Entry1
チコポン語
akky
ある日のこと、一家の長であるところの父親が妻と息子を居間に集め、おもむろにこう宣言したものである。
「きょうより我が家では、日本語の使用を段階的に禁止することとする。いや、日本語だけではない、英語、フランス語その他、ありとあらゆる既存の言語の使用を段階的に禁止する」
「いったい、どういうことなんですの?」
日頃夫がこうと決めたことに一度として異を唱えたことのない貞淑な妻であるところの母親が怪訝な色をあからさまに面に表して訊ねた。
「それというのはほかでもない。人間相互のコミュニケーションの道具として発達し、かくも文明を繁栄せしめた言語は、いまや人間の自意識を極限まで肥大させるばかりで、人と人との心の通い合いを少しも産むことができなくなったばかりか、あまつさえ、他者を傷つけ、冒涜し、迫害するための危険な凶器と成り下がった。かような現状を踏まえ、私はこの家庭において既存の言語を一切放棄することを決意したのだ」
父親はいったん息をついて家族を見回し、それから再び口を開いた。
「とはいえ、一つ屋根の下に暮らす私たち家族の生活が一切のコミュニケーションなくして成り立つとは思わない。また、かくも言語という道具に寄りかかる形で築き上げられた我々の生活から、一切の言語を奪い去ったあとで、何らかの補完システムを構築することなしに、有効なコミュニケーションが成り立つとも思わない。そこで私は考えた。およそ十年の歳月を費やし、本来言語が持つべきコミュニケーション手段としての有用性を存分に発揮するための新しい言語を開発したのだ。インカ帝国の末裔の一支族が用いていたという古い言語で、“友愛”“美しい”を意味する言葉から名づけてチコポン語という」
「チコポン語!」
母親と息子は驚きのあまりに叫んだ。
「さよう。それが今後、我が家における唯一無二の言語となる」
「でもお父さん」
息子が口を挟んだ。
「お父さん自身はよいとしても、僕とお母さんにはいきなりきょうからチコポン語だけを使って話すようにいわれても、それは無理というものです」
「むろんそうだ。だから私は初めに、“段階的に”といったのだ。私の計画ではこうだ。最初の一ヶ月間を言語の完全移行のための暫定期間と位置付け、部分的に日本語の使用を許可する。きみたち二人は不明なチコポン語の意味を尋ねるために、私に日本語を使って質問をすることが出来、私は適宜、その意味するところを日本語で教えることとする」
こうしてその日から、父親によるチコポン語の授業が始まった。チコポン語成立の歴史から始まり、次いで、言語としてのその大まかな体系が語られた。父親が語るところによれば、チコポン語とは、ひとつひとつの言語を発音という方法にほとんど依拠することなく、いわゆるボディランゲージに近い方法で表現する言語であり、文字はそのボディランゲージをそのまま象形化することで成り立っている。なぜ発音に依拠しないことを選んだかといえば、既存言語のうちで最も野蛮でありかつ害悪をもたらすのが相手の発した言葉を耳で聴くという行為であり、耳から得る情報を極限まで押さえ込んだ静寂のコミュニケーションこそが最上の心の通い合いをもたらすという父親独自の信念に基づいているのであった。
例えば、「私の名前はアキラです」というセンテンスを表現する方法はこうである。初めに天を指差し、地を指差す。次いでその場にうずくまって息を止め、そのままゆっくりと立ち上がりながら両手を高々と伸ばした状態で静止する。視線を指先に向け、ちょうど撥音を出すときのようにすぼめた唇を瞬時に開いて「パッ」と小さく音を出して息を吸う。それから両手の甲を内側に向かい合わせにするような格好で指先を自分の胸元に向け、ふいに片方の手を空に向けてぐっと太陽を掴む仕草をし、最後にはらはらと涙をこぼすのである。また「私は怒っています」なら、初めに天を指し、地を指し、うずくまって息を止め、ゆっくりと立ち上がって天高く指をかざすまでは同じだが、翻ってふいにしゃがんで指を地面に突きつけ、再び天を指差して、大地に身体を投げ出す。このとき、喉の奥に力を込めた状態で空気を搾り出すようにして「ア」と発音すれば、「深い悲しみを含んだ怒り」を表すことが出来る。もしこれらを文字表記したいときは、それぞれの動作を独自の方法論によって象形化した記号を用いるのである。
父親によれば、この新言語はこの世界に現存するいかなる言語にも勝る豊かな表現力を持っており、例えば「私」というチコポン語の「単語」が文脈によっては「鳥」や「火山」といったまったく無関係な言語に変化することがあったり、あるいは、動作の最後の最後のわずかな指先の動きや声の出し方、顔の表情によって、そこまでの文脈の意味合いが百八十度変わってしまうこともあるという極めて繊細な言語なのであった。このように繊細であるが故に、表現者は自らの言葉が終わるまで、最後の最後まで気を抜けないのであり、そのことが言語に対する畏敬を深め、引いては、それを受け取る相手への深い思いやりを生み出すことになる、というのが父親のチコポン語開発の意図なのであった。
しかし、そのように壮大な意図をもって作られた言語であるところのチコポン語はその言語体系においてもまた極めて壮大かつ複雑、難解な構造を有していた。初めのうち、母親と息子は、父親の語るところを一語も漏らすまいと懸命にノートを取り、その動作を必死に倣った。しかし、いくら頑張っても、父親の動作するようには動作することが出来なかったし、文脈の中でくるくると変化する「単語」の意味を覚えることが出来なかったし、また正確な動作が出来ない以上は、正確に文字を表記することもまた出来ないのであった。瞬く間に、日本語の使用を許された暫定期間の一ヶ月は過ぎ去ったが、いまだ家族の間ではチコポン語による簡単な日常会話すら成り立たなかった。父親は暫定期間をさらに一ヶ月延長し、チコポン語の特訓に励んだが、状況は遅々として改善しなかった。最初の宣言から二ヶ月が経過した日、父親はついに家族間における既存言語の使用の全面禁止に踏み切った。
朝起きてから夜寝るまでの間、父親から発せられる数々のチコポン語を、母親と息子はほとんど理解することができなかった。また母親と息子がごく一般的に認められているボディランゲージを交えながら苦心惨憺して発するチコポン語は、父親にとって見ればあまりに粗雑であり、直截的な表現に過ぎた。父親はしばしば激怒し、母親と息子を震え上がらせた。やがて家族の間に隙間風が吹き始めた。顔をあわせても、互いに黙り込む場面が増え、そればかりか、互いに顔を合わせることそのものを避けるようになってしまった。
ある日のこと、息子の姿がしばらく見えないことに気づいた父親がチコポン語で母親に息子の居所を尋ねると、母親は父親の目を見ようともせずに、黙って玄関のドアのほうを指差した。息子はついに愛想を尽かして家を出て行ったのである。その数日後、今度は母親が出て行った。それを知ったとき、父親は庭に面した居間のソファに一人孤独に腰を下ろし、煙草を吹かした。これでもう誰に向っても言葉を発しなくて済むのだと思ったとき、それが最初から自分の望んでいたことだったと彼は気づいたのだった。