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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第76回バトル 作品

参加作品一覧

(2007年 4月)
文字数
1
akky
3000
2
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
3
ごんぱち
3000
4
とむOK
3000

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Entry1
終着駅
akky

 母は、私が生まれてからずっと働き通しだった。父は私が生れてすぐに兵隊にとられ、そして死んだ。終戦の一週間前、鹿児島の知覧飛行場を飛び立った父の飛行機は沖縄上空でアメリカ軍の空母に撃墜された。父は特攻隊員だった。
 母はいつも言っていた。
「あなたのお父さんはね、とても強くて優しい人だったのよ。あなたもお父さんのような人になりなさい」
 仏壇に飾られたセピア色の写真の中の父は、ぱりっとした軍服を身につけ、いつもまっすぐに正面を見つめていた。生れてから一度もあったことのない父を、私は死んだ人として捉えたことはなかったように思う。いつも、まるで孫悟空や鞍馬天狗のように、空想のお話の中の英雄の一人という感じがしていた。僕にとって父はひとつの偶像だった。
 物心ついたとき、戦争はすでに終わっていた。辛くも戦火を逃れた母と私は、焼け野原の東京で懸命に生きた。私は初め、母が何をして働いているのか、実はよく知らなかった。何かの製造工場で働いていると母は言っていたが、それにしては、いつも夕方遅く、日もとっぷりと暮れかかる頃から出かけていくのが不審といえば不審だった。ヨタカをしていると聞かされたのは、近所の友達からだった。そのことでいじめられ、一時は母を憎んだこともあった。辛かったが、私に食べさせている毎日のおまんまが何によって稼ぎ出されているかを私に話して聞かせることのできない母はなお辛かったろう。幼い私にも、次第にそんな母の辛さが分かるようになった。
 だからこそ、小学校に上がったその年の夏、母がこんどの日曜日に旅行に連れていってくれるといったとき、私は飛び上がるほどうれしかったのだ。私はクラス中の友達に自慢して回った。どこに行くのかと訊かれ、とっさに「熱海」と答えた私を、クラスメイトは羨望と懐疑の入り混じった顔で眺めた。
 旅行の前夜、私は母を手伝って、翌日汽車の中で食べるおにぎりを握った。
「お母さん、明日はどこまで行くの?」
 私は内心、びくびくしながら尋ねた。旅行の約束がそれで反故になってしまうのではないかと怖かったのだ。
 母はその不安を打ち消すように、静かに微笑んだ。
「遠いところよ。あなたの知らない、ずっと遠いところ」
 翌朝、私たちはまだ世が明けきらぬうちに家を出、上野始発の北へ向かう汽車に乗り込んだ。切符を買ったとき、私は母が駅員に告げた行き先を聞き取ることができなかった。とにかく、この汽車の行き先の途中のどこかで降りるのだろう、母と一緒におれば安心だと私は思っていた。
 汽車は定刻から十分ほど遅れて発車した。車内はほぼ満席の状態だったが、立っている人はあまりいなかった。四人がけのボックス席に母と並んで座り、動き出した汽車の車窓を眺めながら、私は初めての旅行気分に有頂天だった。
「これをお食べ」
 母が差し出したのは、昨夜二人で握ったおにぎりだった。朝が早かったので、二人ともまだ朝飯を食べていなかった。私はむさぼるようにそのおにぎりにかぶりついた。
 食べている間、母はなにくれとなく私に話しかけていたが、食べ終わってしばらくすると、なぜかふっつりと黙りこんでしまった。私は車窓の景色を眺めるにも次第に退屈し、いつしか居眠りをはじめたが、ふと、母が席を立つ気配を感じて眼を覚ました。
「どうしたの?」
 尋ねる私に、母はいつもの優しい微笑を口許に浮かべて、
