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エントリ1 吾輩は犬である 長田一葉
吾輩は犬である。
名前は付いているのだが、人間語の発ウォンは難しい。
昔、カメの中で溺れ死んだ猫がいたらしいが、なんとも間抜けな話だ。そもそも、猫は気にくワン。人間語も分かりづらいが、猫語など全く分からん。たまに吾輩の近くに来て、なんだか訳の分からぬ事を言っているのだが、脅かしても一向に逃げようとせん。吾輩が鎖につながれているのを知っておるのだ。ええい、いまいましい。
そもそも、猫のあの人間を馬鹿にした態度が気にくワン。確かに人間は馬鹿だ。それは認める。しかし、吾輩のご主人に限って言えば、それはもう立派な方だ。ご主人を想うとき、吾輩はあの寒いダンボールの中を思い出す。吾輩は震えていた。一緒に居た兄弟姉妹たちは、一匹、また一匹と人間たちに連れて行かれ、吾輩は一匹ぼっちだった。時々、カラスがのぞきに来て、吾輩の弱り具合を確認していた。ある程度弱ったら、きっとあのくちばしで……。寒さと恐怖でどうしようもなく、吾輩はひたすらに鳴いた。鳴いて、鳴いて、泣いた。そして、ついに現れたのだ。まさに救世主。
我が敬愛するご主人……。
そのご主人が、あの馬鹿猫に笑顔で餌をあげようとしておるのに、奴ときたら自分で取りに行こうとはしない。ご主人に持って来させるのだ。気にくワン。吾輩など、取りに行ってもすぐには食べられんのだ。主人が何を言っているのかは分からんが、目つきや声の調子や手つきで、まだ食べてはならぬ、そう言っているらしいことが分かる。仕方がないので、主人の顔を見て、許可されるのを待つ。なるべくヨダレは我慢しておるのだが、どうしても垂れてしまうのが恥ずかしい。なるべく早く許可されるように、一生懸命に尻尾を振る。振って振って振りすぎて、しりの筋肉がしびれ出す。うーむ、あれは苦しいもんだ。
苦しいといえば、今でこそ歳をとってしまって、あっちのほうはそれほど不満もないが、若い頃はそれはもう大変だった。家の前を若くて可愛いメス犬が通ったりすると、鎖を引きちぎってでもやりた……、いや、交尾をしたいと思ったものだ。欲求不満がたまって、夜吠えもしたことがあるが、主人にこっぴどく叱られたのでやめた。今となってはあれも若気の至り。
さて、ご主人には、奥様と子供が一人ずついる。子供はオスだ。吾輩がこの家に拾われたばかりの頃に生まれた。まあ、幼馴染と言っても良いだろう。よく散歩にも連れていってあげた。吾輩がついていないと、危なっかしくて見ておれない。彼はもう十年も生きているのに、いまだに子供ができない。欲求不満も無いようで夜吠えもしない。
それにしても、午後の日なたぼっこは気持ちが良い。何でお日様はこんなに気持ちが良いのだろう。もうちょっと日当たりがよければなぁ。あと少しで届くのだが、そうすると首が苦しい。お、だんだん眠くなってきた。主人も奥様も子供も今日は出かけていて、なんだか寂しいものだ。いつもは奥さんがなでてくれるのに。せめていい夢でも………。
ん。何だか怪しい奴。誰だお前。何を怖がっておる。いつも見かける奴と同じ服だな、しかし、臭いが違う。お前、何をしておる。ああ、なんだ。ユービンとかいう奴か。それならそういう臭いを出せ。ややこしい。おどおどしているから、悪者かと思ったじゃないか。歳はとっても番犬の端くれぞ。この家は吾輩が守る。そう、この吾輩が守らずに誰が守ると言うのか。
なんだ、猫。またお前か。吾輩は忙しいのだ。あっちへ行け。お前の相手をしている暇はないぞ。しっ、しっ。うー。馬鹿にしておるな。ええい、この鎖がいまいましい。これさえなければ、あいつのところまで走って行ってヒゲをむしり取ってやるのだが。うぬ。ふざけたことに、そんなところで寝るのか、お前は。そんな所で。そんな日当たりの良い所で眠るのか、貴様は。眠れるのか。悔しいなぁ。この鎖がなければなぁ。
あいつの相手をするよりも寝たほうがましだ。無視無視。
んふ。この臭いは何だ。怪しい臭いだ。お。おっ。家の裏で音がしたぞ。誰か居るな。見に行かなければ、って、この鎖が邪魔だ。ええい、くそ。裏で何か事件が、この鎖が、ご主人の家が、この首輪が、くそ、う、ぐぇっ。ぐぇほ、苦しい。しかし、事件が。この家に拾われて十年。ご主人には何のご恩返しもできぬまま、この歳まで生きてきた。今こそ、今こそ、ご恩返しの時ぞ。ええい、この首よ、ちぎれろ、ちぎれてしまえ。そして体だけで悪者を倒してみせようぞ。さあ、ちぎれろ。さあ。さ、あ、痛ててて。ああああっ、ちょっと、今、ガラスが割れる音がした。事件だよ。これ、絶対に事件だよ。絶対に悪者がいるはずだ。おい、猫。猫君。猫様。すまんが見てきてくれないか。いや、見てきてください。あ、無視したな。お前だって、餌もらったことあるだろ。全く、恩知らずめ。ちくしょう。おお、鎖がゆるくなった気がする。お、鎖の付け根が腐ってるんだな。もう一踏ん張りだ。さあ、さあ。よいしょお、よいしょお。うぉ、はずれた。猫め、ビビルな。お前のヒゲむしりなど後回しだ。顔を洗って待っていろ。雨は降らすなよ。裏庭はこっちか。あぁっ、誰だお前。この実匸
野郎。ここは吾輩のご主人の家だぞ。何をしておる。何で靴のままで家に入ろうとする。何で窓を割って、そこから入るのだ。逃げるな、噛み付いてやる。とりゃ、ぐむ、マッズーイ。何だ、お前は。クッセー。おえっ。吐き気がした。こうなりゃ吠えてやる。お、びびったな。さあ、行け。行ってしまえ。もう戻ってくるな。今度来たら、ただじゃすまさねえぞ。今度は臭くても噛み続けてやる。この野郎。とっとと失せやがれ。あ、この野郎。植木鉢倒しやがって・・実匸
