第19回3000字小説バトル全作品一覧

#題名作者文字数
1フットボールイズライフ?佐藤 ゆーき2966
277発の銃弾(若く愚かだった頃)山中英俊1542
3オヤジのサークルオキャーマ君2716
4宝の地図坂口与四郎3000
5竹林の幽霊大井 玉2165
6paperback園 康弘2992
7水中教授百内亜津治2700
8バニラさかな☆3000
9『きらきらと夜が降る』ゆうか2365
10打ち寄せる波の音は胸の鼓動にも似て青野 岬2813
11陰陽少年xei2645
12白靄の飛礫保田典子2993
13その日、暑さの気晴らしに羽那沖権八3000
14ホステスの母鈴木信太郎3000
15ウワサの末端紺詠志3000
16琴線伊勢 湊3000
17the day the world went awayるるるぶ☆どっぐちゃん3000
18夏とスイカとサンがいてさとう啓介3000
19目を閉じて深く潜れ、高く飛翔する為にAme3000

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Entry1

フットボールイズライフ?

 その、ロベルト・カルロスの左足からペナルティエリアの少し外側にふわりと上げられたボールは、十分な滞空時間を携えて落下していった。その真下には当然、赤と黒の縞のユニフォームの男達が待ち構えているだろうと思っていたのに、なぜかそこには、何かエネルギーのようなものを蓄えるように、身体を半身にしてじっとボールを見つめるジダンがいた。そのまるでジダンのために用意されたかのようにぽっかり空いたその空間の中心で、一瞬時間が凍りついた後、彼はその左足でボールをゴール向かってショットした。そのボールがドライブ回転による軌跡を描きながらゴールに吸い込まれた時、僕は涙を流していた。
 数時間後、僕はスポーツ店に走り、彼と同じ、神々しく白く輝くユフォームを手に入れた。

 キリンの日本代表サッカーチームスポンサードのテレビCMを目にすると、僕の心は躍り出す。もう何ヶ月も目にしているCMなのに、それを目にする度に弓の弦が引き絞られていくように、緊張が高まっていく。もうじき祭りがはじまるのだ。
 コカ・コーラの若い男女達がW杯観戦のために旅に出る(そう、なぜか僕はそれを旅だと思った)CMを目にすると、僕の心はせつなくなる。もうあんな時は戻ってこない。W杯を僕と同じく心待ちにしている仲間達は、それぞれ遠く離れて、それぞれの仕事に追われ、それぞれの生活を生きている。
 でも僕自身は、旅に出ようと思えばいつでも出られる。なにしろ僕は失業中で、とてもとても自由だった。
 四年間務めた会社を三月に辞めた僕は、出版社での仕事を探していた。周りの人達は何の知識も経験もない僕のことを心配したけれども、僕はなんとかなるだろうとタカをくくっていた。友人にはW杯までのんびりするよと冗談で言っていたが、本心では三ヶ月も貯金を食いつぶすわけにはいかないと思っていた。
 でもやっぱり、何の知識も経験もない僕を雇ってくれる出版社はなくて、僕は焦りはじめていた。
 そんな時、全国規模の大きな書店の神戸営業所に勤める友人から、臨時で一日だけアルバイトしてくれないかと連絡があった。そろそろ自分は社会不適合者と呼ばれてもおかしくないのではないかと思いはじめていた僕は、一日だけでもちゃんと働いたと自分に言い聞かせるために、そしてその友人から出版業界の情報をわずかでも得るために、その申し出を受けることにした。
 アルバイトの後、神戸の三宮で友人とその恋人と三人で夕食を食べた。賑やかな線路沿いの通りから少し外れた落ち着いた和風の居酒屋で、僕と友人は学生時代の思い出話に花を咲かせ、彼の恋人はずっと微笑みながら、その話を聞いていた。
 「お前もほんまにW杯までのんびりしてるとは、やるなあ」
 僕は、当たり前やと強がってみせ、それを聞き届けた彼はトイレに立った。
 彼の恋人はそれまでと同じ微笑みで彼を見送り、同じ微笑みで僕の方に向き直って言った。
 「彼はね、あなたのことを見てると本当に人生楽しそうだって」
 マスターカードの中田英寿がオーストラリアの選手とユニフォームを交換しているCMを目にすると、僕は幸せな気分になる。あのユニフォーム交換は僕に、どこかの誰かが歌っているようなあらゆる国境線を越えて荒野に花が咲く光景を思い出させる。その光景は僕達すべてが分かりあえる、ともに進んでいけるという希望に満ちている。
 きっと僕はこの世界の素晴らしさを体現して生きていかなければならないのだろうと思った。

 次の日は日本代表のスウェーデン戦が行われる日だった。しかもW杯前に正式登録メンバーで行われる最初で最後の国際試合ということで、僕はいてもたってもいられなくなり、繁華街のスポーツバーに繰り出した。それまでユニフォームなんかを着て、スポーツ観戦をしたことはなかったのだが、その時はどうしてもそうしたい気分だった。でも、日本代表のユニフォームを持っていない僕は、レアルのユニフォームを着て出かけることにした。レアルのユニフォームを着て、日本代表の応援をするのは違和感があるだろうなと思ったが、そうせずにはいられなかった。
 バーには、10人近くの日本代表のユニフォームを着た客がいたが、その他の客はみんな普通の格好をしていた。もちろん、わざわざ日本代表以外のユニフォームを着ている客はいなかったが、僕が誰かの注意を引くこともなかった。試合は始まっていたが、フィッシュアンドチップスとギネスをハーフパイント注文して席についた。
 フィッシュアンドチップスにレモンを絞っていると、日本代表のユニフォームを着ている女の子が僕に近づいてきて言った。
 「どうして、レアル・マドリードのユニフォームなんですか?」
 突然のことに僕は何と答えていいか分からず、ただアホみたいに彼女の顔を見つめた。その、コカ・コーラのCMにでも登場しそうな健康的でさやかな笑顔と日本代表のユニフォーム姿に僕は見覚えがあった。確か、僕がレアルのユニフォームを買った時のスポーツ店のスタッフで、その日は日本代表応援セールなのにレアルのユニフォームを買った僕に、「日本代表はよろしいんですか?」と聞いた女の子だった。それに気がついたのに僕は、「あ、えーと、ジダンが好きだから」などとアホみたいな返答をしてしまった。
 その時、ラーションの左足から、松田の股の間を抜けて、ガラガラヘビのように地を這っていったボールが、獲物にとどめを刺す狩人のように突っ込んできたアルバックによってゴールに叩き込まれ、その一連のシーンに僕達は目を奪われた。
 画面から目を離した僕らはもう一度見つめ合い、少しだけ微笑んだ。そして僕は彼女に席をすすめた。僕達はお互いの名前も知らないまま、ただビールを飲んで、時々フィッシュアンドチップスをつまみながら、画面の中の日本代表の話をした。やっぱり小野のクロスは対戦相手にとって危険だとか、稲本の飛び出しとドリブルはすごいけど無理に突っ込み過ぎだとか、鈴木は決定的なチャンスまで持ち込めるのにシュートがまずいとかそういうことを。その後日本が相手のオウンゴールで同点にしたが僕達はまったく喜べなかった。
 試合終了後、僕達は店を出て歩いた。そして僕達は日本が同点に追いついたシーンについて語った。別にオウンゴールだから価値がないということではないし、アレックスのクロスも中田の飛び出しも素晴らしかったのだが、僕達は喜べなかった。でもきっとそれと同じシーンがW杯本番のベルギー戦で起こったのなら、僕達はきっと狂喜するだろうな。そういうことを話しながら、僕達はホテルに入った。
 それから僕達は無言のままキスをして、ユニフォームとジーンズと下着を脱ぎ、シャワーも浴びずに抱き合った。僕はW杯での日本代表が相手のオウンゴールではなく、美しいパスワークから得点するところを想像しながら彼女を抱いた。彼女に、想像してごらん、とは言わなかったが、彼女もきっと鮮やかなクロスや繊細なボレーシュートによって爆発する自分を想像していたに違いない。
 終わった後、僕達はそれぞれベッドの上で自分の下着やジーンズやユニフォームを手繰り寄せた。下着をつけ、ユニフォームを着たところで、僕達はどちらからということもなく、やはり無言のままキスをした。そしてもう一度ユニフォームを脱ぎ、それを交換した。


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Entry2

77発の銃弾(若く愚かだった頃)

 もし生まれてくる時代を選べたとしたら15年程早く、1950年頃に生まれたかったと時々思う。中学生でビートルズやサイモン&ガーファンクルの出現を、10代の後半までにロック革命、ヒッピーの出現やウッドストックなどを体験し、イーグルスやドゥービーブラザースが登場する時もまだ20代前半。久し振りにジョンのバーへ行き、デニスとそんな話しをしていた。「そしたらキミやスプリングスティーンと同世代だったね」と笑った時、彼がベトナムへ行ったことを思い出したので、付け加えた。「でも、60年代の終わりのアメリカで二十歳前後だったら、幸運とばかりも言ってられないか。」「その通り」とデニスがうなずいた。「大勢行ったんだよね、ベトナムへ。」彼は珍しく、ふと遠くを見る目をした。「そしてその多くが帰って来なかったよ。」
 デニスは僕の最良の友人の一人。15歳年上で、僕が以前働いていた会社で同室だった。ジョンも同じビルで働いていた。穏やかで底抜けにやさしい人だ。礼儀正しく、仕事でどれだけ困難な事態に放り込まれても声を荒げた事がない冷静な男だ。彼にも典型的なアメリカの若者らしい頃があり、ビールやバイク、車、ロック・ミュージックが好きで、女の子を追いかけまわしたとは最初は信じがたかった。
 デニスは子供の頃に両親が離婚。継父とウマが合わず家庭が息苦しかった彼は高校卒業と同時に家を出る。卒業してすぐに、手っ取り早く自立したい若者が時々とる方法を彼も選び、軍隊へ入った。「若くて馬鹿(young and stupid)だったんだ。徴兵されて仕方なく行った若者が多かったのに、僕は志願したんだから。」彼は空軍に入隊。最初の任務が退屈で仕方なかった。そしてベトナム行きを志願する。希望は退けられ、替わりにタイに配属された。「幸運だったね。」と僕。彼は微笑んで続ける。「最初はね。でも結果的にはそうでもなかった。やがて北ベトナムへ出動することになったんだ。」南ベトナム現地に駐留する米軍兵士達は主に南ベトナムでの活動に従事したが、タイから送られた部隊は北部でより危険な作戦を展開した。デニスはフライト・エンジニアとしてヘリコプターに乗り込み、北ベトナムの空を何度となく飛んだ。「危機一髪の時ってあったの?」「何度かあったね。」
 ある時彼は4台の編隊の先頭をきって敵地上空を飛行中、地上からの砲撃を受けた。後ろのヘリに乗っていた友人は撃たれ、幸い一命は取り留めたが腸を何メートルも失った。彼の搭乗機も蜂の巣のようにされた。「自分の体のすぐ横の鉄板に、轟音とともに穴が開けられてゆくんだ。こんな音がしてね」と、バーのカウンターを拳でガガガ、と叩く。「生きた心地がしなかった。映画なんかとは全く違うよ。僕の乗ったヘリはその日77発の銃弾を受けた。」「77発!」「ああ。」ジョンと僕は顔を見合わせた。「志願したのを後悔したろうな」とジョン。デニスは笑ってうなずいた。「もう二度とごめんだね。今は当時より賢いからなあ。」「若くて馬鹿だった、か」と僕。「ああ。」とデニス。
 「もう寝る時間だ」と言ってデニスは9時にバーを出た。彼の青い瞳に、見るべき以上のものを見、耐えられる限界以上を耐えた人間の持つ暗い光はない。若く優しい奥さんの待つアパートへ急ぐ彼は、やがてケンタッキー州の持ち家で過ごす老後を楽しみにしている。
 土曜日にしては客が少なく、静かだ。ジョンが作ったラム&コーラを口に運びながら僕は、まだ若くやせていたデニスが椰子の木陰で血まみれの友人の手を握り締めて途方に暮れている姿を頭に描いた。地上から人類の殺し合いが完全に途絶える事は、おそらくこの先もない。僕とジョンがここでこうして馬鹿話をしていられるのは、デニスと巡り会えた事同様、全くの幸運なんだ。


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Entry3

オヤジのサークル

 メアリーは、一人息子のジョンの様子が朝からいつもと違う事に気づいていた。どこがどうとは指摘できないわずかな変化である。
 ジョンは今年ハイスクールの二年生になった。すでに親が立ち入ることができない悩みを抱えても不思議ではない年頃である。だからメアリーはジョンに、どうしたの、とも聞かないし、必要以上に顔色をうかがうこともしないつもりだった。
 夫のロイが畑仕事に出て行ったあとで、二人の親子は遅い食事をとった。メアリーはいつもどおり、パンを二切れ息子の目の前の皿にのせた。見て見ない振りをする事も大切な事よ。と、メアリーはそう自分に言い聞かせている。
 最近では、この年頃の息子との食事はお互いに寡黙になりがちである。メアリーがたまに何か話し掛けようとすると、ジョンはいつもうるさそうに顔をしかめた。ところが今朝にかぎって、神妙な顔で口を開いたのはジョンのほうである。
「オヤジの事なんだけど……」
「パパがどうかしたの?」
 男の子もこのくらいの年齢になると、母親よりも父親とはさらに距離を開けていようとするらしい。ジョンが父親の事をオヤジと呼ぶようになって、もうずいぶん長い時間が経ったような気がする。それにしても、ジョンはなぜ父親の話など突然始めるのだろう。
「ママは、オヤジが毎晩どこかへ出かけているのを知ってるの?」
 メアリーは思わずうっと喉を鳴らした。もちろん、ロイはメアリーと同じ部屋から出かけていく。夫婦の部屋だから、それを彼女が知らないはずはない。
 実のところ、メアリーはいつか息子の口からその質問を受けなければならない事を覚悟していたのである。ジョンはそんなメアリーの動揺を不審そうに眺めていた。
「昨日もオヤジは真夜中にこっそり家を出た。僕はその後を付けたんだ。するとオヤジは隣のジョージ叔父さんの家へ寄って、すぐに叔父さんと二人で出てきた。彼らは何やら楽しそうに話をしながら、今度は叔父さんのところの馬小屋に入っていったんだ」
「馬小屋に何の用で?」
 メアリーは気持ちの高ぶりを隠すようにして、聞かなくてもいい質問をした。
「馬小屋の一番奥のわらの塊の中に、隠し戸があるんだ。その中から、二人が取り出したものがこれさ」
 言いながら、ジョンは椅子から立ち上がり、キッチンの扉の向こうに立てかけてあった不思議な形をした木製の器具を引きずり出した。まるで、巨大なT型定規のようにも見える。
「どうしたのそれ!」
「今さっき、そこから持ってきたのさ。これ、何の道具だかわかる?」
 メアリーは黙っている。
「これはね、ミステリーサークルを作る器械なんだよ。実は、クラウンさんのところの麦畑を毎晩荒らして、ミステリーサークルを作っていたのは、うちのオヤジととなりのジョージ叔父さんだったんだ。なんて、ことだろう。彼らは僕が後を付けて一部始終を見ているとも知らないで、この器具を巧みに使い、あっという間に十メートルほどのサークルを二つも作り出したよ。まったく驚きさ。マスコミは面白がって、宇宙人の仕業だなんて今だに言いふらしているんだけどね」
 ミステリーサークルの真偽については、すでに二人組みの老人(ダグ・パウワーとデビット・チョーリー)が「自分たちがミステリーサークルを作っていたのだ」という告白をトゥディ紙に発表し、その作成方法までもビデオで明らかにしている。それは実に単純で、板を踏んで、麦を倒していくという方式である。もともと彼らは芸術家でもあるし、麦畑をキャンパスにして自分の芸術を描き続けていたのかもしれない。そこで使用した器具が、今ジョンが手にしているものととてもよく似ていた。
 さらにその告白の次の年、近くの畑で「ミステリーサークル偽造競技大会」(1992)が大々的に開催された。賞金をかけて誰が一番本物そっくりのサークルを作り出すかが争われたのだが、皮肉にもこの時に、本物と同じサークルが誰にでも簡単に作れるという事が、世間一般に証明されてしまったのである。
 なんと、オヤジはこの大会に隣りのジョージ叔父さんと一緒に出場していた。ジョンも応援に行ったのだから、覚えていないはずはない。その時は残念ながら入賞もできなかったのだが、二人はその時の雪辱のためにいまだにサークル作りを繰り返しているのに違いない。
「だいたいね、ミステリーサークルなんて、最初から幼稚ないたずらだという事をここら周りの人はみんな知っているよ。作っているところを目撃しても、黙っているんだからね。宇宙人のせいにしたほうが、ずっと面白いと思っているんだ。世界中からマスコミや見物客がやってきて、地元にもいくらかのお金を落としていく。とくにジャパニーズなんかいいカモだね、毎月テレビのクルーが取材に来ているもの」
「それならば、パパを責める事はないじゃないの。そっとしておいてあげたら?」
「なに馬鹿を言っているんだ、ママ」
 ジョンは顔色を変えた。興奮してつい声が大きくなった。
「いいかい、畑あらしは犯罪なんだぞ。いくらいたずらとはいえ、よその畑なんだ」
 幼い正義感だった。しかし、怒気を含んだ息子の態度を、かえってメアリーは頼もしく見つめている。
 ジョンはさらに声を荒げた。
「それに、すでにいたずらだとばれているサークルを作り続ける意味なんかないだろ。そんなガキの遊びみたいなことしているのが僕の親父かと思うと、情けなくってやってられないよ」
「あら、ミステリーサークルを作るのがガキの遊びだって言うの」
 メアリーがふと口を挟んだ。
 ジョンは黙ったまま、怪訝そうにメアリーの顔を覗き込んだ。なんだか不思議な感じがしている。さっきのメアリーの表情に、別の母親を見たような気がしたのだ。
 だが、メアリーの目は相変わらず優しく微笑んでいた。
「とにかく、パパのことをこれ以上悪く言うのはやめなさい。パパはあなたのことを愛しているのよ」
「僕だって愛しているよ、でも、これとそれは別の話だ。オヤジのやっていることは大人として尊敬できないんだよ」
 メアリーはため息をついた。
「さ、もう時間だわ。早く食事を済ませて、学校へ行きなさい。パパには私から言っておくから、その器械を元のところに戻して……」
 ジョンは何かまだいい足りなそうに、少しだけ頬を膨らませている。だが、その後は急いでパンを平らげ、すぐに食卓を立った。
 メアリーは息子の姿を目で追いながら、それがパパの使命なのよ、ジョン、と心の中で呟いていた。
 パパを誇りに思ってほしい。将来、パパたちの仕事を継ぐのは、あなたなのだから……。

