Entry1
半魚人殺し
サヌキマオ
明日のことがあるから早番のつもりだったのに、帰ると夜も十一時を回っている。とんでもなく遅くなってしまった。部屋の電気を点けてトイレに入ろうとすると玄関の戸をノックする音がする。腹立ちを覚えながら戸を開けるとクロシェがいる。なんでもミミミが帰るまで前の公園で待っていたのだという。五十箇所は蚊に刺されたという。ああ健気健気、と内心莫迦にしていると、クロシェのいわばゴージャスな肉体にずっと張り付いていたのであろう、相当量の蚊がやおら部屋の中を遊弋し始めた。あながち誇張でもないらしい。
クロシェに蚊退治を命じてトイレに入り直す。そのまま続けて汗を流したいところだが人がいるしなぁ、と逡巡したが、きゃつは勝手に冷蔵庫を開けて中身を物色している。悩んだだけ無駄だった。ミミミは勢い良く汗で湿ったタンクトップを脱ぎ捨てる。外からぷしっ、と缶ビールを開ける音がする。金を払え。蚊を倒せ。シャワーを浴びたらそう云ってやろうと決心する。
二人で市庁舎まで歩いていって、待っていた二十人くらいの人々とともにマイクロバスに乗り込む。零時過ぎにバスが出る。クロシェは「どうせバスの中で寝るから」と夜通し起きていたらしく、思いっきり座席を倒した上でものの三十秒で寝息を立て始めた。ミミミもしばらく窓の外の二十四時間営業の牛丼屋のネオンなどをながめていたが、すぐに眠りについた。隣からビール臭い吐息が流れ込んでくる。バスは高速道に乗って西へ向かう。
車内灯がつくまでぐっすり眠りこんでいた。車内正面の時計は四時と表示してある。雲が厚いのか、八月の夜明けにしてはずいぶん暗い。バスの出入り口まで来ると濃い潮の香がする。立ち並ぶ倉庫には潮風の痕である赤錆が縦横についていて、風の吹く方を見れば防波堤の先に水平線がくっきりと見える。ミミミの肩口にのさりと生暖かいものが覆いかぶさってきて、振りほどくと頭髪の爆発したクロシェである。目が開いていない。
二十人ほどの運ばれてきた一行は、唯一シャッターが開いている倉庫にぞろぞろと向かっていった。倉庫の中にはデコトラが二台ほど停まっていて、ああ、街なかで見かけるデコトラたちの終着地点はこういうところなんだなぁ、と妙に納得する。物珍しさにすっかり目を覚ましたクロシェはデコトラの脇まで駆け出していった。目標はデコトラではなく、脇に堆く積まれたトマトとりんごの山である。
「今年もよろしくお願いします。温暖化の影響で向こうさんの数も増えているという予報が立っています。独りで十人に当たるつもり、いや一騎当千でがんばってください」
団長のおっさんの挨拶からラジオ体操を経て浜に出る。手分けして籠で運ばれた果実はどれもまだ青い。毎年そうだが、育たなかったり途中で実が落ちてしまったものをそこそこの値段で買い取ってくるのだ。
ようようりんごとトマトが運び終えると静かになった。風が強すぎて何か喋っても聞こえないというのもある。ミミミはぼんやりと赤く焼けた東の空を見ながら煙草を吸おうと思ったが、風でライターの火がつかない。肩を叩かれるとクロシェが既に火の付いたわかばを咥えているのでもらい火する。二人並んで打ち寄せる波を眺めていると、遠く鈍色のテトラポット群あたりの水面に、丸い影がいくつも見えた。影はまとまったままなめらかな動きで水面を移動し、いよいよ浜に近づくと急に動きがゆっくりになった。
「半魚人が来たぞぉー」
風に紛れて背後からトラメガで拡大された声が聞こえる。私はクロシェと頷きあうと、積まれたトマトから手頃な大きさのものを拾い上げる。波の間から浜辺へ、全身を鱗に覆われた半魚人の一団がゆっくりとこちらに向かって歩みを進めてくるのが見える。水面の影は後から後から増えてくる。