ふうっ。一仕事終えた後ってのは気持ちが良いな。さて、次は猫野郎だ。積年の恨み、今こそ、晴らしてくれ……、あ、居ない。お、そこか。くそ、届かん。吾輩にも塀に登る技術があれば……。ちくしょう。無念。次は逃がさんぞ。いや、いいや。猫なんかのことは忘れよう。今日は吾輩の初出陣、初勝利の日。早くご主人たちに帰ってきて欲しいものだ。楽しみ、楽しみ。褒められる。きっと褒められる。吾輩は悪者を見事に撃退したのだ。ご褒美なんかくれたりして。いや、いけない、いけない。ご褒美欲しさにやったことではない。これは、言わば犬としての責務だ。当然のことをやったのだ。恩義に報いたのだ。けっして、ご褒美欲しさでは……、あ、ヨダレが出てきた。
お、帰ってきた。三人一緒だ。やっほーい。
「お母さーん。裏の窓が割れてるよー。あ、植木も倒れてる。あ、ゴン太。何やってんだ。あ、鎖引きずってる。お母さーん、犯人ゴン太だよ」
母に向かって叫ぶ子供の周りを、老犬が嬉しそうに走りまわっていた。
塀の上で、面白そうに猫が鳴いた。
エントリ2 新しい車(3000字Ver.) 佐藤yuupopic
「新しい車買ったから乗りに行かないか?年式は古いけど。青いジェッタ」
なんて、いきなり、電話。「元気にしてた?」とか、前置きは一切なし。水上さん、どう云うつもりなんだろう。二年間ほぼ音信不通だった元妻相手に、新車試乗だなんて。それにしても『ドライブに行く』じゃなくて、『車に乗りに行く』て云う処が、水上さんらしい。と云っても、何が『らしさ』なのか、実際はよくわからないけど。
知り合った当時わたしは、勤めていたWebデザインの会社から独立したばかりで、元同僚から、半導体関連の設計を手がけている企業の、ホームページ作成の仕事を紹介してもらった。その時、先方の担当が水上さんだった。
二回目の打ち合わせの帰りがけのエレベーターの中で、「気に入ったから結婚しよう」て、突然云われて、自分の身に降りかかった事態を理解出来ないまま、勢いに押されて入籍してしまった。で、結局下の名前で呼ぶ習慣もつかないうちに、一年ちょっとで終わった、日々。
梅雨が空けたばかりの、夕方の、打ち合わせ室の机の上で、空になったコーヒーの紙コップを、きれいに爪を切りそろえた指で、つぶしたり、折りたたんだり、しながら、「本来はエンジニアなんだけどね、視覚的な方面も興味あるんだ。色々教えて下さい」て、はにかんだ口元、細い襟首に、ギュ、と結ばったネクタイの、柄、グレーの濃淡で画かれた細かい幾何学模様、に、斜めに射す、夕日の黄味がかったオレンジ、なんてきれい、不意に思い出す。記憶の連鎖反応。ビュン、と瞬時に時間が逆上りそうになるのを、眉間に力を入れて、阻止する。これが始まると、とめどなくなってしまうのはわかっている。最近やっと、夢にも出て来なくなった処なんだから。危ない。
やっぱり海に来ると思った。初めて一緒に出かけたのも、そうだったから、なんとなくだけど。シーズン後の浜辺に、人影はなく。車中でも、ほとんど何も話さず、さくさく、さくさく、砂を踏みしめて、さくさく、さくさく、さくさく、ただ並んで、黙って、水際を、時折スニーカーが、寄せる波に浸りそうになる、のを、よけて歩く。
「俺さ、転勤になったんだわ」
「……何処?」
「レイキャヴィク」
「アイスランド?」
ああ、だから、急に電話してきたんだ。水上さんが、今度こそ本当にわたしの人生から永久に出て行く。日本にいたって会わないならアイスランドだって、吉祥寺だって、奄美大島だって所詮一緒、何にも変わらない、けど。次に彼が新しい車を買っても、こんな風に電話がかかって来る事は二度とないだろう。
「遊びにおいでよ」
「やだよ。そんな遠く」
「たかが飛行機で半日だよ。氷河、フィヨルド、滝、火山、オーロラ、」
「そんな観光案内みたいな事云われても」
「ビョークに会えるかも」
「別にファンじゃないからいい」
「うーん。……そうだ、みいちゃんに車あげるよ。俺だと思って大事に、」
「困るよ、免許ないの知ってるじゃん」
「そんなの取ればいい」
「欲しいけど、急には無理だよ」
「じゃ、一緒に行く?」
「教習所?」
「アイスランドにさ」
「……やだよ。また別れよう、とか急に云われたくないし」
「あの時は悪かったよ」
「悪かったじゃすまない。ずいぶん泣いたもん」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「きみは、悲しくないのかと思った。電話もメールも一回もそっちからくれなかったし」
「声聞いたら、忘れられないから、我慢してたんだもん」
「でも、すぐ、離婚届取って来たのはみいちゃんの方だったし、はじめから俺が結婚しようて、云った時も、思いつきみたく全然考えないで、すぐ、うん、て云ったし、」
「む、むう、そ、それは否定出来ないけど、でも、そっちこそ思いつきじゃん。全然わたしの事知らないのに」
「俺のは直感だよ。別れようて云った時も同じくて、すぐ、うん、て云ったし、みいちゃん、俺の事そんなに好きじゃないのかと思ってた」
「……あの時……わたしを、試したの?」
「聞こえが悪いけど、もしかしたら、そうかも知れない」
「……ひどい……わたし、そう云う駆け引きみたいの、苦手だから、よくわからないもん。わたし、人を好きになるのに時間がかかるんだけど、好きだなあて思って来たら、そのとたんに、別れようかて、云われて、云われた通り、ああ、わたしと別れたいんだ。仕方ないなあ、て、ぼおっとしちゃって、で、訳わかんなくなっちゃったんだもん」
「なんでそう云ってくれなかったの?」
「そっちこそ、聞かなかったじゃない」
何で、今笑ったの?人が怒ってる、て云うのに。相変わらず、全然わかんない。