 そろそろジョンも、地球での任務と母船への連絡方法を知らなければいけない年頃のようである。


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Entry4

宝の地図

 初任給で父と母に旅行をプレゼントした。田舎の万屋を営む二人には、休みがなく、客が来ればどんな時でも物を売った。初の休みと僕の初の給料からの贈り物のために、二人はとても喜んでいた。しかし、帰りのバスが事故に合い、二人は二度と帰らなかった。葬儀の後、僕は会社を辞めた。田舎の万屋を継ぐことにしたのだ。あんなに苦労して獲た内定に、不思議と未練はなかった。


 数年後、僕は幼馴染みの理子と結婚した。理子は隣の市の短大を卒業、都会へ就職、数年で辞めて帰郷していた。年寄りと子供ばかりの村で、僕らが恋に落ちることは簡単なことであった。


 ある日、理子は店からノートをもらいそれに何かを書き込んでいた。
「何書いてるの?」
理子は驚いてから、幸生か、と微笑んだ。
「ないしょ」
ノートを閉じながら、理子は言う。
「じゃ、いいよ」
興味のない振りをすると、自分からノートを広げた。
「宝の地図なの」
そのノートには、さまざまな図形や、数字が並んでいた。
「なにこれ?」
「暗号地図よ」
もうおわり、と言い、理子はノートを閉じた。
「宝って何?」
「大事なもの」
「俺より大事?」
「うん」
「こらっ」
理子を持ち上げてぐるぐる回った。理子が声をあげて笑う。僕は、結果的には楽しい人生をすごしていると思っていた。両親を失った悲しみに耐えられるようになったのは、理子のおかげである。

 店に、村の駐在員、山下がやってきた。
「実は、面倒な事件が起きたんですよ」
山下は店先の椅子に腰をかけ、苦々しく笑った。
「幸生さんの山の裏のバス停に、生まれたばかりの赤ちゃんが捨てられていたんですよ」
「へえ、昔はよくあったけど、最近はなかったねぇ」
「動物に食い散らされて、もう胴体しか残ってないんです。こうなると調査が難しくて」
「隣のI市のやつさ。犬でも猫でもすぐ捨てる。田舎だと思ってを何やってもいいと思って」
理子の茶を一口飲んで、山下は話を続けた。
「それでですね、見つけたのが小学生の男の子なんですよ。バス停の近くに猫がたくさんいるので、不思議に思っていたら、猫が集まって肉を食べていたんですって。しかし、手みたいなものが落ちていて、これは大変と携帯電話でお母さんをを呼び、見にきたお母さんが通報されたのです」
「今は小学生でも携帯を持っているからね」
「いえ、電波があるほうが不思議ですって。発見がもう少し遅れたら、跡形も無くなっていましたよ」
「完全犯罪だな」
「どの道、あんなにぼろぼろだと、何がなんだかわかりませんよ」
山下は茶を飲み干し、真面目な顔で訊ねた。
「ところで、最近不信人物を見ませんでしたか?」
「う〜ん。旅行者も来るし、なんともいえないな」
「生理用品を大量に買う女とか来ませんでしたか?」
わからないので理子を呼んだ。山下は同じ質問を繰り返した。理子は眉をしかめ、来ませんねぇ、と言った。
「そうですか。後、2、3軒から訊いて、何も無かったらこの事件は終わりになると思います。ご協力、感謝致します」
 山下は、死体遺棄事件の調査にもかかわらず、爽やかに自転車で去った。
「犬や猫って気持ち悪い」
理子の独り言が聞こえた。

 夜、理子はこっそりと家を抜け出し、三十分ほどして戻ってきた。僕は寝た振りをしていた。理子はたまにそうやって家を抜け出し、タバコをふかしていた。
 しかし、それから毎日、彼女は深夜に家から抜け出した。僕は理子にその理由が訊けなかった。朝の理子はいつもとまったく変わらなかったのである。

 しばらく経って、山下がやってきた。
「実は、山狩りをすることになります」
「ええ!」
 山下の話はこうだった。他県で、生まれて間もない赤ん坊が誘拐された。被害届けが出ていたので、バス停の死体を調べたところ、血液型が一致。そして、DNA鑑定により誘拐された赤ん坊に間違いないとの結果になった。
「そういうわけで、明日は山狩りをすることになりました」
「そんな大事になるなんてねぇ」
「本部も明日は来るんですよ」
「土地感の見せどころですね」
「勘弁してくださいって」
山下が笑い、僕も笑った。理子は静かに微笑んだ。


 また理子が消えた。家の周りには、タバコのにおいも理子の影もなかった。夜明け前に見つけなくては。今日は山狩りなのだ。
 シャッターを下ろしたまま店の明かりをつけた。理子はいない。店内を見回すし、学童ノートが目に止まる。
「これ……」
あの日、理子が閉じたノートを思い出す。ノートは電話台の下のスペースに、あった。「宝の地図」はよく見ると単純な暗号でできていた。四角は人家、丸はバス停、三角は炭焼き小屋や山小屋。無秩序に並ぶ数字の中に、ただ一文字だけの数字がある。「9」これは、山にたった一本しかないクルミの木だ。僕は走った。

 理子はクルミの木の下で、泥まみれで何かを抱いていた。
「理子!」
足ががくがくする。全力疾走したからではない。
「あれ? 見つかっちゃった」
理子はケラケラと笑った。帰ろう、そう言おうとして手を伸ばしたが、理子は手を払った。
「この子に触らないで」
「この子?」
「理恵よ」
理子は白い塊を抱きしめた。山下の話を思い出した。今更吐き気がする。
「あの子も、お前がやったのか?」
頭がぐらぐらする。
「ううん」
「じゃあ、それは?」
「私と恵一の子、理恵よ

 恵一は前の彼氏なの。別れるとき、妊娠のことを言わなかった。だって、絶対に堕ろせって言うもの。誰にもばれないよう、お腹が目立たないうちに会社を辞めたわ。」
暗闇の中で、理子の抱く骨と、よく動く彼女の歯と何も写っていない目だけがきらきらと光っていた。

「誰にも触らせたくなかったから、バスルームで一人で産んだ。でも、理恵は鳴かなかったの。

怖くなって、この山に捨てようとした。でも思い直して迎えに行ったら、理恵が野犬に囲まれていた。夢中で追い払ったわ。犬がいなくなって理恵を抱きしめると、理恵が涙をを流していた。赤い涙を。目玉なんか落ちくぼんでいたわ。口も空きっぱなしで、顔を真っ赤にして泣いていたの。どんなにあやしても泣きやまなかった。だから、おもちゃを与えれば泣きやむかと思った。それでこの木を思い出したの。ここだったら実もなるし人も来るわ。

 おまわりさんの話を聞いてから、ずっと嫌な予感がしていて、それが当たった。山狩りなんかして理恵が見つかったらもう会えなくなる。理恵と逃げる。理恵は、恵一から最後にもらったの」


 理子は上目使いで僕を見た。
「ねえ、まだ『ケーイチ』が好きなの?」
涙でかすむ目で理子を見た。
「幸生、愛してる」
「まだ好きなのかと訊いているんだ」
声を荒げる。
「ごめん、さよなら」
理子はさびしげな顔をしていた。
何度も意味の無い言葉を叫んだ。    


 僕はかわいい奥さんに逃げられた万屋の主人として、今日も消しゴムや干物を売っている。事件は、手がかりが見つからず、迷宮入りしそうと言うこと。

 あれから、何度かくるみの木の下へ行った。最初の数回は本当に気分が悪くなった。そのうち、理子を思い出し涙が流れるようになった。



 君にひとつだけ嫌味を言う。
「僕は男だから、子供が産めないよ」
 両親を失った僕にも、君の悲しみだけは理解できない。好きな人の子供を産んで喜びを知ることも、悲しみを知ることも、幸せを感じることも僕にはどうしてもできない。宝の地図を持つ君をただうらやましく思うだけ。

でも、僕にも抱きしめたいものはあったんだ。


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Entry5

竹林の幽霊

 中津村から相模川へ降りる山の斜面に久昌寺はあり、その周辺にはりっぱな竹林が広がっていた。
 そろそろ竹の子が旬を迎える時期とあって、寺の者をはじめ、近隣の多くの者が竹林へ入ってゆくはずだったが、今年はそうはいかなかった。
「幽霊がでるんだと。」
 ミノリは縁側で足をくずし、柱に寄りかかりながら物憂げにケンタの話を聞いていた。
「斉藤んとこのじいさんが、寄り合いから酒を飲んで帰った夜、六倉坂で聞いた、ってんだ。」
 ケンタは山十の家には出入り禁止になっていたが、この話がミノリの興味を引くに十分な話題であることを知っており、わざわざ忍びこんできたのだった。
 ミノリは中津村一番の富農、山十家の長女で、きつい顔立ちではあるが美しく、頭の良さでは帝大に入った長男にも勝るのでは、と噂されるほどだった。
 ケンタはというと、父親が興行師で派手な生活を送っていたため、ミノリも同じではあったが、14歳という年の割にはませており、世間の噂にも詳しかった。
 ミノリの父、久則は横浜にまで名を知られるほど絹の商いには精通していたので、養蚕で生計をたてる者が多いこの村では、ミノリやケンタのことを鼻つまみ者ともてあましながらも、それをはっきりと口にする者はいなかった。
 山十久則は、先妻であるミノリの母が早くに逝ったこともあり、ミノリには甘かったのだが、さすがにケンタのような者と悪さをするのには閉口しており、ケンタの出入りを禁じたのだった。
「坂の途中、竹林の中で声を聞いたんだってさ。うらめしげに、すすり泣く女の声だとよ。」
 さらにケンタは縁側に手を付くと、ミノリのほうへ身をのりだすように、その数日前にもやはり、夜、そこを通った別の者が、女の苦しげな声を聞いていたんだ、と説明した。
 ミノリは、ぼうと柱に寄りかかり、ケンタの話を聞きながら六倉坂を思い出していた。
 それは急な下り坂で、大きくうねりながら、久昌寺の横をすり抜けると、相模川河川敷へと出るのだった。
(そういえば、周りは竹ばっかり、墓もたくさんあるし、昼間でも薄暗かったわね。)
 そこへ子守りのスズが、その背に産まれたばかりのミノリとは母の違う妹を連れてやってきた。
「ケンタさん、あんた見つかったら怒られるわよ。」
 ミノリはスズへ一瞥をくれると、竹林の幽霊の話をしてんのよ、と横柄に言った。
「ああ、知ってますよ。」
 スズがそう言ってはみせたが、平静を装っている風なのにミノリは気づいた。
「スズ、あんた、今度実家に帰るそうじゃないの。」
 スズは来月、宮大工の家へ嫁入りすることが決まっており、ミノリの父は新しい子守りをすでに見つけていたのだ。
「ねえ、ケンタ、久昌寺には確か若い坊主がいなかったかしら。」
 ミノリはついこの間の法事を思い出した。やけに男栄えのする坊主だと思い、覚えていたのだ。
「いるよ、半原村の農家から預けられた、ってヤツだな。檀家の嫁さんたちに人気があるんだと。」
 ケンタが意味ありげに笑い、ミノリはスズを目で追った。
 スズ、あんたも半原村出身じゃあないか、とミノリは声をかけたが、スズは、いつの間にかミノリの目を避けるように、裏戸の方へと消えていった。
 それから3日後、スズは行方がしれなくなった。半原村のスズの両親が山十家にやって来て、彼女の荷物を引き取るときには、久昌寺の若い坊主も、時を同じくしていなくなっているのがわかっていた。
 数日後、ミノリは家を抜け出し、桑園を駆け抜けると一目散に六倉坂を目差した。
 すでにケンタは坂の入り口におり、ミノリをみつけると手を振った。
「ミノリさんは気がついてたのかい、スズさんとボウズがここで逢引してたって。」
 ミノリとケンタは竹林の中、坂を駆け下りながら息を弾ませた。
「幽霊なんて、あたし、信じないわ。女の苦しげな声、ってやつは男女の事の喘ぎ声に違いないし、すすり泣き、っていうのは分かれ話だろう、って。」
 でもよ、ケンタは少し顔を赤らめながらミノリに話かけた。
「夜とはいえ、灯りを持ってたんだし、なんで二人の姿が見えなかったのかな。」
 ばかね、ただでさえ竹林は暗いのよ、横になってりゃあ、あれだけ足場の悪いとこだもの、くぼみに入ってしまってわかんないわよ、とミノリが言い終えた途端、二人は竹林を抜け、眼下に相模川をのぞく高台へと出た。
「大方、ひょんとしたきっかけで知り合い、同じ村出身ってことで惹かれあうようになったんだろうけど。スズが実家から結婚するよう云われ、思い余ったんじゃあないかしら。」
 ミノリは大きく息を吸った。
「でも馬鹿ね。いくら人目につかないからって夜の竹林で男女の秘め事とはね。肌にキズがつくってもんよ。」
 そう言うとミノリは一気に河川敷へ走り出した。
 ああ、鮎がはねてるわ、ミノリの無邪気な声にケンタはあわてて追いかけていったが、走る彼女の白い足が妙に気になって、どきどきした。
 男と女のことは、女遊びのはげしい父を通して知ってはいたが、今回のスズとボウズのかけおち騒ぎは、ケンタにある種の思いを抱かせた。
 そんなケンタの思いをかき消すように、ミノリは乱暴に足元の小石を拾いあげると川面に向かって投げつけ、ケンタもマネをした。
 しばらくの間、ふたりはめちゃくちゃに石を投げつづけ、水がうねるのを見続けていた。


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Entry6

paperback

「どこで何してんのよ。約束したじゃない!」
「うっせーなぁ。じゃあさ、お前もこいよ、競馬場。絶対当たるから、俺に任せろよ。なっ?だから金持って…」
亮子は携帯を切ると、ベッドに放り投げた。そこへ、亮子の母が部屋へ入ってきた。
「おや?出かけたんじゃなかったの?こんな天気のいい日に、もったいないねえ」
亮子は、唇を尖らせてハンガーからブルゾンをはぎとると、足早に階段を駆け下りていった。

川沿いの道を歩いていると、手前に見える公園に、人だかりができていた。
前から近づいてきた女性が笑みを浮かべて、チラシを亮子に手渡した。
そこには、今公園で行われている、フリーマーケットの告知が記されていた。
亮子は、立ち寄ることにしてみた。衣服を始め、アクセサリーや子供の玩具など、
ありとあらゆるものが商品として各シートに座る売り子たちの前に、所狭しと広げられている。
亮子は、見ているだけで楽しい気分になっていた。
そんな中、初老の婦人が静かに座っている場所に出くわした。
かなりの読書好きなのであろう、多くの小説が並べられていた。小説くらいなら買ってもいいか、
と亮子は思った。綺麗に陳列された背表紙から、ふと視線を上げると、老婦人の足元に一冊、
黒く光る表紙に鮮明な紅いリボンが十字に掛けられている本が目に入った。
亮子は、老婦人に声を掛けた。
「おばあちゃん、その本も売り物?」
「ああ、これかい。これはね、誰にでも薦められるもんじゃない。娘さん、恐い話はお好きかい?
これは、本当に恐ろしいものさ。お金を払ってまで、恐い体験をしたいっていうのなら、譲ってもいいがね」
「ふーん。そこまでいうなら、読んでみるわ。いくらかしら?」
「娘さんが、恐い体験の代償に払ってもいいって金額を出してくれりゃ、いくらでも構わんよ」
「おばあちゃん、商売上手ね、でもフリマだもん、300円でどお?」
「はいはい、では」老婦人は、その漆黒の文庫本を紙袋に入れると、亮子に手渡した。
早速、部屋に戻ってリボンをほどき、本を開いてみると、中味は全てどのページも真っ黒なだけで、
文字なんてひとつも見あたらなかった。透かしたり、こすったりもしてみたが、なんの変化もなかった。
やられたと思いながらも、しばらく指先で頁をぱらぱらとめくっていると、一瞬何かが見えた気がした。
もう一度、反対側から繰り返してみた。すると、まるでパラパラマンガのように、ぼんやりと何かが浮かび上がってきた。
「なんだろ?」凝視していると、急に人間の目蓋のようなものがひとつ浮かび上がったかと思うと、
カッと見開いて亮子を睨み付けた。亮子は、思わずその本を投げ出してしまった。

