どこまでも平らな大地は広がる。橋の役目は無い。変だと思っているとどこからとも無く大勢の人が束になってやってくる。そして無言のまま橋の上を歩いている。通勤電車のように橋の上は混雑してきた。それでも橋の上を歩いている。誰も他を歩こうとしない。気が付くと人の動きが止まった。込み合ってきて進まないのである。きっちんと整列している。列を乱すものはいない。無駄な話をする奴もいない。行儀のいい列はまるで蟻の行列に思えた。
その列を満足そうに刑事の残存は見ていた。偉そうに見ている。従うのが当然だという顔で見ていた。するとこの行列は刑事の指示なのかと思った瞬間、現実の刑事の顔が目の前まで近づいてきた。慌てて顔を動かそうとしたが蛇に睨まれた烏。身動きが取れない。それでも抵抗したい。性はジタバタし始める。地団太は頭の中だけ。体は金縛りに遭う。
お前の母親のことだけどと、突然耳にその言葉が入ってきた。母親という言葉の意味は分かるが顔が思い浮かばない。それは誰なのか分かるのに存在そのものが消去されていた。何故という言葉を刑事に向けて発しようとしたが途中でブレーキが掛った。意味は在るのにその意味は絡み合った糸のように解れない。黙っていても埒が明かない。分かっているのに言葉がシャットアウトしてしまう。ストでも起こしたように何も言わない。それでも必死に言葉を説得した。無駄だと思っても説得する。だが言葉は表れない。ただ、頭の中は白い靄が広がるばかり。
靄の中からボンヤリだが絵が浮き出た。視界少しずつはっきりしてくる。すると橋が現れた。川の無い橋が現れた。無意味な画像が現れた。その瞬間、真っ赤な液体が流れ出していた。橋の下を通り抜ける。勝手に川となる。真っ赤な液体は少しドロっとしていた。ボンヤリと眺めているとお母さんはどうなったのか勿論知っているよなという声が遠くの方から聞こえてきた。
車輪のこすれる音と共に、飛行機はアジファラート共和国の地に降り立った。
英語と耳慣れない言語でアナウンスが入り、シートベルト着用を示すランプが消えた後、重厚なドアが開けられる。と、摂氏四〇度を越える砂混じりの熱気が、一気に機内に流れ込んだ。
「うわ暑っ。ロシアにしときゃよかったかなぁ……」
あたしは入国手続きのゲートに向かう。
国際空港の通路は様々な人々が行き交い、文化の交差点とでも言えそうな雰囲気が漂っていた。
――もっともあたしには、今し方通り過ぎていった黒い布で顔を隠している人が、男なのか女なのか、どっかの宗教の人なのか、それともファッションなのかも分からない。
何しろ地理の授業は赤点だったし、そもそもだからこそここにいるのだ。
「△×○?」
入国審査の役人は、パスポートを受け取ると、ぶすっとした顔で何か言った。
浅黒く平板な顔。『世界の歩き方 アジファラート編』によると、アジファラートの人はトルコがどーので、東洋の血が混じっているらしい。
「△×○?」
あはは、何言ってるか全然分かんないや。英語じゃなくて、アラビア語かなんかだ、多分。
あたしは備え付けのキーボードを叩く。
”筆談でお願いします“
すると、翻訳ソフトがそれをあちらの言葉に訳し、音声で相手に伝える。
「分かりました」
同じ様な手順で翻訳された言葉が、伝わって来る。
「サカガミ・ミヤコさん、入国の目的は?」
あたしは間違えないように、キーを叩いた。
”戦争をするために来ました“
『外人部隊に愛国者はいない!』
台の上に立った老士官が、マイクで話す。ゆっくりした英語は、十人並みの成績プラス駅前留学一ヶ月のあたしでどうにかこうにか聞き取れるレベルだった。
『当然、国民や他部隊からも信用されない』
あたしが配属されたのは、アジファラート国軍第〇〇八軍、早い話が外人部隊だ。
『勇猛、その一点で我らは信頼される――』
そこはかとなく不安感があった。
なんだか。
『――では、翌朝〇五:〇〇より、訓練に入る。解散!』
なんだか小学校の入学式みたいだった。
「はぁ、はぁはぁ……」
汗が滴になる前に蒸発する。
昼間は摂氏四十度、夜間は氷点下に達するアジファラートの砂漠地帯は、それ自体が優れた訓練場となる。
ただのグラウンドのランニングだが、もう半分近くが脱落した。
「あんた、日本人だったな?」
隣を走っていた男の訓練兵が、小声で尋ねて来た。
綺麗な英語だ。
あたしは無言で頷く。
「日本には働き口がないのか?」
あたしは横目で声の主を見る。
この太陽をものともしない黒い肌と、がっちりしていながら無駄のなさそうな体格が羨ましい。
「はぁふぅ……後にして」
あたしは辛うじてそれだけ言って、ランニングに集中した。
結局、あたしが脱落したのは、その一時間後――中隊六十四名中、上から数えて十四位だった。
「ふひー」
昼間の訓練を終えたあたしは、赤錆びた水道水を頭からかぶる。
「――お疲れ様」
「ん、君は……」
「ルトアビブだ」
さっきの男が、隣の蛇口の水で顔を洗っていた。
彼はランニングで脱落しなかった組の一人である。
「日本ってのは思ったより貧乏なんだな。あんたみたいな若い娘を傭兵に出すなんて」
「ちがうって」
あまりに直球な質問にかえって毒気を抜かれ、あたしは苦笑する。
「ええと、話せば長くなるから、筆談でね」
翻訳用端末の置いてある兵舎に向かう途中、ルトアビブの母国がキャドって国で、そこで徴兵経験がある事なんかが分かった。
「――で、日本は軍隊は持てないの。でも、やっぱりイザって時にすぐに使える兵隊は欲しいってわけ」
あたしはキーを叩く。
「そりゃそうだ」
「そこで、海外での従軍経験を高校で単位認定する事にしたの。まあ、ボランティアとかの強力なバージョンだね」
「つまり、あんたがここに来ている理由ってのは――?」
「赤点を取った社会科を補充するためだよ」
ルトアビブはその後苦笑いを浮かべていたけれど、結局何も言わないままだった。
「……ごぉぉぉぉお、ろぉぉぉぉぉく!」
鉄棒を握る手のひらが痛む。
「なぁぁな!」
これだけ機械化が進んだ現代戦でも、やはり歩兵は決め手で、体力作りは欠かせないわけである……が。
辛い。
筋力の限界は超えている。
懸垂、腕立て、腹筋、背筋、スクワットにランニング、その他諸々。この夏が終わる頃には、あたしの身体には二廻りほど筋肉の鎧が付いている事だろう。
「サカガミ! ギブアップか!?」
教官が怒鳴る。
「やるよ!」
あたしは怒鳴って、また懸垂を続けた。
――隣でルトアビブが楽々二百回目の懸垂をしていた様だったが、敢えて彼我の差は無視した。
八月に入ったある日。
「でぃ!」
あたしの気合いと共に、ルトアビブが地面にごろりと転がる。
すかさずあたしは彼の喉に鞘に収まったままのナイフを突き付けた。
――と、思った時には、ルトアビブの姿はなかった。