「寒くなる前で好かったな」
「冬の海、きらいなの?」
「じゃなくてさ、もう少し後の季節だったら、上着着てたろ」
「え?」
「俺さ、みいちゃんの二の腕の、その、ちっちゃいほくろ、好きだったんだ」
「えええ?」
「初めて会った時、フレンチスリーブ着てたでしょ、淡いブルーの」
「そんなん覚えてないよ」
「俺は、すげえハッキリ覚えてる。ほくろ、カワイイなあ、触りたいな、て思ったんだよ」
「……うわあ……やだあ、」
「やだ?」
「え、エロい……そんなん云うの、水上さんらしくないよう」
「エロいて云うなよ。らしくない、て俺の事、どんなんだと思ってたんだよ」
「絵画で云うと水墨画と云うか、枯山水みたいな」
「ははは。なんだそりゃ。ひでえなあ」
こ、こんな事云う人だったっけ。ああ、なんだかなあ、今わたし、バカみたいな程顔が赤くなってるに違いない、あんまりに突拍子もない発言に、耳たぶまで熱くなるのを感じて、話をそらしたい一心で、
「み、水上さん、お腹減ったでしょ、お弁当、作ってきたよう」
足下に転がっている流木に腰かける、水上さんもつられて腰かける。
「おお。みいちゃんのお弁当だ。なつかしいや。うれしいなあ」
「おにぎり、ね、水上さんの分は梅干し入れてないよ。おかかと、しゃけと」
上手く話がそれて、内心、ホ、とする。
「サンキュウ……、うわ、みいちゃん、相変わらずゆで卵好きだなあ。六つも持って来たの?」
「え?水上さんが好きだと思って…わたしは一個で残りは全部あなたの、のつもりだけど」
「ははあ……だから、いつでも食卓にゴロゴロしてたのか。誰かとカンチガイしてるんだよ、それ」
「嘘? だって、いつも、もしゃもしゃ食べてたじゃん」
「なんだよ、相当みいちゃん卵好きなんだなあ、その割に食わねえなあと思って、腐らしたら勿体ないと思って、頑張ってたんだよ。もう一生分の卵食ったよ、俺」
「云ってくれればよかったのに」
「聞いてくれればよかったのに」
また笑う。思い出した。そうだ、いつもこうだった。わたしが真剣に何か云うと、水上さんが小バカにするみたくニヤニヤ笑って、何で笑われるのかわからなくて、聞いても教えてくれなくて、「むう」てなるとさらに笑われて。ああ、全くもう、癪にさわる。
「ねえ」
「何?」
「キスしていい?」
なんだよ、許可する前にするんじゃん。それも、かすかに触れるみたいなヤツ。おへその下の辺が、ジン、と熱く、なる。
「みいちゃん」
「何だよう?」
「も、一回していい?」
また、勝手にする。聞く意味、全然ないじゃん。
「一緒に行くだろ?」
「また、そうやって、決めつけて」
「じゃあ、行かないの?」
同じ事を繰り返すのだけは、絶対、ごめんだ。でも、ただ、されるがままに、くちびるに、何度も、水上さんを、感じている、今、わたしはどうしたいんだろう。
huki:(作者註)本作は、1000字投稿作「新しい車」の3000字Ver.です。水上さんとみいちゃんをもっと動かしてみたくなって、書いてしまいました。わずか描写が加わる事で、水上さんの印象が少し1000字Ver.とは異なるのではないでしょうか。お時間がおありでしたら、読み比べて頂けますと幸甚です。
エントリ3 一分間の瞑目 ごんぱち
介護職員の吉野高志は、エプロンから二色ボールペンを出し、チェック表に時間を書き込む。
「――あれ?」
昼食後のひととき、利用者たちは、思い思いに過ごしている。
吉野はテレビの前の高齢者の一団を、端から確認していく。次に、テーブルで雑談している者達。
「いないなぁ……」
寝室をのぞく。
ベッド四つと、布団四つは埋まっている。
デイルーム内に他の職員がいるのを確認してから、廊下へ出る。
(トイレも空いてるし)
そのまま小走りで、ロビーへ行く。
「あっ!」
男の利用者、木梨次男が一人、玄関の自動ドアから外に出ようとしている。
「木梨さん!」
木梨は、自動ドアの僅かな溝につまづきよろける。受け身を取るでもなく、踏ん張るでもなく、真正面に――。
「だっ、大丈夫ですか?」
吉野の腕が、木梨の腰を抱えていた。
「だいじょうぶ、ですか……」
オウム返しに呟く木梨の顔には、転倒しそうになった恐れも、驚きもなかった。
木梨を連れて送迎車から降りた吉野は、団地の三階まで上り、インターホンを押す。
「――ただいま帰られました」
『あっ、はい!』
ドアが開き、娘の宮崎伸子が顔を出す。
「お帰りなさい、お父さん」
「おかえりなさい……」
「いつもありがとうございます、吉野さん」
宮崎が頭を下げる。薄くなったつむじが見えた。染める暇もないのか、生え際が随分白くなっていた。
「仕事ですから」
吉野は笑う。
「あの……」
言いかけて、宮崎は首を横に振った。
「いえ、何でもないです」
「あっ、遠慮なくおっしゃって下さい?」
吉野はポケットから紙とボールペンを出す。
「苦情とかじゃないんです。何でもないですから、ほんと」
「そうですか? 本当に遠慮せずおっしゃって下さいね。守秘義務ってものもありますし」
「はい、ありがとうございます――さ、お父さん、中に入りましょ」
「お疲れ様でした」
一礼して吉野はドアの前を立ち去る。
それから、エレベーターのボタンを押す。
エレベーターは一階まで行ってしまっていて、なかなか戻って来ない。
(階段使うか)
「すみません」
「わっ!」
吉野はびくりと肩を震わせ、振り向く。
「なんだ、木梨さんですか」
「あの」
宮崎は再び口ごもりかけたが、思い切った様に茶封筒を差し出した。
「え?」
「書いてあります。読んで下さい」
彼女は戻って行った。
――玄関のドアから、木梨が出ようとしていた。
送迎を終え、スタッフルームに一人残った吉野は、封筒をエプロンのポケットから取り出す。
