Entry1
花がすみ
さゆり
早春の風はまだ冷たいけれど、日増しに柔らかくなっていく陽射しに目を細めながら、こゆきは勤め先の会社へと向かった。車道から横道にそれて社員通用口に向かっていく。すると人待ち顔の男が視野に飛び込んできた。
背格好に憶えがある。こゆきは目を凝らした。電柱に寄りかかってこちらを見ているのは、やっぱり弟の貴志だった。
「どうしたの?」
久しぶりに会うから懐かしいのに、何となく躊躇うのは、弟のあまりの変わりようだった。背が高かったのは昔からだが、おどおどと落ちつかない目線はこゆきの知らない貴志だった。不精ひげに草臥れた格好から、荒んだ生活の匂いが立ちのぼってくるようだった。
「部屋の鍵を貸してくれないか」いきなり言う。
「鍵って…何?」ピンとこない。
「姉さんとこの部屋の鍵。俺さぁマンション追い出されたんだ」
うつむいたままボソボソとそう貴志は言うのだ。
二人の脇を次々と社員が通りすぎていく。こんな朝っぱらから何してんだ。胡散臭そうな視線が痛い。通行の邪魔をしないように隅っこに身体を寄せて、姉弟はひそひそ声を潜めて話した。
仕事を辞めてしまって、毎日職探しに飛びまわっている事。格好悪くて、親には言えない事。公園や駅のベンチで雨露をしのいでいるが、たまにはゆっくり眠りたくて、お姉ちゃんのことを思い出したんだ。
訥々と語る貴志を見詰めていたら、こゆきの後を追って泣いた幼い日の彼がだぶって目頭が熱くなった。
外遊びが好きで元気一杯な男の子だった貴志が変わったのは、中学に入ってからだ。スポーツの大好きな彼はバスケットボール部に入ったのだが、そこで知り合った先輩達が問題だった。彼らは所謂不良グループで学校中の鼻つまみ者だったのだ。授業の抜け出しは日常茶飯事。煙草を吸ったり酒を飲んだりしてるとの噂だった。弱そうな子を選んで因縁をつけ金を巻き上げる。果てはお金を調達できないと殴る蹴るの暴力沙汰を起すのである。まるでヤクザを小粒にしたような行動をとる。一人一人はいい子なのに、集団になると変貌するのだ。
「とにかく彼らと縁を切ることです」
両親が学校に呼び出され、悄然として帰ってくる様子をこゆきは何度も見た。しかし、彼らと縁を切りなさいと言ったとて、どんな方法があったのだろうか。
貴志は彼らのしてきた事を側でじっと見ていたのだ。離れようとしたらどんな報復が待っているか良く知っていたはずだ。それはどんなに恐怖だったろう。現にもう貴志は彼らの使い走りにされているのだ。だぼだぼのズボンをはき眉を細くした異様な面々が、貴志が真面目に授業を受けようとすると何度も教室までひやかしに来た。同級生の友達もそんな彼らと係わり合いになるのを嫌い一人二人と離れて行った。
それでも貴志は頑張ってみたのだ。気弱な彼が一大決心をし、部活をやめた。電話の呼び出しには一切応じない決意をし、家族も全員協力し貴志を守ろうとした。学校にいる間が心配だったが担任教師に決意を伝え守ってくれるようお願いもした。
何事もなく日々は過ぎて行った。しかし、ほっとしたのもつかの間。明日が修学旅行という日、担任から電話が入った。貴志が午後から授業抜け出しをしたというのだ。「家には帰っていないんです」既に夜の九時を過ぎていた。携帯電話を持たせていたのに何の連絡もないのはどう考えても変だった。貴志の身に何かが起こったのは疑いようもなかった。父と母は車を飛ばしあてもなく夜の町を捜し歩いた。こゆきは留守番するように言われ電話の前に陣取りベルが鳴るのを待っていた。
