Entry1
春風とホームレス
伊勢 湊
むかしテレビが見れていた頃にあるドキュメント番組で「ホームレスの方々は彼らなりの価値観やプライドを持っています。現代社会の歯車に組み込まれた私たちに果たしてそれを否定できるのでしょうか?」のようなことを言っていたが、自分がいざホームレスになって見るとそんなことは全然ない。そういう人もいるのかもしれないが僕は会ったことがない。会ったことがあるのはそういう価値観やプライドを持っている振りをしている人たちだけだ。結局頑張ってあれこれするのが面倒くさくて逃げ回っているうちにここに辿り付いただけなのだ。僕の知り合いの篤さんなんかはもとエリート会社員で、それこそドキュメント番組みたいなので取材を受けて「いま社会の歯車の中にいる人には決して見えないものが今の私たちの生活にはあるのです」ともっともらしいことを語ったらしいが、よくよく考えてみればまともに社会生活を送っている人たちにこんな惨めさや情けなさは見えるはずもなく、そんなの当たり前のことなのだ。だいたいよく話を聞いてみれば篤さんは保険とかそういうのに疎くて社会保険にすら未加入で、さらに貯金とかが面倒くさくて目くら滅法に飲み歩いてお金がなくなると金融会社で少しずつ借りてまた飲む、みたいな生活をしていたらしく、それはホームレスまで身を貶めても当たり前といえば当たり前で、むしろそんないい加減な社員を置いていた会社自体がかなりエリートという言葉から遠い気がする。
もちろん僕も人のことは言えない。というかもっと悪い。田舎から東京に出てきて仕送りを受けて大学に行っていたが、外に出ること自体が面倒になり家に引き篭もった。最近はどうやら引き篭もりが流行っているらしいがなにをするにも金がなければ出来ないわけで引き篭もりだって同じことだ。「もう何年も引き篭もりで悩んでいます」とか相談してくる人はよほど金持ちなのだろう。羨ましい限りだ。僕も仕送りを喰い潰しながらなんとか頑張って引き篭もりを続けたが、お金が底を尽き、大学を除籍され、仕事の探し方も分からなかったので必然的にアパートを追い出され引き篭もることができなくなってしまった。いまの引き篭もり先は公園の片隅の篤さんの横にあるダンボールハウスなのだがよく壊されるので引き篭もりには向いていない。
「伸坊、御馳走の季節がきたぞ」
「御馳走っすかぁ?」
僕はトイレの横の水道で歯を磨きながら篤さんに返事した。ホームレスになってから唯一よくなったことは歯を磨くようになったことだ。前は面倒くさくて磨いてなどいなかったが、退屈なので磨くようになった。
「見ろ、桜が咲いたぞ」
「ああ、花見っすかぁ」
篤さんは僕のほうを見てにっこり笑って親指を突き立てた。僕は口を濯いでから言った。
「でもダメでしょ。去年だって警備員に見付かって追っかけられたし、帰ったら酔っ払いに家壊されてたじゃないですか。まあ僕は壊されたおかげでその夜は別のとこで寝たから大丈夫でしたけど、篤さんは酔っ払いに袋叩きにされたんでしょ? 社会のダニだって」
「嫌なこと思い出させるなよ。今年は上手くいくって」
そんなに上手くいくのかなぁ。どうしても上手くいっている風景が思い浮かべられなかった。
そんな僕の不安をよそに篤さんは花見客からせっせと食べ物を集めてきた。それは確かに御馳走だった。あたりめやピーナッツといった乾き物は封を切られただけでほとんど減っていなかったし、おでんやら唐揚げやら寿司やら、もう驚くほど手に入れてきた。最初は僕もあまり気乗りしてなかったがこうも上手くいくと話は別。僕も篤さんについて食料を集めて回った。
「いやや、篤さん、すごいっすね」
「なっ、だから言ったろ」
篤さんの観察力のよさに目を見張ったのもつかの間、僕たちは調子に乗りすぎてあるグループのシートの上にまで載って食料を集めていたのだが、それがとうとう見付かってしまった。
やばい、逃げなきゃ。そう思って篤さんの手を引いた。でもなぜか篤さんは動かない。僕たちを見付けたメガネの相手と向かい合ったまま立ち尽くしている。知り合いなのだろうか? 向うもかなり驚いた様子で立ち尽くしている。やがてその指から火の着いた煙草がシートに落ちた。春の風は割と強い。風は火を煽り、それは新聞紙に飛び火した。その頃になってやっとメガネは火に気付いたらしく「おっ、おわっ、だっ、誰か、火、火だ」と叫びだした。周りは騒然とする。同じ会社らしい若い女の子がとにかく火を消そうと瓶ビールを手に駆け寄ってきたがメガネは何を思ったのか「あっ、アルコールはダメだ。燃えるから」とそれを火にかけるのを制してしまった。たかだかアルコール度5%やそこらのビールが燃えるとも思えないのだけれど、その女の子も「そっ、そうでした」とビール瓶を引っ込めてしまった。酒屋とかが火事になったら大変そうである。
しかし最近の公園はたいしたものでこういう事態に備えてか消火器が備え付けてある。メガネはそれを見付けて新聞紙にかけようとした。そこまではよかった。しかし消火器がおかしいのかメガネがおかしいのか消化剤は出てこない。メガネの表情が曇る。野次馬が集まってくる。かなり絶体絶命のようだ。僕はどうして落ち着いてピンを引かないんだろうと思うけど、見ず知らずの人にいきなり話し掛けたりはしない。
するといきなり篤さんが大声で笑い出した。両手を腰に当て、絵に描いたような高笑いだ。
「あははははははは」
とうとうおかしくなったかと思い他人の振りをしながら、もともとおかしな人ではあるが時と場所を選ばない辺りはさすがだ、などと思っていると、篤さんはシートの端を持って火のついた新聞紙を包むように半分に折るとその上に乗って新聞を何度も踏むつけた。シートをもとに戻すと火は消えていた。それから篤さんはそれが当たり前のようにシートの上から一升瓶二本と寿司折を持ってきた。誰も、何も言わなかった。
僕たちは悠々と一升瓶を持ってダンボールハウスに戻ってきた。公園も端のほうになると桜もあんまりなく、暖かい春風に乗っていくらか花びらが流れてくるくらいだ。でも僕たちにはそれがいいのかもしれない。あんなに堂々とした桜の枝の下にはいてはいけないような気もする。でもさっきの篤さんの堂々とした姿なら、あるいはそれも似合うんじゃないだろうかともふと思った。
「いやあ、篤さんすごいですねぇ。火を消したのもすごいけど、あんなに堂々と酒を持ってくるなんて」
すると篤さんは笑いながら言った。
「ああ、いいんだよ。退職祝いみたいなもんだ。あそこの連中、前オレのいた会社の連中さ」
「へぇー、そうだったんですか。ちなみになんの会社です?」
「うん? ああ、消火器の販売の最大手さ」
僕たちは声を上げて笑った。消火器を売りはするが、作りもしなければ使いもしない会社だったらしい。そのくせ消火器のために朝早くから夜遅くまで働いていたというから確かに面白い。面白いし、少し哀しい。
その夜は二人で桜の下でしこたま酒を飲んだ。春風の下で酒を煽ると、周りも、自分も、なんだかいろんなものが馬鹿らしく思えてきた。夜があける頃、篤さんが「さて、そろそろ次の仕事でも探すかな」と欠伸をしながら言った。それもいいかもしれませんね、と僕も声には出さなかったけど、そっと言葉を春風に載せてみた。