Entry1
銀紙草
サヌキマオ
この暑い中大変申し訳ないが、話は私の店先での嘔吐シーンから始めることにする。
「ヴぉえっ」
青いような揮発するような鼻の奥に刺さるような臭いが店内に充満して、嗅覚を握りつぶされたようになってえづき続ける。
「すごいでしょう。私だって荷を積んでいる時に気が遠くなったんだから、麻衣ちゃんなんかとてもたまるまい」
昨日、丁字原さんが店に荷物を持ってくると店長から言われていた。丁字原さんというのは店長の幼なじみの背の高い女の人で、たまにこの店にもハーブや生薬のたぐいを仕入れに来る。
「こ、これ、一体なんなんすか!?」
「これ? 銀紙草」
「ぎんがみそう」
細い路地に引っ越しに使うような大型のトラックを無理矢理押し込んで、店の中には一抱えもある乾燥した草束がどんどんと積み上げられていく。葉の一枚一枚は角ばって丸まっていて、チューイングガムの銀紙を思わせなくもない。
じゃあ、眞ちゃんによろしくね、と丁字原さんはトラックに乗って帰っていく。で、私はこれからこの店の中に取り残されるのだということに気がつく。あらゆる空気が臭い。店の中に野の中の草いきれ、充満する湿布臭。いや、湿布臭どころではない、ニラ臭にタバコ臭に爛れた口臭、動物の本能が「ここにいては気が狂う」と訴えてくる。かといって店を一歩出ると雲ひとつ無い、酷い天気である。人間の心が「ここにいては暑さで死ぬ」と訴えてくる。
「うちだって儲けられるときは儲けんとさ。金が儲かるというときには、それなりのリスクを背負うものよ」
店長、リスク負ってねえじゃん!
この銀紙草とやら、客は二時頃に引き取りにくると聞いた。あと二時間半ほどある。私は出来るだけ息を止めながら店の入口に近いところに草の束を積み直し、部屋の奥の換気扇を回してその真下に座ると幾分か楽になった。それでもこの中で昼ごはんは取りたくない。汗も鼻水もだらだらと垂れて、ああ化粧直さなきゃ、と思うがそれも面倒になってきた。
ぐったりとする。今日はこのまま誰も客が来なければいい。
入れるものならば入ってみろ。私は今、とても酷い顔をしているぞ。
窓の外に客が見える。
メンソレータムが見える。
いや、違う。ナイチンゲールが見える。
メンソレータムの箱に書いてあるナイチンゲールのようなものが店の中を覗いている。
(いや、アレ、ナイチンゲールじゃないらしいよ?)
「あ、そうなんすか?」
(ちょっとウィキペディア見たら『シャーリー・テンプルじゃねえの』って書いてある)
「『シャーリー・テンプル』って誰?」
ググってみたら、なんか普通の白人の女優さんが出てきた。あまり興味を惹かれない。
話を元に戻すが、そのナイチンゲールのような格好の女の子は入口の戸をガラガラと開けるやいなや、それまでの端正な顔立ちを引き攣らせてすごい顔をした。
鼻の穴が三倍に広がったかと思うと、両の手でさっと押さえた。
わかるわかる。
とんでもねー臭いだもんな。
遠目に見ても明らかに小さいなぁと思っていたが、加えて顔立ちはどう観ても小学生だ。
顔をひきつらせながらやってきて、それでもニッコリと微笑もうとしていた。
「あの、椎橋の、阿知羅医院の方からやってまいりましうぇぉほぅ」
(おまえのようなナースがいるか!)
内心ツッコんでしまう。ナースは(こう名乗られたらナースと呼んで差し支えないだろう)口上を述べ終わる前に咳き込むと、ひっ、ひっ、と息を漏らした。すると部屋の下半分の方は幾分か呼吸が楽であることに気がついたらしく、前かがみになって喋り始める。
「あの、院長に言われましてっ、ハヒリドホロをっ、いただきにあがひましてっ」
ハシリドコロ?
