Entry1
空蝉の部屋
緋川コナツ
ざりり。
渇いた感触を足の裏に感じて歩みを止める。そこには干からびた蝉の死骸が転がっていた。
そういえば最近、あちこちで蝉の死骸を見かける。コンクリートとアスファルトに覆われた都会のこの街の一体どこに、これだけの蝉が生息しているのかと不思議になる。
長い間、土の中で世に出るときをじっと待ち、短い夏を謳歌して、あっけなく死んでゆく。陽射しに焼かれ、人に踏まれて、やがて雨に流され朽ち果てて。それが蝉の一生だと頭では理解していても、さざ波だった気持ちはどうにも収まらない。
せめて交尾くらいはできたのだろうか。そのくらいの「いいこと」がなければ、生きる意味なんて無いんじゃないだろうか。
つま先で蝉の死骸を側溝に追いやり、日傘を傾けながらぼんやりと考える。
目指している場所は、海の水と川の水が混ざり合う河口の近くにある。そのせいか、そこはいつも体中の細胞が震えるような不思議なにおいがした。
築四十年は軽く越えていると思われる古いアパートの共同玄関は、いつも開いたままになっている。クーラーなど持たない世帯ばかりなので、少しでも風通しを良くするためなのだろう。
私はサンダルを脱ぎ、木製の大きな下駄箱の一番奥に押し込んだ。建物の中は埃っぽく、あらゆるにおいが混ざり合って空気が淀んでいる。いくら玄関を開け放して風を通したところで、染みついたにおいはそう簡単には消えてくれない。
ぎしぎしと床を軋ませながら階段を上り、部屋の前に立つ。表札はかかっていない。ドアの横には読み終えた古新聞と雑誌の山が、今にも崩れそうになりながら乱雑に積まれてあった。
「私です……香澄です」
軽くノックをしたあと、ドアの隙間に口元を近づけて自分の名前を告げた。
「入れ」
すぐに無愛想で乱暴な声が返ってきた。私はドアのノブを掴み、軽くまわして手前に引いた。やはり鍵はかかっていない。みしっと湿った音をたてて、ドアが開いた。
「美味しそうな梨が出ていたから買ってきたの」
部屋の主は私の姿をちらりと横目で見て、黙って頷いた。寝起きのぼさぼさ頭に無精ひげを伸ばし眼光だけは鋭いその姿は、どことなく異様な雰囲気を纏っていた。
「お腹すいてない? 何か作ろうか」
私はそう言いながら買い求めた梨を流し台の上に置き、冷蔵庫を開けた。
「いらない。何も食べたくない」
「食欲ないの? 梨なら食べられるかな。今すぐ剥くから、ちょっと待ってて」
「……勝手にしろ」
亮悟はそう言って、プイと横を向いてしまった。よれよれのTシャツと短パン。機嫌が悪いのは、いつものことだ。私は構わずに流し台の下にある扉を開けて、小さな果物ナイフを取り出した。
この部屋の主である早川亮悟は、昔、私の夫だった人だ。
亮悟は酒に酔って小さな傷害事件を起こした。示談金を私の両親が負担し、なんとか大事には至らずに済んだ。もともと結婚に反対していた両親は、ここぞとばかりに離婚を勧め、子どもができなかった私たちはあっけなく離婚した。
別れてからというもの、亮悟は全ての意欲を失い働かなくなった。やっと見つけた土木作業員の仕事も、建築現場の足場から落ちて腰を痛めて辞めざるを得なくなった。さらに精神を病んで鬱病と診断され、生活保護を受ける身となった。
「おい香澄、何やってんだ。いいから、こっちに来い」
「ちょっと待って。これだけ、あとこれだけ梨を剥いてから」
それさえもままならず、私は亮悟に腕を掴まれて畳の上に押し倒された。流し台の隅に置いていた梨が落ちて、床の上をごろごろと転がる。せっかくの梨が傷んでしまうのが気になった。