封筒の口は、糊がはみ出したままで固まって、てかてかと光っている。
(さっき書いたわけじゃ、ないらしい)
中には、二枚の紙が入っていた。
「為替――?」
一枚は、吉野の給料の三ヶ月分にも相当する額の、為替証書だった。
「利用者からの寄付は受け付けないって、一体何度言ったら分かるんだよ」
そしてもう一枚を開く。
吉野は読み返した。
何度か、読み返した。
「――転ばせて、欲しい?」
翌週。
「座りましょう、木梨さん」
吉野は、木梨を椅子に座らせようとする。
だが、木梨は座面に正面から膝をついてしまい、背を向けて尻で座るという動作にならない。
「ほら、座りましょう」
木梨の腰を抱え、ぐっと向きを変えさせる。
ようやく、椅子に尻を付けたかと思うと、また立ち上がり、歩き始める。
「木梨さん、のんびりしてましょう、のんびり」
溜息混じりに吉野は木梨と手を繋いで、一緒に歩く。
だが、三十秒も歩かないうちに、木梨は苦しげに息を切らせ始め、足取りもおぼつかなくなって来る。
(歩けもしないくせに、歩こうとするなよな……)
「ほら、お疲れでしょう? 休みましょ」
吉野は再び彼を椅子に座らせるが、また、立ち上がる。
疲労と歩行と休息の関係がまるで分かっていない。
『このまま徘徊を続け、外まで出てしまったら、死ぬかも知れません』
宮崎の手紙の内容が、脳裏に蘇る。
『だから、もう、歩かないで欲しいんです』
どこへ行こうとしているのか、怯えとも無表情とも取られる顔で、歩く。
『父の要介護度は二です。うちの経済状態では、入所も出来ません』
(要介護度は、入所施設で取ったデータを使ってたっけ。鍵の掛かる)
『家に閉じ込めておく事も出来ません。鍵の開け方は、忘れてないんです』
歩いて行こうとする木梨の手を引き、元の場所へ戻らせる。
『玄関から出られればまだ良いです。でも、ベランダから落ちでもしたら』
吉野は木梨の手を持ったまま、また歩く。
『昼も夜も区別ありません。私の目も届かないのが現状です。縛るなんて事もできません』
(徘徊は、死に直結する最も危険な事故)
足はふらついて、立っている方が不思議な位だった。豆一つ、紙一枚踏めば、それで転ぶ。
「さあ、座りましょう」
『父を救って下さい。寝たきりにして下さい』
木梨は今度は椅子に座り、そのまま立ち上がらない。
『一分間、目を離して下さい。一度でも転べば骨折して、もう父は歩かずに済むんです。絶対、その事で賠償を求めたりなんてしません。お願いします』
ふと気付くと、木梨が立ち上がっていた。ほとんど反射的に、吉野は彼の手を掴み座らせた。
「さ、お茶の時間ですので、お手洗いに寄ってからテーブルについて下さい」
午後のカリキュラムのゲームが終わり、利用者達はトイレやテーブルへ移動する。
その動きに釣られ、椅子に座らせた木梨が、不安げな無表情で息を切らせながら歩く。
(転ばせる……)
別の利用者の手を引いていた吉野は、視線を逸らす。
(一、二、三……)
声に出さずに数える。
(……七、八)
吉野が振り返ると、木梨は転倒と見分けが付かない様な足取りで、よたよたと歩いていた。
(転べば)
車椅子のハンドルが、木梨の行く先にあった。柔らかいゴムで作られたグリップは、簡単に衣類に引っかかる。
(家族の負担を減らせる。本人の命も守れる)
木梨は正面に視線を据えて、ただ真っ直ぐ歩くだけ。
(でも)
グリップとの距離が縮んでいく。
吉野の視線に気付いている職員も、利用者もいない。
(そんなの)
「すみません、そこに掴まってて下さい」
案内していた利用者の手を、手すりに掴まらせ、木梨に駆け寄る。
同時に、木梨の服が車椅子に引っかかり、バランスを崩して転びそうになる。
吉野は彼の上半身にぐっと抱きつき、転びそうになった身体を立て直した。
「だ、大丈夫?」
利用者の一人が声を掛ける。
「ええ。大丈夫ですよ。気になさらずに」
吉野は微笑んで見せ、木梨の手を引っ張った。
日曜日、吉野はコートを引っかけ、外に出る。
駐輪場に停められた自転車にまたがり、昼下がりののんびりした街を走る。
途中、歩行器を使いながら、道を歩く高齢者とすれ違った。
見覚えのない顔だった。
五分ほど自転車を走らせた吉野は、郵便局の前で停まった。
「いらっしゃいませ」
郵便局員の挨拶に会釈で答える。
「すみません、書留ってどうやって出すんですか?」
「こちらの用紙に記入して下さい」
「ありがとうございます」
吉野は用紙に必要な内容を記入して、封筒と一緒に局員に渡す。
『心情は察する。責めはしない。が』
普通郵便よりも遥かに高い料金を支払う。
『俺の人生を巻き込むな』
「は?」
吉野の呟きが聞こえたのか、局員は訝しげな顔をする。
「いえ、独り言です」
吉野は微笑んだ。
いつも、仕事で見せているのと同じ笑顔だった。
エントリ4 『雑影都市』 橘内 潤
その街には、積もらない雪が降りつづけているのだった。
寒くなく、温かくもなく。
白だったり、また黒だったり。けして灰色ではなく。
ちらちらと、
しんしんと、
こんこんと、
降りつづいている。
四月に降る雪くらいに、どうでもよくて、とりとめもなくて意味もなく。
地に落ちる前に、まるで初めから嘘だったかのように色も匂いもなく消えてしまうくせに、不確かな存在感をもって網膜にこびり付く。
白く降り積もって景色を埋め尽くすことも、黒く汚れて溶けていくこともなく。そのくせ、この街のだれもが雪の降らない景色を想像できないような、首を締める真綿のような、無味無臭の圧迫感でこの街を支配しているのだ。
だれも、雪について疑問をもったりしない。
だれも、雪のない景色をしらないから。
だれも、雪の色を知らない。
だれも、雪を知らない。
だれも、雪に気づかない――?