「お母さん、行き先を間違えて切符を買ってしまったようなの。車掌さんに言って取り替えてもらってくるから、あなたはここで待っていらっしゃい」
 さっき、車掌が検札に回ってきたときにはそんなことひと言もいっていなかったのに変だな、と私は思った。だが、私は半分寝ぼけ眼だった。後部車両のほうへ歩いていく母の後姿を視界におさめながら、私は再び眠りに落ちていった。
 それからどれくらいの時間がたったろう。
「きみ、きみ」
 見ると、額に皺の寄った年配の車掌が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
 私は訳が分からず、眠い眼をこすりながら黙って車掌の顔を見つめた。
「ここはもう終点だよ。きみはひとりで汽車に乗ったのかい? お母さんかお父さんはいないの?」
「ううん。お母さんが」
 と答えて、私は素早く周囲を見回した。だが、たくさんの人が乗っていた車内にはもうほかに誰も乗っていなかった。
「お母さんといっしょに乗っていたのかい? お母さんはどこへ行ったの?」
 私の胸のうちを、恐ろしいほどのスピードで不安が駆け抜けていった。お母さんは、お母さんはどこへ行ったろう。
「お母さんは……僕のお母さんはどこ?」
 車掌は不審そうな顔をした。
「それはこっちが訊きたいぐらいだよ」
 そこへ、もう一人男の人が現れた。
「どうしたの?」
「ああ、駅長。……この子なんですがね、どうも母親とはぐれてしまったらしくて」
「はぐれたって、母親は初めからこの汽車に乗っていたのかな。この汽車の客はもうすっかり駅を降りてしまったよ」
 その言葉に、私は全身から血の気が引いていくのを感じた。
 捨てられたんだ。僕はお母さんに捨てられてしまった!
 あなたはお母さんがいなくても暮らせる?
 いつかお母さんが何の気なしに尋ねたその言葉が突如耳によみがえった。
 僕、お母さんがいなきゃ、嫌だよ。
 私はそう答えたのだ。そのとき、お母さんはなんといったろう。
「あなたは強い子だから、きっと一人になっても大丈夫よ」
 そうだ、お母さんはそういったんだ! 一人になってもと!
 私はやおら立ち上がった。眼の前に立ちはだかっている大人たちを突き飛ばし、後部車両に向かって夢中で駆けた。お母さんはきっとこの汽車のどこかにいるはずだ。具合でも悪くなって、座席で丸くなっているに違いない。お母さん、僕のお母さん。お母さんが僕を置いてどこかへいってしまうなんて、そんなこと、あるはずない!
「おい、きみ!」
 後ろから強い力で肩を掴まれた。私はその力に猛烈に抗った。
「駅長。とりあえず、この子を事務室に連れて行って詳しく事情を聞きましょう。もしかすると、間違って下車してしまった母親が途中駅のどこかでこの子を探しているかもしれません。――さあ、きみ、こっちへ来なさい。おじさんたちと一緒にお母さんを探そう」
 しかしその後、母が見つかることはなかった。幼かった私は、ただ東京から来たというだけで、詳しい住所さえ知らなかった。自分と母親の名前だけが私に分かることのすべてだった。駅員や駐在所が八方手を尽くして私の身元を洗ってくれたが、まだ戦後の混乱が色濃く残る時代のこと、ついにはっきりしたことは分からなかった。
 結局、私はその土地の孤児院に預けられた。
 名も知らぬ遠い土地に捨てられた私は、そこから新たな人生を出発させることになった。二十歳を過ぎた頃、自分が生まれ育った土地を探そうと、上京して東京じゅうを探し回ったことがあった。しかしそのころの東京は、もう在りし日の東京の姿を残してはいなかった。
 あの日、母とともに乗り込んだ汽車は、私にとって決して後戻りのできない人生のひとつの終着駅へと向かう汽車だった。その後、大人になった私は、辿り着いたその終着駅からどこへでも自由に旅立つことが出来た。だが、母と過ごしたあの懐かしい場所にだけは二度と戻ることができなかった。私を残して一人途中下車した母の終着駅は、いったいどこだったろう。
終着駅 akky

