Entry1
おもいでばいばい
麻埒 コウ
今夜も眠れない。目を閉じると、決まって耳が開くのだ。
「クスクス……、クスクス……」
「アハハ……」
頭の中に染みこんでくる、笑い声。小さな女の子からおじいさんまで僕を笑っている。「人ご~ろしぃ~」。違う。あれは愛情表現だ。ちょっと度が過ぎただけだ。僕の叫びをよそに、やがて半開きの唇が浮かび、いやらしい歯が飛び出してくる。死にかけのネズミのように痙攣する喉。激しくなる嘲笑。唾液が降り注いでくる、止められない嘔吐のように。僕は夢の入り口へ向けて走り出した。だけど、生暖かい唾液が足元に水たまりをつくり、僕は足をすべらせて、不眠の穴へと頽落する。
「……ダメだ。眠れない」
しょうがない。今夜も行くとしよう。あの場所へ。あそこなら誰の声もとどかない。二人だけ。そう、世界でたった二人だけの場所へ。
僕は家の真裏にある林を進む。君が眠る、約束の場所まで。懐中電灯だけが僕の歩く道を照らす。
約束の場所。僕はひざまずいて君にキスをする。王子様の口づけですら目覚めさせることのできない白雪姫。毒りんごの解毒剤はもうこの世にないんだ……。
なんてことを考えていたら、暗いはずの林の奥から煌々と明かりがもれているのに気づく。
「なんだろう」
僕は明かりのもとへ近づいていく。なにか店のようなものができているようだ。そのせいで約束の場所のシークレットでミステリアスな雰囲気が台無しになっていた。なんなんだ、あの建物は? おととい行ったときはなかったのに。僕はブツブツと悪態をつきながら謎の建物のなかに入っていった。
「いらっしゃい」
明かりの中から、人のよさそうなおじさんがひょっこり。見た感じ、自分で焼いたパンに命を吹き込んで街の平和を守らせる使命感を背負った人に似ていなくもない。っていうか似ている。むこうがイチゴジャムだとしたらこっちはマーマレードといったところだろうか。逆か? まぁ、どっちでもいいけど。
「こんな・ところに・コンビニが・でき・たんだ」
僕は無意味に台詞を区切って言う。その言葉を、おじさんは柔らかく否定する。
「違います。ここはコンビニではありません」
たしかに中をのぞいてみると、とても“便利小売店”と和訳できるような品揃えではなかった。店の棚に所狭しとガラスのビンが並んでいるだけ。ずらっと。からっぽのものもあれば、いろんな色の液体が入っているものもある。
「ここでは、記憶を売ったり、買ったりすることができます」
「記憶?」
「はい。あのビンのなかに入っているものが記憶です。鮮やかな色ほど、楽しい思い出であることが多いようです」
へ~。ずいぶんと不思議なものを売買してるんだな。
おじさんはとても営業用とは思えないほどの洗練された笑顔を浮かべ、レジのよこの天秤を指さした。
「ただし記憶の値段は楽しいか辛いかで決まるのではないのです。その重さによって決まるのです。どうです、あなたもなにか買っていきませんか」
「いや、僕は買うよりも売るほうがいい」
僕はおじさんの催促を断った。
「最近、眠れないんだ。イヤなことばかり思い出す。だからさ、いやな記憶だけを買い取ってよ」
おじさんの表情をうかがう。露骨に嫌な顔。
「たまに、そうおっしゃるお客様もいます。しかし、そういったお客様は必ずしも幸福にはなれませんでした。思い出というものは、それがどんなものであれ、易々と手放すものではないのだと思います」
「かまいやしないさ。僕はそんな未練がましくないんだ。それより、どうやって記憶を取り出すんだい?」
おじさんの内ポケットから出したのは、一本の注射器。これをこめかみに指して、記憶を吸い上げるらしい。
「最後にもう一度だけききます。本当に、いいんですか?」
「しつこいな。僕はいやなことぜんぶ忘れて、ぐっすり寝たい。それだけなんだ」
僕はこめかみに針をさし、ピストンを吸い上げた。脳みその置くからずるずると、蛇のような生き物が引きずりだされていく感じがした。
走馬灯。そう言うんじゃなかったっけ。こんなとき。
僕の頭のなかをいろんな思い出が駆けぬけていく。でも、目まぐるしく巻き戻される記憶のなかで、聞こえるのは、笑い声。僕をからっぽにしていく、嘲笑。
ピンク色の肉の壁がべりべりとはがれて、その中から無数の白骨。白いあごを、かちかち鳴らして。
「アハハ……」
「アハハハ……」
「ハハハ……」
「ハハ……」
「……」
「ぬふぅ」
「やはり、こうなりましたか……」
おじさんがからっぽの僕にむかって言う。でもそれをきいてるのは僕じゃない。僕はもう、僕の外にいるから。
「ちょっと待ってよ。話がちがうじゃないか! 僕はイヤな記憶だけを消してくれっていったのに!!」
おじさんの(だから言ったのに)みたいないいかたが気に入らなくて、僕はつかみかかった。
ズルッ、
と僕の腕はおじさんの胸ぐらをすり抜けてしまう。
転んだ僕は、思った。ん? なんで僕は怒っているんだろう??
「おそらく、まだこの近くにいるんでしょう。ならしばらくそのままで聞いてください」
おじさんはどこも見ずに言った。
「あなたは、生きることをとても面倒なことだと思っていました。かといって死ぬのは怖かった。そこには葛藤すらありませんでした。どうでもいい、あなたに残った感情はそれだけです」
おじさんはつづける。その声は、僕のからだ以上にからっぽだった。
「ならばいっそ、綺麗なままここからいなくなりたいと思った。生きていることがどうでもいい以上、あなたに残った思い出はすべて嫌な思い出になっていきました。そしてあなたは自分の嫌な記憶をすべて売ってしまった。
あなたは自分の思い出のなかではく、誰かの記憶のなかで生きようと願ってしまったのです」
おじさんは僕を見上げている。僕のことは見えないはずなのに、僕と目が合った。
「あなたは決して取り出すべきではない記憶を取り出してしまった。それは失くしてはいけないものだったのです。もう一度、思い出せませんか? この場所を、よく見てください」
おじさんの言葉どおり、僕はあたりを見まわす。そうなんだ。ここは、なにか僕にとってとても大切な場所だった。そんな気がする……。ズキン。ガラスの破片が突き刺さるような頭痛。まるで、かたちを奪われたことを、復讐するみたいに。
なんだろう。笑い声? たくさん。どうして。僕の顔になにかついてる?
なぜみんな僕を見るんだろう。僕は透明な存在。ほら向こうが透けて見える。だから僕に視線を留めないで!
轟く笑い声のなかに、たったひとつだけ、僕を呼ぶ声。
「待ってたよ」
あれ、きみは……
「あなたは私の首を絞めてここに埋めてくれた。私があなたに支配されることを望んだから。私はあなただけのものになりたかったから。思い出せる? 土のなかは冷たかったよ。あなたが時々さしだしてくれる手の温もりだけが私を温めてくれた。でも、いまは、私たちは体ごと抱きしめあえる。そうだよね?」
はだけた下着から肋骨をちらつかせながら彼女はいった。彼女の肌はもともと白骨のように白かったから、何も変わりはない。僕たちは抱き合った。彼女の骨の冷たさが僕の体に伝わり、温かさと交わって夢のような感覚をあたえていた。
足元には虹を溶かしこんだような鮮やかな色の液体が入ったビンが転がっていた。それは月の明かりを反射して、キラキラと輝いていた。