第19回3000字小説バトル Entry15
昼下がりの酒場には、あまり人間の気配がなかった。
カウンターの向こうで黙々とグラスを磨く旧式バーテン・アンドロイドが、その曇
った銀色の上半身に、スツールに腰を下ろした男二人の顔をおぼろに映している。壁
のポスターには、ビキニの美女が赤い砂漠に寝そべり、「フライ・ミー・トゥー・ザ
・マーズ」――センスのないキャンペーン・コピーが踊る。
「まったく、けしからんですな」
バーテン越しの丸窓に、白んだ空と岩だらけの荒野を見すえて、十九世紀風の口髭
をなでながら、やせた老人は演説をぶる。
「ここの開拓こそは、われら地球人類の希望です。この大目標、火星テラフォーミン
グ計画をもって、はじめて世界は一つになった。この星を人類の新天地に改造しよう
という偉大なる神業、それを妨害するなど、まったく理解しがたい愚行です」
「ただの海賊ですよ」と、隣の男は簡潔に説明した。「なんのポリシーも持っちゃい
ません。市長さんのおっしゃる地球人類うんぬんなんざ、やつらには関係ない。ただ
金目のものを満載した宇宙船が、地球を発ちさえすればいいのです」
「ふん、愚かな連中ですよ、警部。愚かを越えて、滑稽ですな」
まだ大した仕事もなく、庁舎さえ持たず、酒場ぐらいしか居場所のない市長とやら
も、かなり滑稽だと警部は思った。
市長の名目を持つ老人は、黒い三つボタンの背広に、白いワイシャツ、エビ色のネ
クタイ――政治家らしい懐古趣味で武装してはいるが、そのどれもが、くたびれて色
あせている。精力を失った馬のような顔は、この星の地表と同様にシワが深い。背中
を丸めて、ウイスキーの水割を大切そうに両手で包んでいる。
一方の警部は、二度の整形で若さを保っていた。実際は、中年の境をとうに越えて
いる。しかし肉体はいまだ精悍で、浅黒い肌にムラのない銀髪がきわだち、地球の流
行に対応した私服姿は、ヘキサゴン柄のルーズなシャツにバミューダ・パンツ――気
楽な観光客を偽装しているが、この何もない開拓地では返って目立つ。彼としても、
こんな辺境まで来ることになるとは思っていなかった。ウワサからウワサへとたどる
うち、地球から月、月から火星に流れ着いてしまったのだ。
「ところで市長さん」と、警部は老人の顔をのぞきこんだ。「本当に、ごぞんじない
のですか」
市長の視線は、ウイスキーの水面に貼りついていた。
「ええ、ちっとも耳にしませんな。市民どものウワサは、なんせこんな人口ですから
、だいたい聞こえてきますがね。海賊の首領が潜伏しているなんていう話は、ええ、
まったく、けしからんですな……」
だいぶ酔いが回ってきたようだ。この男からは何も得られないと結論して、警部は
グラスの水を一口あおって空にした。ウワサのネットワークも、ここが末端か。もう
職務は終わりにして、苦杯をあげようと、バーテンに酒を注文しかけたその時、店の
二重ドアから、ごとりと音がした。警部が肩越しに振り返ると、二つの厚いドアのあ
いだで、ボンベを背から下ろした人影が、宇宙服を脱いでいる。
警部は正面を向き直って、バーテンに言った。
「水をくれ」
やがて内側のドアが開き、警部は、左隣のスツールに新しい客を見た。女だ。それ
も、かなり若い――少なくとも外見上は。
「どうも」と警部は、女の横顔に声をかけた。「珍しいですね」
オカッパの黒髪を右耳にかけて、女は応じた。
「何が?」
「いや、女性が、こんな星の、こんな辺境にいるなんて」
「いつもの」と、女はバーテンに言った。それから警部を向き、目尻をかすかにゆが
めた。「ここの人じゃないでしょう」
「ええ。さっき地球から着いたばかりです」
女は、悪戯めかして笑った。