翌日、亮子は友人達と学食で話をしていた。亮子の横に座っていた雅美が話し始めた。
「昨日ね、彼氏と行ったのよ、あの映画。原作がすっごい好きだったから、もう期待して。
そしたらさ、違うのよね。なんか」「もう観たの?」「あたしも観たーい、あれ」
亮子が口を開いた。「小説を読んで自分の頭で創造するイメージは、自分にとって一番合うものを
選んでるからいいのであって、映画みたいに誰かの想像をヴィジュアル化したものだと、
それと自分のイメージが合わなかったら、つまらないのよ」
雅美が続けた。「亮子も行ったんじゃないの?」
「それがさ、ドタキャン食らっちゃって。で、近くの公園のフリマでさ、変な本買ったの」
亮子は、老婦人とのやりとりを話した。
「面白そうじゃん、それ。じゃあ、あたしが亮子から、その本を5000円で買うよ。で後で、
もう一度そのお金で買い戻してよ、ね。いいでしょ。だからさ、明日持ってきてよ、その本」
次の日、亮子はお金と引き替えに雅美にその本を手渡した。その夜、雅美は部屋で亮子の言ったように、
ぱらぱらと本のページをめくってみたが、何も起こらなかった。「そんなわけ、ないじゃん」
その時、玄関のチャイムが鳴った。雅美は、思わず息を飲んだ。チャイムは、2回3回と、鳴り続けた。
続いて、ドアノブがガチャガチャと回り始めた。雅美は恐怖に震えた。

次の日、雅美は大学に姿を現さなかった。亮子はとても心配していた。
携帯に連絡を入れてみたが、あいにく留守電だった。その夜、亮子が部屋でベッドに寝そべっていると、
携帯が鳴り出した。雅美からだった。
「ごめんね。昨日の夜中、急にタカシのヤツが酔っ払って来てさ、それで朝起きれなくて。バイトもあったし。
で、あの本だけどさ、やっぱ、なんもないよ。だから、明日返すね、うん、じゃあ」
亮子は、雅美の声を聞いて安心した。雅美は、バイトの帰り道、コンビニで買い物を済ませて、
自分のマンションへと歩いていた。すると、前から無灯火の自転車が走ってきた。雅美の横を
通り過ぎたかと思うと、後ろでブレーキの音がした。チェーンのノイズがだんだん近づいてくる。
雅美が、後ろを振り返ろうとしたその時、また横をすり抜けて行った。
「痛っ!」雅美は、自分の肩の辺りに鋭い痛みを感じた。反射的に、反対の手で押さえた指の間から、
じんじんと痛みを伴って、熱い鮮血がにじみ出てきた。思わず、その場に座り込んだ雅美に、その自転車は
もう一度、前から走ってきた。彼女が悲鳴を上げたとき、横道から車がライトを照らした。
自転車は、その光から逃げるように、闇へと姿を消した。路上に倒れる雅美の姿を見たその運転手は、
慌てて車から降りてきた。

連絡を受けた亮子は、病院へと急いだ。雅美は、病室のベッドで震えていた。
「これって、あの本のせいなの?恐いよ、どうしよう。ねぇ、亮子」
雅美は、かばんを開けると「今すぐ持って帰って、あの本」と、マンションの鍵を手渡した。
亮子は雅美の部屋からあの本を持ち出し、テーブルの上にお金を置いてまた、病室に鍵を返しに行くと、
雅美は眠っていた。亮子は、病院から原付を飛ばして、近くの海岸まで走った。
堤防の先端まで行き、本を海に投げ捨てようとしたが、なぜかできずに結局、また家に持って帰った。
部屋で眠れずにぼーっとしていると、携帯が鳴った。
「近くまで来てんだけど、会えない?」彼の声は、近くのファミレスの名を告げた。
亮子は嬉しかった。足早に出かけると、彼は会うなり「ごめん、悪いけどさ、ちょっと金貸してくんない?」
「えぇ?またぁ?こないだも貸してあげたじゃない!」
「だから悪いけど、っていってんじゃんかよ。まぁ聞けよ、今日のレースでさ」
「もう貸せるようなお金、ないわよ」
舌打ちをして、タバコを取ろうとした彼は、亮子の本に気づいた。
「なんだよ。それ」「え?」「その本だよ。真っ黒の。リボンなんか掛けて」
「あ、これ?危険なの。捨てようと思って」
「捨てる?とてもそんな風には、見えねえけどな」と、亮子からその本を奪った。
「ちょっと何すんのよ、返して」
「おれが捨ててきてやるよ」「いいわよ」
「おれをだまそうったって、そうはいかねえ。おれは、そんなにばかじゃねえんだ」
「やめて、返してよ」
「よっぽど、大事みたいじゃねえか。こいつは、おれが預かっとくから。こないだ借りた分、返してやるよ。ほら」
彼は、ポケットから壱万円札を一枚取り出すと、亮子に投げつけた。
「この本を返して欲しかったら、それ以上の金、持ってこいよ。そしたら、考えてやるよ」
そう言い終わらないうちに彼は、店を出ていった。
亮子は、席で大きなため息をつくと、なぜか笑いがこみあげてきた。


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Entry7

水中教授

 アホ山学院大学の水中透(みずなかとおる)教授(43)は海洋動物の研究のかたわら、人間が水の中で暮らせるか実験調査してきた。海洋動物の呼吸の仕組みを解明した結果、既存の酸素ボンベの性能を飛躍的に改良することに成功したのが1年前。以来教授は家族と共に自宅のプールの中で生活してきたことが最近明らかになった。本誌は自ら進んで実験材料となった水中教授との接触に成功し、インタビューを行なった。

Q:どんな動機で水の中の生活をはじめたのですか。

水中:私は以前から水の中にいると非常に落ち着くのです。小さい頃から海が大好きでしたし、学生時代もずっと水泳部でした。それがこうじてか、海に関する勉強をはじめまして、その魅力にずっと取りつかれていました。そして、私の研究室でだれかが水の中で生活できるか実験しようという話になったとき、じゃあ私がやろうとすぐに思いました。でも皆は冗談で言っていたらしく、実際私たち家族がそれをはじめたときはずいぶん心配していたようです。

Q:水の中の生活をはじめるにあたって、ご家族は反対されなかったんですか。

水中:全くありませんでした。うちには子供が二人いて、上が中1の男の子、下が小4の女の子なんですが、二人とも私に似て水泳が好きなものですから、話をした時ははしゃいでいましたね。子供たちは学校があるので、朝起きると水からあがって着替えています。これは水陸両用生活の実験を兼ねることになりますので、私としても非常に都合が良かったです。妻も意外なことに全然反対しませんでした。でも、ずっと水着でいるのかと心配そうに訊いてきましたので、水の中は案外寒いからセーターでも着ていないとだめなんだと答えると安心していました。

Q:実際の暮らしぶりを教えてください。

水中:ずっと水の中に潜っていますので、酸素ボンベを背負って生活しています。これでだいたい2週間は持ちますね。期限が近づくと助手が交換用のを4人分持ってきてくれます。食事は…妻が水の中じゃ火が使えないと文句を言うのですが、それはあきらめてもらっています。代わりに防水電子レンジを研究室で作らせたので、それで料理をさせています。しかし最初の頃、レトルトカレーを食べようとしたことがあったのですが、プール内に広がって大変でした。水がきれいになるまでしばらくかかってしまいました。
 また、子供たちが、ポテトチップスを食べる時湿っておいしくないというので、陸にいるときにでも食べろと私は言っておきました。ところが、学校の授業中に長男がそれを食べていたようで、担任の先生から苦情の電話がありました。それでも私はプールの中の水中電話を使うものですから、向こうに「ブクブク」と水の音が聞こえてしまったようです。次の日息子は先生に「お父さんお風呂で電話してたの?」と訊かれたそうです。冷や汗が出ました。(水の冷たさを感じたのかもしれません)。

Q:では、水の中からあがることは全くないのですか。

水中:今までで一回だけありました。好物のあじのフライを食べ過ぎて、下痢になってしまったときに、仕方がないので一晩だけプール脇のベンチで眠りました。(また例のカレーみたいになってしまうと大変ですからね…あ、これは入れないで下さい)。私はその時しか陸にあがっていません。妻は買い物がありますので、2日に一遍くらいは水から出ています。子供たちは、さっきも言いましたけど、学校の日はちゃんと水から上がって学校に行っています。

Q:水の中で生活していて良かったことはありますか。

水中:そうですね、雨に濡れないことでしょうか……。今のは冗談ですけど、水中で暮らし始めて、私たち家族は一度も病気をしていません。(強いて病気と言えるのは例の私の下痢くらいなものです)。昔から、水泳は全身の筋肉をくまなく使う、最も良い運動であると言われてますけれど、確かに子供たちもずいぶん体力がついてたくましくなったと思います。あと、ふろに入らなくていいので嬉しいですね。プールには自然に反する塩素系の薬品は少しも入れてませんし、常に水を少しずつ交換していますから体を洗う必要は全くありません。あと、この一年間大学で一度も授業をしなくてよかったので、それも嬉しかったです。

Q:何もない水の中にいると退屈しませんか。

水中:退屈したことはほとんどありません。水の中で毎晩、助手に作らせた防水パソコンでインターネットをしています。私が「これこそまさにネットサーフィンだ」と喜んでいましたところ、妻に「ネットダイビングよ」と言われてしまいました。とにかく毎日そんな具合でして、テレビを見たり、研究室で決めた実験をしてから例のパソコンで論文を作ったりと、なかなか充実した毎日です。
 そういえば、防水パソコンは今後どこでもパソコンを使う必要のある人にとって必需品になると思われます。例えば風呂なんかでノートパソコンを使えたら便利ですからね。それで我が研究室では防水パソコンの特許を申請中です。(認可が下りたらおたくで宣伝お願いできませんか?)。

Q:プールには魚を飼っていると聞きましたが。

水中:はい。今飼っているのは、鯉、金魚、メダカ、イワナ、ヤマメなどの淡水魚です。しかもわりと小さな魚ばかり飼っています。私は研究上ピラニアやブラックバスなどを飼いたかったのですが、家族が反対したのであきらめました。また、ナマズやウナギを飼おうかと思ったのですが、妻の猛反対によって頓挫しました。いつも子供たちは魚にくっついて泳いでいますし、私も魚を追いかけて素手で捕まえたりしますから、魚も案外私たちの生活に楽しみを与えてくれています。でも本来は、生態研究のために魚たちと一緒に暮らしているんですけどね。

Q:いままで他に何か困ったことはありませんでしたか。

水中:私の両親も妻の両親もひどく心配しましてね(当たり前ですけど)、早く普通の生活に戻れと言ってきました。説得するのはかなり大変でした。
 そういえば、寒波が来た1月の下旬にプールに氷が張ったんですが、この氷がとても厚くて、とけるまでの一週間ぐらい子供たちは学校に行けませんでした。私たちは皆特殊な服を着ていますから、寒さなどは平気なのですが、さすがにこの時はどこにも行けず、魚たちと一緒にプールの底でじっとしていました。


プロフィール
水中透(みずなかとおる)
1957年生まれ。福岡県北九州市出身。1980年頭狂(とうきょう)大学理工学部卒業。同年、国立海洋研究所に入所。1990年、研究成果を認められ、アホ山学院大学で教鞭を取るようになる。1998年、同大学教授に就任。


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Entry8

バニラ

彼女の指先は、バニラの匂いがした。
そもそも部屋中が甘い匂いでいっぱいだった。そういえばさっき、思いついてクッキーを焼いてみたとか言っていたっけ。意外に少女趣味があるわけだ。…というか、女ってたいてい、「思いついてクッキーを焼いて」みたりするものだ。
多分、あまり見栄えが良いわけではない手作りのクッキー。ちょっと固かったりするに違いない。振る舞われる方もすすめる方も、多少気恥ずかしくなりながら口に運んで、それでやっぱり笑顔で言うんだろう。「おいしい」って。
しかし恋愛の一シーンとしてはよくある光景であり、定番を演ずるのも大して悪気はしない。恋することの快楽とは、実は定番を演じ切ることにあるのかも知れない。大昔から繰り返されてきた、愚かしくも哀しい、人間の行動パターン。
恋することは、そんなにも「人間」であるような自分を再発見する機会であるのかも知れない。

「さっき、レンタルビデオ屋に行ってきたの。」と、洋服を再び身につけた彼女が言った。化粧がいささか乱れている。
「この前、車で大きなスーパーに連れてってもらったでしょ。あのスーパーの横の坂道をずっと上って行ったところに、ビデオ屋があるって分かって行ってみたんだ。自転車で。」
「自転車で?」僕はちょっと笑って聞き返す。あの坂、そんなに急なわけではなかったけれど、延々と続いて結構先が長かったはずだ。
「うん。かなりキツかった。何とか頂上まで上り切って、ちょっとだけ下ったところでようやく着いたんだけど。」彼女も笑顔になって答える。
「そのビデオ屋がね、あれだったの。ほら、昔のわたしの部屋から坂道を下って行ったところにあったでしょ。あのビデオ屋と同じ系列のだったわけ。」
「ああ、あの、ピンクっぽい外装の?」
「ピンク?ええと、ピンクよりはむしろオレンジだった気がするんだけど。」
外装の色に関する見解は分かれたものの、彼女の説明と、僕の記憶の中にある「昔の彼女の部屋」の近くにあったビデオ屋との姿は重ならないではなかった。ほら、あの、入り口のすぐ右手に2階に上がる階段があって。ビデオは全部2階にあって、1階にはCDやらゲームソフトやらがある。それは作りが似てるだけで、別に系列ってわけではないんじゃないの、と僕は反論しかけて止めた。どっちだっていいことかも知れないと思い直したからだ。ひと気のない2階で、どこかで映画の音だけ流してるみたいで、ギャング映画みたいな凄みのある男の声が聞こえててちょっと怖かった、と彼女は肩をすくめて笑っていた。シャギーを入れた黒髪が肩先で揺れた。

学生時代に彼女が住んでいた部屋は、「星坂通り」という名の緩やかな坂道の中腹にあった。彼女に知り合う以前から僕は、自転車で何度かその坂道を通っていた。彼女と付き合うようになって、坂道の途中で自転車を止めては、四角い小さな部屋に上がり込むことになった。今まで何度もここをただ通り過ぎていたのに、と思うと不思議な気がしたものだ。
自転車の後ろに彼女を乗っけて、坂を下っていったところにあるビデオ屋で、初めて借りたのは確か『恋する惑星』だった。ビデオを見ながらつい僕は寝入ってしまい、結局ストーリーが分からなくなって、彼女の手前、さすがにちょっと慌てた。付き合い出してまだ日が浅かった頃のことだ。彼女は当然いささか機嫌を損ね、僕は後日、また同じビデオを借り出して、今度は家に帰って自分一人でそれを見た。そして見た感想を長文のメールにまとめて彼女に送信し(まるで大学の教官にレポートを提出するような具合だった)、やっと彼女の怒りも解けたような次第だった。
僕がそんな昔のことを思い出していると、彼女が突然言った。
「オレンジといえば、わたし、あそこのビデオ屋で『時計じかけのオレンジ』を借りて見たことがあった。あなたと付き合い出してからだったけど、ひとりで。」
「え?」ふいをつかれて聞き返した。
「そう、ひとりで。」僕と一緒に見なかったことをとがめられていると思ったのか、彼女はちょっと首をすくめて視線を外した。「オレンジ」というのは、さっきの外装の色の話のことだと僕は遅れて理解したが、しかし彼女が何を言おうとしているのかよく分からなかった。
「それでね、さっきのエッチのとき、ちょっとその映画のこと思い出したりしたんだ。」
「えっ?」僕はまたも聞き返した。彼女は顔を赤くした。僕はなおも追求しようとしたが、彼女が「いいのいいの」と笑ってはぐらかしてしまった。そこで僕の頭には別の疑問が生まれた。一体今日は彼女は何のビデオを借りに行ったんだろう。
「ところで、さっきは何を借りに行ったの?」
「ううん、何も借りなかったの。特に見たいものがあったわけじゃないし。」彼女は少し真顔に戻ってそう言い、そしてまた視線をそらして付け加えた。
「それに何ていうか、あれだけ坂道を上って下ってしただけで、何となく満足しちゃったんだよね。」
そして今度は僕の顔を見てわずかに微笑んだ。えっ、と僕はまたも聞き返しそうになり、やめた。今日の彼女は何かいつもと違う。

