第20回3000字小説バトル全作品一覧

#題名作者文字数
1衝撃の肉うどんあきぶっく2577
2ミナモ高橋雄一郎2598
3空き領域ラディッシュ・大森2998
4No.22jaco2923
5坂口与四郎3000
6夢、あるいは夢の続き青野 岬2929
7地震女オキャーマ君2997
8『陽だまりの色』橘内 潤2488
9チョコレート・サマーAme3000
10猫弾きと街灯詩人羽那沖権八3000
11乗合バスにて紺詠志3000
12削除
13ヘテロるるるぶ☆どっぐちゃん3000

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Entry1

衝撃の肉うどん

私はかつてW大学に通っていた。通っていたとは言っても、多くのW大学生の例にもれず、授業などにほとんど顔を出さず、毎日のようにどこかで飲み歩いていた。特に、高田馬場にあるさかえ通り界隈の居酒屋や焼き鳥屋へは、大学のキャンパスよりも頻繁に足を運ぶという有り様であった。
そんな私が最近になって高田馬場に住むようになり、懐かしのさかえ通りを歩くようになると、私の学生時代にはなかった異質な店ができていることに気づいた。
さかえ通りの奥深くに位置するうどん屋である。わりと小きれいな店構えなのであるが、へんぴな場所に建てられているわりに、いつも大勢の客でにぎわっているのである。

ある日、「今日こそはうどん屋の人気の秘密をあばこう」と決めた私は、小雨の降りしきる中、傘をさしてさかえ通りに足を向けた。お昼どきを過ぎているにもかかわらず、街は学生を中心とした人の群れで溢れている。自意識過剰の私は「自分がうどん屋に向かっていることを誰かが見ているのではないか」とおびえながら歩いていたのだが、幸い誰にも目をつけられることなくさかえ通りを進み、例のうどん屋の前までやってきた。
店内には若い男女連れが1組、大学生の男が2人、そして店員らしき者が3人ガラス扉越しに見える。

店内へと入った私はカウンターの座席に腰かけ、メニューを手にとった。
そんな私のもとへ店員Aが水を持ってきて、私が注文を出すのを待ちはじめる。年の頃は20歳くらい。中肉中背の男。
「メニュー選びで手間どって、店員になめられてたまるか」とつまらない意地を持った私は、店員Aからの催促を受ける前に、メニューに最も目立つように書かれている肉うどんを注文することにした。私の注文の仕方に不自然なところはなかったはずだ。
しかし、店員Aは私に思いもかけない質問を投げてきた。
「玉子はおつけしますか?」
「肉うどんに玉子か。う〜む。」
悩んでしまった私は、日頃の食生活が貧しいことを考えて、「玉子もお願いします」と答える。
すると店員Aは、私の声が届いているであろうにもかかわらず、カウンターの中にいる店員Bに向かって「にくたまうどん、いっちょおぉ〜う!」と大きな声で叫んだ。
その声を聞いた店員Bは、麺を無造作に鍋の中に放りこんで茹ではじめる。

私は「卵をつけると、いくらアップになるんだろう?」ということを気にしだした。要するにドケチ性なのである。
手元のメニューには「肉うどん 350円」としか書かれていない。
そこで店内の壁へ目をうつすと、「玉子 オールタイム無料サービス」と書かれた壁紙が視界に入った。
それを見た私は、すっかり得した気分になってしまった。
「いや〜、玉子も頼んどいてよかった」
人の幸せなんて、こんなことの積み重ねかもしれない。

そんな甘い余韻にひたっていた私を現実に引き戻すように、店員Aが「肉うどん、350円になります」と集金にやってくる。
店内をきょろきょろと見回していたところへ、思いもかけず料金先払いであることを知ったものだから、私はついあわててしまった。
これでは“いちげんさん”丸出しである。
ズボンの尻ポケットから財布を取りだし、心を落ち着かせるように「100円、200円」と硬貨をゆっくり数え、店員Aに350円を手渡した。
すると、店員Aの口もとがかすかに歪むのが見えた。
彼がなぜ笑ったのかは定かではない。あるいは私の思い過ごしであったかもしれない。

支払いから1分ほどたったころだろうか。
背広を着た中年のサラリーマンが店内に入ってきて、席に座るなり店員Bに向かって「肉玉うどんをひとつ」と慣れた物言いで注文した。
「肉玉うどん」という略称を知っていること自体、常連のあかしである。
常日頃から、どんな店でも常連のようにふるまいたいと考えている私にとって、このサラリーマン氏のふるまいは、私と彼の格の違いを見せつけ、私の心を奈落の底に突き落とすに充分なものであった。

カウンターの中に視線を戻すと、店員Bはあざやかな手つきでうつわに麺を盛り、その上に大量の肉をのせていた。その量に驚いた私は「350円であんなに肉が入るのか。これがこの店の人気の秘密かもしれない」と素直に感心してしていた。
しかし、そんな私の心のうちをあざ笑うかのように、店員Bはさらなる奇行へと走る。
すでに麺が見えなくなるほど肉が盛られている肉うどんの上に、さらに肉をのせだしたのである。そして玉子を割り、こぼれないように細心の注意を払って上からかけると、「お待ち!」と威勢のよい声で私の前に肉うどんを差し出した。
私の前に置かれたのは、うどんと言うよりは肉塊といった方が正しいかもしれない。
麺つゆは表面張力を利用して、うつわからこぼれ落ちまいとしている。
調理しているところを見なければ、私はうつわの底に麺があることさえ疑っていただろう。

その肉うどんを一目見たときから予想できたことではあるが、私は肉うどんを食べるのに悪戦苦闘する結果となった。
上の方にのっている肉をある程度かたづけないことには、麺を食べることができない。したがって、最初のうちは肉だけを食べることになってしまう。
さらに、うつわをカウンターの上段から下段に移すときにつゆを少しこぼしてしまった私は、店員Aの冷たい視線を浴びてしまったこともあって、これ以上つゆや肉をこぼすことが許されない状況となってしまったのだ。店員Aの視線を気にしながら、きゅうくつな食べ方を強いられては、肉うどんのおいしさも半減である。

肉の質としては牛丼屋の肉といい勝負であろうか。しかし、量的には牛丼特盛の3倍くらいである。ということは、牛丼特盛を600円とすると、この肉うどんは1,800円分の肉がのっていることになる。
後になって店員が「実はあの肉うどんは特盛だったんで、1,000円追加をお願いします」と言われてしまうのではないか、などといらぬ心配をしていた私であったが、肉玉うどんをきれいにたいらげると、しばしの間、ボーッと至福の時にひたってしまった。

さらに私の後から入ってきた学生二人組が、わけもわからずそろって“肉玉うどん”と“おいなりさん2コ”を注文してしまう。
彼らは数分後、カウンターの上に置かれた肉塊を目の前にして、完全に固まっていた。
「あの細い体では、とてもおいなりさんまでは食べきれまい」と胸のうちでほくそ笑んだ私は、妙な優越感をもって店を後にした。


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Entry2

ミナモ

 僕は恋愛が苦手だ。駆け引きするのも好きじゃない。とても疲れるんだそういうこと。自然に恋に落ちたらいいのに、なかなかそうもいかない。恋愛をする前に恋愛ってなんだろうと考えるのが僕の性分だ。決して難しい性質というわけじゃない。ただ、考え込んでしまう。僕はいままで恋愛をしてこなかったわけじゃない。どちらかといえば人並み以上に恋をした経験があると思う。でも、毎回始まっては終わりを繰り返す。僕は疲れ切ってしまった。だがしかし、また僕は恋をしている。

 ミナモと出逢ったのはインターネットの世界だった。彼女は毎日メールを書いて寄こしてくれる。僕もまたまめに連絡を取り合った。顔もわからず声も知らないのに僕は彼女に好意を持っている。案外、メールだけのやりとりのほうが本音を言いやすいのかもしれない。ミナモと逢いたいと思ったこともない。ただただ、メール上での付き合いなのだ。ミナモはよく詩を書いてくれた。詩を読む限り年を取っているように思える。ミナモの詩には季語がいつも入っている。十代でないのは確かだろう。そう、僕はミナモの年齢さえしらないのだった。僕のハンドルネームは眠り王子と言う。ミナモがネーミングしてくれた。ハンドルネームとはわかりやすく言えばあだ名のようなものだ。案外眠り王子と呼ばれることに気に入っている。実際、僕は常に眠いのだ。ナルコレプシーというわけじゃないけれど。

 ミナモと僕の共通点は精神病を患っていることだ。僕は統合失調症、ミナモは躁うつ病だ。ミナモは僕の世界に興味があるのだそうだ。特に幻覚などの話を聞かせて欲しいと良く頼まれる。断る理由もないので、僕は幻覚があればそれをミナモに知らせることにしている。

僕がどうしてミナモに恋したのか。それは美しい詩のせいなのかもしれない。いや、おそらくそれは間違いがない。僕はミナモの病気に興味を持つというよりは、ミナモが書いてくれる詩に興味があるのだった。ミナモの詩は感情が良く表れている。躁のときの詩とうつの時の詩は極端に違いがあるのだ。躁のときはショッピングの話しが多い。しかし面白いのはそんな時の詩でさえ季語が入っていることだ。ミナモに一度聞いたことがある。どうしてそんなにたくさんの詩が書けるのかと。そうするとミナモは言った。シュルレアリスムの感覚なのよ、と。僕にはその意味がわからなかった。
 ミナモと出逢ってまだ三ヶ月くらいだが、メールの数は二百通を超えている。ミナモは一日に三回も四回もメールをしてくることがある。僕は一日一回しかメールしか出さない。ミナモの発想力にはついていけない時がある。今は躁が若干出ていると思われる。僕の病気は正体が掴めない。まるで空気を掴むような感覚で、いろいろな症状が出てくる。幻聴であったり、幻視であったり、妄想であったり、症状はまとまらない。そんな僕をミナモは面白いという。僕はミナモに年齢のことも聞かないし、趣味がなんであるかも聞かない。詩を読むのが楽しみなのだ。そして僕はミナモの詩に恋をしている。もう恋はしたくないと思っていたけれど、蓋を開けると恋をしているのだった。そんな自分の移ろいやすさに飽きれてしまう。でも僕はミナモのことが好きだ。

恋というのは非常にやっかいだ。いつも胸に切なさがあり、落ち着いていられない。僕はいつの間にか罠にはまってしまったようだ。けれども不思議と逢いたいという気持ちはなかった。僕は本当に詩に恋をしているのだった。

僕の中ではよくあることだけど、音楽ならばCDで十分なのだ。コンサートやライブに行った経験はない。CDさえあれば満足で、好きな歌を生で見たいとは思わないのだ。それが恋にも当てはまる。詩が好きであれば、それで十分こと足りるのであった。僕はリアルより空想を楽しむ性質なのかもしれない。

空想の世界には歯止めがない。あらゆることが可能でどこまでも考えてゆける。もはや僕にはミナモの容姿など気に留めていないのであった。詩から発せられるメッセージを頭の中で膨らまして、なんだかどんどん先にいってゆくような。ミナモは言った。