「この子の親を探しています。どなたか、お心当たりのある方、いらっしゃいませんか?」
幼い少年は両腕に仔猫をかかえて、通りを行き交う大人たちに声をかけては、追い払われていた。
立派な外套に身にまとった大人たちは、少年の胸で眠る仔猫のみすぼらしさに眉をしかめるのだった。
――やがて少年は、大人たちに頼るのあきらめる。
「だれも、ぼくの頼みなんて聞いてくれないんだ……。でも大丈夫、きみのパパとママは、ぼくがきっと見つけてあげるからね」
通りの端から、どうせ衣服に触れる前に消えてしまう雪を避けるために高い外套をあつらえた大人たちを、たっぷりの諦観と嫌悪、それにわずかな羨望を滲ませた瞳で見送っていた。
少年は歩きだす。抱きかかえられた仔猫は、されるがままに従っている。
歩きながら、少年は仔猫へ話しかける。
「きみはどこから来たんだい? ここじゃ、見ない顔だよね」
「………」
「パパとママと逸れたの? 独りぼっちで淋しかった? でももう大丈夫、ぼくが一緒に探してあげるから」
「………」
うんともすんとも、にゃあとも鳴かない。
それでも少年は楽しそう。話しかけるべき対象がいるということが、その頬を緩ませるのだろうか。
「でも、テガカリが少ないなぁ。どっちの方向に歩いたらいいのかなぁ?」
道なりに歩けば、視線のさきは突当たり。右か左か、どちらかにしか進めない。まっすぐは歩けない。
「ねえ、きみはどっちから来たんだい?」
「………」
迷ったときに道を尋ねる相手としては、仔猫はいささか不適切。
少年は溜息まじりに首をすくめる。ついでに片方の眉だけ持ち上げてみようとしたが、これは失敗。
大人は好きではないけれど、大人っぽいのには憧れるのだ。
「この街には案内板が必要だよね。そしたらきっと、『仔猫とパパとママのお家』って書いてあるから迷わないのに」
「やあ、どうしたんだい。こんなところで?」
――当然、仔猫の声ではない。それは背後から降ってきた。
少年が身体ごとふり返って見上げると、そこには大人が立っていた。高そうな外套を身に着けてはいたが、表情はにこにこと和やかだ。
だから少年は、ちょっとだけ気をゆるした。
「あのね、この子のお家を探してるの。きっと、パパとママが待ってるから」
その言葉と胸に抱かれた仔猫とに、大人は「ああ……」と眉をしかめた。
少年が、すこしでも期待してしまった自分自身に落胆していると、大人は目頭を押えていた。泣いているらしい。
「ああ、可哀想に。きっと今ごろ、パパとママも悲しんでいるだろうに」
外套のポケットからハンカチを取りだして涙を拭う。
少年はうれしかった。自分の話を信じてくれたことがうれしかった。だけど泣くのはわからなかった。
「悲しんでるんじゃないよ、待ってるんだよ。パパとママと子供は一緒にいれるんだから、悲しくないよ」
「……ああ、本当に可哀相に。可哀相に、可哀相に」
じーんっ、とハンカチで威勢よく鼻をかむと、それをポケットにしまって大人は赤い目許を手でこする。
そして、すっと指差したのは突当たり。その右のほう。
「あっちへお行きなさい。きっと、パパとママが待っているよ」
「え、本当?」
「本当だとも、わたしが嘘を吐くはずがない。なぜって、嘘を吐かないという言葉がもう嘘かもしれないのだから、嘘が嘘だとはかぎらないじゃないか。なあ、そうだろう?」
「ええと……よく、わからないや」
「素直にわからないといえるのは大人の証だ。だからわたしも敢えて、わからないっ、と声を大にしようじゃないか」
「わからないの?」
「わからないさ」
「ふぅん……まあいいや。ぼく、もう行くね」
「ああ、そうすればいい」
大人はハンカチを振って少年と仔猫を見送る。ハンカチにべったり付いた鼻水が飛んでくる前に、少年は大人から離れていった。
やがて突当たりに差し掛かる。
教えられたとおり、少年は右の道へとすすむ。
「よかったね、きっともうすぐパパとママに逢えるんだよ。うれしい?」
「………」
やはり無言。
「そっかぁ。やっぱりそうだよね、うれしいよね」
少年はひとりでうなずく。
会話というものはどうやら、自己完結していれば、だれも傷ついたりしないようだ。
そしてまた突当たり。今度は、左右にも道がない。
つまり袋小路。行き止まり。ここでおわり。
「あ、扉」
道のおわりにはいつも、なにかが待っている。
それは青い鳥だとか、我が家だとか、分厚い鉄板を二枚並べたような扉だったりだとかだ。
少年と仔猫を待っていたのは、その三番目だった。
「ここがきみのお家なの……?」
にゃぁ――と、こたえるはずもなく。
ドンドンッ、と扉を叩くと、ギィィと外側に開きはじめる。
少年は一歩あとずさる。
「あ、お出迎えのひとですね。お宅の子を連れてきてあげました」
扉の向こうからでてきた白い防具服の大人たちに、少年は仔猫を両手で掲げてみせる。
「………」
大人たちが無言なのはきっと、密閉型のヘルメットをしていて、しゃべれないからだろう。
互いにジェスチャーすると、ふたりの大人が、手袋をはめた手で少年の腕を両側から抱きかかえる。
地に落とされても鳴き声ひとつあげない仔猫を、もうひとりが拾いあげる。
「わあ、うれしいなぁ。こんな大げさな歓迎、ぼく、初めてです。これからパーティーをしてくれるんですね。うれしいなぁ」
少年はにこにこと、生まれてからずっとそうしてきたように、こたえる意思のない対象を相手に会話をつづけるのだった。
そうして連行されたさきで、ボロ布をまとった孤児と仔猫の腐乱死体は焼却された。
幸いにも悲鳴がきこえなかったのは、酸素が燃え尽きて真空状態になっていたから。
ちなみに猫は、やっぱり鳴かなかった。
降り積もらない雪は、もしかしたら雑影――ノイズだったのかもしれない。
擦りきれる直前で、それを拒否してしまった可哀相な映画。忘れされることもなく、思いだされることもなく、ただ雑影が降りつづけている。
初めから無かったようで、ずっと在る――そんな、観るに堪えない、くだらぬ映画。
すべてはもう、憶測でしか語れない。
憶測を語ることは罪でも、考えることは赦されるだろうか?