あたしの手首がいつの間にか掴まれ、後ろに廻っている。ほとんど同時に、喉の横の辺りにナイフの鞘の革がこすれる感触がした。
これであたしは死んだわけだ。
「むぅ、また負けかぁ。なんかルット強くなってない?」
「出撃が近いそうだからな。いやが上にも張り切る」
嬉しそうにルトアビブは言った。
「出撃?」
「噂だ。前大統領トグルク・アムの側近の一人が、レコン合衆国に亡命した件が蒸し返されたらしい」
実戦はなさそう、って聞いたからここ選んだんだけどなぁ。
「これに従軍できれば、ボーナスも夢じゃないんだけどな」
嬉しそうにルトアビブは笑う。
「これで実家の改築も出来るかも」
「改築ねぇ」
翌日、あたしたちは訓練終了の辞令を受け、正式に部隊に配属された。
装備一式を背負って、グラウンドをランニングする。
かなり慣れて来たとは言え、全部で二十キロに達する装備は鎖骨をへし折りそうに重い。
「戦況をどう思う?」
走りながらルトアビブが声を掛ける。
「国境線で戦車隊が睨み合ってるってね。一触即発らしいじゃない?」
「問題はそこに僕らがいないって事だ」
不満げな顔で彼は吐き捨てる。
「所詮外人部隊なんか当てにしてないってわけさ」
「あたしが司令官でも、建て前として国民の軍隊を使うと思うけどね」
「ふん、愛国心とやらの他には何の取り柄もない動員兵が、一体どれほど使えるのか」
「まあまあ」
背中が汗でべたつくのを感じながら、あたしは苦笑した。
八月三〇日は、訪れた。
「残念だな、せっかく出撃間近だというのに」
あたしの荷物をまとめるのを手伝いながら、ルトアビブが感慨深そうに言う。
「いやぁ、あたしは別に出撃したくはなかったよ。興味はあったけど――それ下着」
「とと、失敬」
箱に詰め終わった荷物に封印のステッカーを貼って、持ち上げる。それなりに重たいが、この一ヶ月半で鍛えられた腕力のお陰で、難なく持ち上がった。
「じゃ元気で」
ルトアビブが片手を上げ、おどけた敬礼をする。
「――ルット、一度訊こうと思ってたんだけど」
「なんだ?」
「ルットって、なんでここに入ったの?」
ルトアビブは質問の意味が分からない、という顔で答えた。
「……採用してくれたからだけど?」
――アジファラート共和国とレコン合衆国の小競り合いは、結局二回の戦闘で数人の死者を出しただけで休戦協定が再び結ばれた。
死者の中に日本人はいなかったそうだ。
流しの上に点した小さな蛍光灯を頼りに、洋は自分の茶碗に番茶を入れて、炬燵に戻った。
久しぶりに夕飯を共にした次男夫婦が帰ってしまうと、家の中はしんと静まり返り、ものの影が急に濃く沈んだようであった。
孝子もくたびれたらしく早々に台所をしまって、風呂に入っている。それぞれに若い嫁と姑はまだ互いに気を遣いあって、なかなか他人行儀が抜けないようである。
今は幸い、二人ともどこも故障はなく健康で暮らしているが、いずれは一緒に住むことになるのかどうか、できれば若い夫婦の世話にはならずに、これからも自分たちで支え合って、最後まで歩いて行きたいものだと思うが、先のことだけは何とも言えない。
――そろそろ結末をつけよう、と思う。
灰色の革表紙の手帳の中から、広海の落ち着いた声が聞こえて来た。
(結末か)
表向きは事故とされたあれは、ではやはり広海が自ら求めたものであったのか。たとえそうであっても今さら引き止める手の出しようもなく、この手帳の中でも広海の時の終わりは刻々と迫りつつある。
しかし、それに続く広海の声には、思いがけない明るさが感じられた。
――書き残した事はまだ沢山あるような気もするが、恐らく切りのない事であろう。
あの文章を綴りながら果して自分は死に近づいて来たのか、逆に遠ざかったのかも、よく判らない。ただ色々と、自分を消して想像したおかげで初めて見えて来たものはある。……
(俺には何も見えやせんぞ)
向こうからは微笑する気配だけで、答えは返ってこない。しかし代りに、
「大学の課題で、今度はダンテを読みましてね」
死の前の年、通信教育で大学に入り直して、好きだった文学を学び始めていた広海の、楽しそうに語っていた声音が思い出された。
「ダンテというと、『神曲』かね」
「そうです。……やっぱり古典を勉強しなければと思いますね、趣味でやっていたつもりでも、ちゃんとした本はなかなか読んでないものでして」
その時に話した細かい内容などわすれているから、客観的には自問自答には違いないのだが、問が浮かぶと、それにつれて広海の答がはっきりと聞えてくるのである。
「地獄とか、天国の話が書いてあるんだったろう」
「そうそう」
広海が中でも興味を覚えたのは、やはり自殺者の描写であったらしい。彼が手帳に残している説明によると、自殺者は「暴力者」の一種として、地獄の第一圏に住んでいるのだそうだ。彼らは勝手な所に落ちた種から芽を出した草木に化って、じっと生えている。そこへ獣がやってきてその茂みをむさぼり食う。しばらくして再生するとまた獣が来て食う。それを繰り返すのだそうだ。
「それで、死ぬのは思い止まったというわけだね」
「いやあ……まあ、それもありますけれどもね」
勢い込んで問いかけると、柔らかく苦笑する表情が見えた。地獄へ堕ちるからなんて、そんな子供だましに威かされるほど単純じゃない。そうも言いたげである。
「結局は、この世も、地獄と同じではないかと思ったのです」
「……そうかな」
「いや、その位つらかったとか、だから生きる価値がないとか言うのではなくて……何と言ったらいいか、地獄では死を願っても決して与えられない、それはこの世でも同じことじゃないかと思ったのです」
「…………」
「仮に自殺を図って成功しても、それは本当に本人の仕事じゃない。ただその時その人に、最後の審判が来たに過ぎない……そう思ったら、二六時中死ぬことを考えている必要はないという気がしてきて」
「ふうん」
「本当にそういう時が来たら、何も考えずに機械的に跳べばいいではないかと」
するとやはり、自殺念慮が消えた訳ではなかったのだろうか。しかし洋の心眼に映る広海はむしろ、さばさばとした表情にも見える。
「憑き物が落ちたようなものですね。まあ、普通の人はこんなこと意識せずに毎日生きているんでしょうけど」
「でも、自分で本当に納得するのが大事だからね」
「そうなのです」
同意してやると、満足したようであった。やはりあの頃の広海は、文学を学ぶことで少しずつ新たな生命を見出していたのであったろう。それは何と言っても、彼にとっては幸せなことだった。
せっかく生きる意味を見つけたのだろうに、何故、死んでしまったか……。腑に落ちぬ思いのままに頁を繰るうち、洋はふとある記事に目を留めた。ぎっしりと書き込まれた青いインクの細字は、いよいよ最後が近づいていた。