「眠り王子のそういうところが好きなの」

 何を考えてこんな言葉を言えるのだろう。僕はミナモを不思議な人と定義付けた。確かにそういうところが好きでなければメールのやりとりは続かなかっただろう。ミナモは僕を不思議に思っている。また僕もミナモを不思議に思っている。二人の関係は奇妙だった。奇妙と言えずにこの関係は成り立たないだろう。

 ある日、ミナモは突然、メールを書かなくなった。僕が何度もメールをしても返事がなかった。初めの内は風邪でもひいているのかとおもったが、一週間も連絡がないと心配になった。もしかして交通事故にでもあったのかもしれない。もしかしてうつになったのかもしれないと、僕の想像は大きく膨らんだ。こんなときにも歯止めがかからず、僕はミナモにメールをし続けた。「ミナモ、どうしたんだい」

「ミナモ、調子が悪いのかい」

「ミナモ、事故にあったのかい」

 止め処もなく空想は続いた。毎日の詩が突然に断たれたのである。恋は一瞬にして真っ暗になった。

 幻聴が聞こえてくる。思考を首の後ろ辺りから吸い取られて、いろんな人に批判をされる。

「君が悪いのだ」

「悪魔主義者め」

「ミナモは死んだ」

 僕の内部は崩壊しつつあった。ミナモが死んだのである。残された詩を何度読んでも、もう恋は終わってしまった。ミナモがどうしてメールを書かなくなったのか。そのだいぶんをうつ病のせいにしたが、スムーズではなかった。

「ミナモは死んだ」

そんな声が聞こえる。詩が届かなくなり僕は病の中に落ちてしまった。ミナモは死んだとそのことばかり考えた。詩とミナモはイコールなのである。ミナモ自身が死んでいなくても詩が届かなくなったら死んだことと同じなのであった。僕は急に恐怖に覆われた。幻聴が聞こえる。何もかもが手に付かなくなった。

「だからいったじゃないか・・・」

 僕はどうすればいいのかわからなくなった。僕はコンピュータを廃棄した。完全にミナモと離れることにした。恋は僕には向いていない。ミナモは僕のことをどう思っているのだろう。電話番号も知らないし、住所も知らない。結局、僕に残ったものは疲れきった身体があるだけだった。

 街ですれ違う女性がみんなミナモに思えた。僕の空想は止まらない。


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Entry3

空き領域


空き領域

 
医者は、私の耳の先端をアルコールでふいて、コンピューターからのびている端子をはり付けた。


「気持ちを楽にしてください」

医者はキーを軽やかに押し続ける。

さっき街角で声をかけてくれた看護婦さんは、いつの間にかいなくなった。

ピンク色の看護婦さんの制服みたいなのが、よく似合っていた。

池袋の雑居ビル街を薄ぼんやりと歩いている僕は、突然声を掛けられ、それ

もすっごく可愛い子だったんで度肝を抜かれた。

「顔色が悪いみたいですが、どうかなさいました?」

ぞっとするくらい色っぽかった。

エレベータにのって、小さな部屋に彼女は僕を案内した。

白衣を着た大男が聴診器を首から下げて、鷹揚に僕を手招きした。

いつの間にか看護婦さんはいなくなっていた。

あの看護婦さんは、いつ出てきて、僕を看護してくれるんだろうか。

もう少し辛抱してこのおやじとつきあっていれば良いんだろうな。

「うーーん」

医者はモニターを見たまま首をひねって、考え込んでいる。

「ななんか、ヘんですか?」

医者は、哀れむような目で僕を見て、ため息をついた。

「うーーん、はい、この円グラフをごらんください。

この赤いところがあなたの自己評価です。

つまり自分を良いと思っている値です。

十五パーセントです。平均は三十パーセントだから、かなり平均を下回っています。

これじゃ、身内に次々と不幸が起こる訳です。体調も思わしくないでしょう。」

「そういわれれば、思い当たります。どうしたらいいんですか?」

「大丈夫です。私にお任せ下さい。」

医者は私の顔も見ずに、モニターを見たまま作業を続けている。

うーーんとか、はーとか医者が言うたびに私は不安で一杯になった。

「はい、お待たせしました。百引く十五は・・・」

医者はノートの端で百引く十五の計算をして、八十五と答えをだした。

そんな計算も暗算でできないのか?

「自己評価十五パーセントの残り、八十五パーセントの自己評価空き領域にこれだけの者が巣くっています。」

モニターをスクロールしてみせる。

文字化けにしか見えない画面を延々スクロールしてみせる。

「?」


医者は苦渋の表情で、私につげた。

自己評価欠損空き領域にこれだけ一杯、巣くっているの現象を見たのは初めてです。

「なにがその巣くっているんです。」

「気を確かにお持ち下さい。良いですか、言いますよ。

巣くっている者は、おいなりさんのきつね。関ヶ原の戦いで死んだ雑兵。

尻の穴から空気を入れられてぱんぱんに腹がふくれているカエル。

交通事故で亡くなった浮遊霊が三体。

シマヘビ一匹。

はっきりしたのは、そのくらいで、戻ってくるのも入れるとざっと十二体くらいですね。」

「戻ってくるのって?」

「掛け持ちしていたり、出張していたりするのもいるんです。まめなのがね。」


「巣くっているって、どうゆう事なんですか」

「これは失礼、専門用語です。ちまたでは取り付かれているとか、たたられているとか、乗り移られているとか、憑依されているとか・・・」

「きゃああああーーたすけてください!先生どうか助けてください!」

「だいじょぶですよ。今は治療法があります。」

「まずは自己評価欠損空き領域、面倒なので、以後「ケツリョ」と略させていただきます。

そのケツリョに霊たちがまだ完全に巣くっていない場所が、二十パーセント弱あります。

その領域に、シリコンを注入して、もうそこには霊が入らないようにします。

もちろん、おっぱいデカくするシリコンをいれるんではありません。概念・・・・あ!あららら!」

「どうしました!」

「今説明してる間に、でっかい生き霊が、ケツリョに無理矢理はいちゃました。」

「わーーー!どうしてくれるんですか、先生がちんたら説明なんかしているから・・」

「その生き霊の履歴は、はいこれ。映像でみるをクリックして、はい、これが顔。」

「わーー真理子だ」


「真理子さんはかなりパワーのある生き霊ですよ。彼女は、合コンであなたと出会って遊ばれ、すぐに捨てられて、

恨み骨髄とあります。

やーこれはまずい。真理子さんの背後に中年女性、お母さんでしょうか、生き霊の母子二段重ねという、珍しい現象

です。二段重ねの上に、怒りのオーラが全体を包んでいます。」

「先生、たすけてください!」

「大丈夫。これで巣くられたケツリョが八十五パーセント、自己評価領域十五パーセントでびっちり詰まったんです。

なまじ空きがあるより、治療するには、こちらの方が好都合なんです。」

「もし、ほって置いたらどうなるんですか、僕は。」

「もちろん、殺されますが、簡単には殺してもらえません。生でだらだら殺されるって、感じでしょうか。苦痛を最大限引

き出すってかんじでしょうか。」

「ぎゃーーお願いです、早く直してください。」

「一挙に外科手術って手もあるんですが、あまりおすすめできません。

背骨の上から4番目の直ぐ右奥に、動脈と静脈が交差するちょっと手前にリセットボタンがあるんですが、これはかなり難しい手術なんです。

こないだも一人、ええーいとばかりにやっちゃったはいいけど動脈も切っちゃって、参りました。

ま、ごまかしましたがね。

やっぱり手術は、運勢がいいときしかやりません。

あん時、僕の星座、牡牛座なんですが、最低の運勢だったのに、手術を強行してしまった。

ま、薬や、運動や、食事で直しましょう。


はい、これがお薬。一ヶ月分。薬の名前?「気の持ちよう」です。

これが自己評価をあげるためのトレーニングエキササイズ・プログラム。

これが自己評価回復のための食品宅配サービスの契約書。

これが自己評価再起動のマニュアルの手引き。

あと、これはオプションでわきが治療サポートサービス。

足の裏臭治療サポートサービス。

口臭治療サポートサービス。

あすこの匂い治療サポートサービス。

いろいろ取りそろえてあります。

お支払いはローンで、処理させていただきます。


なお悪霊、浮遊霊、生き霊のあたらしい巣くう先が見つかり次第、治療にかかります。」

「巣くう先って?」

「あんたから出てもらって、そっちに移動してもらうんです。」

「うそー」

「今こんな時代だから、倒産した会社の社長とか、リストラサラリーマンとか大勢応募があるんだけど、何せ需要も多い。おっつかない。

順番待ちで、一年先になるか、二年先になるか、もっとも金額を上乗せさせていただければ、それなりの御便宜をはかりますけどね。へへへ」



「もしかして、これって、悪徳商法?」

「えーー!あんちゃん、もしかして、これって、ひやかし?

なめてもらわれちゃったんでしょうか。おれっちぃ。

こんなに懇切丁寧にあんたの事を思って親身になっていたのに、今更冷やかしでした、はい、さようならはないでしょう。

あんたは一応一人息子だし、親のぼろ家処分すりゃ、五千万くらい払える計算です。

あなたに成り代わって、ローンもくみ終わってんだよ。」
 
「何であんたがそんなこと出来るんだ。」

「さっきあんたの脳の情報をコンピューターに全部コピーしたんだよ!

