Entry1
40度 VERSION3
サヌキマオ
この辺りではありえないくらいの時給だったので一も二もなく応募したバイトだったが、それでも人が集まらないとみえてすぐに採用が決まってしまった。建物はコンクリート壁の平屋で煙突が三つついている。
建物の中は入ってすぐのところにある事務室を除くと、同じような小部屋が二十もある(数えた)。髪をひっ詰めた小柄な女性に案内されて入った部屋には長机とパイプ椅子が一つずつあり、長机の上には封筒とPPC用紙と刃付のセロハンテープが置いてあった。紙には印刷がしてあって「インフルエンザを撲滅するセミナーの案内」とある。セミナー開催の日付が三年後なのが気にかかる。
ひっ詰め髪の女性は「じゃ、今日もお願いします」と一言呟くと、自分が案内した部屋にも入らずに何処かへ行ってしまった。懇切丁寧でないにしろ、もう少し仕事に対する説明があってもいいのではないかと思うが、こちらとしても何も聞かなかったということは引け目にもなっていたので、不承不承パイプ椅子に座る。手荷物は部屋の隅に置く。
はじめの数枚は失敗する。三つ折りにするとちょうど封筒に入るサイズになるのであるが、そのあたりの加減がつかめず、かといってそんなに折れ跡だらけのダイレクトメールというのも自分が貰う側になればいい気はしない。印刷物と封筒の数がぴったりだったらどうしよう、まさか時給に影響したりはしないだろうか、と不安にもなる。
そのうち、封筒のサイズを宛てがって折ればいいのだ、ということに気が付き、文面のうち<ンコンb型の>と<最新型エレ>で始まる行で折ればいいのだと得心するとずいぶんと作業が早くなり、まずはセロハンテープが底をついた。見計らったかのようにひっつめ髪の蛸が入ってきて新しいセロテープを箱ごと机に置くと、今までに拵えた封筒の束を持ってずるずると去っていった。作業を続けるとまたも先にセロハンテープが底を尽きる。底が尽きると、見計らったように今度はひっつめ髪の女性が箱に入ったままのテープを咥えてくる。視界の端で着ている白衣の名札が閃いた。人の歯型の付いた箱を眺めつつ、今度来たときには間違いなく名札の名前を見よう、と思っているとチャイムが鳴った。昼の休憩である。あの、と問うまでもなく、廊下を行く人の流れがすべて同じ方向に向かっている。
地下には椅子とテーブルばかりが並べられた広場があって、きっと弁当の業者だろう、金属のワゴンに大量の弁当を積んで売りに来ているが、高い。今後から飯はコンビニで買ってこようと思う。弁当はすべて中華弁当で、メインのおかずが春巻きか、八宝菜かという差があるだけであとは皆同じ中身に見える。そうだとしても十種類くらい。十種類くらいの弁当が、それぞれ二十くらいつつある。順番が来たときには油淋鶏弁当が最後のひとつだったので買ってみる。九百円もする。
(九百円ということは)油淋鶏は思いのほか衣がサクサクしていて美味しかった。(だいたい四十分位の労働が昼飯と相殺するわけだな。いや、三十五分位かな)弁当のトレイにたまった酸味のある汁も全部啜りきるとすることがない。そういえばさっきから煙草の臭いが漂っているな、と見回すと、地下から外に出る口があって、地上に出る階段までに灰皿が備え付けられていて、ひよけざるが群がっている。
「ひよけざるばっかりだな」
偶然なのだろうけれど、あんまりあの中に混じって一服するのもぞっとしない。
元いた部屋がわからなくなってうろうろしていると事務所の前に出る。受付のおばさんに事情を説明すると、外に出て別館二階の一番奥の部屋だと云う。
「だってああた、お昼、油淋鶏だったんざんしょ?」
工場の入口を出て右手を壁沿いに歩いていくと青瓦の綺麗な日本家屋がある。玄関の引き戸をそっと開けると、玄関に郷土玩具のような老婆が丸くなって座っていて、上がり框に手をかけている。
「ああああんただね新人さん。さぁ上がって上がって」
見た目よりもよほどしっかりとした口調だ。老婆は階段を顎で指す。靴を脱ぐと間髪入れず「ちゃんと持って上がっとくれ」と目を剥かれる。
階段を上がった先は突き当りまでまっすぐ廊下が続いている。右手には洋式のドアが二つ見えて、手前には「バスルーム」と機械的に彫られたプラスチックの板が張ってある。一番奥の部屋にはなにも表示されていない。戸を叩いても何の返事もなかったが、仕事に遅れているという気持ちも手伝ってそっと扉を押し開ける。と、四畳半の畳敷きの部屋があって、部屋の中央に敷かれた布団に高校生くらいの坊主頭の男が寝ていて、赤い顔をして荒い息をついている。傍らには白衣の二十代後半くらいの女の人が座っていて、短いスカートからむっちりとした太ももをぬめらかにして正座している。女が手で座るところを指し示してきたので、倣って正座で座ると「40度」と声があった。ずいぶん喉に痰が絡んでいたらしく、しばらく「んげろごほふぇ」と痰を切ったあとあらためて喋り始めた。
「40度が大事なのよ。40度に調整し続ければあとは簡単なんだから」
何か口を挟む間を与えず、女は傍らに積んであった、親指ほどの白い生地のかたまりを寝ている男の額に乗せる。白い塊はややすると円形に形を整えつつ膨らんでいき、みるみるうちにミントグリーンの色がついておさまった。
「39度以下では膨らまない。42度を超えると割れてしまう。マカロンってね、だから高いのよ。駅ビルだと一個二百十円もする」
女は歌うように云うと「くたびれたわ」と足を崩す。やおら「のるん」と腿と腿と股布の三角形の空間が見え、寝ていた男がうううう、と獣じみた唸りを上げる。
「いけないいけない。45度を超えると蛋白質が固まってしまうからね、そうするとこの少年の脳が煮えてしまい、もう使い物にならない」
女がぶるっ、と体を震わせると太腿からびっしりと紫色の鱗が生えてくる。「じゃ、おあと、おねがい」と、半ば魚になった女はぴんぴんと跳ねる下半身の力でそこかしこに頭を打ち付けつつ廊下に出ていく。ややあってずどどどど、と階段を落ちる音がする。
生地は額に載せれば載せただけ勝手にマカロンになっていくが、たまに目の前の少年の興奮しそうなことを耳元で囁いたり、逆に熱が出すぎないように解熱剤や氷枕を駆使するのが難しい。マカロンが溜まると、ざるを持ったマレーグマとアリクイが交代で回収に来る。
たまに失敗して出来たひねまがった砂糖の塊や破裂したマカロンの残骸は、カヤネズミ(多分そうだと思う)が不定期に現れて片付けに来る。しばらくやっていててふと気づいたのだが、生まれてくるマカロンがどれもピンク色になっている。回収に来たアリクイに怒られる。
「ちょっとね、アンタさ来るマカロン来るマカロンみんなピンク色だからさ、たまに違う話もせんけりゃ駄目ヨ」
「えっ、話とか、していいんですか?」
「何にも云わずにピンクのマカロンばーっかり、ってことはサ、そいつ、アンタに惚れてんのヨ」
ぎょっとして布団の方を見やると、掛け布団から顔を半分だけ出したところから、上気して潤んだ瞳が二つ覗いている。
終業のチャイムが鳴る。事務所の前の行列に並ぶと八時間二十分の労働で一二五〇〇円呉れる。
やっぱりおいしい仕事だなぁ、と思っていたが、翌日から四〇度の熱を出して寝込んでしまったため、それ以上は働きに出なかった。