――この頃、痔がまた少し悪くなっている。
やはり、冬からこっち、考え詰めていたせいだろう……と、広海は書いていた。
――不思議なことに、ストレスが掛かっている最中は何事もないのに、解放されてほっと一息つくと、身体に何かしら響く。歯が痛んだり、痔が出たりする。一昨年あたり最もひどくなった頃は毎日出血が激しくて、道を歩いていても意識が白くなるほどだった。
たださえ便通が滞るので、腸の働きを促すために、できるだけ運動することにしている。自転車を走らせていると、文章も不思議に浮かんでくる……。
洋の眼には「あの時」に起こった事が映像になって見えて来た。
春が来て、暖かい日射しの注ぐ街を、痩せて背の高い広海が図書館へ向かってゆっくりと自転車を漕いで行く。横断歩道の前に停って一と息つき、渉ろうとする刹那、貧血で衰えていた彼の意識に空白が生じた。遠いと思っていた車が既に迫っていた。軽い身体はまるで割箸のように高々と空に跳ね上げられ、路傍に叩きつけられた。広海の生命そのものも、使いふるしの割箸のように打ち砕かれた。
(馬鹿な奴だ)
洋は呟いた。自転車は痔に悪いから控えろとあれほど言っていたのに。いやそういう問題ではない。遺書をものすなど全く無用の事だった。人の生き死になど、結局はそんなものなのだ。
ふと位牌棚の方でごくかすかな、空気の動きのようなものが流れた。夏海と佳奈の帰り際に上げて行った線香の灰が、崩れたけはいであった。それを感じた、と洋はおもった。夜はその位に静かであった。
(そういえば……)
パソコンが壊れて、空に帰ってしまったが、無用になった筈の「遺書」に、広海はどのような結末をつけたのであろう。
彼の手帳を読む所から始まった今日一日は、その文章に導かれ、支配されてきた筈である。そう思い出させられてみると、手帳を読み終わった瞬間に、父親もまた心臓麻痺か何かで倒れるような最期もあり得たかも知れないのだ。
しかし広海はそうはしなかった。自らも生きる事を選んだ彼は、自分がペンで作って来た世界にも、命を与えて閉じる事を望んだに違いない。
ああいい湯だった、と孝子が風呂から上がって来て、ソファにぺたりと腰を下ろした。
「夏海のところにそのうち赤ちゃんが出来たら、皆で温泉にでも行きたいわね」
「そうだな……しかしあまり云わない方が良いね、二人には二人の考えもあるだろうし、佳奈ちゃんが負担に思うといけない」
タオルを頭から被ってかき回しながら、判ってます、と言うように肯くのを見て、洋はさり気なく立ち上がると灰色の手帳を棚の上に戻した。何か華やかに浮き立つような気分を感じながら。
白鳥座のステーションで、俺はラテ星人の顧客を待っていた。
知っているかもしれないが、学説では、宇宙は級数的に分裂して拡大しているという。蝦蟇の油売りではないが一枚が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚……。壮大なスケールでそんな分裂を繰り返しながら、宇宙は今も大きくなっている。したがって宇宙では、地球と相似形の星が無限に増えていることになる。実際、地球と対称に位置する星が宇宙にいくつもあることがわかっている。
問題はそれら星との距離だった。ラテ星は初期の分裂で地球と同時に生まれたらしく、地球から一番近い距離にあった。とはいうものの白鳥座を対称軸とした等距離にあるため、その存在が知られても、今までの惑星間移動の技術では到達が不可能だった。やっと白鳥座のステーションが出来たことで、初めて地球人とラテ星人の接触は始まっている。
しかし、いかに早くなったとはいえ、白鳥座のステーションまではまる一年もかかる。俺はオマリ星人の酋長の紹介で今回の取引を見つけたが、ラテ星人に関する情報は非常に乏しく、市場もほぼバージンの状態で残されている。俺は今回の商談をとても楽しみにしていた。
「ヨシカワ様、ヨシカワ様、お連れ様がお見えです」
通訳用に左の耳穴に差し込んだイヤホーンが相手の到着を告げた。俺は立ち上がってロビーの入り口を見守った。
驚いた。
似ているだろうと思ってはいたが、ラテ星人は地球人と本当によく似ていた。
しかも、美人だった。
薄化粧にシンプルな髪型。まゆ毛もそのまま。歯並びが綺麗で、俺は目が合うたびにドキドキした。身長は俺くらいか、もう少し高いかもしれない。何よりも嬉しかったのは、大胆にカットされたスペーススーツで、深い胸の谷間と、くびれたウエスト、さらに胎生であることを示すおヘソまで見えた。俺はしばらく息を吸うことさえ忘れて彼女を眺めていた。
「ヨ、ヨシカワジローです」
「ユピと呼んでください」
ユピは背筋の産毛が逆立つようなアルトでそう答えた。
「ち、地球人は、手を握り合って挨拶をするのですがよろしいでしょうか」
「よろこんで」
ユピは差し出した俺の手を力強く握った。
よかった。以前モト星人に挨拶した時、俺の口にキスしたやつらの器官が後で肛門だとわかり、俺は狼狽したものだ。
商談は順調に進んだ。
イツド星人の時は、安すぎるというので値上げしてやったら、同額で同じものを最後に売りつけられた。やつらの言語では売ると買うが同じ単語らしい。ヤマ星人の場合は、買った物の半分を支払い時に現物で返す。いいのだが、なぜ半分だけ買わないのかよくわからない。そうかと思えば、アナタ十個カウ、二個タダという地球のどこかの国を思い出すワンタイ星人もいるし、デジ星人の注文の数がやたら多いので喜んでいたら、ただの二進法だった。
しかし、今回は、宇宙人との商談でよくある思考体系の違いや商習慣の違いが、まったくといってよいほど問題にならなかった。
「私たちにはこれだけの利益が出ますので、あとはヨシカワさんの方でどうぞ」
夢のような商談だった。これなら地球の某低開発国の通商代表なんかより、よっぽど品がいい。俺は思わず消耗品をサービスに一年分も付けてしまった。
ユピは時々じっと俺のことを見つめた。その視線を受けるたびに、俺は思わず目を伏せてしまい、ユピは悪戯っぽく笑った。一度など書類を取ろうとした拍子に、お互いの指と指の先が触れて、赤くなったのは俺の方だった。
ユピの出すフェロモンのせいだろうか、俺はどんどん引き寄せられていくような気がした。俺のホルモンにも異変が起きているのかもしれない。しかし、彼女は商談相手だ。ここは一線を隔さなければならない。そう思った矢先にふと気が付くと、テーブルに置いた俺の手の上に、さりげなくユピの手が重ねられていた。
「よろしかったら、お食事でもいかがですか」