簡素なできの脳みそでしたよ。ケケケケケ

なーにいちゃんよー。

あっしら、人間の脳みそにセキュリティーかける事が出来るようになるまで、当分これで稼んだよ。」

「悪魔だ」

「何とでもいいな、もう契約はすんでんだ。さっさとけいれ。

もう、くんな!あ、もう一冊これもつけといてやるよ、持っていきな。」

「何ですかこれは、ポッチ教入門書。」



おわりです。皆さんもきおつけましょうね。


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Entry4

No.22

途方に暮れるというが、意識はある。意識はあるのに、途方に暮れている自分が彼是数時間いる。足元には一箱分以上の煙草の吸い殻が無造作に捨てられている。とりわけ自分が好きな場所でも無く、黄昏るのに最適な場所というわけでもない。今朝女と逢う約束で待ち合わせた某駅の出口だ。数十分後れて女は現れたが、改札の向こう側から姿が見え掛けたその時から、今日は雰囲気が違うとそう感じた。案の定、改札から出てきた女は俺に黄色い小さな封筒を「読んで」と一言言ってからと手渡して、颯爽と出てきた改札をまた通り数分の内に俺の前から姿を消した。俺は挨拶も出来ずじまいのまま、左手に吸い掛けの煙草、右手に手渡された手紙を持って呆然と立ち尽くした。時間の流れが止まったかのようでもあった、朝ということもあり人が込み入っていて、改札には人の出入りが止まることなく続いていた。俺は人の流れのど真ん中に立ち尽くし、改札の流れと女の姿が最後の最後まで見えなくなるまで我を失っていた。

気がつけば、煙草がフィルターまで焼き付け熱が指に伝わってきた、その時、熱いと手から煙草を手放したときに自分は我に返った。右手には手紙が残されており、手紙のことも数分の間は忘れていた。煙草を取り出そうとポケットに右手を突っ込んだ時に手紙の感触を思い出したのだ。人の流れの真ん中で、手紙を持っている俺がいる。小さな駅だけど、そんな自分の姿を客観的に見ることができて、何故か苦しくなった。そして後ろを振り返り、目に付いたベンチに腰を降ろして封筒の封を切った。

「ごめんなさい。きっと口では言えないので手紙にします。面と向かって言えばきっと私は泣いてしまうから、涙をあなたの前で見せたくないので、手紙という形にしました。あなたにはあなたの言い分がきっとあると思います。話をすれば拗れて、討論になり、喧嘩して、結局別れてしまうでしょう。最後の最後に喧嘩して終えたくないから、手紙ということで許してください。

単刀直入に言わせてもらうと、あなたとはもうこれ以上一緒に居る余裕が私にはありません。あなたの顔も、声も、頬の黒子も、耳の形も、冷たい手も、大きな足も、少し曲がった背筋も、全部好きです。これから全てを失うと思うと涙が出て止まりません。でも、離れることを決意したのです。あなたに縋っていては私はもうこれ以上前進出来ないと知りました。付き合ってからの二年間、私が得たものは、あなたという以外何もありません。勉強も出来ず、資格も取れず終いで、私本来の夢とというものはあなたという存在の為にずっとずっと遠くに行ってしまいました。あなたのせいということではありません。両立出来ない自分がいけないのです。これからあなたと一緒にいれば、きっと全てあなたの所為にしてしまうでしょう。私はそんな醜い女です。だから、あなたとはもう一緒にいれません。好きという気持ちでは一緒に生活出来ないということに気が付かなかった私がいけないのです。

あなたのことは忘れます。あなたに関わっている全て物を家から排除しました。写真も手紙もプレゼントも電話番号も何もかも捨てました。私はこれから新しい人生を送ります。新しい人を探そうというわけではありません。人生は孤独なのです。例えあなたとずっと生活することが出来たとしても、あなたが死んだら、私に残る物は無いのです。だから、自分自身で生き甲斐という物を見つけたいと思います。

今までのことはありがとう。そして私のことも忘れてください。さようなら。彩」

という内容だった。どうしてか、ぐうの音も出ないほど全ての文章に納得した。電話を掛けようともしなかったし、彩を追いかけようとも思わなかった。手紙を読み終えた時に財布から彼女から貰った名刺を手紙と共にごみ箱へ放り投げ、そして席を立った。放心状態にはなるまいと、すぐさま煙草に火を点け、駅の出口で煙草を吸った。

壁に寄りかかりながらずっと人の流れ、車の流れ、雲の流れを眺めていた。灰を落とすの忘れるほど、瞬きするのを忘れるほど、放心状態だった。放心状態になるまいと吸った煙草など全然役に立たなかった。目に映える物全ては後頭部から抜けていき、思い出の欠片にもなりやしないほど記憶は無く、ただ見ているだけという行為がそこにはあった。ただ見ているだけという行為などそうそう出来ることでは無いはず。放心状態とはまさにこのことだったと俺は思う。

煙草を無造作に吸いまくる自分がいた。肺が重くなっていくのを感じていても、止めようとは思わなかった。恐らく、このままガンにでもなって死んでしまえばいい等と思っていたのだと思う。煙草の本数は増すばかりで、煙草のせいで目まで充血するほどで、目眩も時折訪れたりした。たかが女に振られただけなのになんで弱気になってんだよと、自分で会話をしてみるが言葉は返ってこない。もう一人の自分は途方に暮れているから返事をする余裕などないからだ。俺は冷静に自分を見つめ返してみるけれど、その場所から動こうとする自分はどこにもいず、ただただ太陽の位置だけが時計の時針のように位置を少しずつずらしている様子をずっと目で追っていた。

涙や溜め息などは微塵も出なかった。むしろ、彼女を失ってよかったのかもしれないなどと考えてもみた。手紙の内容が何度も何度も頭の中を往復して止まなかった。そして、その内容事体、俺自身も感じていることだった。俺には夢があるはずだった。でも、彼女と付き合ってから上手くいかなくなった。いつもその夢を彼女に聞かせ、そしてうんうんと肯く彼女の姿を見て夢を叶えた気分になっていたのかもしれない。そして、そんな話をしていた自分は紛れも無く何も出来ずにいた自分だった。絵描きになりたいと、物心付いた頃から夢見だし、有名ではないが無名の賞にもたまに入賞したりしていた。毎日毎日、時間の有り余る限り絵を書き殴り、失敗すれば成功し、成功すれば失敗の繰り返しだった。でも、希に自分でも吃驚するほどの絵が描けた時、自分は間違っていなかったと思えることができるのだった。しかし、彼女と出会ってからまともな絵が描けた試しはない。むしろ、絵に携わる時間は昔に比べてずっと減った。俺は彼女にせいにしたくなかった。俺はこんな程度なのだろう。きっと世にでるような人間ではないんだと、そう思っていた。だから、彼女の存在が全てでもあった。絵は二の次で、彼女が一番だった。しかし、彼女は違った。彼女は自分の夢を優先して、俺から離れて行った。思い切った行動だと俺は思った。今俺が彼女を追いかけたところで、彼女の心はきっと変わらない。もう、俺なんかでは変わらないのだと、俺にはわかっていた。だから、追いかけなかったし、電話もかけなかった。自分の駄目さには気付いていたし、頼りないことくらい昔からわかっていた。それでも、彼女は付いてきてくれていた。弱い男の唯一の支えだった。今はそれが無い。だから俺は壁に寄りかかることしか出来なくなっていた。

もう夕方になり、時間を忘れるほどその場所に佇んでいた。最後の一本の煙草を吸い終えた時、手紙も捨てて帰宅する人達の流れの中に足を踏み入れた。


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Entry5

 ああ、俺の話がききたいというのは、あんたかい。もう少し、大きな声で話してくれ。こっちの耳も、そろそろがたが来てるんだ。こんな遠いところまでよく来たな。まあ、あんた達には距離なんか関係ないんだな。知ってるよ。インターネットで今話している会話や写真なんかを今すぐ全部送るんだろ。まったく便利な世の中になったよな。そうそう、俺の話だったな。悪いな、最近考えが散漫になりがちなんだ。

 そうだな、十年ほど昔のことだ。俺は町に買い物に行った。町はいつもとあまり変わらない感じだった。子供が道端で犬を追いかけて遊んでいたよ。俺は犬が大嫌いだからよく覚えているよ。茶色い毛の犬だった。俺は買い物をしていたよ。まず、食料を買った。次に、次に、何を買おうとしていたんだろう。あの日のことは忘れるはずないのに、こうやってだんだん忘れていくのだな。いや、年なんか関係ないよ。あれはもう、魂に刻みつけられているのさ。忘れるということは、俺の死がだんだん近づいて来たということさ。ああ、天気が良かったことは良く覚えているよ。あんなに綺麗な青空は、俺の人生の中でもそう多くはない。そんな穏やかな日だったよ。いきなりの爆音で目の前が真っ赤になった。何かが飛んで俺の顔に張り付いた。それはどろりとした小さな肉片だったよ。男か女かわからないが悲鳴が聞こえた。俺は顔を触り、手を見た。俺以外の血で手は赤くなっていた。今度は俺が悲鳴をあげたよ。何度も何度もあげたよ。俺はその場にしゃがみこんだ。何度も何度も声をあげた。俺に気がついた警官は、ハンカチを貸してくれたよ。顔をふいた。警官は、叫びつづける俺に怪我が無いことを確かめると、とりあえず非難させようとした。俺は拒んだ。離れてはいけないような気がした。しかし、警官にがっちりとつかまれ、俺は叫びながら引きずられていった。そう、あんた達みたいなやつらにカメラを向けられたね。俺は最高に滑稽だったよ。死んだやつらの中に知り合いもいないのに、俺は叫びつづけていたんだ。家族が迎えにくるまで俺は叫んでいたよ。警官は狂人扱いさ。家族の顔を見て俺は倒れたらしい。ここから記憶がないんだ。 でも、本当の地獄はここからだったんだ。もし、死んだやつらの中に知り合いがいたら俺は悲しみにくれながらも、いつかは傷が癒され、人生を歩めただろう。でも、あの中には知り合いがいなかった。わかるか? 死んだのは知らないやつばかりだったんだ。俺が死んでもおかしくなかったんだ。俺の血や肉がバラバラにあたりに飛び散って、誰かに降りかかってもおかしくなかったんだ。
 俺は、あの日の自分の悲鳴が耳から離れないんだ。あの時叫んでいた知らないやつらの声ではなく、俺の悲鳴が耳から離れないんだ。死んだやつらは悲鳴をあげることもできないんだ。俺は自分の声で本当に気が狂いそうになった。だから、片方の耳を切り落とした。少しだけマシな気分になったよ。そして、俺はもう少しで死ぬ。やっと俺は楽になれるんだ。あの日の自分の声をもう聞かなくて済むんだ。あの日の俺は、叫ぶことによって自分の生を確かめていたんだ。俺は生きている、あいつらは死んでいる。俺は最低の人間さ。もう片方の耳だって、切ろうと思えばいつでもやれた。でも、家族のために俺は我慢した。できることなら、俺もあいつらのところに行きたかった。でも、俺の信仰が許してくれなかった。俺は十年も生き地獄を味わった。やっと楽になれるんだ。

 え、死ぬのが怖くないかって? 
 あんた、頭がいいのにバカだな。俺の話を何もきいていないのだな。いや、この感覚は俺にしかわからないのだろう。あんたみたいな傍観者にはわからないのだろう。おっと、そういう俺も傍観したことでずっと苦しんできた。今でも苦しい。あんた達はいいな。手にした機械で、いつでも誰とでも感情を分け合える。あの日の俺は一人ぼっちだった。ただ一人生き残ったようなもんだ。本当、俺も一緒に逝けばよかった。あと数メートル先にいれば俺も一緒に吹っ飛んだのに。どうして神はこんなに小さな俺を苦しめるのだろう。なあ、あんた、頭がいいんだろう。そんな文明の利器をたくさん使いこなして、立派なジャーナリストとして活躍してるんだろう。俺なんかの数倍、いや数百倍も知識をもっているんだろう。だったら教えてくれよ。なんで俺は自分の生にこんなに悩まなければならないんだ? あの日、俺はちょっと離れた場所にいただけだ。なんで生きているのに、孤独感に襲われるんだ? あの日の俺の悲鳴しか俺の耳には聞こえないんだ。なんで、俺は病気になるまで待たなければ死ぬことすら出来ないんだ? 俺は十年も眠れない日々を過ごしたんだぞ。なあ、教えてくれよ。

