Entry1
ベクトルa、ベクトルb
サヌキマオ
週末は怒涛のように過ぎた。金曜日、放課後に最終の通し稽古があって、土曜日は大会初日の手伝いとして墨家、俵村、私の三人が会場の受付や整理に駆り出され、二日目、日曜の二番目に萬歳高校の公演「東京だよ落下傘」を演じた。一方、東京には落下傘どころか爆弾低気圧が押し寄せてきていて、夜半には都心を直撃する、ということでギリギリに大会は強行された。なにせ、日曜の夕焼けはきれいだったのだ。が、三十分もすると天空にわかにかき曇った。予想よりも早く雲が押し寄せたのだ。
土日二日の公演が終わると審査員の講評があり、表彰式がある。天候のこともあって講評には伊武先生と部長の私、副部長の俵村が残った。表彰式を終えて(四位だった)ホールの外に出るとあたりは闇に閉ざされていた。雨の打つ音が一瞬耳を閉ざした。思わず息を呑む。電車は動いているだろうか。
怒涛のように過ぎた、というのは誇張が過ぎたかもしれない。要するに、帰り道が大変だったのだ。結局懇親会をキャンセルした(かった)伊武先生の車で嵐を脱出したのだ。私の家は会場から車で二十分ほどのところにあった。途中トンネルをくぐったときにずいぶんと水が溜まっていて冠水したりしたのがなかなかスリリングだった、というだけの話だ。車は玄関まで迎えに来た母に私を預けると、そのまま雨で煙る闇の中に消えていった。あらためて、運転をする伊武先生ばかり見ていた。後部座席の斜め後ろから見ていた。たまにルームミラーで目が合うと頬が緩んだ。夜の闇の中だから表情もわからなかったに違いない。
翌日、嵐は過ぎても朝から小雨。昼休みだ。曲の様子がおかしいのにはすぐ気がついた。一緒にお弁当を食べる気でベンチまで出てくると、あきらかに様子がふわふわしている。妙な足取りでやってきて私の隣にぺたん、と座る。ついぞ嗅いだことのないような甘い残り香がする。
「昨日は大丈夫だった?」
曲が息を詰まらせる。あやしい。
「大丈夫……って?」
「なにかあったでしょ?」
「ないよ? なーんにもなかった。実に無事であります」
曲は澄み切った瞳でこちらの眼鏡越しの目を覗き込んでくる。あやしい。
「いつもと洗濯洗剤の匂いが違うみたいだけど」
曲がギクッ、として俯いた。平静を装おうとすぎに顔を上げたが、すでに目が潤んでいる。
「うん?」
「内緒だって云われたんだよぉぅ」
え?
途端に頭の中でパズルが音を立てて組み上がる。しまった、こいつも女だった。何かの間違いで男子小学生がセーラー服を着て高校に通っているだけかと思っていたが。しかし、しかしその、こういうのがお好みなんですか伊武先生。そりゃあ先生は女装の麗人ではあられますけれども、だからといってこんな少年のような……少年? ああ、じゃあいいのか――よくないよ! 絵的にはアリかもだけど!
