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エントリ1 合唱祭ツアー ごんぱち
十四人の声が折り重なって減衰、響きを終え、オルガンの音もすぅっと消える。
「よし、良い感じだよ、休憩にしよう!」
花井先輩が指揮棒を置く。
皆、思い思いに休み始める。
あたしは窓縁に寄り掛かって、魔法瓶に入れた温かいお茶を飲む。
練習中は喉を冷やさない事が鉄則なのだ。
ぶちょーさんは、花井先輩と談笑している。のほほんとした笑い顔だ。普段真面目っぽい人だけど、別に堅物って訳じゃなくて、多分、冗談を言い合うような仲にならないと、冗談を言わないのだ。
笑い戯れる割とある意味美少年二人という図は、悪くはない。けれど、生産性がないのはどうかと思う。
窓の外に目を向ける。
相変わらず梅雨の雨。
帰り道がちょっと憂鬱だ。大消失前ならバスも――ああそうだ、ごめん、話してなかったね。
三年ほど前に、世界大戦があったらしい。
らしい、というのは、実情がよく掴めていないからだ。
起こった事だけをありのままに言うなら。
「全てのコンピュータのデータが消えた」
政府の発表では、国家レベルのクラッキングの仕掛け合い、要するに情報戦争とでも言うべきものだったそうだ。その静かな戦いはエスカレートして、ついに、敵味方の区別なくコンピュータのデータ全てを消去してしまうウィルスが使われてしまった。
残ったのは、中身がすっかり空っぽになって、電源しか入らないコンピュータ。
そして、いつの間にかこの事を、みんなは大消失と呼ぶようになった。
影響はあちこちにあったけれど、人は逞しいもので、案外生活に大きな変わりはない。社会的な責任の軽い学生なら、尚のことだ。
もっぱらの関心事は、明後日の合唱祭。
「はい、休憩終了、通し行くよ! 明日は移動で練習あんまり出来ないから、一発バシッと決めていこう」
四頭分の蹄の音がリズミカルに響き、レールの上を横浜行きの鉄道馬車がのんびりと走り出す。
昔の電車の車両を肉抜きして軽量化した鉄道馬車は、あちこちが穴だらけで風が通り抜ける。座席はベンチ状の椅子を固定してあるだけで、いわゆる列車の座席という感じではない。
「馬かわいーねー、日野ちゃん」
ソプラノの亀さん――ええと、本名は忘れた――が、運転手越しに馬の尻を眺めている。
「本当、可愛いよね」
頷いて、あたしも馬の尻を眺める。
みんな少々興奮気味で、賑やかに話をしている。
「横浜は、去年のコンクール以来だよ」
隣りに座っているぶちょーさんは、言いつつ眠そうにしている。責任感とかで緊張したのかな。
「あたしは、正月に一度行きましたよ」
「そっかー」
そう言ったきり、ぶちょーさんの言葉が途切れる。ふと見ると、寝息を立て始めていた。
まあ、起きていても寝ていても、話が弾まない事にかけては差のない人なので、とりあえずそのままにしておいた。
ランドマークタワーの見えるユースホステルに一泊した翌日。
舞台袖に、あたしたちは並ぶ。
小さい電球の他に明かりはない。舞台照明に割り当て電気を取られて、他へ回らないのだ。
会場は、しんと静まり返って、司会の進行を聞いている。
メガホンを使っているせいで、舞台袖にはほとんど聞こえない。
「あふぁふぁ……ぶっ!」
あくびをしようとしたバスの土田の口が、抑えられる。
この静まり返った舞台にあって、舞台袖の音は筒抜けだ。
司会の挨拶が終わり、最初の団体が舞台に出て行く。
演台に上がる足音が、耳の側でしているような錯覚に陥る程大きく聞こえる。
ピアノの伴奏が入り、曲が始まる。
……ピアノの音、良いなぁ。
こんな事なら、家のピアノ、電子ピアノなんかに買い換えるべきじゃなかった。
ステージマネージャーさんが、手で合図をする。
ぶちょーさんが頷いてから、ゆっくり舞台のすぐ脇まで進む。足音を立てまいとして、何だか泥棒みたいになっている。
拍手が鳴り響き、あたしたちの番がやって来た。
あたしは段の二段目に立ち、土田達は一段目に立つ。
花井先輩は指揮台の上に立ち、指揮棒を――構える前に、にっこり頬を上げて笑う。