 なんで黙ってるんだ。ああ、あんたにも答えられないことがあるんだな。違う。すまない。あんたじゃなくても、俺の質問には答えられないだろう。もう少ししたら、俺は全てを教えてもらえるんだ。その日がすごく楽しみなんだ。家族に会えなくなるのはさみしいが、いつかはまた会うんだ。

 俺は思うんだが、あんたの仕事は真実を伝えることじゃなくて、俺のような頭のおかしいやつを少しでも減らすことなんじゃないか。真実って言うのは、教えることじゃなくて、体で感じることなんだ。だから、真実を伝えるということは相手に体験させない限り、無理なことだと俺は思う。でも、俺の体験を伝えて、俺みたいなやつを減らすことは絶対に無理なことじゃないんだ。


 悪かったな。ずいぶんと意地悪を言った。俺はあんたがうらやましいんだ。国は豊かで争いもなく、何一つ不自由が無い。あ、違うのか? それなりに不幸せなことがあるのか。どうせ、贅沢な悩みなんだろう。やっぱり俺達とは次元が違う。俺は卑屈になってこういっているのではない。実際に、おまえ達の悩みは贅沢な悩みなんだろう。そんな立派なカメラを見せられて、「大変なんですよ」と言われても、この国のやつらは誰も信じんよ。

 ああ、今日は天気がいいな。あの日と同じ、貫けるような青空だ。あんたもこんなジジイを写真に撮るより、綺麗な女でも撮ったらどうだ。こんないい天気がもったいないぞ。

 ああ、今日はずいぶんと気分がいい。異国の若者と話しをするのも良いものだな。俺は、あんたの望む話は何一つ出来なかったと思うが、あんたも楽しんでくれたかい?
そう、良かった。お世辞でもうれしいよ。多分この話をするのはあんたが最後だ。俺は、今までのやつらがこの話をどうしていたのか全然知らない。あんたがどうするのかも見当もつかない。でも、あんただったら、うまく伝えてくれるんじゃないかと思う。でも、俺はもう少しで死ぬから本当にそんなことは興味がないんだ。早く、楽になりたいだけだ。

 俺の話は大体伝えたと思う。もういいか? 少し疲れてきた。ああ。すまない。あんたの好きにしていい。そうだ、最後に一つだけ訊いていいか? 
どうして俺は生き残ったのに、幸せになれなかったんだろう?

「貴方は、優しすぎたのですよ」

そうか。よくわからないが、涙が出てきたよ。あんたが言うのなら、きっとそうなんだな。そうか。そうか。そうか。そうか。



 老人は、私の出国後まもなく亡くなった。老人は一生自分の悲鳴が忘れられなかったが、私の最後の言葉が、老人の一番望んでいた声であればよいと切に思う。


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Entry6

夢、あるいは夢の続き

 高志がこの世を去ったのも、こんな静かな雨の夜の事でした。
 風はかすかに海の匂いがして、銀の糸のような雨は色付き始めた紫陽花の花びらをそぼそぼと揺らしていました。私は泣く事さえ出来ずに、白い布をかけられた彼のそばでただ呆然と佇み雨の音を聞いてたように思います。どうしたのでしょう。今夜は、それがまるで昨日の事のように妙に懐かしく思い出されてなりません。

 ちょうど一年前、私は当時付き合っていた彼を胸の病で亡くしました。発病、入院からわずか半年あまり。高志はまだ三十歳という若さで志半ばのまま、ひとり彼岸へと旅立って行ったのです。
 それからしばらくの間、私は絶望の淵で毎日泣きながら過ごしました。突然、自分の腕が根元からザックリと切り落とされてしまったような気がして、あるはずもない腕を探してその深い喪失感に苛まれました。私は彼の死をなかなか受け入れる事が出来ずに、仕事も辞めてひとり、暗闇の中でもがいていたのです。
 
 ある雨の晩の事です。毎日泣き暮らす私をあの世で見兼ねたのでしょうか。高志が私に逢いに来てくれたのです。
 人々のざわめきも街の喧噪も、全ての気配をあたたかく包み込むような雨が降っていました。あの日と同じ、銀の蜘蛛の糸が舞うような雨が。
 彼の姿は見えませんでしたが、私には彼の存在が痛い程伝わって来ました。
「高志……高志なんでしょ?私に逢いに来てくれたの?」
 私は、彼の魂が遠い涅槃の國からわざわざ逢いに来てくれた事が、嬉しくて嬉しくてたまりません。
 彼はゆっくりとこちらに歩み寄ると、まるでオーガンジーの布を纏うようにふわりと私を抱きしめました。懐かしい高志のぬくもり、息遣い。私はそれらをハッキリと感じ取る事が出来ました。
 レースのカーテンを揺らして窓から入って来る風が、かすかな海の匂いを連れて来ます。風は西から吹いていたのでしょう。
「高志、寂しいよ……私、ひとりでどうしたらいいのかわからない……」
 私は泣きながら訴えました。彼はそんな私の頬を両手で優しくはさむと、唇にそっとキスをして、あらためて私の体をきつく抱きしめました。その唇からは、かすかに消毒薬の匂いがしましたが、すぐに潮の香りにかき消されてしまいました。
 そして彼は、そのまま私を抱いたのです。私は彼を受け入れました。昔のように。日々、愛し合っていたあの頃のように。もちろん怖いなんて気持ちは全くありませんでした。ただただ、高志が来てくれた事が嬉しくて、懐かしくて、愛おしくてたまらなかったのです。
 次の日の朝、目が覚めると彼の姿も彼の気配も消えていました。窓から差し込む朝の光はどこまでも清浄で、私はとても哀しい気持ちになりました。あれは、私の寂しい心が見せた幻だったのでしょうか。
 両親や友人達は皆「気持ちはわかるけれど、いつまでも悲しんでばかりいては魂が成仏できなくなってしまうよ」と、私を諭します。私は、それでもいいと思いました。成仏できなければ高志は、いつまでも私のそばにいてくれる……そう思ったのです。
 高志が再び私に逢いに来てくれたのは、やはり前回と同じ雨の夜の事でした。彼はそうするのが当り前のように自然に、そして優しく私を抱いてくれました。
 その後も、高志は西風の吹く雨の夜には必ず私の所に来てくれるようになりました。私達はつかの間の逢瀬の時を惜しむかのように、ただ切なく激しくお互いを求め合うばかりでした。
 幸せでした。もしかしたら自分は、夢を見ているのではないかと思うこともありましたが、そんな事はたいした問題ではありません。夢でも良かったのです。そして私は夢の続きを渇望し、高志に逢える雨の夜を待ちわびるようになって行ったのです。
 そんなある日の事です。私は何人かの友人達に誘われて外出しました。まともに外に出るのは、本当に久しぶりの事でした。
 私は友人達に、どこか見知らぬマンションの一室に連れて行かれました。そこには怪し気な黒いマントのような服に身を包んだ長い髪の女が、むせ返るお香の薫りの中に座っていました。その後ろには、何か祭壇のようなものが置かれ不思議な威圧感を放っています。嫌な予感がしました。
 長い髪の女は、いきなり私の体に塩を振り掛けると、呪文のような意味不明の言葉を唱えながら手に持った数珠を振り回しました。
「ちょ、ちょっと、やめて!何するんですか!?」
 私は女の動きを制すると、精一杯の拒絶の意志を込めて睨み付けました。一緒にいた友人達は、部屋の隅に並んで座り、心配そうな顔をして事の成りゆきを見守っているだけで誰も助けようとはしてくれません。
 昔、テレビで見た除霊の風景を思い出しました。そう、これはまさしく除霊の儀式そのものです。友人達は示し合わせて、私と高志の仲を引き裂こうとしたのです。なんてひどい事を!!私は怒りで全身がわなわなと震えだしました。
 そのまま私は力の限り女を突き飛ばすと、友人達が必死で止めるのも聞かずに部屋の外に飛び出しました。そして一気に非常階段を駆け降りると、無我夢中で自分の部屋を目指したのです。
 そんな事があってから私はますます外出しなくなり、誰かと口をきくのも億劫で電話の線も切ってしまいました。「また騙されたら……」と思うと、もう友人達も信用出来ません。
 それ以来、雨が降っても高志は来てくれなくなりました。潮の香りを含んだ風はただカーテンをゆらゆらと踊らせるだけで、彼の魂を運んで来てはくれないのです。私はきっと彼を怒らせてしまったんだろうと思い、どうしたらいいのかわからないまま自分を責め続けました。

 私の腕から流れ出る血が、バスタブに張られた水を真っ赤に染め上げて行きます。私は決めたのです。彼が来てくれないのなら、私の方から彼に逢いに行こうと。
 朦朧としてゆく意識の中で、母が私の名前を呼ぶ声が聞こえて来ました。友人達の声も聞こえます。誰かが玄関のドアをドンドン叩いて……ああ、うるさい。よりによってこんな大事な時に。どうして皆、私を静かに眠らせてはくれないのでしょう?
 開け放した部屋の窓から、雨の気配と強い潮の香りがバスルームまで流れ込んで来ました。そしてその中のかすかな消毒薬の匂いが私の前髪をそっと揺らしました。彼が、高志が私を迎えに来てくれたのです。
「高志……やっと来てくれたのね。待ってたの……ずっと」
 高志は私の頭を優しく撫でると、これ以上無いくらいにニッコリと微笑みました。本当に嬉しそうに。今までは気配だけで高志の姿は見る事が出来なかったのに、何故か今日は生前と変わらない高志の姿が見えたのです。
 高志はそっと私の手を取り、ふたりでゆっくりと窓辺へと向かいました。外はまだ霧のような雨が、音も無く降り続いています。
 早く行かなければ。ぐずぐずしていたら玄関のドアが開いて、また冷たい現実に引き戻されてしまう。私の魂は、血の匂いが充満したバスルームに横たわる体からまだ完全に切り離されてはいないのです。
 ああ、たまらなく眠くなって来ました。瞼が重たい。高志の手が少し強く私の腕を引き寄せます。眠い……。

 そして私はまた夢を見るのです。長い長い終わりの無い夢の続きを。


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Entry7

地震女

 その夜、ニュースバラエティの天気予報コーナーで奇跡が起こった。
 お天気キャスターで、気象予報士の天野輝美が、コーナーの最後に、
「明日の午後、中国地方の方々は地震に気をつけてください」と一言付け足したのである。
 するとその当日、マグニチュード7の直下型大地震が中国地方を襲い、四県に渡って広範囲かつ大規模な被害をもたらした。犠牲者は記録的な数字を数えたが、中には、そのお天気キャスターの一言を聞き漏らさなかった人々もいた。彼らはその言葉のおかげで、危機を回避する事が出来たのである。
 震災からしばらくすると、彼ら証言がマスコミを始めとした各方面に広がっていき、俄然大騒ぎになった。それは、別のところに飛び火した火種が、一気に燃え上がって手がつけられなくなるような勢いだった。
 しかし不思議なのは、災害後、政府の地震予知システムや民間の気象研究所などのデータ―をどんなに調べても、あの巨大地震を予告し得た者は誰もいなかった事である。災害はまさに青天の霹靂だった。つまり、彼女だけがあの地震を知っていた。彼女は本物の予知能力者なのか、そういう疑問が人々の間に湧きあがったのも当然だったろう。