心のどこかに、亮悟をここまで追い込んでしまったのは自分だという、拭いきれない負い目があった。
あのとき、示談金の無心をしなければ。あのとき、亮悟を見捨てなければ。あのとき、両親に言われるまま離婚に踏み切らなければ。
「たられば」をあれこれ並べ立ててみたところで、死んだ子の歳を数えるようなものだ。つまり無意味。それは頭では理解している。
私は亮悟に対する気持ちを、自分の中で持て余していた。
亮悟の痩せた手が、私のスカートを捲り上げて素足をさする。ブラウスのボタンは乱暴にはずされて、キャミソールの上から乳房を乱暴に揉まれた。
開け放した窓から蝉の鳴き声が聴こえる。どこかの部屋の軒下に吊るされた風鈴が夏の終わりの風に煽られて、涼し気な音色を響かせていた。
「自分で脱げ」
ふいに亮悟が体を離し、顎をしゃくりながら私に言った。私は黙って立ち上がり、スカートの下に穿いていたものを自分の手で脱ぎ捨てた。そして再び畳の上に横になり、両腕で亮悟の頭を掻き抱いた。
皮肉なことに、私は亮悟に乱暴に扱われているときだけ自分が生きていることを実感できた。そして横暴な態度に従うことが、私なりの罪滅ぼしなのだと思っていた。
いよいよ、というときになって、亮悟があっけなく私から体を離した。
「……どうしたの」
「うるせえ」
どうやら今日も駄目だったみたいだ。強い薬の副作用のせいか、亮悟は以前のように私を抱くことができなくなった。歳も歳だし、そんなものなのかもしれない。たぶんここで変に慰めの言葉などかけたりしないほうが、むしろお互いのためだ。
私は無言で脱いだばかりの衣服を拾い集めて、下着だけつけた。亮悟は下半身だけ剥き出しの状態のままで胡坐をかき、私に背を向けて静かに窓の外を見ていた。
「香澄……もう、ここへは来るな」
思いがけない亮悟の言葉に、私は一瞬、我を忘れた。
「え? どうしてそんなこと言うの?」
「もう俺のことは忘れろ。忘れて、新しい男を見つけて結婚しろ。いいな」
「いいな、って……そんなこと、いきなり言われてもできないよ」
亮悟は窓際に置かれてあった煙草を手に取り、一本だけ抜き取って口に咥えた。すかさずどこかのスナックの名前が入ったオモチャみたいなライターで、ぞんざいに火を点ける。亮悟の口から吐き出される白い煙が、網戸を通り抜けて秋の気配が漂いはじめた空へと上ってゆく。
「もういい、もう充分だ。俺は一人でも生きていける。おまえは、こんなところに通っていたら駄目なんだ」
「そんなことない。私には亮悟が必要なの」
「それじゃあ、どうして離婚したんだ」
「それは……」
私は言葉に詰まり、亮悟の目を見つめた。亮悟の瞳の奥は何も映さず、がらんどうだった。
「もう充分だ」
私の言葉を遮るように、亮悟は何度も「充分だ」と繰り返した。
亮悟は、ずっと前から気づいていたのだ。私が亮悟への罪滅ぼしのためにここに来て、己の身体を差し出していたことに。
「そうだ、梨。せっかく買ってきたんだもん、一緒に梨食べよう」
私は流し台の前に立ち、一心不乱に全部の梨の皮をむいた。何かしてないと、涙が堰を切って溢れ出してしまいそうだった。
「はい、剥けたよ。どうぞ」
小さなちゃぶ台の上に、梨の入った皿を置く。亮悟がカットした梨を一口頬張ったのを見て、私も一切れ口に含んだ。
「私、これからもここに来るからね。亮悟が何と言おうと、来るの止めないからね」
私は自分がこの部屋を訪れる理由が罪滅ぼしだけではないことに、気づきはじめていた。
「バカ野郎……勝手にしろ」
「勝手にします」
梨の甘味が、口の中いっぱいに広がる。
ツクツクボウシの声を聴きながら、私は人生の夏を惜しむ。そして夏を慈しむ。