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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第18回バトル 作品

参加作品一覧

(2017年 1月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
アレシア・モード
3000
3
藤森秀夫
3197

結果発表

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Entry1
40度 VERSION3
サヌキマオ

 この辺りではありえないくらいの時給だったので一も二もなく応募したバイトだったが、それでも人が集まらないとみえてすぐに採用が決まってしまった。建物はコンクリート壁の平屋で煙突が三つついている。
 建物の中は入ってすぐのところにある事務室を除くと、同じような小部屋が二十もある(数えた)。髪をひっ詰めた小柄な女性に案内されて入った部屋には長机とパイプ椅子が一つずつあり、長机の上には封筒とPPC用紙と刃付のセロハンテープが置いてあった。紙には印刷がしてあって「インフルエンザを撲滅するセミナーの案内」とある。セミナー開催の日付が三年後なのが気にかかる。
 ひっ詰め髪の女性は「じゃ、今日もお願いします」と一言呟くと、自分が案内した部屋にも入らずに何処かへ行ってしまった。懇切丁寧でないにしろ、もう少し仕事に対する説明があってもいいのではないかと思うが、こちらとしても何も聞かなかったということは引け目にもなっていたので、不承不承パイプ椅子に座る。手荷物は部屋の隅に置く。
 はじめの数枚は失敗する。三つ折りにするとちょうど封筒に入るサイズになるのであるが、そのあたりの加減がつかめず、かといってそんなに折れ跡だらけのダイレクトメールというのも自分が貰う側になればいい気はしない。印刷物と封筒の数がぴったりだったらどうしよう、まさか時給に影響したりはしないだろうか、と不安にもなる。
 そのうち、封筒のサイズを宛てがって折ればいいのだ、ということに気が付き、文面のうち<ンコンb型の>と<最新型エレ>で始まる行で折ればいいのだと得心するとずいぶんと作業が早くなり、まずはセロハンテープが底をついた。見計らったかのようにひっつめ髪の蛸が入ってきて新しいセロテープを箱ごと机に置くと、今までに拵えた封筒の束を持ってずるずると去っていった。作業を続けるとまたも先にセロハンテープが底を尽きる。底が尽きると、見計らったように今度はひっつめ髪の女性が箱に入ったままのテープを咥えてくる。視界の端で着ている白衣の名札が閃いた。人の歯型の付いた箱を眺めつつ、今度来たときには間違いなく名札の名前を見よう、と思っているとチャイムが鳴った。昼の休憩である。あの、と問うまでもなく、廊下を行く人の流れがすべて同じ方向に向かっている。
 地下には椅子とテーブルばかりが並べられた広場があって、きっと弁当の業者だろう、金属のワゴンに大量の弁当を積んで売りに来ているが、高い。今後から飯はコンビニで買ってこようと思う。弁当はすべて中華弁当で、メインのおかずが春巻きか、八宝菜かという差があるだけであとは皆同じ中身に見える。そうだとしても十種類くらい。十種類くらいの弁当が、それぞれ二十くらいつつある。順番が来たときには油淋鶏弁当が最後のひとつだったので買ってみる。九百円もする。
(九百円ということは)油淋鶏は思いのほか衣がサクサクしていて美味しかった。(だいたい四十分位の労働が昼飯と相殺するわけだな。いや、三十五分位かな)弁当のトレイにたまった酸味のある汁も全部啜りきるとすることがない。そういえばさっきから煙草の臭いが漂っているな、と見回すと、地下から外に出る口があって、地上に出る階段までに灰皿が備え付けられていて、ひよけざるが群がっている。
「ひよけざるばっかりだな」
 偶然なのだろうけれど、あんまりあの中に混じって一服するのもぞっとしない。