――が、ぼくは大人だから、わからない。
そしてもう目を閉じることにするから、わからなくても良いのだ。
この街には、積もらない雪が降りつづけているのだった。
エントリ5 羽ばたきの音 るるるぶ☆どっぐちゃん
鳥篭の中に沢山の宝石が詰まっていた。色とりどり、大小様々な大きさの宝石が中に居る黒い鳥の足下を埋めている。鳥篭には鍵がかかっていた。あたしはおかしいな、鍵がかかっているのにいつの間にこんなことになったのだろう、と思った。
「不思議だよね」
背後から声。
「僕も小さい頃に鳥を飼っていたけど」
あたしは背後へ目を向ける。
にやにや笑いの髭面の男がいた。
「僕はその鳥を大事にしていたから鳥篭の鍵を外したことなんて無かったのだけれどさ、でも鳥篭の中はどんどん宝石が溜まっていくのだよねそんな風に」
男はそう言うと裸のままベッドから抜け出した。そして鳥篭に触れ、可愛い鳥だね、と言う。
「鳥は、とにかく宝石が好きなんだね」
「羽根があるから。鳥には羽根があるから」
「人には鳥篭があるね。他にも色々あるけれど。そうだな、ピアノがあるな」
彼はそう言うと指をピアノの白鍵の上に降ろした。
「何か弾いてよ。何しろ君は、世界的な名ピアニストなんだろう?」
あたしは立ち上がった。あたしは裸じゃなかった。ピアノのコンサートに使われる、派手な赤色のドレスを着ていた。ピアノの前に立つと彼が拍手をしたので、あたしはお辞儀をした。
何を弾こうか、少し考える。何処かで低く、じいい、と音がしていた。ちょっと目を離した隙に、鳥篭には宝石がまた一個増えている。
「あなたは画期的だよね」
あたしが演奏を始めると、男は言った。
「やはり世界的なピアニストは違うのだね」
あたしは弾き始め、気がつき、やっと昨日の夜のことを思い出した。
白鍵。黒鍵。
宝石のような赤。
思ったより早く慣れそうだ。
「僕にも知り合いでいるけれど、ピアニストなんてものは大体、やればやるほど我が儘で傲慢で、それでいて寂しがり屋になっていくもので、だからもし指があと一本増えたら素晴らしい演奏が出来るのに、なんて言い出してね。あと指が一本、いや二本、十本、百本。そこへいくとあなたは確かに画期的だと思うよ」
次は何を弾こうか考える。
「撮れて、良かった」
あたしは即興でやることに決めた。小さく息を吐く。
「撮って良いんだよね?」
「ご自由に」
ビデオがピアノの上に乗っていた。じいい、と小さな音を立てている。あたしは演奏を始めた。
演奏を続けていると、窓の外の景色が目に入った。海。あたしの演奏が高まると、波もそれにつれて高くなっていくように見えた。あたしは調子に乗って弾きまくった。波はどんどん高くなっていった。綺麗なロールを描いて、生き物みたいにうねった。
そして大波が海岸を歩いていた女の子に、大きな音を立てて覆い被さっていった。
鳥篭を持った女の子だった。
「きゃあ」
「いけない」
あたしは部屋を飛び出した。
「大丈夫?」
「大丈夫」
女の子はあたしの背後に倒れていた。
「ごめんね、ごめん」
「良いの、でも」
「でも?」
「ぬいぐるみが」
彼女は海を指差した。
ぬいぐるみがふわふわと浮いていた。
「鳥篭じゃ無かったのね」
「せっかくお母さんに貰ったものだけど」
「ごめん」
「でも仕方無いね」
女の子はぬいぐるみをすぐに諦めてしまった。笑い、立ち上がる。
「おおい」
男の声が聞こえた。手にビデオカメラを持ち、こちらに近づいてくる。
「鳥篭、流されてしまったね」
「鳥篭じゃないの、ぬいぐるみよ」
「そうなのか。まあともかく、お詫びに遊園地にでもどうだい?」
「良いの?」
「ああ」
「嬉しい」
「よし、決まりだ。こっちにおいで」
男はそう言うと来た道を戻り始めた。
「ねえ」
女の子があたしの手を握った。
「それどうしたの?」
女の子はあたしの右手を指差した。
「血も沢山出てる」
「ああ、ちょっとね」
あたしは右手を持ち上げ、かざした。
さすがにまだ違和感があった。バランスを欠いた手。一本欠けただけでこうなるのか。
(意外と簡単なんだな)
「ちょっと?」
「昨日、噛み切っちゃったの」
昨夜のことを思い出す。ハサミでもなく、ナイフでもなく、歯だった。男のカメラの前であたしは指を歯に這わせた。
爪を噛む癖はあったが、指は昨夜が初めてだった。
「早く。遊園地が閉まってしまうよ」
男がカメラを構えたままこちらを振り返る。
「要するに、手というのは掴むものでは無いんだね。指が五本もあるから、とても便利に動くから、それで勘違いしてしまうけれど、でも掴む為のものじゃあ無いんだね」
遊園地に着いたのは夜だった。時間のせいか誰も居ない。
遊園地は動物園が併設されていた。キリンが居た。ゾウが居た。サルが居た。
「じゃあ何の為なの?」
女の子が男に聞く。
「祈る為さ」
「祈る為?」
「ああ。こうやって手を合わせて、指を組み合わせて、祈る為に手はあるんだよ」
「ふうん」