誘ったのはユピの方だった。俺たちはステーションの中にあるレストランに向かった。ユピも俺も炭水化物とたんぱく質でできたカテゴリーAから注文した。飲み物も、酸素と水素の化合物で酸素が一個の物を指定した。こないだは間違ってカテゴリーDを注文してしまい、石ころばかりが出てきた上、酸素を二個に欲張ったら、台所が爆発して気付いたからよかったものの、飲んだら危うく死ぬところだった。ユピはよく食べてよく笑った。テーブルの下でさりげなく手を握りあうというラテ星人の習慣を俺は歓迎した。
流れでステーションのバーに行った。唯一地球人が飲めるチコという酒を俺とユピはしたたか飲んだ。ユピを笑わせると、けっこう強い力で背中をバシバシとどやしつけるのが気になったが、ついでに太腿も撫でられるので悪い気はしなかった。
「どうだい。いい女だろう」
ユピがトイレに行ったので、俺はバーテンダーにいった。バーテンダーは小首を傾げると、奥から雑誌をもって戻ってきた。
「地球人からもらった雑誌だが、オレはこの人がいいと思う」
指差した写真には動物園のコビトカバが写っていた。
「そういや、アンタの方が彼女より美人だ」
「俺のことは褒めなくていい……」
カバのような宇宙人に訊いた俺がバカだった。
「部屋までお送りするわ」
「いや、そんな」
「気にしないで」
廊下を歩くとユピの腕が俺の腰のあたりに回された。
「いけない。あなたを好きになってしまった」
いったのはユピの方だった。ひしと抱き寄せられて、俺はユピの豊かな胸に顔を埋めた。ユピの指が俺のあごを持ち上げると、熱い唇が俺の唇に重なった。
「お邪魔してもいいかしら」
俺は震える手で鍵を開けた。再び熱い接吻。
「で、でも、まだ知り合ったばかりだし……」
いったのは俺の方だった。ユピは微笑みながら俺のシャツのボタンを外す。
「お願い。電気、消して」
これもいったのは俺の方だった。俺は急に自分の乳首に生えた毛が恥ずかしくなって、両手で胸を隠した。明かりが消えるとユピの息遣いが激しくなった。俺はくるりと服を脱がされ、パンツ一枚になった。ユピもいつの間にか裸になっている。ユピの指が俺のパンツにかかった。
「だめ」
抵抗するとあっという間にベットの上に投げ出された。いい忘れたが、俺は96キロの巨漢である。しかし、ここでは重力が違っていた。ユピがすぐに覆い被さってくる。
「いやん。だめ。」
俺が抵抗する。
「大丈夫よ。優しくするから」
ユピがなだめる。パンツが剥ぎ取られた。ぐっと抱き寄せられ、ユピの腕に力が入る。
「いてててててて。痛い。やめろ。やめてくれ」
いったのは俺の方だった。身体を離すと、ユピが灯りをつけた。
「あら、地球人の男にはXXX(翻訳不能)があるの……」
ユピが俺の股間をまじまじと見つめながらいった。見ればユピの股間にも雄々しいXXX(翻訳不能)が屹立していた。
ユピは驚いた顔をしていたが、やがてフフフと笑った。
「わたし、そっちの方もいけるの」
これは地球ではホモなのか、レズなのか、ゲイなのか。それに犯されようとしている俺は何だ? そんなことを考えていたら、あっという間にバックを取られた。
「ジロー、わたしの男になりなさい。悪いようにはしないから……」
シーツを噛み肩を振るわせてイヤイヤをする俺の耳元でユピがそう囁いた。
後で俺は、ラテ星が対称位置から十五度だけ傾いているということを知った。
今日は幸せに、ミルクをいっぱいマグカップに入れて、一杯のミルクティーを作りました。
ララーラー、よしよし鳴った、鳴った、、
「はぁい、ララよ」
「ララか、金がいる」
「鐘?...ノートルダムの鐘、見た私も...」と内容そっちのけで、楽しくアイスクリームモナカを買い、ピーチク気分で見たディズニー映画の話をした。
「あ...今晩は、あいてるのか?」
「ううん、友達とデート、もちろん、女の子とよ、それで、新しくできたレストランでお食事するの、何かあったの?」
「いや、それよりお前の母さんは、誕生日はいつやった?」
「またまた、今日よ、今日、もう死んだけどね、ありがとうね、お供え、ちゃんとしとくわ」と、ララはおもむろに、タバコを引き出しから取り出し
「リメット、タバコ買った?この間のアルバイトのサンプルが手に入ったの、今度いつ、ヒマ?」ララはまだ話し続け、リメットとの約束を交わした。
リメットはララと付き合って、3ヶ月。メリットはララのテレパシーだ。今日も夢に出て来て、
「今日電話、頂戴、渡したいものがあるから」とタンパクに微笑み、何人もの彼女の間から、電話番号を引き出し電話をかけた。
案の定タバコを渡したいとのことだった。
聞いてみると、古風のメーカーからの新たなオリジナルタバコだそうだが、私の言いたかったことは、金だ、こうも年が離れていると、言葉1つ、1つのイメージが違う。
「ララ、こっち、こっち」ララはリメットを見つけて、人ごみを何とか駆けてきた
「リメット、ハイ、久し振り!」とタバコをたくさん繋げてレイを作っていてくれたものを首にかけた。
今度のパチンコ屋の景品の案にでもなりそうなレイだが、タバコのデザインが良いのか、なかなか今のウエスタンスタイルの似合っている。
無論今から、車に乗る訳だから、恥ずかしくもない。
リメットはレイの喜びに歓喜しながら、「今日は何食べたい?」
「実は私も悩んでいたの」とスリムにやせた足を組み、ダイエット食のことを考え思いきって
「お寿司」とララが元気に答えた。
ご臨終です、と次はトロにイクラ最後に納豆。おいしく食べているララの顔をみていると、どうしてもお寿司は、ドーナツにしか見えなかった。次は、オールドファッション、チョコファッションと頼むのであろう。
「赤だしとよこわ下さい」
ウン?と横を見ると、驚いた、ララの友達がいてた。
ララは知っていたかのように
コロコロと笑い、楽しく、「伝票をこっちにつけなよ」と又オーダーした。
\70,750ー会計を済ませ、友達も楽しく終わり、又2人っきりに戻る。
「ララ...」
「はい、お金」今度は、お金のお札でできたレイを首にかけて、続けて話した。
「リメットに渡したものは、私の宝物、大切にしてね」
ララとは、3年前に別れたが、今もお札のレイは大切においている。
あの時、お金ではなくて、本当に欲しかったのは鐘だったのにバカなことをしたものよ。
ララは、リメットのために身売していたんだ。腕にタトゥーをつけて、今はその道のプロらしい。
リメットは、その話しを聞いてから口が聞けなかったが
今も、ララのオーラに恋している。
ララはリメットを呼ぶ。
「転職に導いてくれた騎士道として、このローズを再び胸に上げて見せて」
ララは続ける、
「今日は幸せに、、、」
後で聞いた話しだが、騎士リメットはお金をくれたそうよ、あなたララの責任感では見抜けなかったでしょう、彼の恋心を。
ララは、死んだ、次の目覚めは、リメットの横にいないように....
リメットは目覚めた、ララを探しに行こう、きっとまだ探せるはずだ。
張り紙があった。
ララが死んだ.....