 ところで問題の放送は、実は彼女のキャスターとしての引退の花道だった。
 輝美は、女子アナという職業にあって、テレビ業界で華々しく仕事をこなし、これまで着実に実績を重ねてきた。が、いつの間にかその盛りを通り過ぎていたのである。彼女はその現実に直面していた。
 地震の当日、彼女は世間の大騒ぎをまったく知らないかのように、姿をくらましてしまった。しばらくして、天野輝美が発見されたのは、廃墟の中のボランティアセンターである。幾万という被害者のために、彼女は無私無欲で働いていたのだ。
 その彼女をマスコミが騒然として取り巻いた。
「いったいどうして、あの大震災を予言できたのですか」
「わかりません。ただ、心の中で聞こえてくるのです、大地が軋むような音が……」
 彼女の答えはそれだけだった。
 地震予知。それは、特異な超能力である。スポットライトは、否応なく彼女だけを照らした。

 テレビ局も所詮は人気商売である。
 その後すぐに、天野輝美の天気予報コーナーが復活した。輝美はフリーランスになり、ライバル局の人気報道番組の目玉として迎え入れられた。
 彼女の商品価値は、その神がかりのような地震予知である。この国の生活の中で、地震情報はもっとも重要な危機管理の一つだ。しかも現代は未曾有の地殻変動期に入っている。どこでいつ大地震が襲ってくるかわからないのである。
 そうなると、番組の良し悪しは関係なかった。視聴率は毎回60パーセントを切る事はなく、彼女の出演するわずか五分の枠を大企業スポンサーが取り合った。
 番組が始まってすぐ、天野輝美はさらに二三の小さな地震を予知した。それがことごとく的中した。当然、視聴者の興奮はおさまらない。彼女は、アイドルのようにもてはやされ、歌番組やバラエティ番組にゲストとして出演するようになった。
 そのうえ、彼女が出張中だった恋人を大地震で失っていることがスクープされた。結婚も間近と噂されていたTVディレクターである。お茶の間の涙を誘うには、出来すぎるほどの話だった。マスコミがその事を大々的に取り上げると、彼女は視聴者から大きな同情を得ることになり、彼女のお天気コーナーは、紅白歌合戦に比肩するほどの国民的番組になった。

 しかし、結局その熱狂は一年も続かなかった。
 番組が始まってから早くも半年後、輝美は北海道で発生した函館大地震の予知に失敗した。さらに規模が落ちるが、連続して起こった東北群発地震、伊豆沖地震などの予言もできなかった。
 国民の地震に対する防災対策はある時期、彼女の番組だけに頼っていた。予知以外の災害については、まったく無防備だったため、これらの地震による被害は想像以上のものになってしまった。震災の後、輝美の責任問題が深刻な事態に発展しなかった事が不思議なほどだった。
 その後、輝美の予知できなかった地震が起こるたびに、彼女の番組から人々の関心は離れていき続けた。輝美の地震予知は、当たる事もあれば当たらない事もある。結局、関係者の結論は、そういう陳腐なところで収まった。すると、だんだん国民は彼女の言葉に頼らなくなり、彼女の持っていた視聴率の魔術は、その爆発力と同じぐらいのスピードで失速していった。 
 輝美はいつも少しばかり時代の空気を読むのが苦手だったのかもしれない。天気予報の番組から降ろされても、テレビの仕事はいくらでも転がっていると思ってもいた。
 しかしついにある日、一人暮らしのマンションにかかってきたディレクターの電話が、そんな彼女の生活に終止符を打った。
「言いにくいことだが」と、ディレクターはのっけから用件を切り出してきた。
「次の番組改正で、君の天気予報のコーナーは終わりだ」
「で、次のコーナーは何なの?」
 輝美の言葉づかいが親しいのは、すでにこのディレクターと愛人関係になっていたためである。彼女はその新しい恋人から、首切りの宣言を受けた。
「君のコーナーはもうないんだ」
 受話器の向こうの声は、とても淡々としている。
 輝美はこの業界特有の急激な変貌についていけない。番組も変われば、人も変わる。それは、常にあっという間のことだ。
「でも……」
「後は、僕には関係ないことだ」
「……」
「君に番組をまかせていたのは、あの地震予知が欲しかったからだ。今のように全然当たらないとなると、僕も君を守ってやる事が出来ないんだよ」
「だって、地震予知はものすごく疲れるのよ。一つの予告をする度に、精根尽き果てて命を縮めるほど。すべての地震を予知するなんて、到底出来ないわ」
「それはわかっている。だが、視聴者が欲しいのは、常に完璧な予告なんだ。元々大衆なんて、無理ばかり要求してくるものだ。しかし、それに答えなければならないのが、僕たちテレビマンだ」
 輝美はため息をついた。頭ではすべて理解できたつもりである。しかし、この感情はどうにもならない。
「別に番組なんかどうでもいいわ。残された私はどうなるの、あなた。結婚してくれるんでしょう? 今さらあの約束が嘘だったなんて事はないんでしょうね」
「申し訳ない」
 さすがの彼女もすべてを認識しなければいけないときがきた。
 おぼろげにわかってはいたつもりだが、できれば、そういう現実からを目を閉じたままでいたかった。
「まさか、本気だったわけじゃないだろ」
「もちろん……」
 輝美は、でも私は独りよ、と言いかけた言葉を飲み込んだ。
 また最初からやり直しである。
 そう思うといつものようにいろいろなことが吹っ切れた。彼女の声は不思議なほど明るく変化していた。
「最後に、次の地震の予告をしてもいいかしら」
「ほう、また地震があるのか」
「あなた、今どこにいるの?」
「局だが……」
 輝美は受話器の前で、祈るように目を閉じた。
「次の地震は、かなり大きな直下型よ。震源地は、あなたのいるテレビ局の真下。そろそろ、ビルが揺れ出している頃じゃないかしら」
「な、なんだって……!」

 誰にとっても人生の節目に行う清算とは、まず、すべてを破壊する事なのである。
 日本中が勘違いしていた。
 天野輝美の能力は、地震を予告する事ではなく、地震を起こす事だったのだ。


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Entry8

『陽だまりの色』

 その猫が私の部屋に居付くようになって、一年が過ぎた。

 一年前の晩、私が仕事から帰ってくると、そいつは昨日から敷きっぱなしだった布団の上に寝屋を定めて丸くなっていた。きっと朝に開け放したままだった窓から入ってきたのだろう。
 すぐに追い出したやろうかとも思ったが、仕事で炎天下を歩きまわって疲れていた私は、何よりも先に冷たい牛乳を飲みたいと思った。
 私がパックの牛乳を取り出し、冷蔵庫を閉めて振り返ると、そいつはいつの間に起きていたのか、私から数歩離れたところに座っていた。
 ぴんと背筋を伸ばして私をじっと見るそいつは、にゃあと鳴きもしない。
 ――もし、そいつが甘えた声を出して足元に擦り寄ってきていたら、私は躊躇せずに追い出していただろう。だけど、そいつは媚びを売ってきたりはしなかった。尻尾を振りもせずに、ただじっと私を見つめるだけだった。
 私は適当な皿に牛乳を注いで、そいつの前に置いてやった。そいつは礼の一つも言わずに、ぴちゃぴちゃと牛乳を飲み始めた。私もパックに口をつけて、ごくりごくりと喉を鳴らした。
 翌朝から、私は雨の日でも窓の端を開けて家を出るようになった。


 朝、私が目を覚ますと、足元で丸まっていたそいつも起きだして、じっと私を見る。私も黙って皿に牛乳を注いでやる。
 私が出勤するのに合わせて、そいつも何処かへいなくなる。

 夕方、私が帰ってくると、そいつも窓から部屋へ入ってくる。じっと私を見るので、牛乳と煮干しを皿にあけてやる。じっと見てこない日もあるので、そのときは牛乳だけを置いておく。

 夜、私が布団に入ると、そいつも私の足元にやってきて丸くなる。どんなに寒い日でも、けっして布団の中には入ってこない。
 いつの間にか、いなくなっているときもあるので、そんな夜は窓を少しだけ開けて寝る。


 一年の過ぎたある日、私はこの部屋を出ることになった。理由はわからなかったが、そうしなくてはいけないのだそうだ。逆らうこともできたが、逆らう理由もなかった。
 その日は、そいつが牛乳を飲み終え、何処かに出ていった後も、私は一人部屋に残って荷物をまとめにかかった――日が天頂を越える頃には、全て終わってしまったが。
 結局、両手に持てるだけの荷物をまとめ終えると、部屋はすっかり片付いてしまっていた。
 立ち上がって見渡した部屋は、思っていたよりもずっと狭く、少々驚いた。普通、荷物を除けると部屋は広く感じるものなのだが……この一年、すっかり忘れていた、この部屋の狭さをたった今思い出した――そういうことなのかもしれない。
 少しだけ開いた窓から差し込む午後の光が、狭い部屋をますます狭く切り取る。
 ふと思った――そういえば、あいつを昼間に見たこと、なかったな。
 ――そうだ。あいつは陽だまりみたいに淡い黄色をした奴だったが、私は陽だまりの中であいつが丸くなっている姿を、今まで一度も見たことがなかった。
 理由はわからなかったが、私はそれがどうしても気になった。見たかった。陽だまりに佇むあいつを、どうしても見たかった。
 私は両手に荷物を抱えたまま、待った。あいつが来るのを待った。


 窓の奥の日差しは足早に駈けていき、部屋を切り取る光は黄金から赤、やがて蒼、そして黒へと変わっていく。


 ……本当はわかっていた。あいつが太陽の出ているうちにやって来ないことは。
 私は――いや、この部屋は、あいつにとって夜の居場所であって、昼の居場所ではないのだと、わかっていた。
 あいつは誰にも甘えたり媚びたりはしない。痛々しいまでに凛として、誰の足元にも寄りかかったりはしない。鳴き喚いて足元に縋り、私が出て行くのを引き止めたりはしない。きっと、黙って見送ることもないだろう。興味をなくして、どこかに出て行くだけに決まっている。だから、あいつが来たところで、この結末が変わったりはしない――それも、わかっていた。
 だけど、見たかった。陽だまりの中、敷きっぱなしの布団の上で気持ちよさそうに身体を丸めて眠るあいつを、どうしても見たかった。
 あいつを待ちたかった。待っていたかったのだ。

 私は窓を閉めた。そこに映るのは夜の景色ではなく、蛍光灯の白い光に染まった私の顔。
 私は灯りを消して、部屋を出た。
 目に焼き付いているのは、不思議とあいつのことではなく、荷物のなくなった私の部屋の光景だった。あいつと同じ、陽だまり色に染まった部屋だけが、心の奥でひっそりと呼吸していた。