坂道と言えば、最近読んだ純文学の小説に出てきた話が頭にある。
上り坂と下り坂、どっちが多い?−そんな謎々が主人公の子供の頃あったという。同じ、というのが答えである。結局、坂道の上り下りは、自分が上っているか下っているかの立場に依存する恣意的な問題なのであるから。
そして主人公の男は、血気盛んな青年であった頃、その謎に自分なりの別回答を見出して悦に入ったという。−坂を1つ上るか下るかしたところで死んだら、人生において1つ分だけ、上りまたは下りの坂が多かったということにはならないか。−そして現在、そう語る男は老年の入り口にさしかかっていて、死ということについて様々に思いを巡らしたりしているわけなのであるが。
僕はその坂道の話に大して引き付けられたわけではない。僕自身はあまりそういった詭弁にとらわれない性質である。ただ、坂道というのは確かに色々な思いを誘うものであるな、と自分の体験に照らしてみて妙に納得したのはあった。
だから彼女が坂道を嬉々として上り下りしてきた理由も分からないではない。現に僕だって、彼女の話につられて、昔通った懐かしい坂道について何がしかのことを思い出したわけである。
−坂道イコール人生の縮図。−そんなありきたりのフレーズが思い浮かんで、僕は内心自分に苦笑した。

それからいくつか何でもない話をして、ちょっとだけテレビをつけて休日の午後の番組のつまらなさを確認したりして、僕は帰ることになった。今日はそもそもそんな約束だった。夕方から彼女は女友達と飲みに行くのだという。
「じゃあね。」いつものように玄関でキスをしようとして、靴をはいた僕は振り返った。
「じゃあね。」いつものように少し爪先立ちになって、目をつぶって彼女は僕のキスを受けた。
パタン、とドアが閉まる隙間に彼女のほのかな笑顔が見え、次いでバニラの香りがふわっと漂った。
あれ、と僕は初めてそこで気付いた。
−彼女、焼いたはずのクッキーを振る舞わなかったな。

エレベーターで1階まで降りるうちに、ふと「停滞期」という言葉が頭をよぎった。
1階に着いて戸が開き、僕は少し頭を揺すってから歩き出した。
数歩の後、僕はむせかえるような5月の緑に包まれ、まぶし過ぎるほどの午後の日差しがきらきらと僕の頭上に降り注いだ。


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Entry9

『きらきらと夜が降る』

 学校から帰ってきて、部屋で着替えていると、お隣の屋根の上でなにか動くものが見えた。ごきげんのお日様の下で、いつものネコちゃんがひなたぼっこかなー、なんて窓を覗いてみる。
 おっきくなり過ぎたミモザの向こうの赤い屋根。
あ。ネコじゃなかった。
 「なにしてるの? 颯太」
「今夜の準備」
「今夜? なぁに?」
「星が降るんだ。すごいよー、きっと」
 Mなんとかとかとか、外国語を通りこして、呪文みたい。颯太の騒ぎ立ててる言葉の半分も、あたしにはわかんないな。
 ―――どっかから、歌が聞こえる。
そっか。笹のはさらさら。今日は七夕様だったんだ。

 お隣の颯太ちゃんは、あたしより二ヶ月年上の幼なじみ。まさしく生まれる前からのお付き合いだけど、その頭脳の中身には著しい差が仕込まれていたみたい。
 理数系に傾くアタマの颯太の最近は、テッテイテキな天文少年。小学生の頃からお父さんと一緒に望遠鏡をのぞいたりしてたけど、中学に入ってからはぐんぐんスピードをあげて、ますますその道一直線になっちゃった。
 星の名前だけじゃなくて、なんだか複雑そうなカタカナをたくさん口走る。
カシオペアとかプレアデスとか、そういう神話の世界とはまったく関係がないらしくて、そうなっちゃうと、あたしはもう全然ついていけてない。
 だけど結構、耳を通り過ぎてく、むずかしい言葉は好きかも知れない。
わかんないけど。そういう時の颯太かな。
うーん。男のロマンってやつかなー、って。

 ほっておこうと思ったけど、やっぱり屋根に上がってみることにした。
空から星が降るって言うのに、あたしが寝てるってわけにはやっぱりいかないかな、とか。
 屋根の真ん中辺りに、颯太は望遠鏡を隣に座っていた。元はおじさんのものだったけど、いまではすっかり颯太が譲り受けちゃってる。まぁ、大切にしてるし、家族のだれかが、使えばいいんだろうけどね。
 「あれ。出てくる気になったんだ。
「すごいって言ったでしょ。ハイ、これ。おかーさんから差し入れ」
「やった。ほんとおなかすくんだよ。おばさんが一番、わかってる」
 長い付き合いだもん。それくらい、あたしだってわかってる。だからちゃんと、おかーさんと一緒に、それ包んできたんだから。
 そのパウンドケーキと交換に、颯太は食糧袋の中から、コーラをわけてくれた。
ぷしゅっという音と、はじける匂い。
そんなに暑くない夜で良かった。風かあって良かった。雲がひとつもないのも、いいよね。観測日和。
 それに、一年に一度のデートだもん。きれいな星の中が似合ってる。
 そうだ。ここからなら。
ずるずると這うように、屋根の上を移動する。傾斜はかなりゆるやかなんだけど、昼間ならともかく、暗い中で立ち上がる勇気はちょっとない。よく高いところでも、下を見なければ平気だとか言うけど、真っ暗闇に落ちていくのを想像する方が怖いと思うんだ、あたしは。
 「あー。見えるー」
「なにが?」
「ほら、願いごと下がってる。幼稚園の笹。なつかしー。颯太、おつきさまにいきたいって書いたんだよねー」
「そんなにはしっこに行くと落ちるよ、舞」
「だいじょーぶ」
 そよそよな風が、笹を揺らしてる。夜の中でも見えるのは、こどもたちが作った、金銀の飾り。
先生のキレイな提灯の横に、ちっちゃな手ががんばって作ったのが下がってる。空に近い方が願いごとがかなう気がして。みんないちばん上につけたがってた。
 あのクレヨンの字は、ちゃんとだれかに届いたのかな。
 「昼に歌が聞こえた。七夕のやつ」
「うん、あたしも聞いたー。二番の方が好き、あたし」
 お星様きらきら。空から見てる。
 ほんと、そうだなって思っちゃう。吸い込まれそうな、遠い夜空の星。
夏の大三角くらいなら、あたしにもわかる。白鳥座とこと座と、天の川を挟んで、わし座でしょ。おりひめとひこぼしは、あれとあれ。
 星の色が違う理由とか、颯太がまえに話してたけど、やっぱり覚えてない。違うほうが、同じよりもきれいでいいじゃないって、神様がそう創ったわけじゃないみたいなんだけど。
 目が慣れてくると、どんどん小さな星も見えてくるのが楽しい。突然、知ってる星座の形が浮かび上がるように見えるのも。
 昔の人はすごいなー。こんな満天の星のなかから、あんな風にキレイに星座をつないじゃうんだから。だって、今よりもずっとたくさん、見えていた時代でしょ?
 あぁ、でもこんなに空ばかり見てると、空がどんどん近づくみたい。自分が座ってるのがどこかなんて、わかんなくなっちゃいそう。
……心細いような気がして、隣を振り返る。鼻歌まじりのぞいていた望遠鏡から目を離して、颯太は、
 「あれ」
なんて空を指差した。
「あそこの一等星、の横の少し色の違う星から、指いっぽんくらいのところの小さい星」
「うん?」
「五十年後にあそこに行くと、今の地球が見えるんだって」
「ほんと? なんで?」
「あそこからここまで光が届くのに五十年かかるんだ。今、ぼくたちが見てるあの星の光も、五十年前の光」
 五十年・・・・・・、くらい、きっと宇宙ではなんてことないはず。星の瞬きに比べれば、なんて言葉があるくらいだもの。
だけど、あたしの感覚では。だって、光の速さでってことでしょ?
 「だから、宇宙船に乗ったぼくたちがワープして時間を越えて行けばいいんだよ。そうすると、あの星には、五十年かかって地球の姿が届いているってこと」
 時間を越えて。
「・・・・・・そんなことほんとにできるんだ」
「できるようになるよ」
 こんな広い空の下に転がっていると、その颯太の言葉がカンタンに信じられると思った。あんな、点みたいなきらきら星に、本当に手が届くようになるんだなーって。
空を飛んで、宇宙に出るの。
五十年の時間を旅する船に乗って、あの小さな星から地球を探して・・・・・・。
 「あたしたちも見える? あの星に立ったら、五十年前の」
「スゴイ望遠鏡ができたらね」
「できるの?」
「うん」
 こうして見上げるあの宇宙を、いつかあたしたちも旅をする。
宙の向こうから、星の光。きらきらの光が空にいっぱい。
 ずっと願いごとを唱え続けていたら、どこかの空の流れ星に届くかな。消えるまでに三回。三回唱えたことはほんとになるんだよね。
あぁ、だけど、願いごとなんて。この空を見てるだけで、叶ってる気がする。
 「この光も、長い旅をしてきたんだね」
「うん、すごいだろうなぁ」
 宙の旅は、どんな気分なんだろう。
真っ暗な闇に、やっぱり底はないのかな。
今のあたしたちも、長い長い旅をして、遠い星に届くんだ。
五十年後。あの星のおっきな望遠鏡で、地球の今を見る颯太と一緒にあたしがいたら、スゴイ。
ふしぎ。そうだ、手を振っておこう。
 あ、七夕の短冊。
おつきさまにいきたい颯太の横で、あたしは、おほしさまにのりたいなんて書いたこと。
いま、思い出した。


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Entry10

打ち寄せる波の音は胸の鼓動にも似て

「捨てる」なんて言い方は嫌いだった。
「あげる」とか「捧げる」なんて、演歌の世界じゃあるまいし。
「やっちゃう」なんて軽すぎるし、「結ばれる」なんてなんだか大袈裟。
 そもそも、処女じゃなくなったって私はワタシ。何も変わらない……はずなんだから。

「有希ちゃん。今度の連休、どっか旅行に行かない?」
「はぁ!?」
 学校からの帰り道。いつものように公園のベンチでふたり、お喋りしてたらふと会話が途切れてお互いに見つめ合っちゃったりなんかして(こういうのって「天使が通る」って言うんだよね)思わず頬を赤らめて下を向いたところでそんな事急に言われて、鳩が豆鉄砲くらったみたいな顔になってただろうなぁ、ワタシ。いや、きっとなってた。
 ワタシを旅行に誘った男の名は柏木佑二。いちおうワタシのカレシ歴約半年ってとこ。佑二はとなり町にある男子校の二年生。ワタシが友達と佑二の学校の文化祭に遊びに行って(女子校に通うワタシは、こうでもしないと男の子と知り合う機会がなかなか無いのであった)屋台で汗をダラダラ流しながら一心不乱にタコ焼きを焼いていた佑二に一目惚れしちゃったってのが、去年の秋の話し。ヨクアルハナシカモネ。
 で、ワタシの学校の文化祭にも呼んで、可愛いフリフリのチェックのエプロンで悩殺しました。余談ですが、その時、ワタシ達の他にもうひと組フレッシュなカップルがこの世に誕生したはず……なんですが、文化祭が終わり、気温が下がると共にお互いの熱も冷め、あっけなく空中分解してしまいました。合掌。
 そーゆー話しは置いといて旅行の話。ワタシも恋する十七歳の乙女。悩みました。佑二とはキッス(きゃあ)はとっくに済ませてはいたんだけど、そっから先はデンジャラス・ゾーン、未知との遭遇……。
 まぁ、ちょっとくらいはね。佑二だって健康な十七歳の男子。我慢ばっかりじゃ蛇の生殺しって事くらいはワタシにだってわかります。ワタシのいたいけなAカップは切なく震えました。はぁー。
 が!でも!しかし!
 旅行となったらやっぱりアレでしょ?泊まるんだもんね。一緒の布団で練るんだもんね。って事は、それなりの覚悟ってのが必要になるよね?
 いつかはこんな日が来るのはわかってた。
 だって佑二ったら最近はふたりでデートしててもなんだかソワソワしちゃって、やたらと人気の無い公園とか河原とかに行きたがって「寒いから帰ろうよー」ってワタシが言っても「いや、なんだか俺は暑くって。熱でもあるのかなぁ」なんて訳わかんないいかにも怪しい言い訳をして、その目はまるで獲物を狙う獣のようだったりするとワタシは少し興醒めしてしまう。スケベ。
 でもね、ワタシだって佑二の事が大好きなんだ。
 だからワタシは決心しました!黄金週間はどこの宿もトーゼン一杯でお互いに家族旅行だの何だのイベントが入っていた事もあり、連休の最後の二日間で行こう!って事でありとあらゆる手を使って宿を探しまくりで頑張った結果、たぶん普段はお年寄りと犬くらいしかいないんだろうな……と思われるとある海辺の民宿(!)の予約ゲットに成功したのでした。ラッキー!?
 親には必死こいて言い訳してなんとか家を出て来たけど、もう心臓は破裂しそうなくらいバクバクいってた。それは佑二も同じだったみたいで、電車の中でもお互いにそのへんの話題はわざとらしいくらいに避けてた。きっと佑二もワタシと同じくらいのたくさんの嘘をついたんだろうなぁって思ったら、ものすごく胸が苦しくなって手に持っていた冷たい中国茶のペットボトルをがぶ飲みしたらむせて咳き込んじゃった。バカだねー。
 電車は何事も無かったように駅に着いて、ワタシ達をホームに吐き出した。ビックリした事に、改札を出たら宿のおじさんがワタシ達をライトバンで迎えに来てくれていて(民宿の名前が車の横にデカデカと書かれてあったのですぐにわかったのよ)お言葉に甘えて乗せてもらったら、ほんの五分くらいで宿に着いた。
 ちなみに、宿の名前は「さんぺい丸」。男らしくて涙が出そう。
 宿は掃除も行き届いていてなかなかイイ感じ。部屋の窓からは海が一望できて、そのお陰で壁にかけられた鏡にたぶん近所の商店街の薬局であろう店の名前が刻まれていようとも、小さな床の間に飾られた掛け軸に訳わかんない文字が書かれていようとも、全然気にならない。
「なかなかいい所じゃん。来て良かったねー」
 ワタシがそう言い終わらないうちに、佑二に後ろからそっと抱きすくめられた。「ふたりきり」そう思ったら涙が出そうになった。でも我慢した。
佑二の腕をそっと振りほどいてワタシは笑った。でももしかしたら、その笑顔は不自然に引きつっていたかもしれない。本当は少し怖かった。
 ワタシはカバンの中から持って来たお菓子を出してテーブルの上に広げた。ポテチ、チョコレート、おせんべい、クッキー……。それを見た佑二が「そんなに食べたら晩ごはんが食べられなくなるぞ」って言って笑ったからワタシも「大丈夫。お菓子は別腹なんだよー」って言い返して笑ってお茶を入れた。
 晩ごはんはたしかに宿の値段の割には豪勢で、ふたりでビールを一本だけ飲んだ。ふたりで真っ赤になって妙に酒臭くなってしまったので、少し風にあたって酔いが醒めるのを待ってから順番にお風呂に入った。
 お風呂上がりに宿にあった浴衣を来たら、それを見た佑二はものすごく照れていて、電気を消したら潮の薫りが強くなったような気がした。浴衣なんか着て寝て、朝になったら「裸に帯が一本状態」になってたら恥ずかしいなーなんて思ったけど、佑二に全部脱がされちゃったからそれはいらぬ心配だったし、それよりも心配しなくちゃならない事はシーツを汚さないように腰の下あたりにバスタオルを敷く事だったりする。現実問題として。
 痛かった。
 痛くて痛くてワタシが上へ上へと逃げようとするもんだから、だんだんと布団からはみだして時々佑二に引き戻されて「嬉しい」とか「嫌だ」とか「愛してる」とか考える暇も無かった。終わった後、トイレに行く時足がガニ股になってしまって自分がもう処女では無い事をあらためて実感しちゃったよ、もう。
 部屋に戻ると佑二が心配そうにワタシを待ってた。
「大丈夫?」
 ワタシは黙って頷くと、佑二の横にもぐり込んだ。佑二はそっとワタシの頭をなでて「ありがとう」と言った。それから少しすると佑二の規則正しい寝息が聞こえて来たけど、ワタシはまだ興奮していてとてもじゃないけど眠る事なんて出来ずに打ち寄せる波の音を聴いていた。
 よく、人は死ぬ間際にその人生が走馬灯のように頭の中を駆け巡る……って言うけど、もしそれが本当なんだとしたら、ワタシが死ぬ時にまっ先に思い浮かべるのは今のこの光景なんじゃないかなーって唐突に思った。

