Entry1
熊掌
黒男
楚の成王は中国春秋時代の英傑である。その在位は四十六年の長きにわたり、南は長江流域を征服し、北は斉の桓公・晋の文公といった群雄たちと天下の覇権を賭けて争った。
英雄色を好む。成王には多くの愛妾がおり、十数人の子供がいた。王の長男を商臣という。幼い頃から才知に優れ、父である成王の愛を独占していた。
ある日、成王は宰相の子上を呼び、後継者について意見を求めた。
「余は長子商臣を太子に立てようと思うが、如何に」
子上は黙っている。重ねて問うと、人払いをした上で、王に近づき、低い声で言った。
「王はまだお若く、今から太子を決める必要はございません。もし、太子を立てた後で廃嫡するような事態になれば、それこそ国の乱れるもとです。そもそも我が楚国では、王位継承権は末子に与えられるのが普通です。それに商臣様の蜂のような眼、豺狼のような声は残忍な人柄を表しており、到底太子の器ではありません」
成王は不快そうな表情を浮かべた。
「もうよい、余の心は決まっているのだ」
成王は子上の諫言を斥け、商臣を太子に立てた。
その部屋のどこかに密偵が潜んでいたらしい。慎重に人払いした上でのこの密談が、そのまま商臣の耳に入った。商臣は自分の擁立に反対した子上を憎んだ。
十年後、商臣は宰相の収賄罪を捏造し、父に讒言する。怒った成王は、子上を斬首の刑に処した。
しばらくして、商臣の侍臣某が罪を得て成敗されそうになり、成王の許へ逃げ込んだ。王はこの男の口から、子上の潔白と太子の策謀を知り、大きな衝撃を受ける。
その日から、成王は悪夢に悩まされるようになった。
夢の中で、首のない子上が我が首を返せと成王に迫る。王は悲鳴をあげ、荒涼たる曠野を逃げ惑う。瓜畑の中に隠れ、ほっと一息吐いたのもつかの間、周囲の瓜がすべて子上の顔になって一斉に叫ぶ。我が躰は何処ぞ、と。
成王は、びっしょりと汗をかいて眼を覚ます。
当然のことながら、王の怒りは中傷者である商臣に向けられた。――子上は正しかったのだ。あの男は人の皮を被った獣である。奸計を用いて父を欺き、私怨によって忠臣を死に追いやるような輩にこの国を譲る訳にはいかぬ。
成王は商臣を追放し、末子職を太子に立てようと決心した。
太子商臣は苛立っていた。後宮の噂では、父は子上の一件で自分を憎み、廃嫡を考えているらしい。が、確たる証拠が掴めない。
商臣は守り役の潘崇に相談した。
「父上の本心が知りたい」
「江姫様を宴席に招待し、わざと無礼を働いてごらんなさい」
潘崇は策を授けた。江姫というのは成王の妹である。兄の成王と仲が好いから、何か知っているに違いないと睨んだのだ。
翌日、商臣は叔母の江姫を酒宴に招き、潘崇の計を実行に移す。果たして彼女は挑発に乗ってきた。
「この下司下郎めが、兄上がお前を殺して職殿を太子に立てようというのも道理だわ」
江姫は憤然と席を立つ。
隣室に控えていた潘崇が姿をあらわした。
「やはり、あの噂は本当だったよ」
商臣が、血走った眼で潘崇を顧みる。
「あなたは職様に家臣としてお仕えする事が出来ますか」
潘崇が言った。
「出来ぬ」
「では、他国に亡命しますか」
「出来ぬ」
「ならば大事を行われるよりほかありませぬが」
「それなら出来る」
商臣がニヤリと笑う。大事とは、もちろん叛逆である。
「よくぞご決心なさいました。先ずれば人を制し、後るれば人に制せられると申します」
「その通りだ。叔母が口を滑らせた事を王に告げてからではまずい」
二人は直ちに東宮の兵を率いて、王宮を急襲する。クーデターは成功し、成王は逃げる間もなく虜になった。
