Entry1
終着駅
akky
母は、私が生まれてからずっと働き通しだった。父は私が生れてすぐに兵隊にとられ、そして死んだ。終戦の一週間前、鹿児島の知覧飛行場を飛び立った父の飛行機は沖縄上空でアメリカ軍の空母に撃墜された。父は特攻隊員だった。
母はいつも言っていた。
「あなたのお父さんはね、とても強くて優しい人だったのよ。あなたもお父さんのような人になりなさい」
仏壇に飾られたセピア色の写真の中の父は、ぱりっとした軍服を身につけ、いつもまっすぐに正面を見つめていた。生れてから一度もあったことのない父を、私は死んだ人として捉えたことはなかったように思う。いつも、まるで孫悟空や鞍馬天狗のように、空想のお話の中の英雄の一人という感じがしていた。僕にとって父はひとつの偶像だった。
物心ついたとき、戦争はすでに終わっていた。辛くも戦火を逃れた母と私は、焼け野原の東京で懸命に生きた。私は初め、母が何をして働いているのか、実はよく知らなかった。何かの製造工場で働いていると母は言っていたが、それにしては、いつも夕方遅く、日もとっぷりと暮れかかる頃から出かけていくのが不審といえば不審だった。ヨタカをしていると聞かされたのは、近所の友達からだった。そのことでいじめられ、一時は母を憎んだこともあった。辛かったが、私に食べさせている毎日のおまんまが何によって稼ぎ出されているかを私に話して聞かせることのできない母はなお辛かったろう。幼い私にも、次第にそんな母の辛さが分かるようになった。
だからこそ、小学校に上がったその年の夏、母がこんどの日曜日に旅行に連れていってくれるといったとき、私は飛び上がるほどうれしかったのだ。私はクラス中の友達に自慢して回った。どこに行くのかと訊かれ、とっさに「熱海」と答えた私を、クラスメイトは羨望と懐疑の入り混じった顔で眺めた。
旅行の前夜、私は母を手伝って、翌日汽車の中で食べるおにぎりを握った。
「お母さん、明日はどこまで行くの?」
私は内心、びくびくしながら尋ねた。旅行の約束がそれで反故になってしまうのではないかと怖かったのだ。
母はその不安を打ち消すように、静かに微笑んだ。
「遠いところよ。あなたの知らない、ずっと遠いところ」
翌朝、私たちはまだ世が明けきらぬうちに家を出、上野始発の北へ向かう汽車に乗り込んだ。切符を買ったとき、私は母が駅員に告げた行き先を聞き取ることができなかった。とにかく、この汽車の行き先の途中のどこかで降りるのだろう、母と一緒におれば安心だと私は思っていた。
汽車は定刻から十分ほど遅れて発車した。車内はほぼ満席の状態だったが、立っている人はあまりいなかった。四人がけのボックス席に母と並んで座り、動き出した汽車の車窓を眺めながら、私は初めての旅行気分に有頂天だった。
「これをお食べ」
母が差し出したのは、昨夜二人で握ったおにぎりだった。朝が早かったので、二人ともまだ朝飯を食べていなかった。私はむさぼるようにそのおにぎりにかぶりついた。
食べている間、母はなにくれとなく私に話しかけていたが、食べ終わってしばらくすると、なぜかふっつりと黙りこんでしまった。私は車窓の景色を眺めるにも次第に退屈し、いつしか居眠りをはじめたが、ふと、母が席を立つ気配を感じて眼を覚ました。
「どうしたの?」
尋ねる私に、母はいつもの優しい微笑を口許に浮かべて、
「お母さん、行き先を間違えて切符を買ってしまったようなの。車掌さんに言って取り替えてもらってくるから、あなたはここで待っていらっしゃい」
さっき、車掌が検札に回ってきたときにはそんなことひと言もいっていなかったのに変だな、と私は思った。だが、私は半分寝ぼけ眼だった。後部車両のほうへ歩いていく母の後姿を視界におさめながら、私は再び眠りに落ちていった。
それからどれくらいの時間がたったろう。
「きみ、きみ」
見ると、額に皺の寄った年配の車掌が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
私は訳が分からず、眠い眼をこすりながら黙って車掌の顔を見つめた。
「ここはもう終点だよ。きみはひとりで汽車に乗ったのかい? お母さんかお父さんはいないの?」
「ううん。お母さんが」
と答えて、私は素早く周囲を見回した。だが、たくさんの人が乗っていた車内にはもうほかに誰も乗っていなかった。
「お母さんといっしょに乗っていたのかい? お母さんはどこへ行ったの?」
私の胸のうちを、恐ろしいほどのスピードで不安が駆け抜けていった。お母さんは、お母さんはどこへ行ったろう。
「お母さんは……僕のお母さんはどこ?」
車掌は不審そうな顔をした。
「それはこっちが訊きたいぐらいだよ」
そこへ、もう一人男の人が現れた。
「どうしたの?」
「ああ、駅長。……この子なんですがね、どうも母親とはぐれてしまったらしくて」
「はぐれたって、母親は初めからこの汽車に乗っていたのかな。この汽車の客はもうすっかり駅を降りてしまったよ」
その言葉に、私は全身から血の気が引いていくのを感じた。
捨てられたんだ。僕はお母さんに捨てられてしまった!
あなたはお母さんがいなくても暮らせる?
いつかお母さんが何の気なしに尋ねたその言葉が突如耳によみがえった。
僕、お母さんがいなきゃ、嫌だよ。
私はそう答えたのだ。そのとき、お母さんはなんといったろう。
「あなたは強い子だから、きっと一人になっても大丈夫よ」
そうだ、お母さんはそういったんだ! 一人になってもと!
私はやおら立ち上がった。眼の前に立ちはだかっている大人たちを突き飛ばし、後部車両に向かって夢中で駆けた。お母さんはきっとこの汽車のどこかにいるはずだ。具合でも悪くなって、座席で丸くなっているに違いない。お母さん、僕のお母さん。お母さんが僕を置いてどこかへいってしまうなんて、そんなこと、あるはずない!
「おい、きみ!」
後ろから強い力で肩を掴まれた。私はその力に猛烈に抗った。
「駅長。とりあえず、この子を事務室に連れて行って詳しく事情を聞きましょう。もしかすると、間違って下車してしまった母親が途中駅のどこかでこの子を探しているかもしれません。――さあ、きみ、こっちへ来なさい。おじさんたちと一緒にお母さんを探そう」
しかしその後、母が見つかることはなかった。幼かった私は、ただ東京から来たというだけで、詳しい住所さえ知らなかった。自分と母親の名前だけが私に分かることのすべてだった。駅員や駐在所が八方手を尽くして私の身元を洗ってくれたが、まだ戦後の混乱が色濃く残る時代のこと、ついにはっきりしたことは分からなかった。
結局、私はその土地の孤児院に預けられた。
名も知らぬ遠い土地に捨てられた私は、そこから新たな人生を出発させることになった。二十歳を過ぎた頃、自分が生まれ育った土地を探そうと、上京して東京じゅうを探し回ったことがあった。しかしそのころの東京は、もう在りし日の東京の姿を残してはいなかった。
あの日、母とともに乗り込んだ汽車は、私にとって決して後戻りのできない人生のひとつの終着駅へと向かう汽車だった。その後、大人になった私は、辿り着いたその終着駅からどこへでも自由に旅立つことが出来た。だが、母と過ごしたあの懐かしい場所にだけは二度と戻ることができなかった。私を残して一人途中下車した母の終着駅は、いったいどこだったろう。