「店長、いないんだけどさ、それってなんかご予約があったりします?」
「あっ、はひっ、へんちょーはんと院ひょーはんはおともらひれひへっ、しゅきならけ持っへいっへもよろひいとおっひゃったそうれ」
一度口上を切ると、ナースのシミひとつない磁気のようなほっぺたに玉のような汗が浮かんでいる。
なんだか楽しくなってきた。
「ああ、じゃ、そうね。ちょっと今手が離せないからさ、お嬢さん、そこの棚にあるのを好きなだけ持ってっていいっすよ」
「え、そこ、と申しますと」
「そこ。そこの草の束の裏にある棚のぉ、一番上なんだけど」
「ふえっ」
ナースは私に言われるがままに天井を仰いで、「うぉぶぇっ」と一声唸ったかと思うと入口のドアに向かってかけ出した。そのまま戸の隙間から外に転がり出る――かと思ったが、思いのほか戸の隙間が狭かったらしく、ひっつめた頭をしたたかに柱に打ち付けるとごろりと伸びてしまった。古い看護服はみるみる色あせて、代わりに全身がモジャモジャとした硬そうな毛で覆われてきた。
「うわぁ、狸だ」
その辺にあった六尺棒でつつくと反応がある。
「へぇ、悪さはしないので勘弁しつください」
「人の店からなんか盗ってこうってアレじゃなかったの?」
「ち、ちゃんとお金は払うに決まってるじゃないですか、いやだなぁ」
そう云いつつ、狸は持っていた手提げを器用に鼻先で開けると柿の葉を数枚引っ張り出す。
「やっぱり葉っぱじゃねえか!」
「あ、違うんです、え、いや、あれェ?」
店にかけられた化け封じの結界の力だ。狸はこれ以上ないくらいうろたえて、咥えた葉っぱを胸元にしまい込む。どういう作りになっているんだろう。
「ないじゃんか」
「すみません嘘をつきました」
「帰ってもらえるかな」
「すぐに帰ります。失礼ひはひはっは」
そういうと狸はトボトボと戸口へ出ていく。口にサッと何か咥える。
「こら待て」
外に出た途端の一目散、人間の足で追いつこうはずもない。やられた! と思った刹那キャンキャンと吠える声がする。視線を上げると、毛むくじゃらの首根っこをひっつかんでぶらさげた店長が立っている。
「臭えな」
抵抗しようともがく狸の首をきゅっと締めて、店長は店の中を覗く。
「銀紙臭えしケダモノ臭え。丁字原の野郎、トラックごと貸してくれるんじゃなかったんか」
あ、やっぱりそういうものなんだ。
「で、この狸はなんだ」
「一応お客さんだと名乗ってはいましたが、店のものを咥えて逃げていくところでした」
「畜生め」
狸が吠える先からばらばらと地面に草の根が落ちる。これがハシリドコロだろうか。
「ヤケになってトリカブトの根を咥えやがったな。おまえ、もう間もなく死ぬぞ」
「ひえっ」
狸は仰天したのか、首根っこを掴まれたままぐったりしてしまう。なんだか可哀想みたい、と遠巻きに眺めていると、店長は狸の首根っこをそのまま水を溜めてあった防火用水のバケツに突っ込んだ。たまらず狸は噎せて咳き込む。
「どうだ、全部吐いたか」
「ひいひいひい」
「毒で死なれちゃ狸だって食えねえからな」
「ひいひいひい」
「命を助けてやったんだからちゃんと恩返ししろよ」
「ひいっ」
開放された狸は建物の壁と壁の間の狭い路地に無理やり体をねじ込むと、ゴリゴリ音を云わせながらとうとう見えなくなった。
あっという間のことに目を白黒させていると背後に気配がして、天頂がすっかり禿げ上がった白惣髪の老人が立っている。
「例のもの、引取にまいったぞぃ」
銀紙草は店長のワゴンで八往復もして、ようやく運び終わった。臭い抜きのために店を、車を、衣服をクリーニングすると結局ちっとも儲からない。
狸も、恩返しに来ていない。