Entry2

(本作品は掲載を終了しました)

Entry3
杉田探霊事務所――フェード・アウト
ごんぱち

「ふん、ふふーん、ふふふん」
「鼻づまりですか、慶子さん?」
「違うわっ!」
 所長机の上に足を載せたまま、杉田慶子は怒鳴る。ショートカットでスーツ姿で、一見OL風だがどことなく弛さがある。
「たまに歌ってますね、その曲」
 応接セットのソファーに腰掛けた伊能清過が、新聞に再び目を落とす。整った顔立ちだが、くすんだ灰色のサマーセーターに、緩く編んだ一本の三つ編みという典型的国公立大学生といった風体をしている。
「ま、ね」
 机から足を降ろした慶子は、腰のベルト付けた円筒型のキーホルダーを外す。蓋を取ると、中に白い折り紙が数枚筒状に丸めて入れられていた。
「聴いたことない曲ですねぇ」
「半年ばかし前」
 慶子は折紙でバッタを折る。
「末法衆から依頼があってね」
「愚釈さんから?」
 折紙はバッタの姿の式となり、窓から出て行った。
「うんにゃ、『教祖の愚釈には内緒で、作曲家を一人黙らせて欲しい』って」

 個室病室の半分起こしたリクライニングベッドで、中年間近の患者が歌を口ずさむ。頭髪はなく、僅かに胸のふくらみと歌声の高さが、患者が女である事を告げていた。
 彼女は時折、歌を止め、傍らに置かれた五線譜ノートとペンに、手を伸ばす。
 そんな風にしながら、一時間程が過ぎた時。
 ノックの音と共に、ドアが開いた。
「山崎殿」
 入って来たのは、若くも、中年にも見える僧形の男だった。
「愚釈様」
 女が微笑む。
「早速始めようかの」
 愚釈は手慣れた様子で、女――山崎梨歩のベッドを平らに倒し、上掛けを取り、前をはだけさせる。彼女の身体は痩せ細り、腹には手術跡があった。
「気を楽にな」
「……はい」
 愚釈は梨歩に呼吸を合わせ始める。
 呼吸を合わせ。
 鼓動を合わせ。
 あらゆる臓器の動きを合わせ。
 そして魂の力の流れ「気」を合わせる。
 愚釈は合わせた気を手に束ねていく。強い気が集まった手は、ぼんやりと発光し始める。
 それからそっと、自重だけで崩壊してしまうほど薄いガラス板に触れるかのようにそうっと、梨歩の腹に手を触れる。梨歩の表情は変わらなかった。否、触れられた事にすら、気付いていない。愚釈と梨歩の気は同調し切っている。
 愚釈の気は、梨歩の経絡という経絡を駆け巡り、弱った魂を活性させる。魂の形に肉体は影響を受け、健康な形に戻ろうとし始める。
「あ、う……」
 梨歩が小さく声を洩らす。
 梨歩の顔に生気が戻り、血の気が差していき、反対に愚釈の顔から生気が失われていく。
 三〇秒ほど気を送り込んだ後、愚釈は手をそっと離した。
「今日は、ここまでじゃ」
 生気が失われた顔で、しかし愚釈は穏やかに言う。
「とても楽になりました、ありがとうございます」
 梨歩はベッドから降りて立ち、深々と頭を下げる。先程までと同一人物にすら見えない、回復の仕方だった。
「……でも、治りは、しないのですね」
 彼女は自分の腹をさする。
「いや……拙僧の力がもっとあれば、もっと長く治気を続ける事ができれば」
 言いながら、愚釈は傍らの椅子に座り込んだ。

 愚釈が帰り、再び独りになった梨歩は、五線譜ノートを開く。
 曲を口ずさんでは書き、書いては口ずさむうち、愚釈の治気により戻った生気が、再び失われていく。
 それでも梨歩は、起こしたベッドに身体を預けるようにして、曲を書き続ける。
「そんな身体で無茶してんじゃないよ」
「……え?」
 突然の声に、梨歩はペンを取り落とす。
「だ、誰?」
 ベッドにバッタがひょいと上がった。
「折角愚釈に貰った気、そんな無駄遣いしてどうすんだい」
 慶子の声だった。
「バッタ……が、喋った?」
「さあ、たった今から寝ちまいな」
 バッタは絵本のキャラクタよろしく、前肢でびしりと梨歩を指す。
「とうとう、おかしくなったのかな、わたし……」
「そうじゃ――いやそうだ、おかしくなってるよ、あんた。だから、さっさと寝ちまいなさい」
「それは出来ません」
 梨歩は首を横に振る。
「この曲を、完成させないと」
 ノートをさする。
 バッタはじっと梨歩を睨む。
「養生する気がないなら、治気なんて受けるんじゃないよ!」
「でも、愚釈様は来て下さるよ。バッタさん、あなたがどう言おうと」
 バッタが何か言い返そうとした時には、梨歩は気絶するように眠りに落ちていた。