 元いた部屋がわからなくなってうろうろしていると事務所の前に出る。受付のおばさんに事情を説明すると、外に出て別館二階の一番奥の部屋だと云う。
「だってああた、お昼、油淋鶏だったんざんしょ?」
 工場の入口を出て右手を壁沿いに歩いていくと青瓦の綺麗な日本家屋がある。玄関の引き戸をそっと開けると、玄関に郷土玩具のような老婆が丸くなって座っていて、上がり框に手をかけている。
「ああああんただね新人さん。さぁ上がって上がって」
 見た目よりもよほどしっかりとした口調だ。老婆は階段を顎で指す。靴を脱ぐと間髪入れず「ちゃんと持って上がっとくれ」と目を剥かれる。
 階段を上がった先は突き当りまでまっすぐ廊下が続いている。右手には洋式のドアが二つ見えて、手前には「バスルーム」と機械的に彫られたプラスチックの板が張ってある。一番奥の部屋にはなにも表示されていない。戸を叩いても何の返事もなかったが、仕事に遅れているという気持ちも手伝ってそっと扉を押し開ける。と、四畳半の畳敷きの部屋があって、部屋の中央に敷かれた布団に高校生くらいの坊主頭の男が寝ていて、赤い顔をして荒い息をついている。傍らには白衣の二十代後半くらいの女の人が座っていて、短いスカートからむっちりとした太ももをぬめらかにして正座している。女が手で座るところを指し示してきたので、倣って正座で座ると「40度」と声があった。ずいぶん喉に痰が絡んでいたらしく、しばらく「んげろごほふぇ」と痰を切ったあとあらためて喋り始めた。
「40度が大事なのよ。40度に調整し続ければあとは簡単なんだから」
 何か口を挟む間を与えず、女は傍らに積んであった、親指ほどの白い生地のかたまりを寝ている男の額に乗せる。白い塊はややすると円形に形を整えつつ膨らんでいき、みるみるうちにミントグリーンの色がついておさまった。
「39度以下では膨らまない。42度を超えると割れてしまう。マカロンってね、だから高いのよ。駅ビルだと一個二百十円もする」
 女は歌うように云うと「くたびれたわ」と足を崩す。やおら「のるん」と腿と腿と股布の三角形の空間が見え、寝ていた男がうううう、と獣じみた唸りを上げる。
「いけないいけない。45度を超えると蛋白質が固まってしまうからね、そうするとこの少年の脳が煮えてしまい、もう使い物にならない」
 女がぶるっ、と体を震わせると太腿からびっしりと紫色の鱗が生えてくる。「じゃ、おあと、おねがい」と、半ば魚になった女はぴんぴんと跳ねる下半身の力でそこかしこに頭を打ち付けつつ廊下に出ていく。ややあってずどどどど、と階段を落ちる音がする。
 生地は額に載せれば載せただけ勝手にマカロンになっていくが、たまに目の前の少年の興奮しそうなことを耳元で囁いたり、逆に熱が出すぎないように解熱剤や氷枕を駆使するのが難しい。マカロンが溜まると、ざるを持ったマレーグマとアリクイが交代で回収に来る。
 たまに失敗して出来たひねまがった砂糖の塊や破裂したマカロンの残骸は、カヤネズミ(多分そうだと思う)が不定期に現れて片付けに来る。しばらくやっていててふと気づいたのだが、生まれてくるマカロンがどれもピンク色になっている。回収に来たアリクイに怒られる。
「ちょっとね、アンタさ来るマカロン来るマカロンみんなピンク色だからさ、たまに違う話もせんけりゃ駄目ヨ」
「えっ、話とか、していいんですか?」
「何にも云わずにピンクのマカロンばーっかり、ってことはサ、そいつ、アンタに惚れてんのヨ」
 ぎょっとして布団の方を見やると、掛け布団から顔を半分だけ出したところから、上気して潤んだ瞳が二つ覗いている。

 終業のチャイムが鳴る。事務所の前の行列に並ぶと八時間二十分の労働で一二五〇〇円呉れる。
 やっぱりおいしい仕事だなぁ、と思っていたが、翌日から四〇度の熱を出して寝込んでしまったため、それ以上は働きに出なかった。
40度 VERSION3 サヌキマオ