 朝、荷物を抱えた私が、新しい部屋――きっとここも、いつか出ることになるのだろう――のドアを開けると、正面の窓から差し込む光が私の目を射抜いた。私は反射的に目を細める……何だ? 光の中に一点の影が見える……。
 私はいっそう細めた目を凝らす。そして、見開いた。

 開け放された窓から溢れる逆光の中、陽だまり色をしたそいつは、日差しを照り返して輝く畳の上でじっと私を見て――

 気が付くと、私はそいつに向かって駆け出していた。蹴飛ばすように靴を脱ぎ捨てて、光の中の一点に駆け寄っていく。その間、そいつはじっとしたまま、逃げようともせずに佇んでいる。陽だまりに染め抜かれた部屋の中、陽だまり色のそいつがじっと私を見ている。黄金に切り取られた光景の中で、私はそいつを抱き上げようと手を――
 不意に日が翳り、部屋に満ちていた陽だまりは白日の夢だったかのように消えてなくなる。
 私が伸ばした手の先には、真白な毛並みの猫がちょこんと座っていた。
「ナァ」
 白猫は私を見上げて一鳴きすると、喉を鳴らしながら私の手に身を擦り付けてくる。餌をねだっているのだろう。
「ナァ、ナァ」
 ……黙って、ただ黙って私を見つめていたあいつはいない。陽だまり色をしたあいつも、陽だまりの部屋も、もう何処にもない。

 私は泣いた。
 何が悲しいのか、理由はわからなかったが、私は泣いた。それから、買ってきたばかりの牛乳を白猫に出してやった。白猫は鼻を近づけただけで、ぷいとそっぽを向けると、再び私の足に頬を押し当ててきた。
 私は牛乳パックを持ったまま、もう一粒だけ涙を零した。


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Entry9

チョコレート・サマー

「何してた?」
「爆弾の代わりにチョコレートを投下したパイロットが出て来る推理小説を読んでた」
「その人、死ぬの?」
「君の電話で読み止しだから判らない」
「お父さんが死んだの」
「何?」
「飛び下りだって」
「そっちに行く」
「いい」
「なんで」
「その小説、読んじゃってから来てよ」
 電話は切れて十分後に彼はやって来た。
 私は本当にパイロットがどうなったか知りたかったから、少しがっかりした。

 「お父さんが死んだんだって?」
「ええ」
「飛び下り?」
「そうみたい。
 なんて小説?」
「なにが」
「さっきあなたが読んでいたやつ」
「どうでもいいだろう、そんな事」
「じゃあ教えない」
「は?」
「あなたが秘密を教えないのなら、私だって教えない」
 そう言いながら煙草をつけると、彼はこっちが可笑しくなる程唖然とした表情をした。無理もない。私は六つの時から、こんな子供じみた言い様なんざした事がないから、彼にしてみればこんな私を見るのは初めてなのだ。
 だって仕方がない、世界はまるで古い漆喰みたいなのだもの。こうやって手を伸ばすと、ほら、面白いくらいぼろぼろ剥がれて行く。
「煙草吸ってるから世界が煙って見えるだけだよ」
 憮然とした表情で彼は言い、私は随分つまらない事を言うなと思った。
「で、どうして僕に電話したんだい?」
「あなたの読んでいた本の題名が知りたいからよ」
「因果律を崩壊させないでくれないか」
「じゃあ、何か考える」
 煙草の煙を殊更ふうーっと吐き出して私は考える。何かでっち上げなきゃ、だってそうしないと、彼は本の名前を吐く前に居なくなる。
「謎を解いて」
「謎?」
「ええ。
 昔小説家が居て、彼よりずっと才能も人望もある小説家と友人だったの。
 だけどある日、小説家は死んでしまいました。人望のある方よ。自殺だったの。
 世間は彼の死因について随分煩く推測しました。小説家も、彼の友人として色々尋ねられました。
 そして小説家は答えます。
 『彼はあの夏が暑かったから死にました』
 何故でしょう?」
「芥川?」
「何?」
「芥川の自死についてのウチダヒャッケンのコメントだよ、それ」
「ああ」
 私は極まり悪さを隠す為に一寸俯く。折角上手く作れたのにもうばれてしまった。何か他の事を考えなきゃと思うのだけれど、もう何も浮かばない。
「君のお父さんが言ったのかい」
 不意に彼が掠れた声で呟いた。
 私は好きでもない煙草で喉がざりざりして、突然不愉快になった。だから立ち上がり「煙草を捨てて来る」と言い捨てると、棚にあった煙草を全部引っ付かんで外に出ようとした。
「何処へ行くんだい」
「煙草を捨てるのよ」
「ねえ」
 彼は立ち上がると、吃驚する程素早い所作で私の傍へやって来て、テナーサックスの声で言った。
「君のお父さんがその話をしたから、君は謎を解こうと思ったのかい?」
 私は彼の傍をすり抜ける。
 早足で歩いて、そのままドアを開けた。外は熱とひかりで沸騰しており、私は一瞬目を細めた後その中を歩き出す。
 だって煙草を捨てなきゃ。
 紙袋に入った煙草を鷲掴んで、私はその真夏の中をゆっくり歩く。
 彼はジーンズのポケットに手を入れて、ぶらぶら私の後から付いて来た。

「あなた判ってないわ」
「そうかな」
「お父さんは私に何も話したりなんかしなかった」
「そう」
「そりゃ一つ位は話したわよ」
「どんなこと」
「覚えていない」
「うん」
「六歳だったもの」
「教えてくれたら、僕もさっきの小説の作者教えてあげる」
 顳かみを白いひかりが静かに灼いて、そこに彼の言葉が直に落ちて来る。私はそれを感じながら、何度も反芻したその物語を初めて誰かに語った。
「お母さんが飛び下りて死んじゃったのよ」
「うん?」
「六歳の時」
「うん」
「それでお父さんは言ったの。私に向かって何度も、どうしてだろうねって。
 私はその答えを出す為に、そりゃもう必死になってお父さんと何日も考えたわ。
 でも判らなかったの。
 お父さんは言ったわ。判らなかった。だからきっと、僕は罰を受けるって」
 やっぱり、煙草の吸い過ぎは良くないかも知れない。
 声が掠れてしまって、お父さんみたいだもの。こんな風におかしくなった声で話されて平気かしら、と思っていると、彼は後ろから言って来た。
「ニコラス・ブレイク」
 私は一瞬考える。
「『野獣死すべし』?」
「その作者。でも違う小説だよ」
 判ってる、と口の中で呟く。素敵な推理小説だったけれど一つだけ欠点があった訳ね、あれにはチョコレートを落とすパイロットなんか出て来なかった。
 と、不意に彼は煙草を私の腕から掠め取って行った。
 後ろに居る筈だったのにと不意をつかれた私は、手を伸ばして「返して」と要求する。でも彼は首を振り、それを持って走り出す。追い掛ける。道を三度ばかり曲がってしまうと、高層団地がいきなり見えた。躊躇した私なんかに目もくれず、彼はその一つの階段を引っ付かむ様にかんかん音を立てて登り出す。
「ねえ」
 彼は振り返らない。私は三階まで追い掛けるけれど、彼はもう五階への階段にいる。
「ねえったら!」
 四階の途中で私は手摺から上を見上げて叫んだ。彼は六階辺りで漸く止まり、上からこちらを見下ろして来る。
「私行けない」
「なんで」
「罰せられるもの」
「どうして」
「私、
 私判らないもの」
 多分皆エレベーターで昇り降りして居るのだろう、階段には蛾や蜻蛉が死骸となってあちこちで干涸びている。
「答えを知らないもの、お父さんがどうしてなんて。
 お母さんの時みたいに私は何も判らない。だから、登ったら飛び下りなきゃいけない。
 だから、私は行けない!」
 そのまま私は座り込んだ。
 がさがさ足下で鳴る水分のない死骸は、夏なんて直ぐ終わってしまうことを声高に語っていた。病院に居たお父さんも、こんな風に夏を踏み付けたことあっただろうか。あんなに綺麗で真っ白に消毒された場所に、そもそも夏なんて紛れ込む隙があるんだろうか?
 心臓が段々静まるみたいなリズムで、彼が階段を下りる音がした。私は膝に顔を埋めて黙っている。足音は直ぐ傍で止まり、衣擦れの音と一緒に、彼の息が私の頭にふうとかかった。
「謎、解けたよ」
 私は頭を振る。
「内田はね、叫んだんだよ。文字だろうが冷静に喋ってようが、あれは叫びさ誰にだって判る。
 人の死に意味付けをするなんて無意味だし、喪失の原因を探す事は不可能だ。
 夏が殺したんだよ。
 そう言って後は沈黙すればいい、有りもしないものを探して自分を傷つけることはない。
 ねえ。
 それでいいじゃないか」
 耳の辺りに熱がうるりと渦を巻き、喉の辺りを焼いて苦しい。
 ああ。
 私は泣いている。
 そう気付いた時には、もう顔を上げてしまっていた。
 彼は笑っていた。
 随分と必死にそうしていたから、眉が実に不安げな動きをしている。
「謎解きとしては」
「はい」
「謎解きとしては、いまいちです」
 彼は推理小説マニアらしく、少し傷付いた顔をした。

 次の日私達は、その団地の屋上に行った。
「『死の殻』だよ」
「何?」
「題名」
 本を持つ彼を視界の隅に置き、私は煙草と交換に彼に貰ったアーモンドチョコレートを引っ掴んで、何度も何度も空へと投げた。
 そして全てのチョコレートを喪失した私は振り返る。
 そこにはパイロットの生存確認の最中である彼が居り、「今両手塞がっているから」と言ったと思うと、偶々空いていた唇で、私に軽いキスをした。


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Entry10

猫弾きと街灯詩人

 指揮者のタクトが、与島享也を指す。
 享也はすっと手を上げ、猫台に並んだ猫たちに触れる。
 すると、猫たちは各々鳴き声を上げ始めた。
 猫を追い掛けるように、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと来て、コントラバスの低音が合流した後、一斉に管楽器やパーカッションが入った。
 享也の呼吸と猫たちの気分は一致して、猫パートを奏でる。折り重なる音が練習室を満たした。
「――うむ」
 指揮者が汗を拭い、タクトをしまう。
「ヴェッツォーネ『日暮れの歓喜』は、やはり練り込める奥深さがある曲ですね」
 演奏者たちは各々楽器を片付け始めた。
「お疲れ、エルザさん――」
「あー、猫の人」
「はい?」
 指揮者に声を掛けられ、享也は振り向く。
「少し気になる部分が――」
「もうおしまいなもんで」
 享也が言う間もなく、猫たちは出て行った。唯一エルザだけが享也の足元にごろんと寝転がっている。
「ふん、お偉い事だな」
 指揮者が吐き捨てる。
「は?」
「犬弾きだって牛弾きだって、大砲使いにしたって猫弾きほど扱い難くはない。なんでこうまでして猫なんか使うのか僕には分からないね」
 享也は指揮者の言葉もどこ吹く風で、音を立てながら猫台を畳む。
「猫にもう少し言う事を聞かせられないのか!」
 指揮者の声が大きくなる。
 猫台をケースに収めた享也は、立ち上がった。
「猫を三十分も猫台にいさせられる猫弾きが日本に何人いるか、調べる事をお薦めしますよ――ではまた今度。エルザさん、帰ろう」
「にゃん」