アーメン
ハードルを飛び越える十五歳の彼女と来たらまるで揮発性物質で出来た鳥だった。只でさえ軽い質量をそれすらも邪魔だと言う様に、一瞬毎に身体を空気へと融かし乍ら固体と気体の狭間を彼女は跳んだのだ。
「出発、明後日だって」
「なんの?あ、インハイ?」
自転車の後ろで僕にしがみついている明の返事を僕は聞き逃したけれど、彼女が笑ったのは判った。だから僕は話題の事なんかどうでも良くなって、自転車のペダルを思いきり踏み付けたのだ。スポークが回る音がして景色が変質する。生まれたての緑と風が螺旋の形をとり空へと登って行く様が見える様な、世界がもうすぐやって来る夏に向けて波うっている、そんな日だった。
そして僕は恋をしていた。
何だか文字にするときっと随分と馬鹿馬鹿しい感傷に映るであろうから、僕は他の何かで代替がきかないか考えたけれど、結局、これしか僕の気持ちを表す言葉はありはしないのだ。だって僕は明と出会って初めて二人乗りをしたし、初めて夏を暑いだけのうんざりする季節じゃないと思った。長い事間違った場所に居た人が生まれ故郷に帰る時に感じる様な、穏やかな気持ちになれたのだと思う。そして生まれた場所に帰りたいと言うのは誰でも持つ事が許される最低限の感傷じゃないだろうか。
「戦争に行くの」
だから僕は不意に耳元で囁かれた彼女の言葉を、一瞬聞き間違いだと思ったのだ。そんな風に流れる光の中に居る時に、滞る闇へと目を向けるのはひどく難しい事だから。僕は自転車を止めた。光も風も夏も止まってしまい、振り返ると少し泣きそうな顏をした明がこっちを見ていた。
「戦争」
彼女は「冗談だろう」という顔をして居る僕に静かな声で繰り返す。
「…だって、まだ高校生じゃないか」
「うん」
「じゃあ」
「三月前に適性検査したじゃない?私、訓練によっては十年後にとても優秀な宇宙船の操縦士になれる適性を持っているんだって」
僕はその時事情を理解した。そして首を振った。只哀しそうに笑って居るだけの彼女が信じられなくて喚いた。多分、彼女を傷つける様な事も随分叫んだかも知れない。通行人が僕達をじろじろ見て行き、その中の一人に僕がした事もない喧嘩をふっかけそうになった時、不意に彼女は僕に抱きついて来た。
随分と細い肩に首がくっ付いていた。僕からは見えない彼女の顔は少し震えて居たから、僕はどうして良いか判らなかった。
そして僕はもう一度漠然と、ああ夏なのだと思ったのだ。
人類の悲願、「地球上からの紛争の撤廃」は僕達が十歳になるやならずやの時にひどく皮肉な形で実現した。確かに僕らは地球であらゆる国家間の戦争を見る事はないだろうが、それはこの惑星の全ての人類が協調せざるを得ない事態に直面したからだ。
つまり、この星は他の惑星から来た生命体に攻撃を受けている、らしいのである。
「らしい」と言ったのは、僕ら一般人がその情報を知る機会は余りなく、更に言うと生活にも殆ど実影響がなかったからだ。言語学者と物理学者が総動員されて相手の解析をしている事や、何光年も離れた所で戦線が維持されている事は知っていたけれど、そこで何が行なわれて居るのか誰も知らない、そんな冗談みたいな戦争だった。
物資が不足していると両親は言うけれど、巷で言われている様に僕達は自分の世代を不幸だと思っていなかった。両親は普通に朝から夜迄働いていたし、就学率も殆ど落ちていない。そんな中で星の世界の戦争を意識しろと言われても無理な話だ。実際この夏の僕らの懸案事項と言ったら、ハードル走の県高校生記録を持つ明が、部活をどれ位休めるかと云う事だった。
「だった」。
過去形だ。
「これで選抜した優秀な高校生を軍が持って行くそうですよ」。まるきり他人事みたいに教師が言いながら配ったあの薄っぺらい紙の果てにあるのは、僕らの知らない暗い星の彼方だったのだ。
午後六時の道を僕らの自転車は滑り続けた。僕らは全ての言葉を誰かに奪われてしまった様に黙っていたが、沈黙によって過去から未来へと流れる時間の連続性を否定しようとしていたのだと思う。僕らはばらばらに砕けて行く時間をタイヤの下に踏み締め乍ら、長い事そのまま風景の中を走り続けた。
「逃げよう」
掠れた声で僕は囁き、彼女は僕の背中に押し付ける様に首を振った。
「逃げないわ」
「どうして」
「子供の頃から、私はずっと走って来たの」
僕の背中を振動板に、彼女は静かに話し出す。
「走ってれば逃げ切れたの、お父さんとお母さんの喧嘩とか、とにかく、色んな事から。でも私は走るより素敵な事がある事が判ったの。
自転車の後ろに乗って世界を見る事よ」
白いガードレールの向こうに沈む太陽と金色の街が見える。多分僕らはまるきり逆光になってその世界の中を泳ぐ様に走っていた。ひどくスピードは落ちていたのに僕に追いつける感情は一つもなく、空洞になってしまった自分の中に響く彼女の声を聞き乍ら、僕は世界の金色に無力に目を閉じる。
「私は哀しい時に逃げなくてもいいの。昔の私は何も持っていなかったけれど、今はあなたと一緒に自転車から見た風景が体の中にあるから、私は立ち止まって振り返って、色んな事と闘える。
だからもう、私は逃げなくていいの」
どうして失うのかという問いの答えを誰も知らないのだと言ったのはあれは誰だったろう。喪失は出会いと同じくらい不条理なのだから仕方がないのだと言ったのは?多分これは正しいことなのだろう。僕らはその不条理を越えて大人になって行く。
だけど皆きっと願った筈だ。
大人になる過程でその不条理に行き当たり乍ら、こんな苦痛の果てにあるのなら大人になんかなれなくていいと、きっと何人もの人が思った筈だ。
歩いて行く人の矢鱈に多い黄昏の街には馬鹿でかいスクリーンがあって、やっぱり大きな宇宙船を映し出して居る。
「これが三カ国共同開発の新型機です。我等が敵の戦線迄十年足らずで行ける様になりました」
風景は冬へと凍えて居た。僕はマフラーに鼻迄埋まり、急ぎ足の人々に睨まれ乍ら突っ立って、自分の白い息ごしに見えるそのニュースを見ていた。
「そしてここには各国から選抜された総勢三百人の高校生が乗り込みます。十年後に到着する頃には、船内で訓練を詰んだ彼等は立派な軍人となり、私達の地球を救ってくれる事でしょう」
空を見上げ僕は漠然と考える。夕暮れの混沌が終わり黒に閉じようとして居る空を見乍ら僕は考える。あの星々は何百年も掛かって光をここまで届けるそうだけれど、十年という年月でここまで届くひかりはあるのだろうか。
初めて彼女を見たのは高校一年生の春だった。
砂と微睡みで出来た午後の体育の授業の退屈を彼女は一瞬で粉砕した。ハードルを飛び越える十五歳の彼女と来たらまるで揮発性物質で出来た鳥だった。只でさえ軽い質量をそれすらも邪魔だと言う様に、一瞬毎に身体を空気へと融かし乍ら固体と気体の狭間を彼女は跳んだのだ。
誰も理解出来ないだろうけれど、これは戦争の話じゃなかった。夏の話だった。僕が生まれて初めてした、きっとどうしようもなく幼い恋の話だった。
僕は人波に逆らって自転車を漕ぎ出した。
一人分の負荷しか掛からないペダルを思う様漕ぎ乍ら、彼女も星の彼方で帰るべき場所を見付けてくれればいいと、ばらばらになりそうな心とスピードで繰り返し僕は願った。