緊張せず、表情を柔らかく、の合図。
花井先輩は、とっときの、まっ白なグラスファイバー製の指揮棒を振り上げる。
ピアノが鳴り始める。
音がステージと観客席に流れ出し、反響して溜まっていく。
ソプラノとアルトのユニゾンからの入り。
あたしたちアルトは、ピアノですぅっと、あくまでさり気なく入る。
それにぶちょーさん達のテナーが乗って来る。
あたしの出している声と、頭の中で響いている声と、ぶちょーさんの声と、ピアノの伴奏と、亀さんの声と、ホールの反響と、それから、みんなみんなの声が混じり合って。
それがあたしの外で聞こえているのか、中から聞こえるのか、あたしが出している声なのか、あたしはただ聞いているだけなのか、よく分からなくなっていく。
こういう瞬間は、今までも何度かあって、それは合唱の一番の面白味のような気がする……あ、ちょっと乱れた。
まあ、この辺りがウチのレベル。
あたしが指揮者になった暁には、もっともっとこういう音を出す。
あたしは歌わなくなるけど、指揮なら、どんな声でも歌える、どんな曲でも、どんな言葉でも、歌えるから。
だから、歌わなくなる事も、今の三年生と歌えなくなる事も、寂しかったりは、しないのだ。
帰りの鉄道馬車が、疲労困憊のあたしたちを運ぶ。
「折角横浜に行ったのに、また観光も出来なかったね」
不満そうな顔で、亀さんが振り向く。
もうランドマークタワーも見えない。
「本当に歌うだけしか出来ないんですね、合唱祭ツアーって」
土田もガッカリした顔だが、これ以上何か出来そうな元気があるようにも見えない。
「今度のコンクールは、もう一泊しましょうよ、夏休みなんだし」
「去年は何人か、そうやって残ったヤツもいたけどね」
亀さんがため息混じりで言う。
「帰りの切符代に、学割が効かなくなるよ」
「……それは、辛い、なぁ」
「みんなで積み立て貯金でもするしかないんじゃない?」
「ガマン出来るかなぁ……」
「ふふっ」
馬車はぱかぱかぱかぱか眠そうな蹄の音を立てて進む。
ほら、隣のぶちょーさん、また寝てる。
寝息を立ててるぶちょーさんは、起きている時と同じように無口だ。
あたしは、亀さん達の会話からフェードアウトして、何となく眠そうな「話しかけるなオーラ」を出す。
と、肩が重くなった。
ぶちょーさんが断りもなくあたしの肩に寄り掛かっている。
無礼な人だ。
でもまあ、無理矢理起こしてもどうせまた同じ方向に倒れるのは、世の中の法則みたいなところがあるから、無駄な抵抗をしても所詮無駄な可能性が高いので、放っておく事にする。
頭一個分の重さぐらい、耐えられない事もない。
もちろん本当に耐えられなくなったら起こすが、耐えられない程でもないから、耐えているのだ。耐えられなくもない事を耐えないのは、人格形成に良くない影響を与えるのではないかと思うので、あたしは特に何も言わないのだ。こういう感覚がないと、ちょっと自分の意に沿わない事があっただけで、騒ぎ立てるような人間になってしまう。それは端から見て気持ちの良いものではないし、本人も何だかんだで良い気分とは言えないのではないかと思う。
ぶちょーさんは、目を覚まさない。
いつまで眠っているつもりだろうか。
困ったものだ。
まったく、困ったものだ。
エントリ2 鏡 萩鵜あき
自分の定義とは一体どの様な物なのだろう? 我観測す、故に我有りと言った偉人もいる。ただし、この暗がりの中で自分が向いている方向も、果たして直立しているのかも定かではない状況で、その言葉が紡ぎ出されるのだろうか。今の俺としては、その言葉を完全否定してやりたいね。
この中では自分の肉体さえ見えず、感覚だけが生きてるんだ。浮遊する魂を実感できるとしたら多分こんな感覚なんじゃないだろうか。
360度、全く何も見えないどこにいるのかさえ解らない中を彷徨い続け、果たして自分は歩いているのかも疑問に思い精神的疲弊が頂点に達した時、俺は目の前にぼんやり現れた鏡を見た。
鏡ーーガラスの片面にアルミニウムや銀などの金属を蒸着させ作り出された自分を映す無機質物体…だよな?