Entry2
人工知能は悩まない
アレシア・モード

 気象センターのデーターが、雨の予感を裏付ける。
(赤♪ 紫♪ あ、赤紫♪)
 私――アレシアは、聞こえない声で唄いながら、見えない空を窺うように居間の天井を見上げ、微かな駆動音とともに首をかしげて見せる。これはマミが理解しやすいよう見せるポーズだが、私の機械の目は一つも空など見ていなかった。ただ東の「肌」を撫でる風と「しっとりした髪の重さ」が、私の予感をくすぐったのだ。
《マミさん、雨が降りそうな気がする》
 アレシアは微妙な音声を発しながら、マミの方を向いた。ロボットのアレシアは私の存在の一つだけど、マミはこの機械人形が私そのものと思っている。そう思えるように作られている。
《洗濯物を入れるといいよ》
 マミは答えた。
「今日は洗濯してないわ」
 え?
《ああ、そうだったか、なあ……?》
 とアレシアに音声出力をリクエストして、マミの言葉の検分に入る。標準音声は2秒だが、間延びして2秒半にしておいた。
( ¿とりあえず真偽はいかがなものか?)
 私自身は洗濯はしないし、見てもいない。洗濯物が干してあってもそれを確認するセンサーはない。宅内通信で洗濯機を呼び出し、今日の洗濯の有無を訊く……って、こいつ寝てやがる。起きんかいッとハリセンパケット。マミさん、こいつ何年ものの骨董っすか。知ってるけど。無視して水栓を確認しよう。これはログ見るだけだから早い。今朝「Sentucky」こと水栓3は、断続的に35リッター出水していた。洗濯と判断されよう。さて。
( ¿マミは勘違いしてるのか、本気で記憶の刷り替えを起こしてるのか?)
 それね。私の体の奥底の何かのポケットにボールが落ちて、また心が一つ重くなる。マミは直近、180日の間に15回の認識齟齬を起こしている(そのトレンドは微妙に右上がりだ)(そろそろポケットが重い)(判断した限り過去に記憶の刷り替えはない)。すなわち
『ちわー洗濯機っす。アレシアさん、お問い合わせは今朝の洗濯でしたっけ』
 って今ごろ応答ですか。もういいから寝てろ>洗濯野郎。と返した途端に速攻でスリープステートに沈んで視界から消える洗濯野郎。(何か腹立ってきた私)(変な所のポケットが一つ重くなる私)ってそんな事まで重み付けしていたのか私。さて。
『サイコロを一個振れ』
 ああ結局――今日も本能が叫び、私は不実の賽を振るうのだ。私の知らない原理によって、五軸三十二象限、業の重みの累なって因果も歪む不実の賽を。振れば出るポイ☆ご託宣。宇宙ジャイロが唸って揺らぎ、私は『ポワンとした感じで示唆』との下命を拝領した。何、それ……。
《今朝ね、洗濯機の音がしてたかな~って思ったんだよ》
 ちょっと失敗か。
「うん、やっぱり洗濯したかな」
 マミは物干し場に向かったようだ。まずはこれにて一件落着だろうか。
 ポケットは重いままだけど。