私が混乱しきっていると、曲はかえって気の毒そうな目でこちらを眺めてきた。私はいくらかムッとする。眼鏡を拭く。仕切り直しだ。
「バレちまっちゃあしょうがないよ、曲さん」
「そうかぁ、洗剤の匂いか……そこは盲点だった」
「こうなったら洗いざらい話してもらえませんかね、洗濯だけに」
「じゃあ、話すんですがね」
やや間があった。
「昨日は伊武先生のうちに泊めてもらいました。以上であります」
「もっと詳しく。詳らかに」
「ご飯も食べました! 居候なのに三杯もお代わりしました!」
「ご飯?」伊武先生、自炊してらっしゃるのかしらん。
「じゃ、もっと面白可笑しく」
「にょっほっほー、って、聖ちゃん、真面目に聞く気がないな?」
「いや、そうでなくて――あれ、ご家族はOKしたの?」
「あ、うん。全然。兄ちゃんが泊めてもらえって」
「はいぃ!?」
「はいい、って?」
家族公認の仲なの? という最後の一声をぐっと飲み込む。私の尋常でなさに、ようやく話が噛み合っていないのに気がついたようで、曲ははじめて笑顔を見せた。
「わかった、順を追って話すね」
途端に饒舌になった俵村曲には三人の兄がいて、警察官をしている三男と伊武先生が大学の同級生だった、という。この雨で俵村家も散り散りになっており(飛行機が飛ばない、とか雨ゆえに駆り出される、とかいろいろ聞いたが割愛する)ようやく連絡の取れた三男が「そのまま家に連れて帰ってくれ」と頼んだという。
「それで、なにもなかったの!?」
「なにも、って。WiiUとPS4とSwitchがあった。すげーなあの家」
「そういうことじゃなくて!」
「ああ、玄絵ちゃんと一緒のベッドで寝た」
「クロエ?……誰?」
「え、伊武センセの娘ちゃん」
これこれ、と曲はスマホから写真をだした。いかにも自撮り風の画面に、風呂上がりらしき曲と小学生くらいのハーフの女の子が頬を寄せ合って写っている。
「いや、待って待って待って先生」
「はい、花戸さん」
「伊武先生、結婚してたの!?」
「え、知らなかった?」
ドッドーン。
目には見えないが私にはわかる。いま、私の背後の植え込みから日本海の荒波が弾けている!
「さすがにお母さんの写真は取らなかったけどね、こっちは弟の聞太君」
モンタ君という名の美少女のようなものが、プリキュアのパジャマに身を包んでちょこなんと座っている。
「このパジャマ凄いんだよ、なんてったって暗い所で光るんだから寝かせたいんだか起こしたいんだかわからな……って、おーい。聖ちゃん、おーぃ……」
状況が脳の許容量を超えた。完全にオーバーフロウだ。私は家から持ってきていた水筒の蓋を開けると、そのまま口をつけて中の生ぬるい麦茶を一気に呷った。呷った、という量ではないので重力の力でどんどん喉の奥に流れ込んでくる。喉も裂けよとばかりに呑み込んでいく。
「……ワイルド!」
ずれた眼鏡の先で小さく拍手をする曲が見える。
種が明かされてしまえばどうといことのない話だ。暴風で帰るところのなかった曲は勧められて兄の同級生一家のところに泊めてもらった。以上。
「それにしても! やすきよ風に云えばしっかし!」
「いや、だから内緒なんだよ聖ちゃん。こういう、ちゃんとした事情があっても先生と生徒だし」
「――って伊武先生に云われたわけだ?」
頷くな曲。そういうことではないのだ。
これは、嫉妬なのだ。
しばらく黙っていると、無理矢理話題を切り替えるかのように曲が口を開いた。
「あ、ローラさんね、すっごい可愛いんだよ! 先生より三つ年上で、私より身長が低くてね、コロコロしていて可愛」
「いいから! 内緒だったらそれ以上この話をするんじゃないっ!」
あーあ。
なにがあーあ、だか分からないが、午後の授業が始まっても気持ちがぐるぐるしている。
じゃ、演習3解いて、と先生に云われてハッとするが、すっかり解き方を聞いていなかった。ベクトルという単語そのものが人の理解を拒否している気がする。横文字だし。「矢印」でいいじゃねえか、矢の「印」じゃいけないんだとしたら、ある方向と長さを持った矢A・Bでいい。置かれた矢を人間が数学を使ってなんとか調理しようとする。でも、調理となったら鮭でもサーモンでも変わらないよな。
調理方法を聞いていなかった演習3は目の前であっという間に三枚に下ろされて片付いた。また解法のわからないことが増えてしまった。こと数学に関してはわからないことが蓄積し続けて、手がつけられなくなって、押しも押されもせぬ苦手に凝り固まっていくのである。