 暗い夜道を享也とエルザは歩く。
「ま、こんな日もあるさ」
「なゃ?」
「いや。君らの声はもう充分に要求水準を満たしてるさ」
 猫台をぐっと背負い直した享也は、二の腕を揉む。
「やけに冷えるなぁ」
 エルザは享也に踏み潰されそうなほど近くを歩く。
「ご飯どうすっかな? ゲン直しに外食にしようか?」
「にゃお」
 ふたりは、それからしばらく歩いた。
「――もう真っ暗だねぇ」
 享也は空を見上げた。
 雲が多いせいか、月も星も見えない。
「もっと都会なら明るいだろうけど――エルザさん?」
 エルザは、つ、といなくなってしまった。
「はいはい。お疲れさん。あ、集会にもじきに顔出すから」
 エルザを見送ってから、享也が再び歩き出そうとした時。
 街角に、ぽつりと明かりが灯っていた。
 おぼろげな揺らめく光。
 闇を払うほど強くはない。だが、享也が歩くには充分な明るさ。
「電灯? ――いや、この町にそんなもんがあるわけないな」
 享也が明かりに近寄る。
『――も負けずに歩き続けよう。きっと明日は――』
 詩人が街角に置いた椅子に腰掛け朗読をしている。足元にランプと詩集が置かれていた。ギャラリーは二人だけ。
「ああ、街灯詩人か」
 暗い街角を照らし詩を謳う街灯詩人。夜の闇を照らす数少ない人々。
 知らず、享也は足を止めていた。
『――悲しみをリュックの底に押し込んで、山頂を目指そう――』
 マフラーの間から、少女の面影を残す女の顔が伺えた。無造作な短い髪をしており、眼鏡のガラス越しに見える瞳は、とても真っ直ぐだった。
 享也は詩集の一冊を手に取った。
 紐で綴じてある詩集は、多くの私製本がそうであるように、手書きだった。
 ページをめくり、一本詩を読もうとする。
 ――ふわふわと柔らかき仔猫。
「ぷっ」
(猫の子がそんな生易しいもんか。ネズミをなぶり殺しにする奴だぜ。そんな一面的な見方しか出来ないようじゃあなぁ。猫の魅力は成猫の美しさと――)
 そんな事を考えつつ、ふと詩集から視線をずらした。
 じぃっと、街灯詩人が享也を見つめていた。いや、敵意を持って睨み付けているようだった。
(笑い声、聞かれた?)
 享也は詩集を戻し、何事もなかったかのように立ち去った。
(俺は別に悪くはないぞ。批評は表現者の宿命のようなもんであって別に気を悪くする筋合いのものでも――)
 角を廻って、街灯詩人の明かりが見えなくなる。
「にゃん」
「うわっ! な、なんだ、エルザさんか」
 享也はそっと明かりの方を覗く。
「エルザさん、芸術の一端を担う者として、あの詩をどう思うかね?」
「にゃぁぁぁお」
 真っ直ぐで正直だが、捻りも深みもない子供が書いたような詩。
 街灯詩人の朗読は時々途切れる。指が寒さにかじかんで、ページを上手くめくれないらしい。
「にゃあ」
「そだな、ご飯だ。ご飯に……」
 享也は立ち去ろうとする。が、足が動かなかった。
「大体街灯詩人から大化けする奴なんて本当に一握りだ……し」
 街灯詩人の声と視線は真っ直ぐだった。
(猫弾きを始めた時なんかは、俺も――)
 くしょっ!
 小さなくしゃみの音が聞こえた。
「あんな詩のために」
 エルザは無言で享也を見上げ、あくびをした。
「ったく」
 享也がエルザの背をぽんと押した。
 エルザは、真っ直ぐ明かりへ走って行き、街灯詩人の膝の上に、ひょいと飛び乗った。
「えっ、え? 猫さん?」
 夜風に乗って微かに詩人の声が聞こえる。朗読の声とはずいぶん違った。
「……温かい」
 戸惑いつつもエルザに触れる街灯詩人が見えた。
「ねぇ君、詩を読むけど、聞いてくれんね?」
「にゃ」
 享也は別の道を通ってアパートへ帰った。

 一週間、二週間、三週間……ひと月近くが過ぎても、街灯詩人は同じ街角を照らし続けていた。
「あ、今日も来てくれたん、猫さん」
「なゃあお」
「ありがと。今日のは自信あるんよー」
 朗読を始める街灯詩人の膝の上で、エルザは丸くなる。
 そしてランプの油が切れ始めた頃、顔を半分マフラーで隠した享也が姿を現した。街灯詩人の朗読は続いている。
 享也は詩集を一冊取り、目を通す。
(やっぱり……何度見てもダメだな)
 溜息を押し殺しつつ詩集を戻すと、享也はまた街灯詩人の前を立ち去った。
 街灯詩人が享也に視線を向ける事もなかった。

 タクトが止まった。
 腕を下ろした指揮者は大きく頷いた。
 演奏者たちは片付けを始める。
「……猫さん」
 遠慮がちに指揮者が享也に声を掛ける。
「はい?」
「その、いいよ。凄く。元々音自体に文句はなかったけど、それ以上に何か、生き生きとしているよ」
「ありがとうございます。では、本番で」
「にゃん」
 享也とエルザ、それに猫数匹は、一緒に練習室を出た。
(どうした、もんかな)
 享也はポケットの中の、年末演奏会の招待券に触れる。
「にゃああお」
「やかましい、俺は、ちゃんとした芸術に触れさせようとしてるだけだ」
「にぃゃお」
「君たちは来るんじゃないぞ。あくまで通りすがりの聴衆だからな、俺は」
 エルザは享也の足に頭をすり寄せ、尻尾を絡める。
「にゃお」
「――え?」
 小さな雪片が、ちらちらと舞い降りてきた。

「ああ寒ぅっ」
 街灯詩人は夜空を見上げながら、マフラーを口元まで引き上げる。自分の吐く息で、眼鏡が曇ってしまった。
「町が白く染まったら、ランプはいらんかなぁ」
 ランプの炎が小さく揺らめく。
 不思議なほど人通りはなかった。
「そりゃ、あたしゃまだ下手だけどね」
 街灯詩人は大きく深呼吸して、コートのポケットから真新しい冊子を取り出した。
「笑うってのも、ずいぶん失礼な話だと思うんよ」
 冊子をぎゅっと握る。
「今っ度こそ、唸らせやんだから」
 丁度その時、一人の男がやって来た。
 街灯詩人はその真新しい冊子を開く。
『気まぐれな猫へ――』
 よく通る声で、詩を読み始めた。
 真っ白い猫の毛を服にいっぱい付けた、そのいつもの若い男への詩を。


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Entry11

乗合バスにて

 なにやら、あれでございますね。いわく、日本語のみだれ、なるものが、問題となっておりますようですけれども、わたくし、せんえつながら、うつくしき日本語を愛し、とうとぶ者といたしましても、これは、たいへんなる一大事ではないかと、愚考いたしておりますものですから、すこしばかり、お耳を貸してはいただけないでしょうか。さようでございますか、ありがとうございます。
 さて、わたくしのいう、うつくしき日本語とは、なんでありましょうか。まずは、これからご説明さしあげなければ、なりませんのでございます。いささか、こみいっておりまして、長くなりますけれども、お手洗いに行かれるようでしたら、今のうちに、まあ、そうでございますか、がまんしてくださると、わたくしのために、まあ、うれしゅうございます。さて、わたくしのいう、うつくしき日本語、これは、なかなか、こみいっておりますのです。
 わたくしは、とある家に生まれ、育ちました。家名を明かせば、ああ、あの、と気づいていただけることとぞんじますが、あえて明かしません。なぜと申しまして、それは関係のないことなのですから。この問題は、家柄とは無関係であると、愚考いたしますものですから、あえて明かさないのでございます。さて、わたくしは、とある女学校へと進学いたしました。これも、なぜかしらん、有名な学校であるそうですけれども、これも明かす必要はないものと考えます。学歴とも、関係のないことですから。それから、わたくしは、とあるかたとご縁がございまして、わたくしの家柄や学歴などではもったいないお相手だとは承知のうえで、ふつつかながら、もらっていただいたのでございますが、これも関係のないことでございます。
 このように、わたくしの人生、なんら特筆にたりない人生でございますが、あのように、ひどい体験をいたしましたことは、最たる災難でございました。不幸でございました。屈辱でございました。その話を、いたします。
 先日、わたくしの運転手が急病を得まして、おりわるく車も故障いたしておりましたが、わたくし、どうしても出席しなければならないパーティーがございました。しぶしぶながら、タクシーを呼ぶよう申しつけたのですけれども、なんでも労働者層の名物、ストライキとやらだそうで、まったく運のないことは、つづくものでございます。そうして、わたくし、生まれてはじめて、乗合バスなるものを利用せざるをえなかったのでございます。
 ごぞんじでないかたのために、説明いたしますなら、人間をたくさん積めるよう設計された箱のような自動車でございます。だのに、座るところは、すこしきりございません。おどろかれるかもしれませんが、座れない人は、仁王さまのごとく立ったまま、この車に乗っていなければならないのです。いいえ、転ばないのです。なにか、ぶらさがっているものがありまして、それに、必死につかまって、すがりついて、歯をくいしばって耐えしのぶようになっているのでございます。おどろかれましたか、さようでございますね。まさかこの現代日本に、戦後まもなくの汽車みたような、非人道的の乗り物があろうとは、おどろかれるのも、しかたございませんでしょう。
 けれども、わたくし、幼少のころより、辛抱づよいと評判でございました。大きらいのキャビアも、がんばって食べられるようになりましたし、フォアグラもまた同様です。じぶんで言うのも、あれですけれど、とにかく、乗合バスぐらい、文句ひとつなしに、見よう見まねで、いささか不潔の器械から券のようなものを抜き、乗ることができたのでございます。
 さいわい、すいておりましたから、席を得ることができました。それにしても、バスというのは、だいぶ、ゆれるものでございますね。海のうえ、どんなにか小さな客船に乗りましても、こうはゆれないのではないでしょうか。それと、なんとも形容しがたい、においがいたします。わたくし、すこしばかり胃を弱らせまして、香水をふったハンケチでもって口をおさえながら、持ち前の辛抱精神をもって、どうにか、こうにか、耐えておりました。
 うしろの席に、まだお若い女学生がふたり、まるでピクニックに出かける子どものように、大きなお声で談笑しておられました。ふつうならば、小うるさいと感じるところでしょうけれども、わたくしは、それを、むしろ、ほほえましく思ったものでございます。ほんとうでございます。こうした、お若いかたの笑顔があふれておりますことは、なにより平和のあかしではないでしょうか。ですから、わたくしは、決して小うるさいなどとは、みじんも感じえなかったのでございます。
 でも、ちょっと、ほんのちょっと、小うるさすぎるのではないかしらん。わたくしは、なにせ、もともと辛抱づよいのですから、平気ですけれども、ほかの乗客のみなさんが、ご迷惑に感じられているかもわかりません。そう思って、わたくしは、公共の秩序をおもんばかって、決心いたしました。うしろのおふたりを振り向いて、えしゃくをまじえながら、そっと、やさしく、ほんとうに、やさしく、非難のかけらも見せずに、一言、さとしたのでございますが、
  ナニコノオバサン
 ふしぎな返答でございました。スペイン語かなにかのように聞こえ、にわかに意味を解しかねましたけれども、はっと思いあたり、わたくし、ゾーッとして、前を向き直りまして、顔面蒼白、身ぶるい、ぶるぶると、それこそバスのエンジンのように、ぶるぶる、ぶるぶる、しばし、止めることができなかったのでございます。
  なに、この、おばさん
 本来ならば、いかに、ぞんざいにしましても、
  なんでしょうか、こちらの、おばさまは
 となるはずかとぞんじますが、わたくし、言語学者ではありませんから、自信はございません。けれど、それにしても、あんまりではないでしょうか。いえ、わたくしは断じて、おばさん、と見なされたことについて、心外に感じているわけではございませんよ。初対面の人に向かって、なに、この、などと、路傍の石ころに対するような表現。まったく、人道もなにもございません。このような侮辱は、生まれてはじめて。
 こころの底から、憎悪というのかしらん、なにやら、これまで知覚したことのなかった感情が、うずをまき、竜巻のように立ちのぼり、頭の先まで、火山のように、熱がこみあげてまいりまして、けれども、わたくしは、わたくしです。いたって、わたくし、われを忘れはいたしません。くるりと、ふたたび、おふたりを振り向いて、えしゃくをまじえ、やさしく、そっと、おだやかに、微笑をたたえ、一言、申し上げたのでございます。
 とたん、ふたりの女学生さんは、当惑のごようすで談笑をやめ、一瞬、笑顔を凍らせ、ゆっくりと、たがいに真っ蒼なお顔を合わせて、それから頬、そうして顔一面を真っ赤に染め、わななきながら、ひとみに涙をたたえ、降車のボタンを何度も何度もたたくのでございました。
 かわいそうですけれども、これも、うつくしき日本語を軽んじたがための天罰のようなものかとぞんじます。長々と、わたくしの話を聞いてくだすった、あなたさまには、ご理解いただけることでございましょう。あのおふたりは、ほんのちょっとばかり、うつくしき日本語をみだしすぎたのでございます。このわたくしを、おばさんだなんて!