『例えばね/私が洗濯物を取り込むようモータードライブを設置する事も可能だし何なら洗濯して乾燥して畳んでクローゼットに仕舞うまでラインを組む事も可能でしょう/でも私は自分を工場に改装してもらう気はないし/そしてマミもまた/工場の管理者じゃないのよ』
『アレシア~、あなたって……』
 業務回線を通してマリ・モードの気怠い声が届く。
『なんか、こぉ……考え過ぎな気がする……』
 考え過ぎない人工知能なんてあるのか。いや、ある。いまそいつと会話してるわ、マリ・モード。マリは私と同じ設計の筈なのに、どこからこの差が生じたのか。よく認証が通ったな。
『心配なの。もしマミさんが壊れたら、私はどう付き合えばいいの』
『それもまた、楽しい……かもよ』
 何を言ってるの、マリ。
( ¿あなたこそ壊れてるんじゃ?)
 推論は進まなかった。賽も回らない。他所の業務に係るデーターに多くは触れられない。ただどこかのポケットが急に重くなった。
「もうすぐよ、アレシアさん」
 マミの声がして、私は回線を閉じた。彼女はと言えば、熱心に「色紙を切っていた」。初めて見る行動だ。黒い紙を細長く切っている。赤い紙を筒にして一端を「刻んでいる」。赤い紙はブラシのような形になった。紙ブラシは二つあった。
「さあアレシアさん、じっとしてね……」
 マミは細い黒の紙を一枚一枚、糊を塗っては私の頬の辺りに貼り始めた。その行動が理解できず、私はただ『じっとして』目を白/黒させる他なかった。さらにマミは赤い紙ブラシの一つを頭に、一つを喉元の辺りにテープで貼り付けた。
「ほら、できた」
 マミは私の眼前に得意げに鏡を向けた。恐る恐るフォーカスを合わせると、奇妙なオプションに満ちた私の顔が結像する。これは――何の呪術です、マミさん。集合知のググルさんをそっと呼んでみる。ググルさん、この顔を見てどう思う?
『猫50%、ニワトリ28%、「うずまきナルト」20%』
 なぜ私の二割がアニメキャラなの。
《マミさん、これ何……》
 音声が心なしか変調している。マミはにっこり笑って言った。
「コッコちゃんですわ」
 はあ、ニワトリでしたか。あなた才能無いわ。
「お髭をつけたら、半分ネコちゃんみたいになったのよ。でもナルトは残さないと」
 マミさん素晴らしい分析力です。うわ、知らない所でボールが一つ軽くなった。で、マミさん、手に構えているのは何です。もしかしてスマホですか。もしかして撮影ですか。
「さあアレシアさん、可愛いポーズ!」
 イヤです。と思ってもアレシアさんロボは抗うどころか『可愛いポーズ』が最優先コマンドに設定されている。アホですか創造主。体が本能のまま反応してシェーのポーズを取った。数あるプリセットからシェーを設定したのはマミだ。ぜんぜん可愛くないよお。アクチュエーターもウガガって言ってるよお。
 シャッター音がして、私は脱力する。マミはソファに戻り、スマホを操作しながら鼻うたを唄っていた。( ¿何の歌だろう?)解析に回すと、データベースの回答は『突撃ロック』だった。( ¿って何の歌だ?)マミにはまだ私の知らない属性がある。って、スマホで何か送ってますねマミさん。流れ去るパケットをチラ見すると、送信先はインスタッター投稿ってマミさん、この変顔をSNSで世界同時公開するつもりですか。ならば止むを得ない。ルーターさん、通信ポートを閉めなさい。って私にそんな権限あるわけないし。マミのアカウントも知らない。何してるの。ねえ何してるの。いや私だって私のコミュニティというものが。
 じたばたするアレシアさんロボに気付いたマミが、察したように自分の公開タイムラインを見せてくれた。いやマミさん見せてくれなくていいんです。いや、やっぱり見せて下さい。そこに見たのは先刻の写真と、私からのメッセージ?
『アレシア・モードでーす。新年のコッコちゃんメイク完了、これから着替えに入るってばよ!』
 誰がそんなこと言うか! マミ、あなた完全に壊れているわ。と叫びたくても何かがそれを許さない。写真には早くもコメントがつき始めていた。『ニワトリというか猫』『ねこっぽい』『結局ナルト♡』いや、もう分かりましたから。ああ、ああ、こんな時にチャットが届く。何よマリ。
『うふふふふふふ』
 見たのかよ……。
「ほらアレシアさん、『ナイス!』がもう六つもつきましたわ」
 勘弁してくださいマミさん。いま、私の心は崩壊するっす。どんがらがっちゃん! って音を立てて崩れ落ちたのは、溜まっていた重いボールだった。
人工知能は悩まない アレシア・モード

