Entry1
水疼き
kite
病床から見える灰色の空から長い雫がさらさらと降ってくる。それは玲子の胸に溜まっていた重黒い水に無音で落下し、すうっと溶けていった。胸の隅に出来た瘡蓋は徐々に水分を含み、再びじくりと膿み始めた。ざぶりと彼方に波の砕ける音が、玲子の鼓膜に水を差した。
細く窓ガラスを開けると、彼方でひんやりと冷え込んだ蒸気が風に跨り室内に薄い冷気の壁を作った。膿みはほのかに熱を奪われ、怠惰な身体にキリリとした芯が差し込まれた。
「少し散歩してくる」
付き添いにくたびれ仮眠を貪る叔母に小さな声だけ落とすと、玲子はニスの匂いのするスニーカーに両足を括りつけた。
スリッパの音を響かせ、あちこちから青白い患者たちが、消毒液の匂いを振り撒いている。玲子は急いで手の甲を鼻腔に近づけた。自分からも、ああいった匂いがするのだろうか。
長期間、世俗と仕切られた病院の中で生活していると、こちら側が常識になり、あちら側の感覚は失われていく。それに比例し、匂いに対しては磨り減る程に敏感になっていた。
不自然な程真っ白に洗われたシーツは常に洗剤の匂いをこびり付かせ、少し指で強く押せばパリパリとガラスになって、砕け散りそうに思えた。病院中のあちこちは悪い虫でも閉じ込めるかのように消毒液臭く、主治医の頭には古いポマードのような匂い、看護婦の手のひらは、ささくれた生活の匂いがした。
薄手のカーディガンを羽織った玲子は、病室の窓から一歩外に出たとたん木々の獰猛な生長の香りに襲われた。病院の中では決して嗅ぐことのない、野生に満ちた香りだった。
玲子は淡い水溜りの前で立ち止まると、どこから沸いたのか無数の微生物が小さく表面を泳いでいる。互いにぶつからぬよう、器用に摩擦を避けながら。しゃがみこんだ玲子は水溜りに人差し指を浸し、ぐるぐると桶のように掻き回した。すると、微生物たちは溺れるように足を素早く縮こまらせ、左右に流れる波の上で流されながら、こつりと隣に流されてくるものに頭をぶつけた。はっとして指を上げると、数秒で水はなだらかな海の表面を繕った。しとりしとりと降り注ぐ霧雨は、水溜りの微生物たちを慰めるように一定の和音を水の中へ響かせていた。
玲子は、マッチ箱を取り出し、よこぐすりでマッチ棒を擦った。雨のせいかよこぐすりは半分なよっと湿っており、やっとの思いでしゅっと鮮やかに音を立てたマッチ棒は、玲子の目の前に、ゆらゆらと青く包まれた炎を揺らした。棒状のマッチ棒は、じわりと背を焼かれるようにゆっくりと燃え上がり、玲子の白爪の先までくると、ぽっと消えた。花火の落ちる夏の残り香のようなものが、玲子の鼻腔をうずかせる。小さな炎の残像を玲子は水溜りにちゃぷんと落とすと、傘を畳んで立ち上がった。足元の無数の微生物は、残された棒切れにの周囲で3秒ほど談笑すると、またそれぞれ器用な泳ぎで海を渡った。
病院は海岸沿いにあるため、こうして玲子は時々病室の窓からこっそりと夜の散歩に抜け出していく。纏わりつく凶暴な自然の香りに身を委ねてぽつりぽつりと歩いていくと、やがて皮膚の表面の毛穴が広がり、自然とその香りを吸収する。
スニーカーの紐を解き、靴下を脱いで丸め込むと、素足のまま砂浜を歩いた。がらくたとなったどこかの父母の愛情が、玩具の汚れとなってところろどころに突き出ている。
玲子は細い素足で海の入り口へ踏み込んだ。霧雨はすっかり枯れ果て、満月に近い楕円の月がすぐ近くで、ぼぉっと頬杖を付いている。
波は穏やかに一定のリズムで、玲子の足首を濡らしていった。夏の夜はこうして涼むのが、格別病に効くような気がした。
