Entry1
なくしたびい玉
田村タカユキ
誰でもたまに見かける光景とは思うけれど、びい玉を無心で覗き込んでいる子供がたまにいる。そして子供は僕らが見ているのに気付くと、覗き込むのを止め、宝物を隠すようにして、そのガラス玉を大事そうにポケットにしまいこむのだ。
僕らはそんな子供を見ると、ため息を一つつき、そこになにもありはしないのに、などとは思いながらも、どことなく微笑ましく、そして、少しだけ悲しいような気持ちが、その光景を見ると沸いてくる。何故なら、僕らも昔、同じことをしていたからだ。
あの頃、びい玉の中には、確かに何かが見えていた。僕らもまた、疑問など少しも抱かず、その何かを無心になって見ていたのだ。
あのまんまるの、小さな、くだらない、そして美しいガラス玉の中には、確かにもう一つの世界が存在していたのだ。
僕の見えていたその世界は、透明にほんの少し碧の混じった、綺麗ではあるけれど、どこにでもある、ありふれたびい玉の中にあった。それはいつの間にか、僕の持ち物の中に当然のように紛れ込んでいた。そして僕は、いつの間にかそれを覗き込むことを覚えていた。
その世界は、一面の草原だった。何もない、ただっ広い草原。そこには常に微かな風が吹き、一面に生えた、じゅうたんのような短い草がそよいでいる。そして僕は、無心になってその世界を覗いていた。いつからとも知れず、そうするのが当然のように。
そして時々、そこには一人の少女が座り込んでいた。顔はよく見えなかった。少女はいつも僕に背を向けていたし、長い髪が邪魔で、顔が隠れていたからだ。ただ、確かに少女はそこに座り、長い髪を風に乗せて、ずっと空を見上げていたのだ。
何をしているの?
声には出さず、僕は少女に尋ねた。
風を待っているの。
少女もまた、声も出さず答えた。
風なら、吹いているよ。
いいえ、この風ではないの。
それは、本当に吹くの?
ええ、いつか必ず。
そう言って、少女はただ延々と空を見上げ、そして、いつの間にか去っていく。その繰り返しだった。
その世界も、その少女も、僕にとって当たり前の存在だった。そのびい玉を覗き込めば、いつでも草原が広がっていて、そして、時々少女がそこにいて、ただじっと座って空を見上げている。
僕はそのびい玉をいつも持ち歩き、そして、ときどきこっそりと、誰にも見られないように、びい玉を光に透かして、その世界を覗き込んでいた。その世界は永遠にそこにあり、僕だけのものにしておけると、漠然とではあるが思っていた。
ある日、僕は学校の授業を受けていた。もう忘れてしまったが、何かの授業ではさみが必要なことがあった。
「あっ」
隣から微かに声が聞こえた。見ると、隣の席の女の子が、うろたえた様子でかばんをごそごそと探っている。はさみを忘れてしまったのだろう。僕は別に深くも考えず、当然の流れで、彼女に黙って僕のはさみを差し出した。
「ありがとう」
そう言って、隣の席の女の子は、にっこりと笑った。瞬間、何かが僕の中で、まるで時計に電池を差し込んだかのように、かちりと音を立てて動いたように感じた。僕は戸惑い、何と言っていいのかわからなくて、頭を掻いてぷいと前を向いてしまった。それは、そこで終わった。
だが、帰り道の途中、僕がいつものようにびい玉を覗き込むと、いつもとは何か様子が違っていた。
びい玉の中には、やはりいつものように草原が広がり、そして、その日は少女が座っていた。だが、何かが違った。草原にはいつもとは違う、強い風が吹いていたのだ。草はざわざわと揺れ動き、少女の髪は風でばさばさと乱れた。
少女は僕に気付くと、すっと立ち上がり、静かに僕に言った。
じゃあ、私はもういくね。
突然のことに、僕はうろたえながらも、いつものように声を出さずに尋ねた。
どこに行くの?
そして、少女はそのとき、始めて僕のほうを向いた。顔の大半は、風に踊る前髪で隠れていたが、微かに、本当に微かに微笑んでいるのがわかった。
わからない。ただ、行かなければならないの。
どうして? ここにいてはいけないの?
ここはもうじきなくなってしまうの。だから、その前に行かなければならないの。
なくなるって、どうして? どうしてなくなってしまうの?
僕の問いに、彼女は困ったように、だが、優しく首を振った。
ここは、いつかはなくなってしまう。それが定めなの。あなたにもいつか、もっとはっきりとわかるのでしょうね。
そして、最後に言った。
さよなら。
そう言った瞬間、一段と強い風が草原を吹きぬけた。そして、彼女の瞳が始めて見えた。
それは、僕の隣に座っていた、あの女の子と同じ瞳だった。
少女は僕に背を向けて、草原の奥へと消えていった。いつまで眺めても、少女はもう、戻ってはこなかった。
次の日から、僕はびい玉を覗くのをやめた。持ち歩くのも、もう止めてしまった。持っていれば思わず覗いてしまいそうだし、そのときの僕には、びい玉を覗くのが、なんとなく怖かったのだ。
やがてそのびい玉は、熔けて消えてしまったかのように、どこかにいってしまった。不思議なことに、僕はびい玉を別に探そうともせず、そのまま忘れ去ってしまった。
それから何年か経って、ふと思い立った僕は、引き出しの中から出てきたびい玉を光に透かした。すると、あのときの世界が、本当に微かに映し出されていた。それは、なくしたと思っていた、あの薄い碧のびい玉だったのだ。
映し出される世界はもう、ほとんどまともには映らず、向こう側が透けて見え、景色はゆらゆらとゆれ、今にも消え去りそうだった。
不意に、彼女の去り際の台詞を思い出した。
あなたにもいつか、もっとはっきりとわかるのでしょうね。
僕はもう一度、昔そうしていたように、びい玉の世界に向かって話しかけた。
誰もいないのか? そこにはもう、誰もいないのか?
返事はなかった。そして、僕は悟った。僕の世界は、もう無くなるのだ。そしてもう二度と、見えることはなくなるのだ。
やがて、びい玉の中の世界はゆっくりと薄れていった。そして、完全に消え去り、何も映らなくなった。びい玉は、もはや完全にただのガラス玉になってしまったのだ。
僕はびい玉を握り締めると、思い切り床に叩きつけた。びい玉は粉々に砕け散った。僕の大切なあのびい玉は、もうどこにもなかった。
僕のびい玉の話は、これで終わり。たぶん、これはありふれた話なんだと思う。誰もが子供の頃、経験して、やがて、きれいさっぱりと忘れ去っていく出来事なのだろう。僕もやがては、この話のことを忘れるのだろう。
それでも、僕らはびい玉をこっそりと覗き込む子供を見つけるたびに、何故とはわからず、微笑ましく、そして少し悲しい気持ちを味わうのだろう。
今日も、公園の隅っこでこっそりと、びい玉を覗き込む少年を見つけた。そして僕は、微かに声が聞こえた気がした。懐かしいその声は、もはや何と言ったのかすらわからず、すぐに風の音に溶け込み、聞こえなくなった。
少年は僕に気付くと、照れくさそうに頭を掻いて、そそくさとびい玉をポケットにしまいこんだ。
「どうかしたの? ぼうっとして?」
「ああ、なんでもないよ。ごめん」
はっとなって、僕は隣を歩く人に笑いかけた。
そこには、あの日、微かに見えた少女と同じ瞳が、僕を不思議そうにじっと覗き込んでいた。