Entry1
頬擦りと、キスをこめてあなたへ贈る
千希
彼女の歌は美しかった。
歌詞は文章としての意味をなさない、言葉の羅列あるいは日本語ですら無いどこか異国の聴き慣れぬ言語あるいは言葉ですら無いささやきであった。しかしメロディーは素晴らしく美しくそれと相まると歌詞は命を持つのだ。それは生き物のように私の耳に入り込み、私の心を洗っていく。意味を持たなかったその詞は、耳にしてふと目に涙の浮かぶような種類の懐かしさを伴うようになる。それはまるでこの国ではないどこか遠く、自分が産まれる前に耳にし、馴染んだ言葉のように聞こえるのだった。
私は彼女を知ると、それまでに出ていたCDを宝物を集める様に少しずつ買い揃えた。彼女のCDはインディーズの、聞いた事も無い名前の小さなレコード会社からリリースされていた。今となっては珍しい、8cmCD。しかも一枚に収められているのは一曲。アルバムも発売されていなかった。
今はどこだってシングルのCDはカップリング二曲のマキシシングルが当たり前。1束幾らの投げ売りだ。でも彼女の歌は違った。曲名と彼女の名だけが記されたシンプルな、掌に乗るサイズのパッケージ。開けるといつも、南国のオウムのように鮮やかな色をした小さなCDが収められていた。そしてその小さな円盤に収められた5分弱の何にも変え難い幸福。人付き合いが苦手で会社で上手くやれない私を、彼女の歌は随分と慰めてくれたものだ。
やがてそれまでリリースされた全曲を集めると、私はレコード会社に電話をした。「彼女の新しいCDが出たらその都度送って欲しい」と。電話に出た男性は妙にてきぱきとした様子で私に必要な事柄を質問した。同じように望む人が多いのだろうな、と私はぼんやりと思った。少しだけ悔しい気もした。それから何年か、私は毎日自分の部屋のポストを楽しみに覗いて過ごした。彼女の歌が届けられるのは良くて2、3カ月に一度。大抵は半年に一度ほどだったから、ポストを開けて見つかるのは請求書かダイレクトメールの類がほとんどだったのだが、時折それらに埋もれてやってくる薄い青の封筒を楽しみに私は期待を持ってその銀色の扉を開くのだった。実際にそれが届いていなくとも、その心踊る気持ちすらも私には得難く幸福な事だった。CDが届いた晩には私は手紙を書いた。所謂ファンレターだ。時には徹夜で書き綴ってしまう事すらあった。それほどまでに彼女の歌は私の心に感情を溢れさせ、私はそれを吐き出すと封筒に入れてしっかりと封をして、ポストに思いを投函するのだった。
二年ほど前だったろうか、ぱたりと私の部屋のポストにCDが届く事が無くなったのは。最後のCDが届いてから一年ほどが経ったその日、私はレコード会社に電話をした。
受話器の先に聞こえたのは無情にもお馴染みの『この番号は現在使われておりません』の単調なアナウンスだけだった。私はあまり目新しい物には手を出したがらない臆病な人間だったからパソコンも持っていなかったし、インターネットなんてさっぱりで、携帯電話も仕事にしか使っていなかった。だから彼女の歌が好きな他の人との交流なども一切無かった。今まで届いたCDやそれが入っていた封筒など手当りしだいに引っぱり出しては隅から隅まで目を通し、他に連絡先などがないか改めた。封筒に押された掠れたゴム印に記された会社の住所がぎりぎりで日帰りできるところにあるのを知ってある日曜新幹線に乗ってそこを訪ねたりもした。しかしその住所が示す雑居ビルの3階にはもう別のテナントが入っていた。
私は途方に暮れた。
わかるのは、もう彼女の新しい歌は聞けないという事。しばらくは呆然と会社に行き呆然と部屋に戻り眠ることを繰り返していたが、やがて部屋から出るのが億劫になり、そのうちに布団から起き上がる事すら面倒になった。
私は一日の大半を眠って過ごした。起きている時間は彼女の歌を聞いた。しばらくは失業保険のお金も受け取れるし、無趣味なせいで使い処がいまいちわからなかったので貯金もそれなりにあった。このまま眠って過ごすだけであれば後2、3年は余裕で暮らす事が出来るはずだった。その後の事など考えたくも無かった。
眠って、起きては少しだけ何か食べてCDをかけ、また微睡んでは用を足し、また眠る……それを繰り替えしながら何日かに一度コンビニに食料を買い足しに行った。そしてこれだけはこんな生活をするようになっても欠かせず、一日に一度はポストを開けた。
私には何もなかった。ふとした拍子に息が詰まるほどに何も無かった。
それは、突然やってきた。
いつものように錆び付いてきてしまったポストを開けた私の目に写ったのは、何度夢に見たかわからない、幻覚まで見たあの青い封筒だった。私は幻を見てしまった時にやるように両手で何度か顔を擦り、それでも封筒が消えないのでもう一度それを繰り返し、それでもそこに封筒があったのでようやく本当の封筒かもしれないと気がつき、途端に震えてきた指先を伸ばした。こんな時になっても私はまだ、封筒を破ってしまう気にはなれずアパートの階段を駆け上がった。そして埃にまみれたテーブルの上からペーパーナイフを探し出し、急いて一度それを取り落とし、深呼吸をしてから拾い上げ、封を開けた。
中から出てきたのは、これまでと同じCDケース。それと折り畳まれた便箋だった。
わたしの歌を愛してくれたひとへ
その封筒と同じ薄青色をした便箋の一行目にはそう書かれていた。
『わたしの歌を愛してくれた人へ
この手紙と、わたしの最後の歌を
わたしの歌をほんとうに愛してくれた
何人かの人に送ります。
わたしにとって歌はいきがいでした。
でも、いまはもう何故か、歌がうたえないのです。
せめてわたしの最後の歌を贈ります。
これをあなたがたが聞けるのは一回こっきりです。
一回再生すると、このCDは溶けてなくなってしまうのだそうです。
そういう風につくってもらいました。
あなたがただけを特別扱いする、そのことに少し心が痛むからです。
だからわたしの最後の歌は一回だけの、
わたしが一度もやることがなかったライブのようなものです。
あなたが、いいと思った時に、心をきめて聞いてください。』
筆圧が弱くて、辿々しい字でそれは書かれていた。
私はそれを、何度も何度も読み直し、そしてそれからやっとCDに手を伸ばした。
ケースを開けると、そこにあったのは氷のように透き通った8cmCDだった。
いつものオウム色ではない、何の色も無い透明な後ろの景色を透かすCD。
彼女の最後の歌が収められたCD。
本当に、たった一度きりなのだろうか。
それでも。
私は、デッキにCDをセットした。
再生ボタンを押す時にはさすがに手が震えたが、迷いは振り切った。
今が私の『いいと思った時』だ。
一回こっきり。
行われなかった彼女のライブ。
in my room 。
♪
気がつくと、私は涙していた。
その時にはまだ自分が歌えなくなるなどとは思っていなかったのであろう、いつもの通りの彼女の声。懐かしくて切ない、前世の言葉。
毎日ポストを開けて待ち望んだそれは、暖かく私を包み込んでくれた。
私は、便箋を握り締めて、泣いていた。
ありがとう、と。
その言葉だけが口をついて出た。
私の数年間を支えてくれた彼女の歌。
今彼女は支えていた私の手を包んで温かな頬擦りと、お別れのキスをくれたのだ。
私は、やっと前に進める。
ありがとう。