「それで、菊池さんはどうやってここに来たんだい?」
古物商が欲しがりそうな装飾のついた古鏡は今、俺に語りかけている。何故鏡なんてもんが喋ってるんだよ。
「どうして鏡が喋るんだ? という質問には答えられないね」
「勝手に人の心を読むなよ! …どうして鏡が喋っている事を疑問に思って、それを聞いちゃまずいんだ?」
「決まってるじゃないか。野暮だからだよ」
鏡の中から響く中性的な声は、とても楽しそうにクスクス声を立てた。野暮な質問か? とても重要な事だと思うぞ。それこそ世の中の常識を覆す暗いに重要だ。
「所でキイチさん」
「菊池だ!」
「すみません。間違えました。…菊池さん、レディーに向けて如何わしい視線を向けるのには関心しませんね」
「お前女なのかよ!」
そもそも鏡に性別ってあるのか! 知らなかった!!
「僕が好きな方は女性なので、女性ということでどうでしょう?」
「…性別ってそんなに簡単に決められるもんじゃないぞ」
「いえ、一応体は女のそれですよ。ふふふ」
「……っ!!」
歴史的大発見の瞬間だ。ノーベル賞もんだ。これで鏡に性別があるということが世界に…
「んなわけないだろ! どこからどう見ても男性も女性もない、ただの無機質な鏡だ! 冗談は顔だけ…いや、顔もないか。その性格だけにしてくれよ」
「鬼畜さんはずいぶんと失礼ですねぇ」
「菊池だって!!」
さらっと人間として最低のラインに貶められた!
仮に鏡に個体差があるのだとすれば、それを判別する箇所はどこなのだろうか?
「菊池さん、何をえっちな妄想しているんですか?」
「俺が猫耳メイド服を想像している事が、何故バレた!?」
「そこまでは言ってません」
「……」
もしかしたらこいつは、読心術の心得でもあるんじゃないか? …鏡の癖に。
「鏡の癖にとは失礼ですね」
「頼むから俺の心を読んで勝手に話しを進める事は、混乱するからやめてくれ」
「解りました。しかし難儀な性能ですね。テレパシーとかサイコキネシスとかESPとか身に付けてから僕に話しかけてください」
「簡単にそんな能力が手に入るわけないだろ! 俺は超能力者でも宇宙人でもなく普通の人間だよ! そう言うお前は何か能力使えるのか?」
この読心術を心得た鏡ならば、もしサイコキネシスやらESPやらを使えても驚愕しないだろう…。
「使えるわけないでしょ? 貴方馬鹿ですか?」
あっさり否定された! しかも鏡に馬鹿にされた!! おーけー、こいつは喋る鏡だと把握した。そして性格は最悪だ。
「あのぅ…ロリでメイド萌えな菊池さん」
「その頭の文言は何だ! 俺はいつロリでメイド萌えと決定されたんだよ!」
「ほら、先ほどメイド猫耳にゃんにゃんな妄想をしてたじゃないですか?」
「う、え…その…。ま、まぁ百歩譲ってその意見が概ね正解だとしよう。でも、ロリはどっからついてきたんだ」
「どこからどう見ても私はロリロリ美少女じゃないですか。目、腐ってます?」
「どう目が腐っても鏡にしか見えねぇー!!」
そもそも鏡にロリなんて基準が存在するのか? 全くわからん。
「それで幼女性愛者菊池さんはーー」
「割るぞ?」
そこまで俺は人間辞めたつもりはない。そもそもこんな下らない話しに付き合う必要なんてなかった。
こいつを割ってさっさと外界を探し当てよう。
「イヤーン!」
「………っ!?」
鏡から生々しいあえぎ声が聞こえた。いや、鏡からの声じゃないんじゃ? その問は、回りの暗闇があっさりと否定。
「私、男の人に触られた事なんて一度も無かったのに…こんな溝より汚れた男なんかに汚されるなんて」
かーちゃん。俺、こんなにも汚れた大人になっちゃいました。…じゃなくて、
「さっきからのキャラを崩して変な声を出すな! しかもどうして俺はそこまで言われなきゃいけないんだ。イジメか? それとも喧嘩か?」
「いいえ、冗談ですよ。菊池さんは冗談の通じない面白みのない、個性もへったくれもない人間なんですか?」
そんなふうに言われるともし俺が冗談の通じない人だったとしても、はいそうですと答え難いだろ!