月明かりに照らされ、海の表面に細長く伸びた影が、そっと玲子に近付いてくる。
「何しているんですか?」
急に誰とも分からぬ者に話しかけられた玲子は、どきんと心臓に血が逆流したようで、ただ、その青年の白い顔をぼんやりと見つめた。
「あそこの方でしょう?」
青年は痩せ細った腕で、遥か彼方を指差すように、黒く沈んだ病院を指した。
「えぇ、まぁ」
いたずらを突然懲らしめられたような決まり悪さで、玲子の身体はしゅっと毛穴を閉めた。
「僕もそうなんですよ、たまにここに抜け出してくるんです」
青年は僅かに笑みを浮かべると、玲子の隣まですいすいと水を掻き分けて入ってきた。
「何年もあそこにいると、太陽の光はなんだか恐ろしくってね、夜にこっそり抜け出してくるんです」
玲子の横にすくりと立った青年は目だけが透き通るような深い色に沈み、身体は玲子以上に細く白い華奢な井出達だった。
「何年、入院されているんですか?」
俯いたまま玲子が尋ねると、青年の目の色は更に深く沈んでいった。
「もう10年以上になります」
ざぶん、とひとつ大きな波が砕けると、2人の影はゆらりと輪郭を失った。
「でももう少しで退院できると思います」
遠く光る金色の光が、沈んだ青年の深い瞳の上に、静に静止した。
「どうして分かるんですか?」
「ここにくればそういった先の事が、何となくですが分かるような気がするんです」
青年はぽつりとそう言って、砂浜へと上がっていった。
闇夜に紛れ、青年の姿が見えなくるまで、玲子は彼の背中に落ちる月明かりをじっと見つめていた。
日々は淡々と流れ、あれから何度か海にいったが、青年に会うことはなかった。名も聞かず、薄明かりでぼんやりとしか見えなかった彼をこの大きな病院で探す事は、病の玲子にとっては骨の折れることだった。次第に彼のことも脳の引き出しの奥へと仕舞い込まれ、以前のような胸のざわめきは、また重黒い水によって侵食されていった。
深夜お手洗いに行こうと、いつもの洗面所へ向かおうとすると、運悪く人だかりができいる。また誰かの命がひとつここで無くなったのかもしれない、という気だるい諦めが、胸に粘つく黒い液をまた注いできた。その水をごくりと飲み込みながら、別の小汚い洗面所へ向かおうとした矢先、人だかりの奥に、僅かに扉を開けたままの、空に向かって窓を開けっぱなしにした個室があった。
はっとした玲子は、そのまま病院を飛び出し、海岸へ向かって素足で走った。砂浜へ付いた時には、何かの破片やガラス屑が足の裏に刺さって溢れ出た血に、砂たちが無邪気にへばり付いていた。
海岸線をぐるりと見渡しても、人影ひとつ見えず、足の痛みを海水で流すと、玲子は溜息を落としてしゃがみこんだ。どくどくと血液ばかりが元気よく、黒い空には、満ち足りた月がぽかりと遠くに浮かんでいた。
この階の人 昨日亡くなったの?
そうみたいね
何の病気だったのかしら
さぁ何でしょうねぇ ただその病で亡くなったというより
こう言っちゃ何だけど もう随分長く体を煩って
精神のバランスを失っていたそうよ
どういうこと?
亡くなり方が奇妙なのよ 何でも
昨晩ひとりで外出してそれっきり姿が見えないものだから
ご家族の方が捜索願まで出して
警察と一緒ににここら中を探し回ったそうよ
そうしたら明け方にやっと
あの海から波に打ち上げられたその人を見つけたらしいわ
スーッと脳裏の引き出しの奥が開き、玲子の胸に収まり切れない程の透き通った雫を降り注いできた。窓越しに降る午後の雨はじわりじわりと、まだ乾ききっていない玲子の瘡蓋を剥ぎ取っていった。