Entry1
紅いハイヒール
緋川コナツ
あたしはキャバクラ「マーメイド」でキャストとして働いている。いわゆるキャバ嬢だ。キャバクラは女の園だから人間関係もやっかいで、この店は上京してから三軒目になる。
「おはようございまぁーす」
更衣室で煙草を吸っていたら、トップの指名数を誇る綾菜が出勤してきた。
「あれえ? 真梨亜さん今日も早いですね~」
あたしの姿を見つけた綾菜が、わざとらしく驚いてみせた。いけすかない女。あたしは無視してネイルサロンで手入れを済ませたばかりの指先を眺める。
「無視かよ」
綾菜がロッカーを乱暴に開けながら舌打ちする音が聞こえた。
そのままぼんやりと煙草をふかしていると、何人かのキャストがいっせいに更衣室に入ってきた。強いコロンの香りが一気に部屋に満ちる。
うちの店では週に四日、一日二回のショータイムを実施している。彼女達はそのショーメンバーで、開店時間より早く来てダンスの練習をしている。ショーメンバーは店で人気のある娘ばかりで構成されていて、そこにあたしの入る隙は、ない。
そのとき、テーブルの上に置いていた携帯電話の着信メロディが鳴った。電話をかけてきたのは、岩手で一人暮らしをしているあたしの母だった。
母は、あたしがキャバクラで働いていることを知らない。都会へ行った娘は小さな運送会社で事務をしながら芸能界を目指している、と信じている。
しばらく着信を知らせるメロディが鳴り響いたあと、電話は切れた。あたしは手に持っていた携帯を投げるようにテーブルの上に置き、二本目の煙草に火をつけた。
フロアの照明が落とされ、店の名物でもあるショータイムが始まった。
華やかな衣装を身に纏ったショーメンバーが音楽に合わせステージ上を舞う。色とりどりのライトがステージを彩り、客席から大きな歓声が上がる。店が一番、盛り上がる時間だ。
子どもの頃から、いつも「ブス」とからかわれていたことを思い出した。地味で陰気な顔立ちは、昔からあたしのコンプレックスだった。
瞼を二重にして鼻筋を通しても、カラコンを入れて瞳を大きくみせても、ヒアルロン酸を注射してふっくらとした唇を作っても、あたしには肝心の「華」がない。だからいつまでたってもステージで脚光を浴びることが許されない。
いつか必ず、この店のトップになって見返してやる。あたしは震える拳を握りしめ下唇を噛んだ。
ある日、あたしは不思議な露天商を見つけた。
いかにも胡散臭そうな顔をした怪し気な老婆が、道行く人に靴を売っていた。特に安いわけではなかったけれど、何故かあたしは強く惹かれて店主に声をかけた。
「これ、サイズある?」
「あるよ。ここに並んでいる中から探しな」
売られている靴は一種類しかなかった。すべてが玉虫色をしたハイヒールばかり。けれどもこの靴がスポットライトを浴びて七色に輝くさまを想像すると、たまらなく欲しくなった。
「じゃ一足買うわ」
「まいど。あ、お嬢さん。買ってくれたから、いいこと教えてあげるよ……この靴はね、実は魔法の靴なんだよ。この靴が赤くなったとき、あなたには人生最大の幸福が訪れるはずさ。でも時として最大の幸福は最大の不幸を呼ぶことがある。それだけはくれぐれも、気をつけるんだよ」
そのときから、運命の輪が音もなく回り始めた。
あたしは稼いだお金で全身整形を繰り返し、美貌を手に入れた。おかげで指名数が増えて太い客もつき、店のベスト3に入るようになった。
しかもショーメンバーだった娘が一人、店を辞めて欠員が出た。足りなくなったメンバーを埋めるピンチヒッターとして、あたしに白羽の矢が立った。
果たして、初めてのショータイムは大成功だった。あたしは眩しいほどのライトと客からの大歓声に酔いしれた。
うちの店ではショータイムのラストに、ナンバーワンキャストのソロダンスがある。今は綾菜が踊っているけれど、あたしのほうがもっと上手に踊る自信がある。
もっともっと指名数を伸ばして、いつか絶対にナンバーワンになってやる。
長い間、トップの座に君臨していた綾菜が客同士のトラブルに巻き込まれて店を辞めた。
ついにあたしは綾菜を抜いて店のナンバーワンキャストになった。
更衣室でショーの衣装に着替えていると、見知らぬ番号から携帯に着信があった。
いつもなら無視するところだけれど、そのときは何故か電話に出なければいけないような気がして、あたしはゆっくりとボタンを押した。
「もしもし……」
「あ、千春ちゃん? ああ、やっとこさ繋がった」
千春は、あたしの本名だ。電話をかけてきたのは母の妹、つまりあたしの叔母だった。
「叔母さん……ご無沙汰しています」
「忙しいって電話に出るヒマもねえのか? まさか、あんたお母さんが入院してたことも知らねがったんか?」
「入院って、どこか悪いんですか?」
「まったくはぁ、あぎれたねぇ。お母さん、肝臓の癌で入院してんだよ」
「癌? お母さんが?」
「もちろん、すぐに帰って来るよなぁ?」
「帰るよ、帰るけど……今すぐは無理」
「なして?」
「仕事が忙しくて……それが落ち着いたら、すぐに帰るから」
あたしは「忙しい」の一点張りでその場をしのいだ。
綾菜がいなくなって、せっかくショータイムでのソロダンスを任されたのに途中で休みたくない。せめて千秋楽が終るまでは、絶対にステージから離れたくなかった。
いよいよ千秋楽のステージの幕開けだ。あたしは、いつもより念入りにメイクを施し、自分に気合いを入れる。
ショータイムは、いつもに増して大変な盛り上がりだった。ラスト、いよいよあたしのソロダンスが始まる。一瞬の静けさの後、あたしは一人でステージに上がった。
リズムに合わせて軽やかにステップを踏む。艶やかに体をくねらせる。足を高く上げて舞う。すぐに背中を反らす。小さく跳ぶ。今日は、いつもよりもさらに調子がいい。踊り終えるとフロアは大きな歓声と拍手喝采に包まれた。
赤いスポットライトに照らされて、ハイヒールが赤く染まっている。あの露天商の言っていたことは本当だった。あたしは、この店のナンバーワンだ。
もう死んでもいいと思うくらい、あたしは幸せな気持ちに満たされた。
すべての仕事を終えて、あたしはタクシーを拾うためにまだ薄暗い大通りに出た。始発の新幹線で岩手に帰るつもりだった。
そのとき、手に持っていた携帯電話の着信メロディが鳴った。
「千春ちゃん……姉さんが、あんたのお母さんが、ついさっき息を引き取ったよ」
「え……? お母さんが、死んだ……?」
嘘だ。そんなはずない。息が苦しくて足がもつれる。
あたしは遠くからこちらに向かってくるタクシーを見つけて、右手を高く上げながら車道へと走り出た。
耳をつんざくクラクションが、静かな夜明けの街に鳴り響いた。それと同時に、あたしの体は右折してきた大きなトラックの車輪に巻き込まれた。
「あ、あ、足が……足が……」
冷たいアスファルトに横たわるあたしの目の前で、靴だけが踊っている。ハイヒールは、おびただしい量の血を浴びて真紅に染まっていた。激痛に耐えながら、あたしは自分の足に何が起こったのかを悟った。
遠くから救急車のサイレンが聞こえる。
あたしは朦朧とした意識の中で手を伸ばした。紅いハイヒールは、それをあざ笑うかのように軽やかにステップを踏みながら、白みはじめた東北の空へと上っていった。