「今日は、ここまで、じゃな」
 愚釈は梨歩から手を離す。
「どうも、愚釈様」
 礼を言うのもそこそこに、梨歩は五線譜ノートに向かい始める。
「ではまた明日な」
 愚釈は錫丈に掴まるようにして、病室から出て行った。
「はい、またお願いします」
 愚釈がドアを閉じるのも待たず、梨歩は曲を口ずさんではノートに書き付ける。
「――ラー、ルラー……違う、ルーララー、と。それで……」
「まともに礼も言わない訳? 良い御身分だね」
 ベッドの下にいた、慶子のバッタがシーツの上に現れる。
「この寿命切れの充電電池が」
「手が動けば、電池切れでもゾンビでも良いわ」
 しばらくの間、梨歩の曲を口ずさむ声と、ペンの走る音だけになる。
「この……」
 バッタは何か言いかけて、止めて、それから思い切ったように言う。
「このままだと愚釈が!」
「わたしは自分の事だけで精一杯」
 再び沈黙。
 梨歩がまた一つ音符を書く。
「愚釈の治気で、何百何千の人が助けられるんだよ!」
「わたし一人助けられないのに?」
「助けられるよ!」
「嘘」
 梨歩の顔色から、また血の気が引いていく。既に愚釈の送った気が失せて来ている。
 沈黙の後。
「……愚釈は、さ」
 バッタが呟くように言う。
「凄いんだよ」
 梨歩は背を曲げ、うずくまるようにしながらも、手からペンは離れない。
「あたしがガキの頃」
 僅かに開いた窓から、すうっと風が吹き込む。
「愚釈の噂を初めて聞いた時、嘘だと思った」
 梨歩の目だけが、バッタに向く。
「気と魂を感じられる者――フィーラー――の技は、魂や霊を操り、破壊するだけの技。今まであたしと会ったヤツは、あたしも含めてみんなそうだった」
 空は曇っている。
「他人と気――つまりは魂を同調させて、癒す。愚釈の治気って技は、あたしの常識を打ち砕いた」
 雲が厚くなる。
「驚いた。ずっと格下の自分にも、無限の可能性が開けたような気がした。愚釈を知らなければ、あたしは今も式を血に染めるような仕事しか、思い付けなかった」
 僅かに梨歩の手が動き、音符が書かれる。
「だから」
 バッタは梨歩の顔のすぐ近くまで寄る。
 梨歩は音符の棒を引きかけ。
 ペンがシーツの上に落ちた。
 窓の外は、雨が降り始めていた。

「遺作、ですか」
 清過がぽつりと呟く。
「ん? 死んでないよ」
 慶子は答える。
「ほへ? 文脈から言って……」
「愚釈は、力業でバッドエンドをハッピーエンドにする少年漫画野郎でしょうが」
「言われてみれば――はい、どうぞ」
 清過はお茶を持って来る。
「ありがと――ま、実際ギリだったけどね。あたしが麻酔薬浸した式で強制的に休ませてなかったら」
「迷惑な人だったんですねぇ」
「……んーでも」
「なんですか?」
「ちょっと、分かる気がするんだ」
 お茶の湯気を見つめ、慶子は笑う。
「作らずには、いられなかったんじゃないかな」
 湯気はゆっくりと融けていく。
「彼女にとって、それが当たり前で」
 また、鼻歌を歌い始める。
「その割にはしょーも曲ないですねぇ」
「ちったあマシになるんじゃない?」
 穏やかに微笑んで慶子は、もう一口茶を飲んだ。
「次、はね」
杉田探霊事務所――フェード・アウト ごんぱち