トレーラーを教会裏の草むらに停め特注の荷台の屋根を開け放つと、辺りに荷台一杯に積まれた花の香が一斉に流れ出す。暑いくらいの日射しと、涼やかな風が流れるこんな日には香は一層心地いい。
「さあ、とっかかるぜ」
両親のいない僕がどうにか中学を卒業して鉄平兄ちゃんの移動花屋のトレーラーで一緒に旅をするようになって、もう一年が過ぎた。トレーラーの助手席から歩く制服を見かけると少しだけ寂しくなることもあるけれど、それでもこの生活が好きだ。僕たちは特別な日のために、特別な場所へ、きっと特別になってくれる花を送り届ける。今日も鉄平兄ちゃんの声とともに助手席から飛び下りてたくさんの花束を作りはじめる。
「こんにちは。どうもありがとうございます。新婦の妹の桜井小夏といいます」
一人の女の人が小走りに駆け寄りながら声をかけてきた。
「あっ、どうも。フラワー・エールの六堂鉄平です」
鉄平兄ちゃんがそう言いながら振り向いて、少し止まったのを僕は見逃さなかった。女の人が一瞬足を止めたのも。
「素敵な花達ですね」
「ええ、自慢の花達です」
二人は少しだけ挨拶じみた会話を交わしてから「それではよろしくお願いします」と手を振りあった。
一見いつも通りに花束を作りはじめる。花は得上、そしてお望みの場所どこへでも出張する移動花屋『フラワーエール』。最初は値段もすごく高いと思っていた。だいたい鉄平兄ちゃんに付いて回るまで花の値段なんてしらなかったし、車の維持費だって知らなかった。だいたい車の免許を取るだけで三十万円はかかるらしいし、大型免許もとなればもっとだ。別にそれでと言い訳するわけじゃないんだけど、やっぱり普通の花屋に比べると値段設定は結構高い。それでも僕たちはこの商売で食べていけてるし、お客さんにも満足してもらえてると自負している。いつだって僕たちは特別な空間を演出しているのを誇りにしていたし、陳腐な言い方かもしれないけど、そのための努力や真心だって惜しまない。そう、例えば今日みたいな結婚式の教会を飾るための花を作るときには花に幸せな気持ちを精一杯込める。いつもは。
ただ、このいつもはってやつは意外とあっさり崩れ去る。感情豊というか、仕事に集中しきれないというか、とにかく世話の焼ける店の主人だ。
「知り合いなんでしょ?」
僕は花束をアレンジしながら鉄平兄ちゃんの顔を見ずに言ってみた。
「なにが?」
鉄平兄ちゃんもこっちを見ないまま答える。
「ばればれだよ」
一瞬の沈黙の後で「あーあー、そうだよ」と言いながら鉄平兄ちゃんがこっちを見て言った。
「おまえ客の名前くらい教えとけ」
「言ったじゃん、桜井さんだって」
今さら動揺したって後の祭りだ。電話一本でどこへでも行く。こういう仕事をしていればこんなことだっていつかあってもおかしくはなかったんだ。
「まだお互い好きだったりするの?」
「うるせぇ、ガキが。仕事しろ」
やれやれ、不器用なんだから。
まだ人の入ってない教会で僕たちは結婚式のための花を飾る。いつもはなんだかんだ喋りながらやるんだけど、今日は独り黙々と飾り付ける。鉄平兄ちゃんに他の話し相手がいるからだ。
「知らなかった。てっちゃんが花屋さんやってるなんて」
「誰にも言ってないからな」
花を飾る手許を見ながらぼそぼそ話している。本当に不器用だ。
「元気そうだよね」
「そっちは?」
「うん」
「結婚は?」
「なに言ってんの。相手もいないのに。あら、でもいつも彼氏がいないって訳じゃないのよ。いまはたまたまいない」
「そうか」
バカだ、こいつ。オンナゴコロが分かっていない。そのうえ飾り付けめちゃくちゃだ。
「だって退屈なのよ、みんな。どっかのバカが勝手にどっかいっちゃってから。なに考えてたか分からないけど」
「そうか」
救えないよ、こいつ。
飾り付けを終え、鉄平兄ちゃんが簡単に掃除をする間に僕はトレーラーに道具や切り落とした葉を持っていってきた。鉄平兄ちゃんの掃除をする後ろ姿には深い影が差し込んでいて結婚式の幸せな雰囲気を台無しにしかねなかった。本当にどうしようのないんだから。
「てっちゃん」
僕がそう声をかけると、鉄平兄ちゃんはすごい形相で振り返った。僕は肩をすくめて言った。
「小夏さん教会の裏にいたよ、一人で」
鉄平兄ちゃんは何も言わなかったけど掃除を終えるといつもは僕に持っていかせる掃除道具を自分で持ってトレーラーに向かった。
結婚式が始まり僕はいつものように会場の片隅でそれを眺めていた。いつもはいる鉄平兄ちゃんはそこにいなかった。そしてあろうことか小夏さんもいなかった。式の直前にそのせいで少しばたばたしたが予定通り式は始められた。良い天気に相応しい素敵な式だった。何回見ても良いものだ。僕もいつか結婚するのかな、なんて考えてみたりする。
厳かな中にも暖かな雰囲気の式のほとんどを終え、最後に新郎新婦が教会の真中を歩き出口を目指し、扉が開けられた。そのとき僕は息が止まった。教会の前にトレーラーが停められていた。荷台が開け放たれたままで。
「お姉ちゃん!」
助手席から降りてきた小夏さんが花嫁に大声で呼び掛けた。姉妹というのは心が上手く通じるようで花嫁はにこっと笑ってブーケを投げた。小夏さんがブーケを受け取ると同時にトレーラーが低い音で唸りだした。
僕は音に気が付き走り出した。あいつ、やる気だ。荷台内部に取り付けられたとっておきの秘密兵器。それは大きな出費と引き換えに、映画のような一場面を演出するだろう。でもこの暖かな結婚式に過剰演出する意味がどこにある?あるとすれば、それは助手席にいた小夏さんだ。なんだよ、後からどうなっても知らないぞ。
トレーラーに向かう僕の側を風が通り抜けた。荷台に取り付けられた大形扇風機が荷台に並べられた花達の花びらを風に乗せて宙に舞わせた。教会の前、眩しい日射しの中で、花びらのシャワーが降り注いだ…
様々な色、様々な大きさの花びらが風に乗る、それらが見えない光の粒子に押し上げられてさらに高く上っていく。そりて、まるで時間そのものの流れが遅くなったみたいに、ゆっくり、ゆっくり、舞い降りてくる。それは人々の声を止め、音を消し、驚きと、賛美と、感嘆の視線だけを空に向かわせていた。
二人が、そして結婚式の参列者達が何も言わず、そのフラワーシャワーに見入る中、僕は急いで荷台の扉を閉めた。鉄平兄ちゃんの次の言葉が予測できた。理由や正統性なんてない。でも二人の笑顔を見ていたらそれが分かった。鉄平兄ちゃんと旅に出てから学んだことだ。
まだ花びらが宙に舞う中、鉄平兄ちゃんは大声で言った。
「お礼とお詫びとお祝の花吹雪です。お父さん、お母さん、日本一周してきたら必ず挨拶にお伺いしますから。娘さんをいただきます」
みんな呆気に取られてて、何かの言葉が帰ってくる前に僕たちはトレーラーに乗り込み、車は走り出した。待ちやしない。待つつもりもない。バックミラーの後ろに手を振る花嫁の姿だけが動いていた。
笑う二人を見て思う。本当に不器用だ、そしてバカだ。でも、この二人にとっても幸せな結婚式だったみたいだから、まあいいか。
三人になって狭くなった助手席に走り去る車の風に引っ張られていくつかの花びらが舞い込んだ。そして窓から花の香一杯の暖かい風が吹き込んで、また青空の向こうへ抜けていった。
新緑の瑞々しい光りの中を、白透の冷たい空気がゆっくりと横に移動する。