半魚人の泣き所がビタミンCとは誰が言うた。真鶴の住人、駒津鳴人博士の研究によれば遡るところ昭和五十三年、みかん畑に這い上がってきた半魚人に対し地元の農家が温州みかんを投擲せしところ、緑の鱗を真っ赤にして坂道を転がってそのまま海へどかんぼこん。やあれ、それからというもの半魚人にはビタミンCとて、日のもとじゅうのお定まり。
ミミミの投げつけたトマトは風に煽られながらずいぶんと右へ左へカーブして、目立って背の高い半魚人の頭を直撃した。頭から跳ねたトマトが他の半魚人に当たるたびにみんな律儀にバタバタと倒れていく。なにしろ、どこに投げても半魚人に当たる。戦闘態勢についてから三十分もしないうちに浜は鱗人間の集団で埋め尽くされた。倒れ伏した死骸の山に割れたり砕けたりしたトマトとりんごが散らばり、なかなかに阿鼻叫喚である。クロシェは思った以上にコントロールが良くて、下手投げから繰り出される速球は随分と半魚人の腹や腿を撃ち抜いた。紫色の体液がこれでもかと飛び散った。あれだけ硬そうな鱗が生えているのにこんなに体がもろいことでいいのだろうか。そう思っていた時期もあった。しかし現実は現実だ。少々くたびれてきたところでコントロールを誤ったりんごがこぞってやってきた先頭の半魚人に直撃すると、後ろの半魚人を巻き込んでドミノ式に倒れていった。みんなバタバタ死んでいく。ミミミたちは果実を投げつける。
長かった雲の帯もとうとうこの風に流されて八月の陽が射した。はるか沖を台風が通過しているのである。皮膚に押し当てられるような熱い日差しだ。こうなると半魚人はたまらない。皆一様に生命の危険を感じたのか、ぞろぞろと海へ帰っていく。鱗が乾いてしまうからだ。
残ったのはトマトとりんごの破片にまみれた半魚人の死骸の山である。死骸は熱で傷む前にトラックに積む。トラックに積んで冷凍庫に運ぶ。ミミミもここまでの工程は知っているのだが、その後のことはよく知らない。朝ごはんに全員にコンビニ弁当と飲みきれないほどのビールやつまみが配られて、楽しく食べたあとは帰りのバスだ。クロシェはほうぼうからかき集めてきたビールでぱんぱんのコンビニ袋を手にバスに乗り込んできた。バスの中でバイト代の配給がある。いろいろな銀行の袋をかき集めて給料袋を作っているようだ。
「いやー楽しかった。ミミミもありがとね、こんなに楽しいバイトを紹介してくれて」
「バイトといっても年に一度あるかないかだからねぇ。これで生活費になるかというとそれは別問題だし」
「あ」クロシェが窓の外を見やる。「さっき倉庫に停まっていたデコトラだ」
デコトラにはいやにおっぱいの大きな弁天様の絵が書いてある。おっぱいがおおきいというだけでこれだけ有り難みがなくなるのだろうか。
「そういえば、あれだったんだね。半魚人ってこうやって獲ってんだね」
何本目かのビールに口をつけたおっぱいの大きな女が嬉しそうに云った。
「へ? そんな、半魚人って何かに使われてる?」
「え、よく見るよ、化粧品の原材料に『スネイル』って書いてある」
「『スネイル』は半魚人じゃないでしょ、あれはナメクジじゃない?」
「え、スネイルってナメクジなの?」
ほんと? とクロシェは後ろの席の江夏さんに声をかける。江夏さんは元プロ野球の選手で、半魚人殺しの常連のおじいさんだ。
知らんがな、という声を受けて、クロシェはうつろな目でビールに口をつけた。時折「信じない。アタシは絶対に信じない」とつぶやき、しばらくするとまた眠りに落ちた。