Entry4
千年の岸辺
とむOK

「それで?」
 ティフォンはフローラに尋ねる。
「彼女の叫びは彼に届いたのかな」
 ベッドに横たわるティフォンは隣に座った妻の裸の背中に手を伸ばして、艶やかな黒髪をまさぐる。
「どうかしら」
 フローラは身をよじる。夫の指が離れた。オレンジ売りのティフォンの指からはいつも変わらぬ甘い匂いがしている。彼女の目は窓の外に高く昇った真夏の月を見ていた。月は天井の低い二階の寝室を青で満たしている。青は古いテーブルや白塗りの壁や板張りの床や狭いベッドに薄く積もり、乱れたシーツを明夜の砂漠の色に染めて、汗に濡れた夫の胸を照らしていた。
「眠り続ける限り、彼は世界のすべてから孤立するのよ」
 あらゆる教えが滅びた街に、たった一つの伝説があった。岸辺に眠る少年と、叫び続ける少女。それは千年の深遠に囚われた二つの孤独の物語だ。
「それでも、生命はいつか土に還るよ」
「いいえ」
 フローラは首を振る。珊瑚の首飾りが彼女の胸で乾いた骨の音を立てた。
「時の止まった存在を、大地は受け入れないわ」
 ティフォンの指にもたらされた熱は、フローラの体の芯に届かぬまま急速に遠くなる。そのかわり今は蛇のように冷ややかな苛立ちが絡みつき鎌首をもたげている。彼女の体を気遣う夫は決して挿入しない。逞しく隆起する夫の太股の間で彼女は懸命に尽くした。青い月の下で首飾りは骨の軋む音を立て続ける。珊瑚は昔ティフォンが潜って取ってきたものだ。フローラがそれを二つの首飾りにして、二人は結婚の契りを結んだ。あの時と少しも変わらぬ優しさでティフォンはフローラにささやき、指を絡め、匂いを嗅ぎ、唇に含む。だが肌を重ねるたびに彼女の身は静寂した淀みに流されてゆく。体の熱く焦がれぬのは物足りぬ行為のせいではなかった。彼女を捕えた蛇は彼女の奥から生えている。すべてが透明に晒されるこんな夜には、自分が蛇の棲むひさごに過ぎないことを思い知らされる。
 フローラは半身にしどけなくシーツを纏い膝を抱える。醒めきった裸身が月の青に凝固して、二人の行為の間に生まれた小さな温度を呑み込んでゆく。子宮の奥が凍りつくのを彼女ははっきりと感じる。
「生命の連鎖から外れているのよ。彼も、そして彼女も」
 月をまっすぐに浴びるフローラの足元でティフォンの整った鼻が静かな寝息を立て始める。夫の背中は滑らかな青い殻になる。夫の背中の奥の壁際にはゆりかごがある。子宮を凍らせた青が、岸辺の葦を編んで作ったゆりかごを部屋の隅に縫い止めていた。
 フローラは岸辺に眠る少年の時間を思う。叫び続ける少女の時間を思う。今もあの岸辺には二つの孤独な時間があるのだろうか。幾つもの時代が過ぎ、幾つもの戦があった。五百年前の大きな戦は陸の形を変え、すべての歴史を瓦礫に変えた。生命の連鎖を記す微細な基質には死に至る瑕が遺された。瑕は高い確率で新たな生命と母の生命を同時に奪う。千年という時間は、たった一つの小さな問いに答えることもなく、今も孤独と恐怖を生み続けている。ばらばらの、散り散りの、そんなものが生命だ。触れれば崩れる脆い殻に包まれた途切れ途切れの記号だ。
 窓の外が白々と明け始める頃に、フローラの体はようやく緩み始める。彼女は夫の隣をそっと抜け出した。