すでに太陽は西に傾き、王宮の広間の隅から闇が壁を這い上り始めていた。
成王は、大勢の武装兵を従えた商臣の前に引き据えられた。
目の前の商臣の顔を睨み付ける。かつて愛らしかった我が子はもういない。自分を冷然と見下すこの男は、異常である事が勇気や知謀として賞賛される乱世の梟雄である。己を殺さんとする悪意の塊である。
二人を囲む兵士達は、彫像のように身動き一つしない。これから何が起きようと、自分とは関係のない、任務外の事だ、とでも言いたげな表情である。
「覚悟は出来ている」
成王が言った。
「だが、父の最後の頼みを聞いてくれぬか」
「頼みとは?」
商臣の細い双眼が、冷たい光を放つ。
「死ぬ前に、好物の熊掌を食いたい」
それは、成王最後の命を賭けた計略であった。
熊掌とは文字の通り熊の掌の煮物である。中国三大名菜の一つで、古来よりその美味を賞せられるが、作るのに時間がかかることで知られている。
まず、材料の熊の掌を泥で包み、火で焼く。こうすることによって、毛が泥と一緒に綺麗に取れる。次に漢方薬を加えて煮る。それから湯を交換しながら何度も何度も煮る。注文から完成までに三日はかかるだろう。
つまり、成王は熊掌を所望することで三日の時を稼ごうとしたのである。その間に援軍の到着を待つか、脱出の機会を窺う。あるいは、宮廷で反クーデターの動きが起こるかも知れぬ。
殺意を持っている相手に対し、命乞いをしたところで無駄である。抵抗しても、多勢に無勢で勝ち目はない。そこで、成王は相手がそれと気づかずに時間を稼がせてくれるよう、咄嗟にこの計略を思いついたのである。
成王は床に這いつくばり、商臣の靴の先を嘗めんばかりにして懇願する。
「頼む、熊掌を食わせてくれ」
この屈辱が何であろう。乱世を生きる男は、悲壮感に酔わず、滅亡を美とせず、生き残るために最善を尽くすのみ。
生きる。何としても生きる。その執念が成王を支えていた。
――永遠とも思える沈黙の後、商臣は首を振った。
「なりませぬ」
成王は天を仰いだ。敵もさる者、こちらの意図を看破したのだ。
「陳腐な策でしたな」
商臣が嘲るように言った。
もはや是非もなし。覚悟を決めた成王は、冷たい笑みを浮かべて商臣を見つめた。
――陳腐な策。確かにそうだ。成王、熊掌ヲ食イテ死セン事ヲ願ウ。許サズ。遂ニ自殺ス。史書にはそう記録され、何も知らない後世の者は、食い意地の張った未練がましい王の末路を嗤うだろう。嗤いたくば嗤え。俺だって自分の愚かさを嗤いたいくらいだ。忠臣の諫めを聞かず、貴様のような不徳義漢を太子に立て、自らこの禍を招いたのだから。
俺はお前に負けた。だが、若僧。この程度の勝利でいい気になるな。
事ヲ謀ルハ人ニアリ、事ヲ為スハ天ニアリ。我々は皆、運命という傀儡師に操られる人形に過ぎぬ。どう足掻いたところで、その残酷な魔手から逃れることは出来んのだ。
お前にだって、いつか必ず敗北の日がやって来る。己の運命の前にひれ伏す時が来るのだ。
「さらばでござる」
商臣は自分の帯を解いて、成王に渡した。これで自害せよ、という意味である。
紀元前626年10月、楚の名君、成王は首を吊って果てた。
成王の死後、太子商臣は即位し、楚の穆王となった。
穆王は天下の覇者となることを志し、何度も中原への進出を試みる。しかし、その計画はことごとく晋によって阻まれた。
夢破れた穆王は、十二年の在位を経て失意のうちに死んだ。後に残されたのは「父親殺しの簒奪者」という汚名だけであった。