 佑二の胸の鼓動と波の音がワタシの中でシンクロする。けれどワタシは何も変わらない。のだ。きっと。


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Entry11

陰陽少年

 夜の風は冷たい。
 幼い頃、なぜかと尋ねた母はこう答えた。
『みんなお家に帰ってしまって、ぬくもりを分けてあげる人がいないからよ』と。
 そう、なのかもしれない。こんな日、こんな風に身をさらしていると、いつも僕はそれを思い出す。
 みしりと、腐りかけた床板がきしむ。
 ススと埃とクモの巣だらけの廃屋に、僕は足を踏み入れていた。
 かつて旅館だったそこは見る影もなく、二階への階段は床とともに焼け落ちて天井まで吹き抜けている。
 四方の隙間から風が吹き込むたびに、キュウキュウと耳ざわりな音が上がっていた。
 今は深夜二時くらいだろうか?
 仕事のときは余計な金物を身につけないので正確にはわからないけど、たぶんそれぐらいだろう。
 ふと、自分の格好を思って苦笑する。
 これを中学のクラスメイトが見たらどう思うだろうかと。
 背に大きく五方星が縫い取られた真っ白な衣装。神社の神主のように見えるけどそれは少し違って、ゆったりとした袖や懐のアチコチに符を収めたポケットが設けられている特殊なものだ。
 僕の家は古い。
 祖父によれば起源は平安時代にまでさかのぼるそうだ。
 そんな我が家が代々伝えてきたもの。それが陰陽術とよばれる技だった。
 世の理を知り、それを正すことを使命とした退魔の一族。
 普通の人から見れば今どき魔物?なんて笑ってしまうのだろうけれど、それは確かに存在していて、僕らのような人間は未だ必要とされている。
 とはいえ、古代に比べれば魔物は確かに激減していて、伝説に語られるような魔物なんか皆無に等しい。それでも。
「出たね」
 風の匂いが変わった。
 生臭い、腐臭に満ちた瘴気に眉をひそめ振り返る。
 一人の女がそこにいた。
 旅館の女将か仲居だったのだろう。着物は所々が焼け焦げ、露出した肌や髪は痛々しいほどの火傷に膿んでジクジクとただれていた。
「符よ」
 素早く切った九字に応え、建物の隅に張っておいた符が不可視の結界で建物を包む。これでここは何者も立ち入れぬ領域となった。

 
『寒かったの…』
 震え声に、僕は無言のままうなずく。
『暖めて欲しかっただけなのに、みんな私を見ると逃げてしまって…』
 哀しそうににごる言の葉を告げる思いを知ることはかなわない。けれど、
『泣いて、くれるのね』
 我が身を蝕む符に包まれ、白煙を上げる腐りきった手をそっ握ってやる。
 この瞬間だけは、いつまでたっても慣れそうにない。
『ありがとう。優しい、陰陽師さん…』
 悪霊と化した魂に、符で滅される直前の数秒だけおとずれる正気。
 痛いはずなのに。
 苦しいはずなのに。
 皆、決まって僕に礼を言う。
 自分を滅ぼした僕にだ。
 それが苦しくて。
 滅ぶことを喜ぶ魂が哀れで。
 同情など無用と祖父は僕を叱るけれど、僕には…
「優しくなんかないです。僕は…」
『いいえ…』
 ボロリ。身体が砂と崩れ、幽離し浮かび上がる女性の霊。透き通るその顔は美人ではなかったけれど、優しい、微笑みを浮かべていた。
『優しいわ。だって』
 幻像が薄れてゆく。
『ただ一人、変わり果てた私を抱きしめて…』
 言葉もかすんでゆく。
『暖めて、くれた、んで、す、も、の…』
 霊が消滅し、かき消えると同時に、役目を終えた符がハラハラと舞い落ちた。
 胸中に広がる苦い、錆びの味。
 いつか、慣れていくのだろうか。
 こんな思いを抱かなくなってゆくのだろうか。


「ご苦労様」
 廃屋を出ると、いつものように耳馴染んだ声が耳朶を打った。
「また泣かれているんですのね」
 道路わきに止めた赤いRX−7にもたれたまま、スーツ姿の女性が呆れとも憂いともとれる表情を浮かべて運転席へと踵を返す。これも、いつものこと。女性の名は鈴鹿(すずか)。僕のお目付けだ。
「それでも次期当主か。っていう説教ならいらないよ」
 肩をすくめ助手席へ身を滑り込ませると、鈴鹿はエンジンを始動させた。
 振動に揺れる艶やかな黒髪をなんとはなしに見ていると、
「どうかされまして?」
 ふいっと彼女が振り向いた。
「な、なんでもないよ」
 慌てて首を振る僕に、いたずらっぽく鈴鹿が微笑む。
「ダメですよ。私は売約済みなんですから」
 そうなのだ。信じられないことにこの春、鈴鹿は結婚するという。この菩薩の面と般若の心を持つ女をもらうような男の存在こそ奇跡としかいいようがない。たぶん、相手は本性を知らないのだろう。外面で選んじゃいけないという典型だねきっと。くぷぷぷぷ。
「護(まもる)様?」
 ふと浮かんだ考えに思わず笑みをこぼした僕を、鈴鹿が怪訝に見ていた。
「どうかされましたか?」
「な、なんでもないよ」
 言いながら、鈴鹿に踏みしだかれてる男の姿が思い浮かんでニヤニヤ笑いが止まらない。
「まさか、失礼きわまりないことをお考えになられているのではなおいでしょうね?」
 鈴鹿の目が半眼になる。げげ!で、でも…だ、だめだ。そんな顔みちゃったらますます。
「あはははははは」
 おなかを抱えて笑い出した僕の前で、鈴鹿の顔から笑みがスッと消える。ゾクッ。
「私が嫁入りすることが、そんなに面白いですか?」
 ニッコリと満面の笑み。でも目だけは笑っていない。うわぁ!!
「ぼ、僕やっぱり歩いてかえ」
 慌ててドアノブに手をかけた瞬間、猛烈な勢いで車が発進した。
「わわわ」
「ふふふふふふふ」
 急加速でシートに押し付けられる中、不気味な笑い声が車中に響きだす。
 おそるおそる見れば、首だけ巡らせた鈴鹿が強張った笑みをこっちに向けていた。全然前なんか見ていないのにハンドル操作は的確で、時折ドリフトすらかましている。あなたは人間ですか!?怖いよぅ。怖いよぅ。
「護さま?」
「は、はい!」
 地獄の底から湧きあがるかのような声に思わず背筋が伸びる。
「乙女心は傷つきやすいんですのよ?」
 コクコクコク。キツツキよりも必死に首を振る中、車体が横滑りを起こす。
「うわ!」
 ひいぃぃぃぃぃ!車体はガードレールまで数ミリというきわどい間隔で右コーナーを曲がっていく。さっきからずっとこうだ。右コーナーのときだけドリフトを、ってまた、わわわわ!!
「ちょ、鈴鹿さ、ん?」
 シートへ必死にしがみつきながら首を向けると、かわらずこちらに向けたままの笑みと目が合った。
「お、鬼…」
 しまった。思わず。
 反射的に口を押さえるものの、すでに手遅れ。笑顔のこめかみでピキと青筋が立つのを見た瞬間、僕は全てをあきらめた。
 しばらくの修業は、命がけになりそうだ。
 嘆息しかけて、激しい横殴りのGに僕は歯をくいしばった。


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Entry12

白靄の飛礫

 明日で退院という日の晩、中々眠れず何度も寝返りを打つ始末。こんな時は水でも飲んで気を静めるのが一番そう思ったので起き上がろうとしたが体が動かない。石のように重い。否何時の間にか体が紐で縛られている。何とかして紐を解かなければならないと思うほど強く締められる。
 巨大な鏡が目の前に。不思議なことが起こるものだと感心したが現実にそんな事起こりはしない。ならば目の前に見えるのは夢なのか。身に起きていることも。納得はするもののこの様な夢をどうして見ているのだろうかと新たな疑問が湧くばかり。すると鏡の中に人らしきものが映っている。誰なのか定かではない。歪んでいるらしい。好奇心は疼く。知りたいと思いつつジッと見ているとはっきりしてきた。己の姿である。紛れも無く。両足が骨折した為に歩けずにいるのに鏡の中の姿は立っていた。
 縛られているのが苦痛なのかい? そう言われると何時の間にか痛みが緩和していた。歩きたいのかい。答えられずにいた。そのままがいい。この世界も危険が一杯這いずり回っているから。何もかも悟りきった言い方を放す。捨て台詞ではない。納得してしまう。いいのだろうかと思うがその様な勘繰りは無用だと云い。お前さんは長いこと縛られていたのだから今更じたばたしても遅いわというと声高らかに笑う。ワシが守ってあげるから心配はご無用と言い放すと突然消えた。
 鏡には何も映し出されてはいない。ライトの光が反射している。光の出所を探すが見当たらない。すると雨が激しく降りだす。どこなのか探していると鏡の中。何故と思った瞬間物が床に叩きつけられる。耳を澄ますとガラスのコップが床に落ちた音によく似ていた。雨音とガラスのコップが叩きつけられる音が交互に響く。出来損ないのメロディが奏でられる。聞くに堪えられない。耳を塞ぎたいが手が自由に動きはしない。すると鏡の中から手が出てきて耳を塞いでくれる。微かに聞こえるが耳障りではない。ありがとうというと何も云わずに手だけが残る。ウトウトし始める。目が自然に閉じる。意識したわけではない。何かが要求していた。深くは考えたくない。そう思ったから眠ることにした。
 眠りから覚めると鏡の中に居た。両足で立っている。紐も解かれていた。自由に歩けるらしい。どこに行けばよいのか迷っていると光が奥の方から差し込んでくる。光線だった。導いているらしい。行ってもよいものか迷う。すると女が現れる。手招きをしているように思えた。行ってもよいのか再び迷う。その様な心の中を見抜かれたのか側に近寄ってくる。顔を見て驚く。母親! 何で母さんこんな所に居るの。夢だということを一瞬忘れた。マジに問う。するとゆっくりと笑みを浮かべる。再び手招きをする。母親なのだから心配ないだろう。疑うという壁が衝動的に外された。
 暫らくすると光線だけになる。どこに行ってしまったのか探すが見当たらない。その時になって幻覚なのだと気付くが後に戻れない。光線は何時の間にか導くというより攻撃をし出す。凶器となり威嚇してくる。驚き避ける。それでも着いて行く。独り取り残されるのが怖いから体が震えだした。
 小心者だとは認めたくは無いのにチラッと過るからそれがどうしたのよと捨て台詞を吐く。だが根っからの小心者らしく周りを気にしてしまう。夢なのだと分かっていても性根とやらは変わらないらしい。人は云う。小心者だと思えたらもうすでに違うと。だが思えば思うほど恐怖は霧のようにやってくる。音が気になる。耳が既に探し出している。アンテナに早代わり。静寂が広がると不満と苛立ちが空気と混じり合い充満してくる。すると音が向こうからやってくる。正体は分からない。それでも恋焦がれた人に出会った時の様に心がトキめく。慌てて行こうとしたら手を捕まれた。何をするんだ! と叫ぼうとしたが止めた。目の前に居るのは己によく似た男。独り言が広がり木霊するだけ。
 行ってはいけないよ。優しい口調で言うが手を放そうとはしない。何故? あちらには恐ろしいものがウジャウジャいるからさ。そんなことを信用しろというのか? コトバハトキニハウソヲツク。言葉が天から降りてきた。意味は分からない。だが雨のように降り注ぐ。その言葉は体を包み込む。コトバハトキニハウソヲツク。同じ言葉が天から降って来た。繰り返しながら脳の奥の方に入り込む。するとそれまで温かさを与えてくれた言葉が突然針を出す。驚く。突然の変貌にビックリ! だが既に脳に入ってしまった言葉をそう簡単に追い出すことが出来ない。苛々していると。ほら見たことかという声が響き渡る。何故鏡の世界にまで入ってきてしまったんだ! あれほど止せと言うたのに! もうどうすることも出来やせん。声が消えると手が自由になる。影まで消えてしまう。その瞬間土砂降りの雨が降り注ぐ中に吸い込まれた。
 車道を歩いている。暗闇の中を行く。当てなど無く進んでいる。頭の中は真っ白。それでも足が止まらない。前から車のライトが光線のように放される。車が向かってくる。だが足が止まらない。雨が靄となり暗闇を不透明にしてしまっているから勢いが付いてしまったのかもしれない。車には人が歩いているのが見えないらしい。光線が空間を照らす。車を運転している顔がスローモーションになって見えてくる。驚愕する顔は間違いなく叔父。見る見る車に体が吸い込まれて行く。何故その様な出来事が脳の中を走っているのだろうか。自ら作り出しているのか。呆然としていると女が現れた。母親に似ている? 又しても手招き。フワフワと吸い寄せられる。無気力がバネとなって馬力に拍車が掛る。着いていってはいけないと思いながらも体はノーコントロール。フト気になる。女の行方を? 不安は濃厚になるのに足は止まらない。
 土砂降りの雨が大音量で響き渡る。家が天から降ってくる。室内では親父の怒鳴り声の余韻が漏れてくる。母親は泣き喚く。気が付くと家の中に入っていた。親父は出刃包丁を振り上げている。母親は止めてくださいよ! と叫ぶが無駄な抵抗。母親が危ない。そう思ったから親父に止めろと怒鳴る。だがもう既に親父には声が届かないらしい。体当たりでぶつかれば阻止できるかもしれない。その言葉は頭の中を過ぎっただけ。金縛りに遭う。喚くが声にならない。だが出刃包丁が母親の体内へ磁石に吸いこまれる様に入っていくと体が反射的に動く。外へと向かっていく。意思など無い。雨の冷たさが伝わらない。恐怖が飛び出る。全ての穴から体中に在るものが吐き出される。次に言葉にならない呻き声が吐き出される。まるで映画を見ているように流れていた。
 看護婦の顔が目に飛び込んでくる。心配していたらしい。その横に叔父がいる。凄い汗だな。叔父はタオルで顔を拭いてくれた。肌にタオルが触れると泣き声が自然に零れた。滅茶苦茶に外に飛び散る。恐れが勝手に動くと体が震える。驚いた看護婦はナースコールを押す。医師が慌ててやって来る。ジッと見ていた。そして思い出したんだねと一言云うと頭を撫でられた。その温もりに涙が零れた。悲しいよね。辛いよね。先生が代わって上げられればいいんだが。出来ないのが辛いよ。そう言うと先生の目からも涙が飛んだ。
 もしかすると親父が母親を殺したのは本当なのかもしれない。事実が矢の様に飛んで来ては消えていく。


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Entry13

その日、暑さの気晴らしに

 その普通乗用車は、歩行者数人を引っかけ走り去った。
「!」
 下田両次巡査部長は半袖ワイシャツの胸ポケットから電話を取り出し、ボタンを押す。
『こちら藍川署……』
「捜査一課の下田だ。別件で張り込み中、県道七号で轢き逃げを目撃した。ナンバーは――」
 報告も終わらないうちに、大きな破壊音が響き渡った。
「ぬぁ!?」
 別のトラックがコンビニを貫き、逃げまどう買い物客や通行人を踏みつぶして行く。
「轢き逃げに加えて通り魔だ。機動隊でもSWATでも用意してくれ!」
『――はいっ、急行させます』
「おう頼む!」
 下田が電話を切ろうとした時。
「う、嘘、だろ?」
 彼の目の前で、白と黒のツートンカラーの――パトカーが数人の歩行者を轢いて行った。

 暴走する車は、町中に溢れていた。
「交通課は何やってやがる!」
 下田は、周囲を見回す。
 県道沿いの繁華街。休日の昼下がり、梅雨の晴れ間に買い物客で賑わっていた通りは、悲鳴と騒音に満たされる。
 ――車がまた突っ込んで来た。人々は逃げようとするが、互いが邪魔になって逃げ切れない。
「畜生!」
 押し寄せる車に、下田は拳銃を向ける。だが、三八口径拳銃のあまりの小ささに我に返った。
「お巡りさん、ですか!」
 下田の銃に気付いて、人々が寄って来る。
「いや、俺は――」
「安全なところはどこですか!」
「どうなってるんだ!」
「助けてくれ!!」
「あ、いや、よし!」
 すぐに我に返り、下田は拳銃と警察手帳を高く差し上げた。
「警察だ、誘導に従え!」
 ほんの一瞬訪れた沈黙を、彼は逃がさなかった。
「あそこのビルに逃げ込むぞ!」
 下田は雑居ビルを指さした。
「走るなよ! 早足で行け! そこの女、そんなヒール折っちまえ!」
 彼を含めた最後尾の一団がビルに入ろうとした時。
「うわっ、来た!」
 誰かの悲鳴がして、巨大な十トン積みトラックが迫る。
「走れ!」
 下田たちは、ビルの狭い階段を駆け上がる。だが、トラックは真っ直ぐビルに突っ込んで来た。
「ひぃっ!」
 轟音と共に、下田の足の下十センチまでがえぐられ、コンクリートの破片が飛び散る。
 壁にめり込んだトラックは、何度かアクセルをふかした後、ようやく止まった。
「し、死ぬかと思った」
 子供を三人ほど小脇に抱えたまま、下田は溜息をついた。