顔を腫らし髪を金髪に染められた貴志が帰ってきたのは、11時も過ぎたころだった。修学旅行にいかせまいとする不良グループの仕業であった。何と言う陰湿ないじめであろう。母は貴志を抱きしめて泣いた。貴志一人が荒野にいるようだった。何もしてやれない。何も。自分たちの無力がただ情けなかった。
「なによ~、親にまで見栄をはることないじゃない」
こゆきは笑いながら背中をどんと叩いて鍵を渡してやった。部屋の住所を教え、電車の乗り方を教えた。久し振りに会う弟だ。頼ってくれて嬉しかった。
「使ったあとは、玄関前の鉢植えの下において頂戴ね。今日はなるべく早く帰るから」こゆきは貴志の痩せた背中に弾んだ声をかけたのだった。
部屋に帰ってみると玄関には鍵がかかっていた。言いつけどおり、鉢植えの下に鍵はあったが部屋は真っ暗である。
「あんなに眠いって言ってた癖に。なんて落ちつきのない子なんだろう」
部屋の中は微かだけれど若い男の体臭が匂うから、確かに弟はこの部屋にいたのだ。押しいれをあけて確かめてもみたが、夜具を取り出した気配がない。もともと、気まぐれな弟のこと。街中を散策しているのかもしれない。そのうちひょいと戻ってくるだろう。こゆきはそう考えて夕飯の支度にとりかかった。
着替えを済ませ、キッチンに立ったときに電話が鳴った。
「もしもし、こゆき…?」
母だった。
「貴志、行かなかった?」
いつもの母の声音と違う。こゆきに不安が広がった。
「来たわよ。今、出かけているみたいだけど」
「そう……」
「どうしたの?貴志に何かあったの?」
問い掛けるこゆきに、受話器の向こうで母が大きく息をするのが分かった。
「実はね、金庫がこじ開けられて中のお金がなくなっているの」
その途端、こゆきは反射的に隣室に飛び込み、箪笥の引出しをみた。そして、やがて絶望的な声をあげた。
「まさか…そんなこと」
几帳面なこゆきが、生活費として茶封筒に区分けしておいたお金が、全て持ち去られていた。
母は電話の向こうで泣いていた。
これまでにも、お金や色々な事でいざこざがあったらしいが、こゆきには心配かけまいと、言わずにいたのが結局仇になってしまった。
「貴志は人が変わってしまったのよ。昔の貴志とはもう違うのよ」
振り絞るように吐き出す母の声が、こゆきの耳に切なく響いた。
これまでどんなことがあっても、母は貴志の味方であった。トラブルがあって渋い顔をする父親から、必死になって貴志をかばったのは母である。不良グル―プから金をせびられた貴志のために、父に内緒で何度もお金を融通してあげたのも母である。
「今、貴志はね、友達とマンション借りて住んでいるんだ。真面目に働いているからお母さん嬉しくて」
つかの間の喜びだった。貴志よ、そんな母を何故にお前は裏切るの?
「ねえお母さん、貴志に小学校の桜見せたいね。ほら、春になるといつもみんなでお花見したでしょ。桜の花が重なって霞みみたいにぼーっと見える事を(香雲)
と言うんだよと教えたら、こううんこって貴志がおどけてさ。風が吹いたらはなびらが散って、私たちそれを追いかけたよね。貴志とおでこぶつけたりもしたよね。
あの桜はいまもそのまま?」
「私、今度帰るよ。そしたら、お花見しようよ。昔みたいに。大丈夫だよ。必ず謝りにくるよ。ごめんってひょっこり、ねっ?貴志ってさ、小さい時から謝るの得意だったじゃないの。お母さんが笑うと貴志、とびっきりの笑顔になったよね。貴志はお母さんが大好きなのよ。本当に」
泣き続ける母にこゆきは語りかけるのだった。
香雲。
ピンクの雲のように香り立つ華やかな桜の大群が母の脳裏に広がって、一瞬でも気持が明るくなるように。
祈るように諭すように、こゆきは話し続けるのだった。