「祈る為に指が五本も必要だなんてね。そんな不格好な手を持つのは人間くらいさ」
「そうね、不格好よね」
動物園の最後にあったのはライオンの檻だった。或いはウサギの檻だった。どちらも居たからどちらの檻なのか、あたしには良く解らない。
「御覧。ライオンだよ。ライオンとウサギだ」
ライオンがウサギを食べていた。
ウサギは、チョコレートを食べていた。
「色々と有り難うね」
バスから降り、女の子が言った。
バスの中で一泊したのでもう朝だ。海岸への道と街への道を繋ぐ最後の分岐点に、今あたし達は立っている。
遠くの草原に美しい四人姉妹が居るのが見えた。彼女達は笑いながら、その手を組み合わせている。
「じゃあね」
女の子はそう言うと、走り出した。
「じゃあね。元気で」
女の子はあたしに手を振った。右手だ。一つ指の欠けた手。あたしは昨日、彼女の人差し指を噛み切った。彼女の眠っている内に、あたしは彼女の人差し指を飲み込み、根本から噛み切った。
シーツに血が落ちる。
赤く綺麗な。
宝石のように。
本当にこれで良かったのか、そんなことは考えられないくらいに、綺麗な。
「変なの。ふふ、おかしいわ」
朝、欠けた指を見た彼女は、あたしが恐れたような泣き顔では無く、笑顔でそう言った。
「頑張るんだよ」
男がカメラを回しながら、女の子に向かって叫ぶ。
あれから随分経った。
鳥篭の中の鳥は死んだ。今は宝石だけが、籠の中を埋めている。
あの女の子からは毎年手紙が届く。ぬいぐるみのデザイナーになったそうだ。
あたしはコンサートピアニストには戻らなかった。ずっと場末のバーで弾いている。
「相変わらず凄いピアノを弾くね」
男は度々ここに訪れる。
「君はもう誰かに聞いて貰う必要なんか無いのだろうね。そうそう、君のあの時のビデオだけどね、まだ使えずにいるよ」
男は知らなかったが、映画監督だった。
「あれを使うと、どうしても君の映画になってしまうんだよな。僕が作りたいのは、あのビデオを使って作らなければいけないのはそういう映画じゃないんだ。だがどうして良いのか、どんなものが良いのか、良く解らないが」
つけっぱなしのテレビから、ある有名なピアニストの名が聞こえた。
あの女の子の母親だった。
「自殺したそうです」
アナウンサーは静かに告げる。
「何か食べ物はないか?」
テレビから信じられないような名演奏が流れている。あたしは辺りを見渡した。探す。何かを探す。何も見つからない。あたしは鳥篭の中へと手を伸ばした。
「チョコレートなら」
結局それだけを答え、チョコレートを男に渡し、あたしは再びピアノを弾き始めた。
エントリ6 澱氷 伊勢 湊
疲れがすっきり取れた爽やかな気分で目覚めることが、最近ない。酒を飲むわけでもなく、暑くて寝苦しいわけでもない。もう夏も終わろうとしているこの時期でも家にいる間はエアコンを常時つけているし、別段連れ立って飲みに行くという友人もおらず少しテレビを見たらすぐ眠りにつく。
目が醒めると右肩と背中の痛みに気が付く。ペットボトルのお茶を飲めば歯が痛み、目がしょぼしょぼしてコンタクトを入れるのに一苦労し、そしてなんとなく胃が重かった。当然気分も重い。そんな気持ちで髪を整えネクタイを締めれば、それでも足は健気に駅へ向かおうとする。二十九歳。まだ二十代であるはずのこの歳は、既にどこかへ一歩踏み出しているのではないかと漠然とした不安を覚える。
玄関の扉を開けて空を見上げる。子供が描くセメントのような色。駅までの道程にある小学校の窓に張られたクレヨンの絵。葉っぱが緑で、太陽が黄色。空は青で、肌は肌色。そしてセメントは灰色。それ以外の何ものでもない。そんな色が空一面に広がっている。当然、もうすぐ雨は降る。空の色は指先ほどの可能性も許さない。
草の生えっ放しになっている庭から小さくがさごそという音がした。二歩ほど進み先を見ると朽ち果てかかった縁側の下に猫がいた。子猫。生まれて間もないという感じ。親とはぐれたのか、行くべき場所が見当たらないのかまともに視線がぶつかっても逃げようとしない。少しだけ心が動かされる。朝露で濡れた体を拭いてやり、幾ばくかのミルクでも与えてやれば。行き場のない小さな猫のためか、独りには広すぎる家に住む二十代最後の自分のためか、一つの未来が心に浮かんだ。しかし刹那、頭のてっぺんに落ちてきた雨粒が心に現実の灰色の空を強く思い起こさせる。雨が降れば、電車も込むしバスも込む。僕は駅までの道を急ぐ。
忙しくてやっていられないと嬉しそうな目をしながら愚痴る同僚たちに適当に話を合わそうとするが、どうしてもそれが出来ない。子猫の姿が頭に浮かぶ。早く帰りたい。残業しながらも時間を食い潰すように過ごす者たち。無為を過ごす代価は幾ばくかの残業代か。その無為の時間をもったいないと思った。もともと野良のあの子猫が妙に気になった。特に予定があるわけでもなく、これまでさほど早く帰りたいと思うことはなかったのだが。いや、忘れているだけかもしれない。帰りにコンビニでミルクを買おう。たぶん喜ぶはずだ。