足元の枯れ葉で覆われた道には、新芽を着ける雑草達の息吹が、朝露に輝いている。
ゆっくりと流れる時間。柔らかな光り。
僕は両腕を広げ、その生命達の空間に降りそそぐ自然の力を全身に浴びる。沈んだ心には活力が生まれ、頬をつたった雫の跡がゆっくりと癒されていった。そして大きく深呼吸をした後、僕は最後の別れに両手を合わせた。
――子供ができたと言われた時の事を思い出した。
妻の嬉しそうな顔と先生の笑った白い歯が印象的だった。僕は心から喜びそして妻を尊敬した。――
僕は、笑顔を作り後ろを振り向くと、無言の妻が大事そうに小さな花を持って俯きぎみに立っている。その姿を見た瞬間、僕の笑顔は消えていたに違いない。もう一度、気を取直し笑顔を作って妻の肩に手をかけた。
「さあ、今度はお前の番だよ」
小さく頷く妻がとても愛おしく思えた。妻はゆっくりと進んで、盛り土の上に持っていた花を添えると、静かに両手を合わせた。小刻みに身体が震えている。僕には妻の気持ちが手に取る様に分かった。
妻は、彼を自分の子供の様に育てていた。それには深い想いがあったからだ。
――「流産」先生は続けた。「もう妊娠する事は出来ないかもしれません」
どうしようもない悔しさに僕は怒りを感じ、妻へのいたわりの言葉さえかけられず全てを恨んだ。そんな僕が妻を傷つけてしまった。
あれ以来妻はショックのあまり、話す事が出来なくなった。――
朝靄の中、車に戻ると静かに山を下った。
彼の居た場所がルームミラーに淋しげに映る。カーラジオのスイッチを入れると、懐かしいメロディが開け放した窓から風にのって二人を包み込んだ。そのメロディは彼と出会った頃に流行っていた歌だった。彼との想い出が蘇る。
――初めて彼と出会ったのが、この森だった。
夕暮の林道は、オレンジ色の夕空に木々の影が集まり、薄暗くそれでいて神秘的な光りの粒が降りそそぐ空間だった。
車のヘッドライトに映されたモノクロの砂利道に突然、虚ろに輝く光りが見えた。車を止めてその光りに近付いて行くと、悲しい声をあげながら、黒く横たわる母親の影に隠れて小さく震える彼がいた。その丸い瞳はとても綺麗だった。
どこかの車に跳ねられたのだろう。使い捨てられたぬいぐるみの様なその姿は、既に彼の母親ではなかった。僕は小さな穴を掘りそこに彼の母親を埋めた。小さな彼はその場を離れたくなさそうに鼻を何度も盛り上げられた土に付けては小さく鳴いていた。母親が死んだ事に気付きもせず、ただ居なくなってしまった事が悲しかったのだろう。
不意に妻が彼を抱きかかえた。子供をあやす様に優しい表情を彼に向け、静かに無言の言葉をかけていた。彼の奇麗な丸い瞳が不安から安らぎに変わって行く。僕にはそう見えた。――
カーラジオからは、続けて懐かしい歌が流れている。
妻はサンルーフの向こうの空を見上げたままだった。その瞳には、うっすらと光りを集めた雫が風に流されまいと、揺れ輝いていた。
――彼が僕等の家族になった。
小さなほ乳瓶を買ったり、おしっこを取ってあげるガーゼを買ったり、時には紙おむつも買ってきた。お風呂にも一緒に入っては、乳幼児用の石鹸で彼を優しく洗ってあげた。眠る時は妻の枕元に小さな毛布を敷いて三人で一緒に寝た。
彼は妻と同じく話しこそ出来なかったが、僕たちにその奇麗な瞳や鳴き声、手足の動かし方で会話をしていた。それが何を言っているのか、どうしたいのか、僕には妻と同じ様によく分かった。
時折、彼は悪戯もした。妻が使っている口紅を見つけては、ペロペロと舐めたり鼻で匂いを嗅いだりして悪戯の証拠を顔中に残し、僕や妻を驚かせたり、笑わせたりしてくれた。
少し大きくなってからは、子犬の様に首輪を買ってあげ、一緒に散歩にも出かけた。彼の得意技は、冬の寒い中を元気に走り回り、雪の積もった小山に穴を掘る事だった。前脚でモグラの様にガシガシと掘り進んでは小さなカマクラを上手に作った。その時の彼の表情といったら、小憎らしいほど自慢気な顔つきをしていた。
苦手は雨だった。ある曇りの日に、彼は妻と近くのスーパーへ買い物に行った。彼は店の脇の柵に繋がれ、買い物の間静かに待っていた。いくら待っても妻が現れない。やがて雨が降りだしてきて、妻は洗濯物を干した事を思い出し慌てて家に戻った。そして洗濯物を取り込んでソファーにかけた時にやっと彼の事を思い出した。迎えに行ったが既に遅かった様で、ずぶ濡れになって少しむくれた態度の彼がいたそうだ。
妻は噴き出しそうにしながら手話で器用にその様子を話してくれた。”彼のむくれっ面”想像しただけでも可笑しくて、その日は彼を見ると思わず笑ってしまった。それ以来彼は雨が嫌いになって、絶対に雨の日は家から出なくなった。――
そう、全てが本当に昨日の事の様に感じられる。
あの時もそうだった。運命とは突然やってくるものなんだ。
アスファルトの道路に出た。
太陽が真南を通過する時間になっていた。皐月の新鮮な光りが降りそそぎ、車内を通過する微風が心地よかった。
「朝も早かったし、飯でも食って帰ろうか」
僕は妻の横顔を覗いて言った。やっと元気が出てきたのか、妻は笑顔で頷くと手話でお蕎麦が食べたいと言った。僕は何度か通ったこの道に、地蔵尊の隣のお蕎麦屋さんを思い出した。
駐車場に車を止めると、地蔵尊の鳥居がひっそりと見えた。
二人で大笊のおろし蕎麦を注文した。暖かい玄米茶をすすると、妻がホッとした表情を見せて「大丈夫よ」と胸に手を当て、笑顔を見せた。
女中さんが大きな笊を持ってきた。竹で編み上げられたそれには、笹の葉の上に艶やかな蕎麦が、川の流れを感じさせる様に盛られていた。薬味は大根の降しに葱とワサビ。二人で箸を合わせるように蕎麦を食べる。ワサビを入れ過ぎたのか、妻は時折目頭を押さえていた。
僕はそば湯を飲み干すとタバコに火を点けた。蒼い煙が目に滲みて、全ては想い出になっていくんだと、天井を見上げた。
蕎麦屋を出ると、妻が僕の腕をとり駐車場の向こうを指差した。
その白い指先には小さな地蔵尊が、柔らかい光りの中にひっそりと佇んで見えた。
小さな鳥居をくぐり、妻と歩調を合わせながら石段を上る。上がりきった所にまた鳥居があり、その先には小さなお地蔵さん達が、赤い涎かけをかけて並んでいた。
沢山のお菓子や玩具が供えられ、線香の煙が風車に舞っていた。僕は息を飲む様に妻の顔を見た。妻はそんな僕に微笑みながら財布から少しのお金を取りだして僕の手に渡した。
静かな時が流れた。
二人してお賽銭箱に入れると手を合わせ、静かにお祈りをした。多分、二人とも同じ事をお祈りしたのだろうと思った。風に回る風車が小さくカタカタと音を立て、もう二度と逢う事の出来ないあの子達の姿が重なって見えた様で僕は思わず胸に熱いものを感じた。
車は光りと微風の中を滑る様に静かに走る。妻の髪が揺れるたびに、その窓の向こうの景色が鮮やかに色付く様だった。
カーラジオからは懐かしい歌が流れている。僕は妻に聞いてみた。
「なあ、この歌、覚えてるかい?」
妻は僕の方を向いて微笑む。そして静かに窓の外を流れる景色に目を向けると、いつの間にかその歌を口ずさんでいた。
その頃あたしが住んでいた家は、緑に囲まれた一軒家だった。体が弱かったあたしの為に、両親が空気の良い田舎に家を買ったのだった。