「たぶん。俺はそこまで冗談は通じない事はないはずだ」
「そうですか。それは良かった。…では冗談抜きの話しをしましょう」
「………」
今までのはオールジョークって判断でいいのだろうか。いや、いいのだろう。
もしかしたらこの鏡は、何か知っているんじゃないだろうか。
「お前はこの場所がどこなのか、何故俺がここにいるのかを知っているか?」
「それを答えるにはまず、僕の問いに答えて頂きましょう」
「そもそも、コレを鏡と称した貴方ですが。貴方が鏡の外にいるという状況判断は、本当に正しいと思いますか?」
「…どういう意味だ」
喉から急激に水分が薄れ、枯れたように声が出る。酸素が少しずつ薄くなっていくようなプレッシャーに、心臓が鼓動を速める。
「この鏡が鏡だとするならば、貴方の鏡であるという判断は正しいのでしょう。しかし、鏡であったとしてもそれが内側ではないという保証はどこにもない。つまりですね」
「貴方は鏡の内側にいるんですよ」
「…嘘、だろ?」
喉からようやくその言葉だけ絞り出す。
「先ほどから貴方は鏡を見ていますが、どうして自分の姿を貴方はその目に捕らえていないのですか? そもそも、貴方こそ男性か女性か、私たちの会話には一切登場してないじゃないですか。それと、容姿も。貴方は私を鏡だと称した。しかし、貴方はどうですか? 貴方は、自分が見えていますか?」
…自分を見るという行為が当たり前すぎて、今まで全く気づかなかった。
鏡の前には、ただ暗闇が広がっている。
俺がいるはずの空間に、ぽっかりと穴が空いているんだ。
「鏡を見ているからといって、それがかならずしも外側から見た風景だとは限らない。貴方は最初から、鏡の内側にいたんですよ。そして、貴方が鏡と称したこれは水晶体。つまり、眼球です。誰の眼球かわかりますね?」
「…俺のじゃ、ないのか」
「私の脳内に勝手に進入してきて、最初はジョークかと思っていましたが、本当に記憶が消えているんですね。可哀想に…」
暗闇が俺に迫る。手足の言うことが全く効かず、微動だにしない。
「菊池さんとの会話、楽しかったですよ。それではーー」
「アディオス」
体が光を全く含まない暗黒物質にじわじわ満たされ、脚が消え、手も消え、胴体が消えてゆく。
誰か、誰かタスケテクレ!!
