Entry1
赤葡萄
サヌキマオ
新宿駅から特急に乗る。立川を越えたあたりで雪になる。
出張に出ていた店長から電話があって「今すぐに店を閉めて舞もこっちに来い」という。こっち、とは店長が出張している神吉田町のことで、私の母親の故郷である。ついでに従兄である乙坂眞、店長の故郷である。要するに田舎なのであるが、店で商う薬草の仕入れはこの村で育ったものであることが多い。
どこだかのトンネルを過ぎると、細かい雪が横殴りに列車の窓を覆う。東京の街中を歩く格好で出てきてしまったことを内心悔いている。
「まーたそんな格好できて。寒くないのかい」
駅前までバンで出迎えてくれた丁字原さんにそう言われても「じゃあ、そのへんのユヌクロでパーカー買ってきます」と迂闊にいえない田舎である。駅ビルのブティックモモカはあったか下着の品揃えばかりいい。「若いってのはすごいねぇ。オバチャン見てるだけで風邪引いちゃう」と己が身を抱えて震えてみせる丁字原さんを運転席に押し込んだ。自分だって店長と同い年なら二十六だろうが。車は枯れた田んぼを両脇にして神吉田へと向かう。
「あ、コルナゴ潰れちゃったんだ」
「もう随分になるよ、二年くらいかな」
県道の十字路にぽつんと喫茶コルナゴが建っていたが、見るからに人気が失せている。
「そんなに帰ってなかったっけ? こっち」
「えーと多分、中二のときに帰ったから、二年くらいぶりかな」
「あ、じゃあ舞ちゃんが東京に行った直後だ、コルナゴが潰れたの。あそこのオバちゃん」
「死んだの?」
「死んでない。おかしくなった」
「おかしく?」
「息子さんが自動車の事故で亡くなってね、それからずっとふさぎ込んじゃって」
頭上の高速道路もいつごろから建設中だったろうか。この仏壇屋の看板は見覚えがある。
「ずいぶん食べたよね、あそこのマロンパフェ」
「ああ、舞ちゃんはマロンパフェ派だったのか。あたしはいちごパフェ派だった」
「そうそう、で、東京のパフェって中にコーンフレーク詰まってるよね」
「インターチェンジのところに出来たファミレス、あれ、全国チェーンだっけ?」
「ああ、あそこはそうだよ。東京でもよくCM見る。たぶんコーンフレーク派だ」
「丙崎さんに遭ったら、あとで寄ろうか」
車は県道から山道に入る。傾斜のきつい坂を登るとまもなく丙崎ぶどう園の看板が見えてくる。
久々に見た祖父の顔はいくぶんか穏やかに見えた。重たい雪の積もったぶどう畑である。記憶の中では色黒でがっしりしていた祖父はすっかり白茶けて痩せこけて、背景に雪があると所々見えなくなる。穏やかに見えた、というのは元々が穏やかどころではなかったからで、祖父の無くなる直前、小学校の前半までは家族や近所中の人に誰かれ構わず怒鳴り散らしていた覚えがある。
「じいちゃん、ただいま。舞です。覚えてる?」
祖父はふわーっと寄って私の顔をじっと見据える。人間というよりもドライアイスの煙に顔を撫でられているみたいな感じ。
「あー、ほー、ほぉ-、見違えたなぁ。君かぁ。祐亜の娘かぁ」
「そうだよ、舞だよ、元気にしてた?」
「舞ちゃん、おじいちゃんの声、聞こえてる?」
私の背後には店長と丁字原さん、それに近所の辛島さんがいて、心配そうにこちらの様子を伺っている。
「大丈夫だよ、おじいちゃんも落ち着いてて。ちゃんと会話もできる」
「舞ちゃんよ、そこの辛島に云ってくれんか。これだけ積もっとるのにぶどうの雪下ろしもせんで、管理料泥棒が、って」
「――こんなこと云ってますけど、おじいちゃんが」
「そりゃあないよ丙崎さん、このぶどう園はあんたが亡くなったあとに私の家で買い取ったんじゃあないか」
「こんなこと云ってますけど、辛島さんが」