 ビルの屋上に避難した下田は、汗だくの額をハンカチで拭こうとしたが、腕が上がらなかった。
(肩が折れてやがる)
 左手にハンカチを持ち替え、額を拭きながら、眼下の道を眺める。
 そこには、猛スピードで暴走を続ける車の群があった。
 梅雨明け間近の蒸し暑い陽気のせいでオーバーヒートを起こし立ち往生する車もあったが、構わずに他の車が突っ込んでいく。逃げ遅れた人々の死体が何人も路上に転がっていた。
「脆い……」
「警察のおっさん!」
「あ?」
 近くの高校の学生だった。ワイシャツに血が付いている。
「中山が、中山が死にそうなんだ!」
 彼と同じ制服を着た怪我人は、意識がなく、脚の止血帯は真っ赤に染まっていた。
「精一杯の事はやった。今はこれ以上の手当は出来ねえ……」
「あんた警察なんだろ? どうにか出来ねえのかよ!」
「やかましい、警察と医者を混同するな」
 その時。
 微かなサイレンの音が、近付いて来た。
「救急車だ!」
 学生は屋上の端に駆け寄る。
 しかし。
「ああっ!」
 猛スピードで救急車が走り抜けていった。
 ――子供を跳ねとばしながら。
「中山……一体どうすれば」
「どうできる、か」
 下田は自分のバッグの中を漁る。
 警察無線、携帯電話、三八口径拳銃、他に簡単な救急セットとタバコ七箱にライター。
「無線も電話も混線中か。しかもこの暑さじゃ、日射病もあるな……」
 下田はタバコに火をつけ、煙を吸い込む。
「お前、名前は?」
「木村だ」
「銃は俺が使う。お前は背負え」
 タバコの火をもみ消す。
「えっ?」
「上鷹野総合病院まで一.五キロ。走れば五分だ」
「はいっ!」

 西日と炎と血が、町を紅く染めていた。
 道には、生きた人間はもう誰もいなかった。ただ、あちこちに死体が転がり、時折壁や建物に激突した車が燃えているだけだった。
「動く車はどこに行ったんだろう?」
 木村が呟く。
「さあな。ま、もっと走りやすい場所に向かったのかも知れねえな」
 右肩に痛みを感じながら、下田は応えた。
 しばらくの間、二人は無言で歩く。
「お巡りさん」
 沈黙が居たたまれなくなったのか、木村が口を開いた。
「一体、これはなんなんだ? どうして?」
「お前ぇはどう思う」
 下田は燃えている車の炎で、タバコに火をつけた。
「え、ああ。おれは……車に欠陥があったんじゃないかと思うけど。暑さでブレーキとかアクセルが壊れたとかそういう」
「欠陥か」
「とにかく、ものすごい事だと、思う」
 下田は人間の手では決して出来ないほど、激しく損傷した死体を見つめる。血の臭いが湿気の多い風に乗ってやって来た。
「ものすごい――かな?」
 横転して動かなくなっている車を蹴飛ばした。
「車が走る位置を、ほんの二メートル左に寄せるだけ、とも言えるぜ」

 小一時間が過ぎた。
「お巡りさん、その先の角を曲がればいいんだったな」
 木村の表情には、疲れがありありと見えていた。背中の中山の意識は戻っていないが、呼吸はしていた。
「ああ、もう一息だ!」
 下田が顎から滴り落ちる汗を拭う――と、ふいに、微かなエンジン音が背後から聞こえた。
「避けろ!」
 突っ込んで来たのは、軽乗用車だった。
 かわし切れずに弾き飛ばされた木村は、中山を庇いつつ地面に激突する。
「木村!」
 軽乗用車はバックで木村を轢こうとして、エンストを起こす。
「っ!」
 一瞬の隙を突き、下田は軽乗用車の助手席側の窓に取りいて拳銃を向けた。
「な!?」
 ドライバーは、平凡な――エプロン姿の――主婦だった。そして、助手席のチャイルドシートには、幼い子供がおとなしく座っていた。
 とても不機嫌そうな顔をしながら、彼女はハンドルを握っていた。銃口を頭に向けられている事にも気付かない様子だった。
「止まれ!!」
 下田は引き金に指をかけたまま怒鳴る。
(もう走らせないなら――)
 だが、彼女は何かに取り憑かれた様に、何度もキーを回していた。
(エンジンが掛かるまでは!)
 幸いにも、エンジンはなかなか掛からない。
(――今の、うち、か?)
 撃たなければ、やられる。
 下田は逃げられても、木村が。
(いや、まだ、まだ早い!)
 気の遠くなるほどの時間が流れた。少なくとも、下田にはそう感じられた。
 そして。
 ――ドライバーは、キーから手を離した。
 それから彼女はあちこちを見回して首を傾げた。その表情は、既にただの無害な一般人に戻っていた。
 下田はへたへたと座り込んだ。
「木村、無事か?」
 いつの間にか日は落ち、涼しい夜風が通り抜けて行った。
「――なんとか」

 数週間後。
 病院で見舞いを済ませた下田は、歩いて警察署に向かう。
 壊された建物や施設も、あらかた修復されている。
「結局」
 路面も工事が行われていた。
「道交法への不満と不快指数上昇による、ドライバーのストレスが原因、か」
 小学生の一群が、歩道をふざけながら通り過ぎ、その脇を車が走り抜ける。
 歩道には、撤去されたまだ新しい制限速度標識がいくつも積まれていた。
「せいぜいストレスなく走ってくれよ」
 夏の日差しが、青い空と白い雲をくっきりと浮き立たせていた。


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Entry14

ホステスの母

 小学校の、ニ、三年位の頃。どっちだったかすっかり忘れてしまったが、ある時担任の先生から、
「お母さん何の仕事しているの」
と言うような質問をされた。僕は当時から視力が悪く一番前の席順が定位置だったので、彼も何の気なしにそんな質問をしてきたのだろう。両親が共働きという事もいつのまにか話していたらしい。
「キャバレーのホステス」
そう、子供だから正直に答えると、とたんに彼は困惑した表情になって、それきり後は、それを話題にする事はなかった。

 その当時僕の家は、細かい事情を両親からよく聞いていないから記憶があやふやなのだが、とにかく借金を背負っていて、よく色々な人が催促に来ていた。たまたま僕が対応した時は決まって、
「今、お父さんもお母さんもいないんですけど」
と言うのが常だった。別に言い訳じゃなく、いつも何故かそういう時に、本当にいないのだ。そして必ず、来た人に託けを頼まれてしまうのだった。僕は、例えば忘れん坊クラス1になるくらいに、あらゆるモノや事柄を忘れてしまう子供だったので、そういう託けを聞いた事すら、あらかじめ約束されたかの如くに、当然さっぱりと忘れるのだった。あとでしまったと思い、かなり時間が経ってから、両親にその事を言うのが常だったが、しかし何故それで怒られた記憶はまるでない。多少はそんな事もあったのかも知れないが、とにかく忘れる事にかけては周りからも定評のあった僕だから、そんな事も忘れているのかも知れない。
 普通一般家庭での借金と言えば、男親がギャンブルか女遊びでこしらえるとか、事業で失敗したとかなのだろうけど、家での借金はすべて母が作ってくるものだった。この時の借金を返し終わった数年後に、母が小料理屋を開くのにまた大きく借りてしまった事があるので、おそらくその時も、何か事業を起こして失敗したのだろうと思う。母はそういう自分の居場所というか、自分の城みたいなものを家庭外に持ちたかったようなのだが、家計簿をつけているのも見た事がないくらいのドンブリ勘定の見本みたいな金銭感覚の持ち主だったので、失敗するのも当たり前の事だったのだ。当然簿記も知らず、小料理屋をしていた時も客の言うままにツケを許していた。よくそれについて言い訳もしていた。
 そして酒も好きだった。訳のわからない事を叫びながら家に帰ってくる程、よく飲んでいた。まさに酒乱だった。いつも僕が介抱した。まったく迷惑なものだった。時には小便まで漏らしてきた。酒くさい小便の匂いに僕まで吐きそうになった。そんな調子なので、いつしか僕の知らないうちに自然と店は畳まれていた。母はその後よほど懲りたらしく、病院の付き添い婦に職を見つけると、以後体の不調が原因で辞職するまで十数年そこで働き続ける事になった。
 そんな母の失敗の後始末はどうするのかと言えば、全て父がその尻拭いをした。サラリーマンの父は、母とは反対に細かい性格で、お金の計算もさることながら、例えばある時、家族の誰かが夜中にトイレに起きると次の朝に、「お前、昨日夜中の何時何分にトイレに行っただろう」等と必ず言ったりした。父以外の僕ら家族は、微かな物音ですぐに目を覚ます父を「忍者」と呼んで笑ったりした。
 そしてまたある時、僕には姉がいるのだが、その姉が、当時流行っていたディスコに通うために、よく父の財布から金を盗んで遊びに行っていた。バツの悪い事に、僕も一回だけその現場を見てしまった事があった。その時姉は、驚いた顔をしながらも僕の方を向いて、口に人差し指を当てて黙ってろという合図をした。姉は気性が荒く、逆らうと鼻血が出るほど殴ってくるので、僕は当然黙ってそのまま布団に戻り、寝る事にしたのだった。
 しかし、朝になると細かく財布のチェックをする父にすぐ分かってしまったらしく、翌朝僕が起きてみると姉が居間で蹴飛ばされているのが見えた。姉が寝転びながら、所謂我が家でネコキックと呼んでいた、つまりネコの様に体を縮めながら折り曲げていた足で攻撃を防御するやり方で、父の力強く繰り出す蹴りに、ワケのわからない事を喚きながら必死に応戦していた。何故か今でも僕の頭には、その時の映像が、割に強く残っている。それにしても、姉がバレたのに、僕が何も怒られなかったのはどうしてなのかと、今になって不思議に思うものだが。
 そんな風に神経の細かい人だったので、キッチリと父は、母の杜撰さをカバーしていたのだった。例えば当時の家は風呂無しのアパートだったので、借金時には倹約のために、なかなか銭湯に行かせてもらえなかったりしていた。僕はバカ正直だったから、学校でその事をうっかり話してしまい、不潔男呼ばわりされてちょっとしたイジメに発展したりした。どんな風にイジメられたかはあまり覚えていない。着ていく服もあまり買ってもらえなかったし、母が昼間に寝ていて洗濯もあまりしてもらえなかったのもあって、いつも同じ服を着ていたというのもあったから、そういう方向に行ったのかも知れない。それでもまったく友達がいないと言う事はなかったので、それなりに楽しかった記憶の方が強い。
 
 そんな訳で、一度目の借金返済の足しにと言うことなのだと思うが、やむなくホステス勤めをしていた母だった。
 母がキャバレーに勤めていた時の事で思い出されるのは、毎月、給食費などの学校の費用を、夜は勤めでいないものだから、仕方なく朝に要求する時の事だ。僕が費用をねだると、母は寝床で「ウン……ウン……」というものだから、了解を得たとばかりに、母のカバンから費用を取って学校に行き、そして課業が終わった後、家に帰ると決まって怒られていたのだった。「朝は寝てるんだから、なんでもウンウン言っちゃうんだよ! 朝にそんな事言うな!」と必ず、決まり文句を聞かされたものだ。
 父に出してもらえばいいのだが、子供だからかその事を言っても誤魔化されてしまって費用を出してくれないので、仕方がなかったのだった。もちろん怒られると分かってはいたが、出さないと先生にも怒られるので、僕はいつも、朝眠っている時を狙ってそれを繰り返した。例え母に怒られても、払わなければならないのは当人もわかっていたので、そんなに強く言えない事も知っていたのだ。
 そんなわずかな給食費もケチるくらい、僕の家は逼迫していた。要するにそれだけの事だったのだ。
 大人になっても、たまにその事を思い返す。その時担任の先生が僕の言う事に対して、そんな風に口をつぐんだのが、今でも気持ちの良くない、どんよりと嫌な感じで心の中に残っている。僕はそういう時、まあ所詮はセンセイって程度の人なんだろうな、と思い直し、わずかな怒りを納めている。母は、確かにどうにもならない人ではあるのだが、それなりに真面目に一生懸命生きていたのだと思うから、つい怒ってしまうのだった。その生き様自体は別に恥ではないとも、強く思う。もちろん、決して威張って言える事ではないのだが。
 それともうひとつ、不思議に思う事がある。母は、実はとても不細工で、女としての器量はどうにもならないと、兄弟の意見が一致する程なのだが、その母が何故、よりにもよってホステスなんかやったのだろうか、と。
 まあそんな事くらいは、母に聞いてみればいいのかも知れない。もっとも、とても怖くて、僕からは聞けないのだが。


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Entry15

ウワサの末端

 昼下がりの酒場には、あまり人間の気配がなかった。
 カウンターの向こうで黙々とグラスを磨く旧式バーテン・アンドロイドが、その曇
った銀色の上半身に、スツールに腰を下ろした男二人の顔をおぼろに映している。壁
のポスターには、ビキニの美女が赤い砂漠に寝そべり、「フライ・ミー・トゥー・ザ
・マーズ」――センスのないキャンペーン・コピーが踊る。
「まったく、けしからんですな」
 バーテン越しの丸窓に、白んだ空と岩だらけの荒野を見すえて、十九世紀風の口髭
をなでながら、やせた老人は演説をぶる。
「ここの開拓こそは、われら地球人類の希望です。この大目標、火星テラフォーミン
グ計画をもって、はじめて世界は一つになった。この星を人類の新天地に改造しよう
という偉大なる神業、それを妨害するなど、まったく理解しがたい愚行です」
「ただの海賊ですよ」と、隣の男は簡潔に説明した。「なんのポリシーも持っちゃい
ません。市長さんのおっしゃる地球人類うんぬんなんざ、やつらには関係ない。ただ
金目のものを満載した宇宙船が、地球を発ちさえすればいいのです」
「ふん、愚かな連中ですよ、警部。愚かを越えて、滑稽ですな」
 まだ大した仕事もなく、庁舎さえ持たず、酒場ぐらいしか居場所のない市長とやら
も、かなり滑稽だと警部は思った。
 市長の名目を持つ老人は、黒い三つボタンの背広に、白いワイシャツ、エビ色のネ
クタイ――政治家らしい懐古趣味で武装してはいるが、そのどれもが、くたびれて色
あせている。精力を失った馬のような顔は、この星の地表と同様にシワが深い。背中
を丸めて、ウイスキーの水割を大切そうに両手で包んでいる。
 一方の警部は、二度の整形で若さを保っていた。実際は、中年の境をとうに越えて
いる。しかし肉体はいまだ精悍で、浅黒い肌にムラのない銀髪がきわだち、地球の流
行に対応した私服姿は、ヘキサゴン柄のルーズなシャツにバミューダ・パンツ――気
楽な観光客を偽装しているが、この何もない開拓地では返って目立つ。彼としても、
こんな辺境まで来ることになるとは思っていなかった。ウワサからウワサへとたどる
うち、地球から月、月から火星に流れ着いてしまったのだ。
「ところで市長さん」と、警部は老人の顔をのぞきこんだ。「本当に、ごぞんじない
のですか」
 市長の視線は、ウイスキーの水面に貼りついていた。
「ええ、ちっとも耳にしませんな。市民どものウワサは、なんせこんな人口ですから
、だいたい聞こえてきますがね。海賊の首領が潜伏しているなんていう話は、ええ、
まったく、けしからんですな……」
 だいぶ酔いが回ってきたようだ。この男からは何も得られないと結論して、警部は
グラスの水を一口あおって空にした。ウワサのネットワークも、ここが末端か。もう
職務は終わりにして、苦杯をあげようと、バーテンに酒を注文しかけたその時、店の
二重ドアから、ごとりと音がした。警部が肩越しに振り返ると、二つの厚いドアのあ
いだで、ボンベを背から下ろした人影が、宇宙服を脱いでいる。
 警部は正面を向き直って、バーテンに言った。
「水をくれ」
 やがて内側のドアが開き、警部は、左隣のスツールに新しい客を見た。女だ。それ
も、かなり若い――少なくとも外見上は。
「どうも」と警部は、女の横顔に声をかけた。「珍しいですね」
 オカッパの黒髪を右耳にかけて、女は応じた。
「何が?」
「いや、女性が、こんな星の、こんな辺境にいるなんて」
「いつもの」と、女はバーテンに言った。それから警部を向き、目尻をかすかにゆが
めた。「ここの人じゃないでしょう」
「ええ。さっき地球から着いたばかりです」
 女は、悪戯めかして笑った。
「ここにはね、けっこう女もいるのよ。出稼ぎの男だらけの街には、需要があるわけ

「ああ」と警部は納得し、それから少し残念に思った。若い女は、白い肌も青い眼も
、その種の職業で身につく不健康なかげりを宿してはいない。アカ抜けてはいるが、
小柄で童顔。タイトなエメラルド・グリーンのインナー・スーツが描く体つきも、少
女のように未熟に見えた。
「でも」と女はグラスを手に、「わたしは違う。娼婦じゃないわ。乾杯しましょうか