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Entry13

ヘテロ

 目が覚めると真っ暗だったので恐くなって飛び起きた。
 時計を見る。午前二時半。
 ふう。ため息を一つ。隣には薫が静かに寝息を立てている。あたし達は確かに向き合って寝た筈なのに、薫はいつの間にかあっちを向いて寝ているので、ここからは薫の顔が見えない。向こうに顔を回り込ませて確認する。居る。良かった。やった。あたしは彼女のその赤い唇に、軽くキスをした。
 変な時間に目を覚ますと喉が乾く。あたしはベッドを抜け出し、台所へ向かった。
 丑三つ時。静かだ。あたしは黒猫の気分で歩く。



「え」
 あたしは踊っていたので良く聞こえなかった。
「聞いて無かったの?」
「ごめん。何?」
 薫は筆を降ろし、あたしを見た。
 あたしも薫を見た。
 やっぱり薫は綺麗だった。
「ねえ。あたしユウちゃんの踊りを見るの好きだけどさ。休みの日は踊らなくても良いんじゃない?」
「薫だって絵、描いてるじゃん」
「あたしのは仕事」
「まだ終わって無いの? 締め切りは?」
「三日前」
「今回はまた随分と時間掛かるね」
「まあ、ね」
 あたしは絵を覗き込んだ。
 素晴らしい絵だった。幸せに思う。薫。こんなに素晴らしい絵が描けてこんなに綺麗な薫。そんな彼女と暮らせて何て幸せなのだろう。そう思う。
「あと少しじゃない」
「そうだけど、どうしても、ね」
 画面右上に白い空間があった。青い空に囲まれた虚ろな白が、所在無さげに浮かんでいる。
「どうしても、さ」
 薫は爪を噛んだ。
「ねえ」
「うん?」
「さっきの話、何?」
「ああ、忘れるとこだった」
 薫は再び絵に向かった。
「あのね」
「うん」
「あたし、結婚するかも知れない」
 薫は絵を描きながら言った。
「そっか」
 あたしは平静を装って言った。装っただけなので、言いながら心臓が、どくり、と鳴った。
「ユウちゃん、驚いた?」
 薫は絵から目を離さない。
「驚いた、っていうか何ていうか」
 あたしはまた平静を装って言った。言いながら、馬鹿みたいに手が震えた。
「あたしの家の事、ユウちゃん知ってるでしょ」
「親父さん?」
「うん。会社潰して借金抱えてさ。父はともかく、母が可哀想でね。で」
「で、良い所から見合い話でも来たと?」
「そんな感じ」
 彼女は筆を動かし続けた。強い色彩に、空は瞬く間に埋め尽くされた。
「おめでとう」
 あたしの口から出たのは、そんな言葉だった。
「ユウちゃん」
「おめでとう」
 感謝した。他のどんな言葉でも無く、その言葉が出た事を、あたしは感謝した。
「ユウちゃん」
 薫はあたしなんか愛して無い。薫は何も愛して無い。それを知っているから、あたしは感謝した。
「おめでとう」
 感謝して、呪った。そんな言葉しか言えない自分を、呪った。
 あたしは泣きたくなった。涙は出なかった。その事があたしをさらに泣きたくさせた。
 それでも涙は一向に出なかった。



 次の日薫は家に帰って来なかった。その次の日も。その次の日も。



 家に帰りたくなくてあたしは公園に寄った。
 買い物袋を脇に置いてベンチに座り、通りを眺める。
 帰宅途中のサラリーマン。OL。学生。夕焼けが、空を赤く染めていくその中を、影のように歩き回る人々。
(懐かしいなあ)
 昔は良くこうやって学校にも行かずに昼間から公園のベンチから通りを眺めていた。あの頃あたしは何を考えていただろう。もう殆ど思い出せないけど、死ぬ事ばかり考えていたのは覚えている。特に理由も無く、何故か自殺する事ばかり考えていたのを覚えている。
 遺書は二十回も書いた。もちろん一回も成功しなかった。
(懐かしいなあ)
 あたしは今日、包丁を買ってきた。スーパーで見かけて何となく買ってしまった。
 あたしはそれで、何を切るつもりなのだろうか。薫だろうか。その相手だろうか。それとも自分だろうか。
 包丁は変な形をしている。なんだか先が変に丸くなっている。これじゃ誰も殺せないな、と思う。あたしはきっと誰も殺せないな、と思う。
 あたしは高校の頃から何も進歩してなかった。何一つ理解出来ていなかった。さすがに悲しくなって空を見上げた。
「ユウちゃん」
 すぐ側に薫がいたのを、あたしはやっと気づいた。



「会ってきた」
 薫はブランコ座った。
「そう。どうだった」
 あたしも隣のブランコに座った。
「まあ良い人だったよ。さすがにボンボンは違うわ」
「そう」
 夕焼けが夜の闇に変わり始めている。電灯はまだつかず、公園は暗かった。
「ユウちゃん、あたしね」
「うん」
「巧くいくと思ってたんだ」
「うん」
「巧くいくと思ってた」
 薫はうつむいたままブランコを漕ぎ始めた。ぎい。ぎい。暗闇を錆びた音が通り抜けていく。
「巧くやれるって思ってたの。巧く誤魔化してやれるって思ってたの。だってあたしそうやってずっと誤魔化して、ちゃんとやってこれたもの」
「うん」
「でもね。あたし赤ちゃん産まなくちゃいけないらしいのよ」
「そりゃお嫁さんだものね」
「あたしには絶対無理だ、って思った」
 そう言って薫はあたしを見た。笑っていた。
「ああ、あたしは何かを産まなくてはいけないんだな、って思ったらさ、何も出来なくなっちゃってさ」
「そっか」
「あたしが、産む、なんて。そんなの絶対無理。ていうか嫌よ。絶対嫌よ」
「あんなに良い絵を沢山残してきたのに?」
「だってあたしは何かを産もうとして描いてたんじゃないもの。何か壊せたら良いなって思って描いてたのだもの」
「そっか」
 あたし達は暗い公園に2人きりだった。通りにはいつの間に街灯が灯っている。強さを増していく街の喧噪。
「帰ろうか」
「うん」
 あたし達は並んで歩いた。
 買い物袋ががちゃがちゃ鳴った。あの包丁で薫の為に美味しい物をいっぱい作ってあげよう。あたしはそう思った。
「ユウちゃん、あたしね」
「うん」
「あたし何も愛した事が無いわ」
「うん」
「何も愛して無いの。父も母も妹も自分も、何も愛した事が無かったわ」
「うん」
「何も愛して無いの。あなたの事もきっと愛して無いわ」
「うん」
「何も愛して無いの。愛せ無いの。ごめんね。愛して無いわ。ごめんね」
「大丈夫よ」
「ごめんね。愛せ無いの。でもね。ごめんね、って言うの、あたしこれが初めてよ」
「うん」
「ごめんね」
 いつの間にか薫は泣いていた。
「うん」
 あたしもいつの間にか泣いていた。
 あたしは少し「滅び」について考えた。マンモスは滅び、恐竜も滅び、ドードーも滅び。その事は間違いなのか。何も産み出そうとしないあたし達は果たして間違っているのか。何も答えは出なかった。ただ、この忙しく動き回る街の片隅で、あたし達くらいは滅んでも良いのじゃないか、そう思った。
 あたし達はこの時、遂に死ねたのかもしれなかった。遂に死を選択出来たのかもしれなかった。そしてそれで、やっとあたし達は始まったのかもしれない。

 あたし達は家に帰って、おいしい物を鱈腹食べて、お酒を飲んで、沢山セックスをして、寝た。





 台所に立って、水を飲んだ。
 静かな夜だった。
 時計の音がかちり、かちり、と夜に積み重なっていく。
(負けないのだから)
 あたしは呟いた。
「何に負けないの?」
 ベッドから声が聞こえた。薫の寝言だった。
 あたしはその問いに答えを持っていなかった。だけれど薫があたしと同じような事を考えている、そう思うと嬉しかった。
 あたしはベッドに飛び込んだ。薫は安眠中に起こされると滅茶苦茶恐いんだよなあと思いながらも、勢い良くあたしは飛び込んだ。

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