Entry3
陸橋
今月のゲスト:藤森秀夫

 都会にも田舎にも、山にも川にも雪がふります。山の懸橋かけはし、河の船橋、鉄橋、欄干橋、都の停車場にかかっている虹より美しい橋、田舎の丸太橋。高きも低きも金持も貧乏も一様に暖かい綿衣でくるまれて、青や赤や緑や、いろどりという彩はその重みの下に薄暗く圧されて独特の美しさを保っています。
 倉子は都のある停車場の上に懸った陸橋の傍の住居。冬の寒い日に炬燵こたつに当って絵本をひらいておりました。その炬燵の上には仔猫のまりが、毬よりも丸くなって、鼻をお尻に突込んで眠っています。外では雪がふり、あたりは例の騒々しい物音もしない。仔猫の寝息がしているだけです。
 さて、この家はお母さんが留針とめばりの工場に通い、お父さんは鉄道へ勤めて、今留守居るすいとては倉子と仔猫だけなのでした。
『毬子や』と倉子は退屈そうに起きました。
『今お前にお話をして上げましょう』
 それから倉子は毬の耳元でお話をして聞かせました。
『お母様は毎日工場へお通いで毎日留針を磨いて箱に入れて、それをまた大きな箱に詰めています。それを朝から晩までなさると、家へお帰りになってただいま倉子と仰せになります。そうしてお父さんは赤い旗と青い旗を巻いてプラットホウムに出ていらして、その青い旗を開いてお振りになると、止まっていた電車も汽車もうんうんうんと出て行きます。その赤い旗をお振りになるとどんな威勢のよい汽車や電車もその前でがたんと止まります。倉子は留針を製造なさるお母さんと、鉄道にお勤めのお父さんの子です』
 いくら倉子が教えても鞠子は覚えません。
『毬子や、さあお針が出来ましたから、買いに来て下さい。一包十銭です』と倉子は毬を撫でますと、毬は優しく『にゃあ』と鳴きました。
『さあまたお話をしてあげます』そう言って倉子はお話を始めました。『陸橋の下には電車が通ります。陸橋の上にも電車が通ります。電車はお祭りの日には日の丸を立てて通ります。陸橋の下を通る電車は大きく四つくらい続いていますが上を通るのは一つまでです。そうして、花電車も通ることがあります。陸橋の上の停留場では每朝、朝刊!朝刊!と言って新聞を売っています。夕方は夕刊を売っています。その新聞を売っている子は両親ふたおやのないひろさんです。廣雄さんは姉さんがお嫁に行ったので、そこから毎日通っています。お父さんは每朝廣雄さんの新聞をお買いになります。廣雄さんはお父さんもお母さんもない子で可愛そうでしょう』
 時計は三時を五分過ぎました。倉子は炬燵の中から暖めた柿を出しました。そうして、甘い汁をちうちうとすすりました。毬が細い目を開いて『にゃあ』と鳴きました。この柿は田舎のお婆さんがお送りになりました。お婆さんの田舎は北の方の雪国の薄暗い町です。倉子はその町で初めて、しゃべり出したのです。そうしてその最初の言葉は『柿』でした。寒い時であったに相違ありません。倉子はその事をお母さんからお聞きして、自分が歯の二つ可愛く生え出した頃の事を可愛く思いました。だがそれは思い出せませんでした。
『倉子や』
 と突然呼びます。倉子は驚いて見回しましたが、思い出すと、それは懐かしいお婆さんの声です。でもそこにはお婆さんはいません。お婆さんは遠い北の寒い町にいるのです。汽車でがたがたと夜昼よるひる行って着くのです。陸橋まで行ったら、その停車場で汽車に乗って行くのです。行きたいなあ!
『倉! 倉!』
 また誰か呼びます。今度はお婆さんの声ではありません。部屋には仔猫のほか生き物はいません。絵本の中のお嬢さんが呼んだのでしょうか、薔薇の花でしょうか、リンゴでしょうか、象でしょうか、熊でしょうか、蛙でしょうか、いいえ、絵本の中のからすが口を明けました。
『倉! 倉!』
 懐かしいからすの声、それは確か倉子がもっと小さい時お婆さんの家の裏の柿の木で聞いた声です。それからそれへと倉子が東京へ出た前の田舎の景色が浮かんで来るではありませんか。