「ここにはね、けっこう女もいるのよ。出稼ぎの男だらけの街には、需要があるわけ
」
「ああ」と警部は納得し、それから少し残念に思った。若い女は、白い肌も青い眼も
、その種の職業で身につく不健康なかげりを宿してはいない。アカ抜けてはいるが、
小柄で童顔。タイトなエメラルド・グリーンのインナー・スーツが描く体つきも、少
女のように未熟に見えた。
「でも」と女はグラスを手に、「わたしは違う。娼婦じゃないわ。乾杯しましょうか
」
「いいですね」
警部はえくぼを浮かべて、ほのかな安堵をこぼした。何のための乾杯かはともかく
、チンと鳴る。
「それ、水?」
「ええ、下戸なんです」
「つまらない」
「すいません」
ネコをかぶっている、と警部は内心に自覚した。今日、二杯目の、つまらない液体
をすすって、女にたずねた。
「あなたはごぞんじないですか?」
「何を? 回りくどいのね。さっきから」
「すいません」と、またネコをかぶり、「海賊の首領が、この街に潜伏しているとい
うウワサですよ」
「まあ、こわい」とヘタな芝居のセリフのように言って、女は無感動だった。「どん
な海賊なの? やっぱり、髭もじゃの大男かしら」
「いえ、首領は女だそうです。それも、まだ若い」
「ふうん」いたって女は無感動。「どんな女なのかしらね」
「なんでも、ウワサによれば、金髪で、グラマーで、目の覚めるような美女とか」
女は、黒髪をゆらしてクスクスと笑った。
「きっと、違うと思う」
警部は、コンパスで引いたように目を丸くしてみせた。
「違う? あなた、首領を知っているんですね」
「知りません」と口調をあらため、しかし女のクスクス笑いはやまない。「となりの
お友達には聞いたの? あれでも、いちおう市長さんなんだから」
その存在を思い出して警部が見やると、お友達は、顔をカウンターにうずめ、かす
かな寝息をたてて眠っていた。
「聞きましたよ。知らないって」
「それじゃあ、たぶん、誰も知らないわね」
「そうですか」
ウワサの末端。
「ねえ」と女。「こんなウワサ、知ってる?」
警部は苦笑した。
「回りくどいですね、あなたも」
「うつったみたい」と言って、ふたたび髪を耳にかけ、「地球から、警察の人が来て
るんだって」
「ほう」と警部は、あらためて気楽な観光客になった。「何か事件ですか」
「知らないけど、おっかない刑事だそうよ。赤い鬼みたいな顔して、髪も炎のように
真っ赤で、犯罪者と見たら子どもだってすぐ射殺するって。刑事とかいっても、ただ
の殺人鬼なのね」
「それはそれは、こわいですね」
警部が浅黒い頬をかくのを見て、女は微笑した。
「このウワサも、アテにならないかしら」
「ええ、きっと」
「なんだ、つまらない」
そして女はグラスを空にすると、またも微笑を警部に見せた。
「じゃあ、わたし帰る。つまらないから」
「おごりますよ」
「そう、ありがとう」と、席を立ちながら、「いつかまた会ったら、今度はわたしが
おごるわね」
「楽しみにしてます」
警部のえしゃくと、えくぼに送られて、女は出て行った。ドアの向こうで、ボンベ
を背負う人影となり、そして消えた。
とたん、右隣で、むくりと市長が身を起こした。
「追わんのですか?」
警部は、手元の水を空にすると、老人の質問に質問でこたえた。
「人類の未来のために?」
「そんなことは、どうでもよろしい」自分の本音にさも愉快そうに髭をなで、「では
赤鬼警部、もう一杯どうです、お酒でも」
「いいですね。いただきます」
警部がしばらく職務を中断するあいだに、近くで爆音が聞こえた。離陸する宇宙船
は赤い大地を蹴って、さらなるウワサを振りまく。そしてこの火星辺境の酒場から、
気楽な観光客の新たな旅が始まるのだ。