Entry1
柘榴
サヌキマオ
心臓を、命を失ったあたしは死ぬ。明日にでもすぐ死ぬ。
「学校の勉強は役に立つのだ」と、学校にほとんど行かないあたしに言われても信用がないかもしれないが、二年前、中学生の時に実際にうすぼんやり聞いていた国語の授業の中にフレーズはあったのだ。昔、男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、なんたらかんたら、今で云う隅田川のあたりに行っちゃう話。で、あたしは「いいことを聞いた」と学校に行かなくなった。顔は思い出せないけど国語の櫻井先生ありがとう。
当時から己が身をえうなきものに思っていたのだった。要なきもの。いなくていいひと。学校にも、家庭にも、ついでにこの世にも(この辺りは突っ込んで考えちゃうと色々崩壊するので勘弁してほしい)。で、あたしことえうなきものが街を歩いていると「コロッセオ」というライブハウスがあって、赤黒い照明の観客席に要なきものがひしめいていた。要なきものに囲まれて見上げられて歌っていたのがヒロタ柘榴だった。この毛量の薄い、ところどころにメッシュを入れた歌う女と一緒にいたくて、あたしは足繁くコロッセオに通うようになった。観客は日を経るごとにどんどんと増えていって、この名前ばかり大きな小さな箱ではライブができなくなった。ヒロタ柘榴の掌に掬われる「要なきもの」は案外と多かったのだ。
「高校に行くならば小遣いはやる」という親の言質を取り、コロッセオに向かうための軍資金目当てのつもりでなんとか高校に進学したころになると、彼女は深夜のテレビの画面に写っていた。TV局の中の人に世界観を勝手に想像されたテレビセットの中で、柘榴の2Hの鉛筆で掃いたような体の輪郭が、さらに小さく見えた。
本当の価値なんてわかりもしない放送局が、勝手に柘榴をテレビの箱に押し込めちゃった。あたしはそう確信している。確信して、なんとかあのころの、コロッセオにいたころの柘榴を取り返せないかと思っていた。
「いやぁ、泣かせる。こういうの聞くと、アーティスト冥利に尽きるねぇ」
「ちょっと、黙って聞いていてくださいよ」
取り返す前に柘榴は潰れてしまった。
要なき私の代わりに要なき心臓を動かしてくれていたヒロタ柘榴は死んでしまった。自宅で死んでいるところを姉に発見されてしまった、という旨の文字列がスマホの画面に現れた。普段読まない新聞をほじくるように読んでもヒロタも柘榴も出てこない。コンビニに残っていたスポーツ新聞に、数行「若者に人気のミュージシャン死去」というような事が書いてあった。たった六行。こんなにあたしの「命」を小さく扱ってくれていいものか。
「そんな大したものじゃないのよ、私も云わば『要なきもの』だったのよ」
おなじみ聖ペテン商会である。店の奥、レジの前、店長とあたしと、色の抜けかけたヒロタ柘榴。
「とにかく私のことを知ってくれている人がいるのなら話が早いや。ね、店長さん。早いところ、生き返らせてくれない?」
「だからさ」
店長は心底面倒くさそうにもさもさと頭を掻いた。
「無理だっての」
「無理ってことはないっしょ。こうして霊は、死後の世界はあったんだもん。生き返る方法だってあるに決まってる」
「無ぇよ」
店長は卓上のゴロワーズを一本取ると火をつける。私も、と柘榴が手を伸ばすが、指は紙巻をすり抜ける。
「この通りだ。一度精神と肉体が途切れてしまったらくっつくことはない。少なくとも、俺は知らない」
あたしだってあんなに驚いたのに。