 月光の名残りが蒼霞になって街を覆っている。白壁の家が並ぶ石畳の坂道を、痺れるような足先を曳いてフローラは下りてゆく。日の出にはまだ少しの間があり、港の朝市へ集う物売りの姿さえない。オリーブの樹に崩れかかる荒れ小屋の軒下で、何年も前から住み着いた灰色の野良犬がサンダルの足音に一度だけ首をもたげて、また伏せた。広い柵の奥で半分眠った山羊は、目を閉じたまま頤を上げて鼻を鳴らす。街のはずれで路は途切れ、背を伸ばした夏草が川へと続いている。海に近い川からは水の匂いとわずかな潮の匂いが届く。夏草に足首を取られながら彼女は岸に辿り着いた。あまりにも緩やかな流れは大きな淀みのように静止して、風のない岸辺では葦が水晶の輝線のように空を刺している。河口を塞ぐ水門は数百年の昔に錆びていた。鋭い葦の根元に座った彼女は淡い海水の匂いを大きく呼吸した。肺に残った青が薄靄に溶けこんでゆく。疲れ切った自分の体までもそこに溶けてゆく気がした。
 次の刹那、フローラは水の中にいた。瞳は一瞬に対岸までのすべてを見通している。岸辺から見た水面の下を遠く透かしているような感覚だ。それは肉体の目で見ているのとは違っていた。水はフローラを取り巻いている。しかし肉体として水を感じているのではなかった。不思議なことに彼女の中にも水はあった。彼女と水は一つの存在であった。しかし同時に水は一つの存在ではなかった。川の流れは河口に向けて鋭く冷たい槍を突き立て、海で満ちた潮は河口から溢れて暖かく押し寄せる。彼女はそれを同時に感じた。彼女は鋭く冷たい流れであり、暖かく押し寄せる潮でもあった。
 そのうねりの中にフローラは幾つもの小さな響きを感じた。それは竪琴から生まれたばかりの旋律のかけらに似ていた。響きは身をひるがえす稚魚の背鰭に、流れにそよぐ水草の葉の先に、きらめき昇る細かい気泡に、いたるところで忍び笑うようにささやきあい、降りそそぐ光に煌いて、二つとして同じ姿はなかった。
 それは彼らの言葉だった。孤独な眠りの果てに、朽ちた二つの肉体は土に還り、言葉だけが残されて求め合っていたのだ。奔放にさんざめく響きの中にフローラは懐かしくさえある孤独の響きを見つける。それは腕を刺す葦の痛みであり、穢れなく甘い血の匂いであり、細い腕にはじめて触れた唇の熱であった。
 フローラが意識を広げると、胸を絞めつけるようなその響きは、たくさんの響きの中に溶け込み、水底いちめんに揺れる光の網の上で一つの大きな調べとなってあたりを満たした。フローラは視界いっぱいに広がるメロディーを、目を閉じてゆっくりと呼吸した。子宮の奥から小さな響きが聞こえる。その響きはくすくすと無邪気に笑いながらフローラを求め、呼びかける。彼女が微笑みかけと、響きは彼女をやわらかく包み込んだ。
 揺れる葦の間から覗いた朝日が頬に射しかかる。フローラはゆっくりと目を開いた。傍らにティフォンが座って彼女の髪を撫でていた。
「彼らに逢えたのかい?」
「ええ」
 ティフォンがフローラを抱き起こし、大きな掌で彼女の腹を包んだ。彼女はそれに自分の手を重ねる。
――彼はこれから私が感じる苦しみを決して理解できないだろう。そしてその果てに彼が私を失うことになっても、彼の感じる痛みをもう私はわかってあげられない。私たちは重ねている二つの手のように孤独だ。それでもなお、少しばかりの熱を伝え合おうとしているのだ――
「今日からこれでオレンジを売るよ」
 フローラの編んだゆりかごに、いっぱいのオレンジが摘まれていた。
「これが空になってしまうまで売るよ。そしてまた次の朝には新しいオレンジでいっぱいにする。生まれてくる子が、眠る時にいつも新しい匂いに包まれるようにね」
 フローラはオレンジをひとつ手に取る。瑞々しい果実。口に含むと、日を浴びた深緑の葉の匂いや幹を流れる水の匂いまでもが鮮やかに鼻腔を吹き抜けていった。
「今日の匂いだわ」
 海風が頬を撫でる。遥か河口で錆びた水門が遠くゆっくりと崩れ落ちてゆく。新しいゆりかごには、いっぱいのオレンジ。