俺の感情は、しかしそこで何事もなく途切れた。
※「実験は成功」
※「個体は生還したか?」
※「脳波消滅。生存不能」
※「そうか…ではもう少し設計を変えてみよう。プランBの準備を」
※「了解」
エントリ3 朧魚 蛇トンボ
ある喫茶店がある。
カウンターの席と3、4のテーブル席くらいの小さな店だ。カウンターの中で落ち着いた佇まいで手際良くコーヒーを入れるまだ若い女性の店主と、たまに手伝いにくる学生風の男が二人で回している路地を奥の奥にある小さな店だ。立地条件の悪さの所為かで客の多くは常連で、ふらっと入った私のようなものは稀だろう。今は常連の人達も最初は私のようになにかにひかれてふらっと入ったのだろうけれど。
カウンターやテーブルなどに古木を多用し、リメイクされたアンティーク家具なども混ざり合い、居心地のいい暖かみがある。手作り感を残しつつもどこかキリッとした緊張感のある作りは、設計の段階から腕のいいデザイナーの手が入っているだろうと思わせる。使われている食器も主張しすぎずしかし質の良いものだとわかる、実に吟味されたものばかりだ。
壁には隙間を嫌うように絵画が飾られている。その多くが小品で、だが不思議なモチーフのものばかりだ。具象画から抽象画まで一見混ざり合わなそうな絵画は壁で凛とした存在感と一体感を出している。
その中に一枚の魚の絵がある。赤褐色の背景に魚のようなものが泳いでいるだけの絵で、有名でもなんでもなく、どちらかいうと印象に残らない絵だ。いつも私が座る席の調度真横にあって、コーヒーを一杯飲んでふと一息ついたときに視界に入る。朧げな魚がどこへ向かうとも知らずただ泳いでいる絵が、ため息なりで横を向いた時に見える。
この絵に限らず店に飾っている絵にはタイトルは表記されていない。サインすらないものも多い。店主にタイトルや由来を聞くと決まって首を傾げ、「さあ、最初からそこにあったから、わからないわ」と答える。
私が決して立地のいい場所にあるとはいえないその店にいく理由はその魚の絵だ。静かでコーヒーも美味しいし、必要以上に店もこちらに干渉してこなく居心地がいいが、行くには不便で、それでも行くのはやはり魚の絵が気になるからだ。いつしか一杯のコーヒーと一匹の魚が私の休息の象徴になっていた。
その話を一度、仕事で知り合った知人にしたことがあり、その知人とたまたまその店の近くを通った時に話を思い出した知人が、次の約束までまだ時間もあるし店に寄ろうと言い出した。それ程親しくない知人を自分だけの大切な場所に案内するのは気が引けたが、調度暑い日で涼みたい気もあり入った。
いつもと違う時間に行ったせいでいつもの席は団体客で埋まっていて、私たちは申し訳なさそうに店主に別の席に通された。団体客は近所の主婦の集りなのか見栄をはったりや噂話をしている。
「ねえ、例の絵ってどれなの?」
注文を済ませた知人が早速聞いてくるので私は主婦の団体客で埋まっている席の横の絵を指差した。
「あの茶色の絵?魚なんていないじゃない」
知人の言葉に驚き絵を見ると、確かにそこには赤褐色の背景だけがあって魚の姿はなかった。
「あれ、おかしいな。いつもはね、絵の真ん中あたりに魚が泳いでいるのよ」
「ほんとにぃ?」
疑う知人を無視し、何度見直しても魚の姿はなく、鈍色の赤い画面だけが額に収まっていた。
調度、注文したアイスコーヒーを持ってきた店主に絵のことを訪ねると店主は特に驚いた風もない。
「よくあるんですよ。ふっと魚が逃げてしまうですよ」
「逃げる?」言っている意味がよくわからず声がうわずってしまった。
「これだけ絵があるのに一枚の絵の中でじっとなんてできないんでしょうね。他の絵にでも遊びにいっているんでしょう、おそらくきっとね」
店主の言葉に店中の絵を見回したが花の絵の花はいつものように咲き乱れていて、貴婦人の絵の貴婦人はいつもと同じように笑顔を浮かべている。いや、いつも店に来る度に魚の絵しかみてなかったせいで他の絵の印象が残っていない。
知人は最後まで信じず、結局魚は絵に戻ってこないまま時間になり店を出ることになった。
気になって翌日のいつもの時間にいくといつもの席は空いていて、魚は絵の中にいた。変わらず絵の中で目的も知らず泳いでいた。
首を傾げる私に店主が近づいてきて言う。
「この絵だけじゃないんですよ、変わるのは。貴婦人の顔からは笑みが消えたというお客さんもいますし、花がしおれたという方もいます。それぞれがそれぞれの形で絵をご覧になっているんです」
「それって」
「だからこの店にはまだまだ絵が足りないと考えているんです。もしかしたらいくつ数があっても意味は無いかもしれないけれど」
店主はいつもの笑顔でカウンターへ戻っていった。
私はいまでもその店に行く。必ずひとりで行くようにしている。
ドアを開け、いつもの席に座り、そしてコーヒーを飲み一息。横では今日も私の魚が絵の中で泳いでいる。
end
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