しかし結局コンビニには行けなかった。指はキーボードを打ち続け、吐き気がするほど脳みそを動かした。それでも午前三時。これもまた無為。忙しさを演じる者たちへの哀れを思いつつも、自分はそれを欲してはいない。自分のためだけにそれを欲せれるほど器用ではないし、それを投影する誰かもいない。あの子猫はどうだろう。考える。いや、あの子猫が欲するとすればそれはそんなものではない。ミルクと乾いたタオルだ。仮眠室で横になる。
声がする。それは遠くて何か言葉を紡いでいる様にも聞こえたし、音自体に意味がない、あるいは僕にはその意味を解することの出来ないあの子猫の鳴き声のようにも聞こえた。その音が何なのか、捕らえようと追いかければ、それは同じ距離を保つように遠のいた。頭のどこかでこれは夢なのだと意識する。とふいにぶつかる。視界は闇。気が付けば静寂。そして懐かしい声。
「旋律を奏でるの。難しくない。もう一度ネジを巻くの」
ネジを巻く。記憶が映像を呼び覚ます。もう二度と会えない人。一緒に聴いたあれは何だったか。ネジを巻けば旋律は甦る。手を伸ばす。でも届かない。旋律を思い出すことの出来ないまま、ふいごがどこかから風を送り、全てを掻き消していく。荒々しくガラスの破片を飛ばすような風の旋律。
目を覚ますとベッド際の小さな窓を強い台風の風が叩いていた。どう足掻いてみても、独りだった。
午後から表面張力で頑張っていた灰色の空が、とうとう堕ちる。あの子猫はどうしただろう。心配が頭をもたげる。が、すぐにパソコンのディスプレイに戻る。電子メールは雨に濡れない。きっと手紙にはこの先一人分のメッセージしか込められなくなるのだろう。しかし仕事には有効かつ十分。外のことは忘れる。忘れることは難しくない。もともと厚いガラス窓がはめ込まれ、空調は一年中温度を管理している。目を向けなければいい。それだけだ。
約三十五時間ぶりにオフィスから出る。雨はいまだ激しい。タクシーも考えたがバスを選ぶ。そこまでする勇気を見出せない。子猫は野良だ。もともと逞しく生きてきたのだろう。言い聞かせる。縁側の下で体を丸めてさえすればいいことだ。それだけのことだ。
肩が痛い。体から抜け出すことのない、これまで生きてきた中で出来た澱が血流に乗り切らずどこかに溜まって歪みを起こす。降りしきる大粒の雨の中、止まない風の中、行き場のない子猫が一匹。心でなしに肩が痛む。
幕はあっけなく上がる。雲は去り、星すら見える。電車に乗る前には差していた傘も、降りてからは開かれない。激しい雨音の代わりに虫たちが一斉に鳴き始める。移りゆく季節を繋ぎとめようと必死で呼びかける。それでも来週にはこの秋二つ目の大型台風が上陸し、今度は虫の声さえもさらってどこかへ消えるだろう。
コンビニで弁当とお茶を選び、少し考えてからミルクも手にする。子猫いるだろうか。予想する。あの大粒の雨の下に出て行きはしないはずだ。きっと、本当に雨が止んだのか信じられず、縁側の下で小さくなっている。
家が近づく。側を流れる小さな川の堰のところに近所の人が集まっている。顔は見たことあるが名前は知らない。話したこともない人たち。お互いがお互いを認めながら、視線一つで牽制し、世界が交わることはない。ブラウン管の中と同義的なその人々はなにやら話しながら音をたてて流れる川と多くのゴミが引っかかった堰を懐中電灯で照らしていた。側を通り抜けるそのとき、その声を聞いた。「見て、あの猫ちゃん、かわいそうねー」「落ちちゃったのかしら。ついてないわね」
どの猫の話をしているかは分からない。僕はその人たちの視線の先を見なかったから。ただ暗くてうっすらとしか見えない足元だけを見て家の玄関まで歩く。鍵を開ける前に縁側の下は見ずにその脇にミルクを置いた。少し考えてから台所に行き、どのみち使いはしない従兄弟の結婚式の引出物で貰った皿を探し出してきて、そこにミルクを注いだ。あの小さな子猫でもこれならば飲みやすいだろう。しかし風が温度を下げ音をたてるばかりで、子猫の声は、しない。
エアコンを最低温度に設定し、凍えるくらいの空気の中で部屋の明かりは付けぬまま横になって耳を澄ました。少し頭痛がした。肩もひどく痛む。上質なシャンパンは澱を沈殿させた部分を凍らせて、凍ったシャンパンごと取り除くと聞いた。僕も凍ってしまえば肉体の一部ごと澱を取り除けるだろうか。そうすれば肩も痛くなくなるだろうか。
風の音がする。薄い窓を叩く。広いだけが取り柄の古い家だ。冬になれば隙間風も吹き込むだろう。なのに、独りになった今でもここから別の場所へ行けはしない。ただ耳を澄まし、遠い旋律を、追いかければ消えるその旋律を、暗い部屋で物音一つ立てずに横になって待つ。
凍えそうな部屋の中、望みを繋ぎそれを待ったが、やはり子猫の声はしなかった。
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