「いいですね」
 警部はえくぼを浮かべて、ほのかな安堵をこぼした。何のための乾杯かはともかく
、チンと鳴る。
「それ、水?」
「ええ、下戸なんです」
「つまらない」
「すいません」
 ネコをかぶっている、と警部は内心に自覚した。今日、二杯目の、つまらない液体
をすすって、女にたずねた。
「あなたはごぞんじないですか?」
「何を? 回りくどいのね。さっきから」
「すいません」と、またネコをかぶり、「海賊の首領が、この街に潜伏しているとい
うウワサですよ」
「まあ、こわい」とヘタな芝居のセリフのように言って、女は無感動だった。「どん
な海賊なの? やっぱり、髭もじゃの大男かしら」
「いえ、首領は女だそうです。それも、まだ若い」
「ふうん」いたって女は無感動。「どんな女なのかしらね」
「なんでも、ウワサによれば、金髪で、グラマーで、目の覚めるような美女とか」
 女は、黒髪をゆらしてクスクスと笑った。
「きっと、違うと思う」
 警部は、コンパスで引いたように目を丸くしてみせた。
「違う? あなた、首領を知っているんですね」
「知りません」と口調をあらため、しかし女のクスクス笑いはやまない。「となりの
お友達には聞いたの? あれでも、いちおう市長さんなんだから」
 その存在を思い出して警部が見やると、お友達は、顔をカウンターにうずめ、かす
かな寝息をたてて眠っていた。
「聞きましたよ。知らないって」
「それじゃあ、たぶん、誰も知らないわね」
「そうですか」
 ウワサの末端。
「ねえ」と女。「こんなウワサ、知ってる?」
 警部は苦笑した。
「回りくどいですね、あなたも」
「うつったみたい」と言って、ふたたび髪を耳にかけ、「地球から、警察の人が来て
るんだって」
「ほう」と警部は、あらためて気楽な観光客になった。「何か事件ですか」
「知らないけど、おっかない刑事だそうよ。赤い鬼みたいな顔して、髪も炎のように
真っ赤で、犯罪者と見たら子どもだってすぐ射殺するって。刑事とかいっても、ただ
の殺人鬼なのね」
「それはそれは、こわいですね」
 警部が浅黒い頬をかくのを見て、女は微笑した。
「このウワサも、アテにならないかしら」
「ええ、きっと」
「なんだ、つまらない」
 そして女はグラスを空にすると、またも微笑を警部に見せた。
「じゃあ、わたし帰る。つまらないから」
「おごりますよ」
「そう、ありがとう」と、席を立ちながら、「いつかまた会ったら、今度はわたしが
おごるわね」
「楽しみにしてます」
 警部のえしゃくと、えくぼに送られて、女は出て行った。ドアの向こうで、ボンベ
を背負う人影となり、そして消えた。
 とたん、右隣で、むくりと市長が身を起こした。
「追わんのですか?」
 警部は、手元の水を空にすると、老人の質問に質問でこたえた。
「人類の未来のために?」
「そんなことは、どうでもよろしい」自分の本音にさも愉快そうに髭をなで、「では
赤鬼警部、もう一杯どうです、お酒でも」
「いいですね。いただきます」
 警部がしばらく職務を中断するあいだに、近くで爆音が聞こえた。離陸する宇宙船
は赤い大地を蹴って、さらなるウワサを振りまく。そしてこの火星辺境の酒場から、
気楽な観光客の新たな旅が始まるのだ。


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Entry16

琴線

「あー、もうどういうことなの?こんなんでパーティー行けなかったら十万円も出して買ったドレス意味ないじゃないの」
 デパートのエレベーター。動かない密室で妙にオシャレな格好をした女性が叫ぶ。
「ちょっと静かにして下さい。そんなこと言っている場合ではないんですよ」
 賢明に非常ボタンを押し続ける若いサラリーマン風の男は一見頼りになりそうだが、しかし彼もまた参っているのだろう。もう三分近くボタンを連打して呼び掛けている。
 止まってしまったエレベータの中には全部で四人。僕と、あとは小学校に上がるか上がらないかくらいの小さな女の子。別れた妻の元にいる、いまでは取り決めで一ヶ月に一度しか会えない娘と同じくらいの歳だ。さっきから「おかあさん」とつぶやきながら泣いている。母親もどこかで泣いているかもしれない。

「みなさま、火災に巻き込まれぬよう係員の指示に従い落ち着いて避難して下さい」
 エレベーターの中からの非常電話は何故か繋がらないがスピーカーからアナウンスが聞こえる。被害状況は説明されない。余計な混乱を起こさないためだろう。
「なあ、あんた。何かいい考えはないか?」
 表情にいらつきが見える。声も大きい。のんびりしている僕に怒っているのかもしれないが僕にだってどうしようもない。
「さっき携帯電話を試したけど電波が入らない。非常電話は壊れているようだし、火災の状況は分らない」
「だからどうしようか聞いてるんだよ。手後れにならないとも限らないだろう」
 男が叫んだ。それを聞いて女がまたヒスを起こす。
「ちょっと、それ、どういうことよ?」
 この二人もドラマなんかでこういうシーンを見るときは落ち着いているのだろう。そういうものだ。僕だってさっきから僕の足にしがみついて泣き続けている女の子がいなかったら同じようなものなのかもしれない。幸か不幸か娘に良く似た女の子の存在が僕を複雑な心境にさせパニックを防いでいた。
「天井のファンが動いていないんだ」
 僕は静かに、でも強く言った。
「煙は入ってきていない。アナウンスもできる状況のようだ。たぶん火災自体はいまのところたいしたことはない。でもこのエレベーターの機能は完全に停止してるし、火災騒ぎで発見は少し遅くなるかもしれない」
「つまり?」
 静かになった密室の中で、小さな声で男が聞いた。
「密室じゃあ酸素を大切にしなきゃいけないってことさ。ドラマで見たんだけど」
 でもドラマで見たようなドラマティックな解決策は見出せなかった。

「本当に大丈夫なのか?」
 男が僕に聞いた。正直分らないが、たいして出来ることもない。
「火事のこと?」
「そうだよ。大火事だったら手後れになる」
 男はまだ少し気が動転していた。あるいは心のどこかでいつもこういうハプニングを望んでいた種類の人間なのかもしれない。そのときは自分が上手く解決する姿を夢見ながら。そういう人ほど現実に直面するとパニックになるものだ。
「ねえ、このエレベーター落ちたりしないわよね」
 今度は女性の方だ。どうしようもないときに他人に頼るのは女性の可愛いところだと思っていた。泣きつかれてただ不安そうにしている傍らの女の子を見ているといまでもそう思うこともある。
「たぶんね。正直言って詳しいことは分らないけど」
 ふいに手がポケットの中の何かに触れた。カギ束だ。そのなかに小さなビクトリノックスのキーホルダーがあるのを思い出した。
「あんまりたいしたことは出来そうにないけど、出来ることをしっかりやろう」
 僕はドアのゴムの部分をその小さなナイフで切り裂いて引き剥がした。ドアの隙間から少しだけど冷たい新鮮な空気が感じられた。酸素の問題はどうにかなりそうだったが、あとは待つことくらいしか思い付かなかった。

「私っていくつに見える?」
 僕たちはみんな床に座り込んでいた。女の子は疲れ果てて僕の膝を枕にして寝息を立てていた。
「さあ…」
 いまでは落ち着いた女性の言葉に男が答える。
「実は二十九。、もうすぐ三十路」
 自分で実はと言うだけあってそうは見えない。
「高いドレス買ってパーティーなんてきっとあなた達から見たらバカみたいなんだろうけど、結構切実なの。最近疲れちゃって」
 言葉が出てこない。男も、そんな場合じゃないとはもう言わない。どんな事情だろうが不運な事故に巻き込まれたもの同士だ。
「オレは、ちょっと本屋に寄っただけなんだ。土曜だっていうのにスーツ着てお得意さまに挨拶さ。地下で手土産を買ってね。でもさ、読むかは分らないけど、電車の中で手にする本くらい持ってたいと思ったんだ。それだけさ。でも、やっぱり避けられることじゃなかったのかもな」
 分る気がした。何度同じ時間をやりなおせるとしても彼は本屋へ寄るだろうし、そうすべき気もした。
「あんたは?」
 男が聞いた。僕は女の子を見ながら答えた。
「娘の…」
 二人が笑顔で僕たちを見ていた。親子と勘違いしているのだろう。
「誕生日プレゼントを買いに来たんだ」
 若くして立ち上げた会社を潰してしまい、債権者に追い立てられる日々の中での苦渋の決断。離婚。それが正解だったかは分らない。それでも妻は娘を育てられるだけの十分なデザイナーとしての腕を持っている。逃げ続ける生活よりいいはずだと信じた。良く話し合いもした。現実が覆いかぶさり愛情が入り込む余地がなかったというのは言い訳になるだろう。
「八歳になるんだ」
 そう、八歳になる。会いたくてたまらない、愛する一人娘。
「ひどい誕生日になっちゃったわね」
「なあに、あとからいい思い出になるよ。きっと」
 二人が励ましてくれた。
 
 ガタン。そのとき急に密室が揺れた。女の子がびっくりして目を覚ました。いまにも泣き出しそうなその顔を見て、僕は思わず強く抱き締め、言った。
「大丈夫、大丈夫だ」
 守り抜く。そう思っていた。

 揺れは長くは続かなかった。すぐに小さな揺れになり、しばらく降下して、そして止まった。扉が開いた。そこは一階のフロアだった。火事があったなんて信じられない、何も変わらないデパートの風景だった。
 僕は女の子を抱き抱えてぼんやりと立ち上がった。みんなでエレベーターを出ていく。消防署員が「大丈夫ですか」と聞いてきていたけど、あまり耳に入らなかった。人込みの最前列。両手を伸ばし女の子の名前を呼ぶ母親のその声ばかりが耳の奥に響いていた。
 僕は小さく泣いている女の子を抱いたまま母親のところまで歩いて行った。
「ありがとうございます、ありがとうございます。なんてお礼を言ったらいいか」
「そんな、たいしたことはしてませんよ」
「いいえ、本当にありがとうございます」
 実際たいしたことはしていなかった。救われたのは僕の方だった。お礼なんてとんでもない。でも、僕は思いきって一つお願いしてみることにした。
「変なこと言って申し訳ないんですけど、人込みの向こうまで一緒に歩いてもらえません?」
 母親はきょとんとしていた。その意味が分らなかったのだろう。僕にだって、良く分かっていない。
「さあ泣くのは止めて。あの二人に手を振ってやろう」
 女の子が頷くのを確かめてから僕たちは振り返って手を振った。女性が手を振り返していた。男は親指を立てていた。
 そして僕たちは人込みを抜けた。その先には、また一人歩かなければならない雑踏があったけど、なんとかやっていけそうな気がしていた。


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Entry17

the day the world went away

「あ」
 日野は短く声を上げた。
 鳥を見たのだ。
 穏やかに寄せて返す青い海。その上に白く舞う海鳥を、日野は見た。
 久しぶりに見る鳥の軽やかさを目に焼き付けようと日野は目を凝らし、眺め、そして、それが見間違いであったのを知った。海鳥の正体はただの紙屑だった。どこからか飛ばされて来た白い紙屑が海風に乗り上空に舞い、それが日野の老いた目には鳥に見えたのだった。
「博士。どうなさいました?」
 有希子は日野の車椅子を押しながら、聞いた。
「何でも無い」
「寒いですか? 今日は風がちょっと強いですからね」
「有希子、何でも無いんだよ」
「お風邪をひいてはいけないわ。博士。これをお召しになって」
 有希子はそう言って、自分のコートを脱いで、それを日野に羽織らせた。
「これで良いわ。博士、寒くありませんか?」
「ああ大丈夫だよ。有希子、有り難う」
「どういたしまして」
 そう微笑むと有希子は再び車椅子を押し始めた。
 風のある日だった。幾つもの風が、二人の間を吹き過ぎていった。
「博士」
「なんだい」
「毎日海ばかりで飽きませんか? たまには違う所にも行きます?」
「いや、良いんだよ。私は今まで海を見たことが無かったからね」
「そうですか」
「私は海を見た事が無かったんだ」
「解りました。じゃあ博士、明日も来ましょうね」
「ああ。頼むよ」
 そう答え、日野は海を見た。
 白い紙屑は海風を受けながら、ひらひらと空を漂っている。
「あれはやはり鳥では無いな」
 日野は空の眩しさに目を細めた。
「え? 博士、何か仰いました?」
「あれはやはり鳥では無いな。私が知っている鳥というものはあんなに軽やかに飛ばないものだし、それに」
「やはりまだ寒いのね。博士、これを着て下さい」
 有希子は上着を脱ぎ、それを日野に羽織らせた。
「それに、地球上の生命は全て滅んでしまったのだからね。私以外、全ての生命は滅んでしまったのだから」
「さあこれでどうかしら。博士、まだ寒い?」
「大丈夫だよ有希子。有り難う」
「どういたしまして」
 有希子はそう微笑み、再び車椅子を押し始めた。



「博士、これもお食べになって」
「有り難う」
 日野はサンドイッチを受け取りながら言った。
 昼には風はもう止んでいた。二人は海岸にシートを広げ、昼食を始めた。
「有希子」
「なんですか?」
「これはトマトのサンドイッチじゃないか」
「そうです。トマトのサンドイッチです」
「私はトマトが嫌いだって知ってるだろう」
「でも博士。トマトは身体に良いわ」
「それでも仕方が無いんだよ嫌いなのだから。人間にはね、好き嫌いというものがあるのだよ」
「そうなのですか」
「ああ」
「博士はやっぱり色々大変なんですね」
 有希子は目を伏せる。
「あたし、博士のこと全部解ってあげられなくて、とても残念ですわ」
「良いんだよ。有希子は良くやってくれてる」
 日野は手を有希子の肩に置いた。
「好き嫌いなんて、特に理由は無いんだ。どうしようも無いだけなんだ。人間自身が、我々自身がどうしようも無い生き物というだけなんだ」
「博士のお話は難しいわ」
「そうか。まあ私自身何を言ってるか良く解っていないがね。さて、トマトか。一つ食べてみるか」
「博士、無理をしなくても良いのよ。お身体にさわるわ」
「身体に良いって言ったのは有希子だろう」
「それはそうですけど」
「大丈夫だよ有希子。心配するな」
 日野はサンドイッチを口に運んだ。
「ん、む」
「博士、どう?」
「悪くない」
「本当? 良かった」
「悪くないよ」
「嬉しい」
「どうして私はこれを嫌っていたのだろう。今となっては良く思い出せないが。少し勿体無かったかな」
「勿体無かったのなら明日も食べれば良いわ。明日も明後日も」
「そうだな。それも良いな。そうするか」
 日野は海を眺めながら言った。
 海は昼下がりの陽光を受け、ますます青く光り輝いている。




「有希子、夢を観たよ」
 午睡から覚め、日野は言った。
「どんな夢ですか?」
「娘の夢だった」
「博士に娘さんいたのね」
「ああ」
 日野は瞳を閉じた。
「娘が、いたんだ。17の時家出してしまって、それ以後二度と会って無いがね」
「そう」
「久しぶりに娘の夢を観たよ。泣いてた。私はどうして良いか解らず、ただおろおろするばかりだった」
 ゆっくりと日野は言った。
「優しくてあげれば良かったと思う。私には何も解らないのだから、優しくしてあげれば良かった」
「博士」
「優しくしてあげれば良かった」
「博士は優しいお方だわ」
「そうかな」
「博士は本当に優しい方よ」
「そうか。有り難う」
「博士は優しいわ」
「有り難う」
 日野は答え、目を開けた。
 もうあの白い紙屑は何処にも見えなかった。あの紙屑は何処へ飛んでいったのだろう、日野はそう思った。
「有希子」
「なあに?」
「寂しくないか」
「寂しくないわ」
 有希子は答えた。
 当然の答えだった。日野がそのように有希子を造ったのだから、当然だった。
 寂しがらない。奪わない。食べない。疲れない。不平を言わない。偏らない。忘れない。死なない。そのように有希子達を造るのは簡単だった。ただ人間がそうなれない、というだけで、そのように造るのは簡単な事だった。
 核の炎が世界を焼き尽くした後でも、有希子達、日野が作り出した千体のアンドロイドは平然と生き残った。
「博士がいますもの。寂しくないわ」
 有希子は微笑みながらそう言った。
 彼女達は人間が滅んだ後のこの地上で、新しい世界を作り上げるだろう。争いも憎しみも無い世界がやってくるだろう。人間が欲し、それこそ殺し合いをしてまで欲していた世界が、ついにやってくるだろう。
 日野はその世界のことを思い、少し泣いた。
「博士、どうなさったの?」
 日野は涙に濡れた目で世界を見た。自分達の手で焼き尽くしてしまった世界を見た。世界は涙に滲み、言い様のない色彩に包まれていた。涙はなんと不思議なものだろう。日野は思った。涙の先に、何故こんなにも色々な物が見えるのだろう。そう思った。涙の中で、世界は様々なもので溢れていた。青い海。太陽。歌。今は滅びたマンモス。恐竜達。
(有希子)
 無くした愛。忘れてしまった思い出。そして遠い未来。
 全てが在った。ずっと前から全てが在った。解らなかっただけで、気づかなかっただけで、全てはずっと前からここに在ったのだった。
(だがそれに気づいても、人にはどうする術があっただろう。滅ぶ他に、人にはどうする術があったのだろう)
(なんてどうしようもない、なんて哀れな。なんて愚かな)
「だけどな。だけどな有希子」
「なあに、博士」
「だけど人間は生きたよ。めしいた目を懸命に開いて、聞こえない耳を必死にそばだて、人間は生きたよ。滅ぶ以外にどうする事も出来なかったけれど、それでも人間は懸命に生きたよ。何も残せなかったけれど、それでも懸命に生きたよ。なあ有希子、覚えていておくれ。私達人間は生きたんだ。それを覚えていておくれ」
「ええ。博士の事忘れないわ。私達は、ずっと忘れないわ」
「いつかお前達に私達は追いつけるだろうか。私達は滅んだが、それでもいつか追いつける日がくるだろうか」
「待ってるわ。私達は博士をずっと待ってるわ」
「そうか」
「そうよ」
「有り難う」
「どういたしまして」
 有希子は笑った。
 日野は再び目を閉じた。
 波は青く、寄せては返し、寄せては返した。
 いつまでも、子守歌のようにいつまでも、寄せては返し、寄せては返した。