例によって少々遅刻しながら店の戸をあけると、難しい顔をした店長を身体に半透明に透かして、ヒロタ柘榴が立っていた。途端に心臓がバクバクして、歯の根が合わない。こういう肉体の反応って自分の意識とは別のところで起こる現象なんだな。起こってみてはじめて判る。
「ああ、コロッセオに見に来てくれてたんだぁ、ありがとねん」
そう云ってにこりとしたヒロタ柘榴と、
「ぶええええへえぇぇええぇぇぇ」
こうして、顔中崩壊させて泣きじゃくるヒロタ柘榴と。
「じゃあ、どうしますかね、その、店長、柘榴ちゃんを」
「あんたも急にちゃん付け扱いかよッ!」
「いや、だってその」
「ああそうだよ! 正直テレビとか疲れたし、ちょっと自殺のフリでもしてみたら周りは心配してくれるかなーとか、アーティストとしてのキャラクター作りになるかなーとか思ったし! でもね、まさか死ぬとは思わないじゃん!」
あーあ。
この人、アホだなーと思った。思ってしまった。
「そうさなぁ」
店長は柘榴ちゃんに向かって煙を吹きかけると、ぎりぎりとタバコを灰皿に押し付ける。
「おい小娘」
柘榴ちゃんが返事をしないのを睨みつけると、店長は続ける。
「死んだものは生き返らねえし、だいたい誰にここの店のことを聞いてきたか知らねえけどよ、この業界はナマモノは扱わねえって決め式になってんの」
それでも柘榴ちゃんの反応がないので、「あの、ナマモノっていうのは人間も含めた動物の魂のことね」と補足する。
「ナマモノを扱うのは宗教の領分だよ。きっと今頃、葬式かなんかやってんだろ?」
葬式、という言葉にがばと跳ね起きた柘榴ちゃんは店長の首っ玉にしがみついた。
「そう! 明日葬式でね、火葬場で燃やされるの! 私がね。そうすると、もう戻れなくなる」
「いまだってもう戻れやしないさ」
「そんなこと……やってみなくちゃわかんないじゃない」
「自分でやってみたんだろ?」
「それで駄目だからここまで来たんじゃない!」
「他を当たっとくれ」
次の瞬間のことはきっと一生忘れないだろう。人間、こんな悲鳴が出せるものなのだろうか。店の窓ガラスがびりびりと揺れて、微塵に弾け飛んだ。日陰の湿った風が渦を巻いて店の中になだれこんでくる。
この悲鳴は私と店長以外に聞こえているものなのだろうか。少なくとも私の鼓膜に一生残るかもしれない傷跡を残して、ヒロタ柘榴の霊は掻き消えてしまった。
「ということもあったわねぇ」
「あったわねぇ、じゃないわよ。窓ガラスはきっちり弁償して貰うからね」
井祝町西五丁目、子日公園の片隅にいつの間にか小さな祠が出来ている。あんな祠あったっけ、と訝しむ人もいたが、なにぶん祠自体に時代がついているので「昔からあった」と言われても否定しきれない空気がある。そりゃそうだ、わざわざ店長が岐阜の山中から神様のいなくなった祠を担いできて、夜中に据え付けたんだもの。
一応お供え、と置いた缶コーヒーを「私ブラック派なんだけどな」と啜っているのは祀神のヒロタ柘榴、改め廣田柘榴姫命である。
死んだ人はみんなカミサマ、という神道のルールに則ってこっそり神社も建ててしまう。普段であればこれだけのことをする人ではないのだが、あれだけ多くの人の心を救ったし、窓ガラスを割る(隣の家の窓ガラスも割れてた)ほどの力を持っているのだから、どこか世人を救う神として根付くかもしれない、というのが店長の考えだ。
「なぁ神さんよ、ここから先はお前さんの頑張り次第だ。神徳あらたかに、信仰を増やすことができれば神社も永らえるかもしれないが、要するに公園の不法占拠だ。怠けたら即座に役所が撤去しに来ると思え」
「私はえうなきものの神になる」と柘榴姫命は静かに云った。「えうなきものたちが辛さや悲しみを負うたびに、その基たる人類に災厄を齎そうぞ」
とある町にあらたに生まれた神様の物語である。