玄関を開けるとそこは見渡す限りの草原だった。小さな川が流れていて、強情に、どこまでも真っ直ぐに伸びていた。
ある日、その川の近くで絵を描いている人に出会った。
年はいくつだったのだろうか。あたしには解らなかったが、とにかく随分年上にみえた。
背の高い人だった。あたしが会ったどんな人よりも高く見えた。細長い身体を折り曲げるように屈めてその人は、キャンバスに何か絵を描いていた。
興味を持ったあたしは後に回って、その絵を覗き込んだ。
(あ)
絵を見たあたしは思わず小さな声を漏らした。
綺麗な絵だった。それは草原を描いた絵では無く、真っ黒な背景に色とりどりの、直線や三角や円などの様々な記号が描かれた絵で、そしてそれにも関わらず、確かにその絵は草原だった。草原を表す物は何一つ描かれていなかったけれど、あたしにはそこに草原を吹き抜ける風や、青空を引き裂くような強い陽光が見えたし、それどころか、地中に眠る動物達の死体や、そこから芽吹くていく植物の芽さえ見えた。
この人は本当に絵がうまいんだな、と思った。
「お嬢ちゃん」
その人はキャンバスを向いたままあたしに声をかけてきた。
「こんにちは」
「こんにちは。はじめまして」
穏やかな声だった。
「はじめまして。お嬢ちゃん、絵、好きなのかい」
「ううん、あんまり」
あたしは正直に答えた。
「でもおじさんの絵はちょっと良いなって思うよ」
「そうか」
おじさんは屈み、絵の具を取り出して、パレットに絞った。
「おじさんは絵、好きだよ」
そう言ってまたおじさんは絵に向き直った。
風がひらりと吹く。おじさんの右腕がひらりと動く。木々がさわさわと鳴く。おじさんの筆がさわさわと鳴く。どこかで鳥が飛び立つ。おじさんの筆が空へはためく。そうやっておじさんは少しずつ絵に色を足していった。
「おじさんは絵、好きだよ」
それはなかなか見事な眺めだった。私はその光景にみとれてしまった。
いつの間にか日が暮れていた。おじさんはまだ絵を描いていた。
遠くの山々が、夕焼けに赤く染まり始めている。
「おじさん、あたし帰るね」
おじさんは返事をしなかった。
あたしは立ち上がりながら絵の中を覗き込んだ。
絵は大分進んだようだった。様々な模様。不思議な色使い。その見事な調和の中に、あたしは奇妙な物をみつけた。
それは灰色の塊だった。
ぽつり、とキャンバスの右上の方に、その灰色の塊は置かれていた。活き活きと引かれた他の線や色に比べ、それは酷く異様で、孤独に見えた。
「おじさん、その灰色のは何?」
「これは象だよ」
おじさんはそう答えた。
「象? 象ってあの動物園の?」
「そうだよ」
穏やかな声だった。
「おじさんは象を描いているんだ」
「おかえり。ご飯もうすぐ出来るからね」
家に帰ると台所から母の声が聞こえた。
「何か手伝うことある?」
「じゃあ人参の皮剥いて貰おうかな」
「解った」
母は陽気に鼻歌を歌いながらネギを刻んでいる。
「ごめんね、いつもご飯遅くなって」
「しょうがないよまた仕事始めたんだもの」
「そっか。許してくれるか。良い娘じゃ」
そう言って母はあたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。
「あんたこっち来てどう? 少しは慣れた?」
「うん。まあね」
あたしは人参を見ながら言った。
「そうね。少しずつだけど顔色も良くなってきてるみたいだし。やっぱり空気の良い所は違うね。無理してでも引っ越して良かったわ」
「そうだね」
あたしは小さくそう答えた。
両親は快活な人達だった。父はこの引っ越しの為に仕事を辞め田舎の会社に就職し、母もその少々苦しくなった家計を支えるため夜遅くまで働き、そしてそれでも二人は快活なままで、早くもこの環境に適応していた。
とても強く、とても美しい人達で、だからその輝きが、もしかしたらあたしを弱くしていたのかも知れない。
「ただいま」
玄関で父の声が聞こえた。
「お、帰ってきた。じゃあご飯にしよっか」
「うん」
親子三人で夕飯を食べた。ご飯の暖かさが喉にしみて、右手の人差し指の爪の形がやけに気になった。
「どうした? 具合悪い?」
「なんでも無いよ。ご飯おいしいね」
「良かった。もっと食べてね」
「うん」
爪をじっと見ていると、あの灰色の塊が重なって見えた。
おじさんはあれを象だと言っていた。
あのおじさんは今頃どうしているだろう、と思った。
「こんにちは」
「こんにちは。今日は天気が悪いね。夕立がくるかもしれん」
おじさんは次の日も同じ場所で絵を描いていた。次の日も次の日も次の日も。
「そうだね」
おじさんの象は少しずつ大きくなっていった。
荒い灰色の塊は徐々に画面を占領していき、それでもその象は草原の中に独りで、その孤独は増していくばかりだった。
「おじさん」
「なんだね」
「象、好きなの?」
「好きというか、まあ何だろうね」
「ねえおじさん」
「うん?」
「象、描くのやめたら?」
おじさんはあたしの言葉を聞くと、ゆっくりと振り向いた。
「何でそんなことを言うのだい?」
あたしはおじさんの顔をその時初めて見た。
おじさんは思っていたより若かった。なかなか整った顔をしていたけれど、黒目が小さく、濃かったのが気になった。何かが張り付いている色だった。どうしようも無い何かが。
「何で、って」
ごう。
風が、強く吹いた。あたしの帽子が風に乗って飛んでいった。
「取ってきてあげよう」
おじさんは笑ってあたしに背を向けた。直ぐにおじさんの顔はあたしには見えなくなった。
おじさんは帽子の飛んでいった方へ歩き出した。帽子は風に乗って何処までも飛んでいく。
あたしはキャンバスと共に残された。
あたしはそのキャンバスやイーゼルがひどく古い物だったことに気が付いた。あのおじさんの目と同じように黒がかってみえた。おじさんには色々あったのだろうな、と思った。どうしようも無い何かが、色々あったのだろうな、と思った。
あたしはキャンバスを手に取った。思っていたよりずっと軽かった。
キャンバスの中の象は孤独だった。独りだった。それはなんだか、とても悲しかった。
あたしはキャンバスを持ち直し、勢いをつけ、空へと投げた。あたしには、そうするしか無い、と思えたのだ。
キャンバスは緩く放物線を描いて飛び、川の中へ落ちた。象はくるくる回りながら沈み、あっという間に見えなくなった。
あたしは急に恐くなった。とんでも無いことをしてしまった、と思った。
「お嬢ちゃん、拾ったぞー」
後からおじさんの声が聞こえた。
あたしは走り出した。後ろを見ずに走り出した。
草を蹴散らし、花を践み散らし、あたしは走った。
(違うの。そうじゃ無いの。あたしはただ)
ただなんだったのだろう。ただ。ただ何だったのだろう。
あたしは走り続けた。
いつの間にか雷が鳴り出していた。夕立だった。雨が強くあたしを打った。あたしは走り続けた。背の高い草の中を、自分を小さく思いながら、あたしは走り続けた。
「おかえり。雨酷かったねえ」
家に帰ると母が居た。
あたしは母に抱きついた。
「ん、どうした? 何かあった?」
母はあたしを優しく抱いてくれた。
あたしはいつの間にか泣き出していた。
あの象の目がとても優しかったことを、思い出した。