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Entry18

夏とスイカとサンがいて

 カーテンを開け、窓を開けた。
 朝の静けさと一緒に初夏の清々しい朝風が、サーっと部屋に吹き込んできた。とても柔らかな風で、僕は思わずパジャマのまま縁側へ出ていた。
 日当たりの良い、小さな庭が気に入って購入した一戸建ての住宅。春に植えた苗がそろそろ実を着ける頃だった。
 サンダルを履いて、スイカの苗を覗いてみた。大きな葉っぱに隠れてゴルフボールほどの小さなスイカが実を付けていた。まだ緑色だが、いっちょ前にスイカの筋がついている。
「へ〜、こんなに小さくても筋があるんだ」
 僕は思わず声を出して、独り言を呟いた。
 僕は着替えを済ませると、また縁側を出て庭の手入れを始めた。少し高くなってきた朝陽が、気持ちの良い感じで僕とこの庭を照らしていた。

「ねー、むぎ茶いれたわよ」
 台所からサンの優しい声がした。
 僕は汗を拭いながら小さな縁側に腰をかけると、もう一度サンの声がした。
「飲むの? 飲まないの? どっち?」
(……飲みたいよ。飲むに決ってるじゃん、なんだよ急にコロッて変わるなよ)
 そう思いながらも声には出せない。なぜなら、僕の奥さんは結構こわいからだ。
 キッチンから薄藍色のお盆に、キンキンに冷えたコップをのせて縁側に現われた。
「あっりがっとサ〜ン!」
「……# ナニ? それってギャグ?」
(……β やはりこわい。少しは可愛くなってみろよ)とやっぱり声に出来る訳が無い。
 縁側に腰掛け、キンキンに冷えたコップに麦茶を注ぐと一気に飲み干す。心地よい冷たさが咽を通り(う〜ん、うまい!)と目を開けたら、サンの普通の顔がそこにあった。(……素の顔に少しびっくり)

 土曜日の朝は、いつもより少しだけ早起きをして、ほのかに初夏の香りが漂う庭の手入れをする事が、この頃の僕の楽しみになっている。庭とは言えないほどの小さなそこには、数種類の野菜と小さな花達が、満員でギュウギュウ詰めになった通勤電車の如く、そこ、ここと無理矢理に植えられている様な状態だ。僕はその可愛らしい野菜達を見つめ、ほくそ笑みながら自爆の呪文を口にした。
「わるいけど煙草、取って!」
「どこにあるの? ないわよ、どこ?」
「その辺にない? スーツのポケットかも……」
(……やばい!)僕は心の中で叫んだ。僕に煙草を欲しがらせたこの気持ちの良い日和を恨んだ。

「何これ? ローズって?」
(駄目だ、やばすぎる。やっぱり入ってたか!! 来るぞ、来る来る!)僕は両手で顔を覆った。
「昨日飲みに行ってたの! このマッチ箱、携帯の番号までかいてあるじゃない! それに下品な文字ね〜。”PUB ROSE”って会社と違う場所じゃない?」
 サンは僕のジャケットのポケットから、煙草と一緒に、パブで貰った女の子の名刺マッチ箱を持ってきた。
「昨日、全然お酒の匂いがしなかった様だけど? どーして?」
 サンが不機嫌な顔を露骨に作ってやって来たので、僕は笑顔を引きつらせながら
「ちょっとだけ加藤と飲んだんだ、あいつ独身だからさ、良く行くらしくって、そんでライターのオイルが切れたから加藤が持っていたマッチをもらったんだよ。ほ、ホント。」
(信用しろ、信用しろ、……)僕は心の中で祈った。
「そう? ちょっとあやしいな〜」
 そう言いながら僕をもう一度睨み付け、なぜか悪戯っぽい目で僕の横顔をもう一度見た後、チビ達を起こしに奥へ行ってしまった。
 ホッとした。久々に疲れを感じた気がした。僕は煙草を一本取り出し、サンからクリスマスプレゼントでもらったZippoで火をつけた。(わっ、やばい。火がつくんだ!)

 僕は煙草の煙りを味わいながら(昔のこともあるから、あいつ恐いな〜)
 フッとそんな事を思い出していた。
 縁側から庭へ目をむけると、小さなアリ達が、不規則な線を描いて草むらの中に流れている。黒く艶やかな光りを僕は無意識にながめながら、ある日の、懐かしい、想い出に、引き込まれて行った……。

「平ちゃん! こっちだ、こっちに来てみ!」
 僕は椚林の中をサンちゃんの声のする方へ走った。
「見てみー蜜がいっぱいや! スズメ蜂もおるぞ!」
「サンちゃん、なんかみつけた!?」
「このハチをどうかせんと、ようわからん。良彦〜、棒をもってこい!」
 僕の後ろにいた良彦へサンちゃんは叫んだ。良彦はすぐ先にある農機具小屋へ行って、竹ぼうきと棒っ切れを取ってきた。
「よっしゃ! それをかせ!」
 サンちゃんは棒っ切れをとって、巨人軍の王選手の様に構えたかと思うと、飛び交うスズメ蜂に狙いを付けて
「ホームランだ!」と勢いよく振った。
 くるりと回った棒っ切れに一匹のスズメ蜂がみごとにヒット! とその瞬間。
「うわ〜!!」
 良彦にそのスズメ蜂が、弾丸の様に飛んできた。良彦と僕はビックリ!
「いて〜! さ、刺された〜!」
 スズメ蜂はサンちゃんに打たれても、最後の力で良彦の左腕にチクリとやったのだ。
「だ、大丈夫かー!」
「いてーっ、いたたたた!」
 良彦の顔は真っ赤になり、目は泣きべそでウルウルしている。僕は良彦の足下に落ちたスズメ蜂を
「このやろ〜!」とおもいっきり踏みつぶした。
 サンちゃんは、良彦の所へ来て
「泣くな! 男だろ、腕をだせ」と言って、蜂に刺された腕のところをギュッとつかみ、口で毒を吸い出した。
「サンちゃんそれで大丈夫かなー?」
「こうやっときゃ大丈夫! あとはションベンかけときゃいい。良彦、おまえはあぶねーけん小屋んとこに行っとけ」
 サンちゃんはそう言って『ニッ!』と笑った。サンちゃんは前歯が虫歯で黒くなっていて、『ニッ!』と笑うと、いつも色グロのちょっと恐い顔がすごく愛嬌のいい可愛い顔になる。僕と良彦はそんなサンちゃんの顔がとても好きだった。
「平ちゃん見て! こっちがわにスイギュウがいる!」
 さっきの椚の木の裏側に赤茶色の大きなノコギリクワガタが2匹黄色い舌を出して蜜をなめていた。さっそくそのノコギリクワガタを捕まえ、他に居ないか二人でよく見たが、アオカナブンとテントウムシしか見当たらなかった。
 僕はその椚をおもいっきり3回蹴った。すると『ボトッ』と何か草むらに落ちる音がした。サンちゃんは音のした所から
「おお! 平ちゃんすげーよ! カサダイがとれた!」
「カサダイ!」
 僕はあの焦茶色の少しいぶし銀な爺様みたいなミヤマクワガタがとても好きだった。
「サンちゃん、それ俺がもらっていい!」
「いいよ、スイギュウはうちと良彦でもらうよ」
 どちらもすごく大きくて、僕らは大満足だった。サンちゃんはさっき良彦が持ってきた竹ぼうきとスイギュウ2匹、僕は棒っ切れとカサダイをもって良彦の所へ自慢げに大股で歩いていった。
 いつのまにかヒグラシの声が、優しい風と共に僕らを包んでいた。
……10才の夏の出来事……

「なによ、ボーッとしちゃって! 昨日いくらつかったの?!」
 サンの声に僕は現在に引き戻された。
「う、うん? そんなにつかってないよ、まだもってるから……」
 僕はまた庭先のアリの流れを目でおって、二本目の煙草に火をつけた。
「おい、スイカができてるの知ってる? ちっちゃなやつだけどな」
「えっ、できてんだー、どこどこどこ?」
 サンはさっきまでの事は忘れたかの様に、子供っぽい瞳で縁側からスイカを探している。
 その姿は二人の子持ちの顔ではなくて、あの時のサンちゃんの可愛い笑顔に戻った気がして、僕は自然に笑顔がこぼれていた。


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Entry19

目を閉じて深く潜れ、高く飛翔する為に

 「誰も知らないけれど、この部屋には窓があるのよ」
 記憶の彼方、世界の一番深い所を探す様に響く少しひび割れたテナーボイス。階段下の軋む闇を抱えた半地下の物置で、その声の流れる先を探して私は汚れた両手を伸ばす。
「窓を探して開けるって事は必ずしも面白い事じゃないわ。見つからないかも知れないし、見つかったとしても、望んでいた景色が見えるとは限らない。それに窓を開ける段になったら、それまでそこそこ心地よかったその部屋に外の空気が入って来て不快になるかも知れないもの。
 それでも窓をあなたは開けなきゃいけないわ。だって、」
 だって?
 だって、何だっけ?
 四方を棚で囲まれた小さな部屋は、まるで砒素みたいに少しずつ私の中に浸透する闇を持ってる。この段ボールを動かして棚をずらせば地の壁が見えるだろう。だけど、そこに本当に窓なんてあるのだろうか。
 汗を拭って目を閉じた。
 工場の町の雑踏に混じって、風の流れる音が確かに聞こえた。

 世界にはひかりも風も届かない終末の場所と言うのが確かにあって、それが私の育った町だった。外への出口は失われ、誰もそれを探す事すら忘れて世界が終わるのを待っている。産業廃棄物で汚染された土で出来た道が町の中央を通り、母の働いていたハム工場はそこをずっと真直ぐに行った所にあった。
 アイロンの掛かったブラウスと姿勢の良い姿で、母はいつだって午後五時半の道を私に向かって歩いて来た。彼女はひどく自分勝手な女だったけれど、その時私に向かって笑いかけていたのは覚えている。
 彼女に捨てられる迄、私は五時になると、壁一面に棚が備え付けられている窓のない元物置の小さな部屋を飛び出した。そして母の笑顔を待ったのだ、
 他の男の元へ私を置いて去って行ってしまう迄。
 真夏の森が幾重もの深い陰影を持つ様に、彼女も闇と光とを持っていた。お嬢さんがそのまま奥様になったおっとりした女だった癖に、結局他の男の子供を妊って家を飛び出す無鉄砲さがあった。私を愛してくれたと思えば、恋をしてどうしようもなくなると、私を捨てる判断力しか持っていなかった。
 私は生涯「母を愛していた」とは言わないだろう。
 だけどそれは森の色を一つだけに絞れないのと同じ事だ。
 揺れる葉、光を弾いて乱舞する青揚羽蝶の群、風がそこら中に散らす蜜色の光、それらが一つの塊になって古代の神の様に荒ぶって居る、そんな七月の森を只一つの色だけで表現するのはきっと不可能だ。
 そう、私はいつも母の声を聞く度に見た事もないそんな森を思った。
 彼女の声がやがて還って行く先、世界で一番深い場所。

 私にとってそこは、そんな真夏の森だった。

 母が出て行った後、哀しみと憎しみとでは後者の方が耐える事が容易である事が判り、私は彼女を憎む事にした。そして彼女から貰った全てのものを捨ててしまった。手作りの洋服、金魚の付いた白い皿、あの声の記憶、真夏の森。
 私の中には大きな空虚だけが残った。
 それでも構わない、と思ったのだ。
 彼女に捨てられた過去を反芻するのは刺す様な痛みを伴った。それよりだったら痛みごと捨ててしまった方がいい、この冷たい空虚にだって私は耐えてみせる。
 少しずつ五時半の道に来るのが遅れて行った彼女を思った。上の空になり、夢見る様に遠くを見ていた彼女は、確かに恋をして居たのだ。
 私は一つの予感を抱いて日々を過ごした。七時過ぎても彼女が現れなかった夜、八つの私は一人で部屋に帰り、封筒に入ったお札と母の両親の電話番号を見つける。
 それで私は決めたのだ。
 恋と言うものがこんな薄汚い紙幣二三枚置いて子供を捨てて行くものならば、私は生涯恋等しなくていい。この窓のない闇で生き抜いてみせよう。
 そして私はそうした。遠方に居た祖父母に連れられて行った先の大きな屋敷で、広い部屋を与えられたが、結局、あの日々だって私はあの窓の無い部屋にずっといたのだと思う。大学に進むと奨学金とバイトだけで生活する様になり、祖父母との連絡も途絶えた。
 けれど、夏がやって来た。
 母が恋をした七月がもう一度、世界に巡って来たのだ。

 『江間です。
 七時迄待っていますが、それから俺は行きます。
 それまでに連絡をくれませんか。無かったなら、俺は諦めます。
 それじゃあ』
 雑然とした部屋に立ち尽くし、何度目かの留守電メッセージを聞く。
 耳の底で響くそれは母の声に似ていた。「世界で一番深い場所」を想像させるのだ。初めて会った時にそれを伝えると、彼は笑って答えた。
「じゃあ、いつか俺達は森へ行きましょう」
 それから良く二人で出かける様になり、彼は或る日「生家の傍に馬鹿みたいに大きな雑木林がある」と呟いた。
「だから俺達は、そこに行きましょう」
 私は笑った。彼の言葉は一々心地よかったのだ、硝子越しの美しいものみたいに。
 彼と私の間にはいつだって永遠に開かない窓があった。それがあの部屋の棚の向こうにあったものであろう事を察しはしたが、それをどうこうしようと言う気も特に無かった。
 暫くすると彼は時折酷く沈んだ目で私を見る様になった。そして「実家に帰るから俺達は別れた方がいい」と言い、頷く私を見ていた。
 硝子越しに与えられていた誰かの体温も私は失った。そんな風に失う事には慣れているつもりで居たのに、彼の留守電メッセージを聞いて私は電車に飛び乗った。
 母と暮らしていた小さな町の、あの暗い部屋目指して、私は鳴る心臓の音を聞いていた。

 崩れかけたアパートは取り壊される寸前だった。今は完全に物置になっているその部屋で、私は棚を動かしベニヤ板を取り外し、段ボールを畳んで窓を探す。
 きっと無い。
 最初からここに窓なんてないのだ、従って私が開けるべき窓は世界の何処にも存在しない。
 心の奥から囁く声を押し潰して棚から段ボールを下ろした。そこで私の手は一瞬止まる。それからばね仕掛けの人形みたいにがくがく本棚を揺らし、大きな音をさせて荷物ごと床に倒した。

「だって、窓を開ける事は、とても似ているのよ」
「なにに?」
 その三日後に私は彼女に捨てられるのだけれど、その時私はそんな事知らなかった。戻らない過去の中、あの声で彼女は私に向かって言ったのだ。
「恋をする事に。
 新しい世界を手に入れる事によ」
 私は彼女の言葉の意味は判らなかったけれど、その声が好きで聞いていた。そして意味が判る大人になる迄、母が言った事を覚えていようと思っていた。
「だからあなたはいつか窓を見付けて欲しいの」
 眠る私に彼女はその晩呟いたのだ。それは多分子供を捨てようとして居る母親の自責の念かも知れないけれど、私はその声にもっと透明な意図を見る。
 私が取り戻そうとして居る、世界で一番深い場所へと続く回路を見る。
「そして、それを開いて、新しい世界を見付けて欲しいの」

 「私の生まれた部屋には窓があったの」
 たった一度のコールで出た電話に、私は静かに話し出す。木枠で囲まれた小さな窓は随分と軋んで居て居り、私は力を入れて硝子を向こうへと押し出した。
「私は最初から窓のある部屋に居たのに、ずっと知らない振りをしていたの」
 窓が開く。
 世界に言葉が落ちる。

 彼の返答を待つ間、私は私の中の空虚が燃え上がる真夏の森で満たされるのを感じた。

 私は目を閉じ、長い事求めて来た世界で一番深い場所に、自分が今確かに居る事を知った。

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