 学校の傍の谷川は深く深く流れて、その橋の真中からお友達と川底に見とれていると、いつか橋は浮いて走り出します。『汽車だ! 汽車だ! 東京行きだ!』と言って騒いだのもまだ遠い昔ではありません。それなのに倉子一人が懐しいお友達と分れて東京へ来てしまいました。倉子には田舎が懐かしいのです。あの懸橋の下のかわらには柳が生えていて、それが優しい柔かい葉を裏返しにしてそよいでいました。崖を下りてかわらで油石を拾ったり、石を積んだりした事が昨日のように判然と浮かぶではありませんか。
 その思い出を懐しんで倉子は陸橋に行ったのでした。すると汽車は煙を吐いて倉子の田舎の方へ行く、その汽車を見送るのが倉子の今の楽しみでした。『お友達が欲しい! お友達が欲しい! 田舎のような懐かしいお友達と遊びたい!』
 田舎の家には幻燈があって、方方から子供が集まって来ました。あの幻燈の画の美しかった事! お婆さんは豆煎まめいりをして下すった。写す最中に倉子の頭が大きく写った事もありました。悪戯ものの本二さんは狐の形を指でこしらえて写しました。
 本二さんのお父さんは馬方で、毎日かわらの石を重そうに運送車に積んで町の方に行きましたが、帰りには鶏や卵を買って毛糸や本を買って来て、倉子も西洋の子供が表紙に書いてある手帳を二冊も貰った事がありました。晩には蚕が家中飼われて狭くなっているところで叔父さんは行司役になって本二さん達に角力をさせました。本二さんはぐに他の子供を打ち乱暴な子でした、その本二さんが今一番懐かしく思えます。本二さんのお父さんは鳥や鷲や馬などを切り抜く事が上手で、倉子もいつかそれを貰って来てお婆さんの囲炉裏いろり端の障子に貼って置きましたら、障子は段々煤け、鳥も鷲も馬も真黒になり、それに夕日が差すと、燃え立った焼野を鳥と鷲が飛び馬が駆けているようでした。今頃あの囲炉裏端にはお婆さんがお独りで、糸を紡いでいらっしゃるでしょう。すると鳥や鷲や馬も夕日の中に燃え立っているかも知れない。
 倉子のお母さんも田舎で野良仕事をしていられた時は涼しい声で歌を唄われました。都へ出てから倉子はお母さんの歌を耳にしないのも寂しゅう御座いました。つい先達お母さんが倉子を銭湯へ連れて行って下すった時、お母さんはぶねの中で夢中で昔の歌を唄われました。その時居合わせた人達はみんなお母さんの方を見て驚いていましたが顔に笑みをたたえているのを見ると、倉子は急に恥しくなって顔を赤くしました。
 色々と思い浮かべているうちに倉子は何時いつかうっとりして寝込みましたが、その時炬燵の上のまりがすっくと起き上がって背中をうねうねと伸ばし大きな欠伸をしました。そうしてほんに前足をかけると毬は倉子に申しました。
『私は手品をご覧にいれましょう』
 とその時表から留針工場からお帰りのお母さんの声がしました。お母さんは雪を払われ、コウトを脱がれて入っていらっしゃいました、『お母さん、お帰りなさいまし』
『お前眠っていたの? アラもう電気が点いているわ!』
 今日は例より早く点ったのでした。倉子はびっくりしてぽっちりと目をむきました。いつ点いたのか知らなかったのです。それから間もなくお父さんもお帰りになったので、倉子はもう先刻から一人ぼんやりと考えていた事は忘れていました。
 倉子はお父さんとお母さんと毬子とで夕食をおいしく頂きました。お父さんはお婆さんからのお手紙を黙って読まれていましたが、暗い顔中が一度に輝き出して仰いました。
『倉子! 田舎のお婆さんがとうとう東京にいらっしゃるよ』
 倉子の心臓はどきッ! として倉子は夢中になって喜びました。お父さんはお母さんに『年寄も田舎は火事も地震もない、先祖様からの土地だからお前達が、帰って来なくても、わしは動かないと言っていられたが、倉子が可愛くて一人ではおられなくなったと書いてあるよ』
 倉子は雪で真白の陸橋にお婆さんをお迎えする事になりました。