「あ? おれは知らん」
「――知らんそうです」
「弱っちゃったなぁ」
「――弱っちゃったそうです」
「だって考えてもみろ、おっ死んでから以降、おれぁこのぶどう畑で過ごしているのだ。おれの畑だろうが」
「――だそうです」
「とにかく」
場所は変われどいつもの苛立った調子で店長が声をあげる。
「舞、じいさんに薬の調合を聞いてくれ」
「ほいほい」
返り見するとじいちゃんの姿が、ない。
「あ」
「どうした?」
「見えなくなりました」
「何処かにいるだろう」
「雪に紛れてるとか」
「あ、いました」
じいちゃんが店長の首に絡んで頭の上にのしかかっている。
「こいつはどこの馬の骨だ」
「眞ちゃんだよ、乙坂の家の」
「ぬぁにぃ、乙坂の次男坊かこいつは」
「だから、私だって眞ちゃんに呼ばれたから東京から来たんじゃないさ」
「ああ、そうか。なにをこの、お、お前、舞とデキとるな!?」
ぶっ。
「あ、今ちょっと舞ちゃん、噴いたろ。口の中で納めようとしたけれどちょっと頬が膨らんだの、見たぞ……そうかそうか、そういうことだと思ったのだ。結構ではないか、えぇ?」
結婚の報告だろ?
げらげらげら。
私の表情から何かを察したのか耐えきれず笑いだしその場にしゃがみ込む丁字原さん、「ああ、なるほど!」と手を打って店長に頭をはたかれる辛島さん。そして、
「そういうことじゃねぇっつってんだろ! クソババア!」
と店長が怒鳴った先には真昼の月がある。真昼の月は、心なしか揺らめいているように見える。
「……最悪だ」
死んだ目の店長が呟く視線の先に、ゆらゆらとおじいちゃんが近づいていく。
「おやぁ、乙坂の奥さん! 最近ご無沙汰だったねぇ――」
故人は、その故人を記憶しているものがいる限り存在し続ける。
しかしながら、時がすぎるに連れて記憶は薄れていく。記憶が薄れるに従って、意思の疎通も、その姿さえも見えなくなっていく。
私の生まれ育った神吉田町では当たり前の風景だ。血のつながりが濃ければ濃いほど、死者たちはその記憶を五感に、脳裏に、息吹に留める。
翌朝、貨物を運びに都心に向かうという丁字原さんのトラックに店長と二人乗せてもらう。最初三十分も峠道に揺られてしまえば、あとは中央道で一本だ。
「あ」
「?」
「ファミレス忘れてたね。パフェ食べるだけでも寄ってく?」
「いいよもう。東京で食べるよ」
ようやく聞き出した薬の調合はノートにしてあった。「そんなもの覚えられるわけがないから、常々日記にしてある」の言葉通り、今は誰も住んでいない丙崎の家の押し入れにノートの束がブックスタンドごとしまってあった。ノートは全部で十五冊あり、縦書きの罫線を更に二つに割ってみっしりと書き込んである。
「まぁ探せば、どこかに書いてあるよ。大体一冊で三年分だから、四十年分もあるかの」
畑から元の住処にまで付いてきたじいちゃんは蛍光灯に眩しそうに目を細め、「舞ちゃんもアレだ、暇な時でいいから、この家を整理しに来てくれよな。整理というか、仕方ねえから誰かと住んでもいい」ともごもご云った。
「しかし、ここから探せってんでしょ? レシピ」
ノートの表紙には番号だけが振ってある。開くと綿密に日付は綴られているが、これが何年かがわからない。
「え? 8/16 アマチャヅル100、ノビル50、ゲンノショウコ35ってある」
「違うな、そりゃあずいぶん身体に良さそう過ぎる」
「でも、そんなんばっかだよこの中。ここから探すの? その調合レシピとやらを」
「そういうことになるわな、その間の店番はいるから、何ら問題ないけど」
「ちょっ」
などと云いながら、これでしばらく店長が店に居るのだと思うと、そんなに悪い気はしない。