Entry1
人の目
Bigcat
大学を卒業後、上京してITの会社に就職したが、人の目を気にしすぎるタイプで、いつもおどおどしていたので、社内でパワハラの格好の餌食になり、一年も持たず退職。私鉄沿線の駅近くの1DKのアパートにずっとひきこもってきた。偉い人間になって世間を見返してやりたいという野心がなくはなかったが、天から授かった内向型気質ゆえの繊細、過敏、小心は一朝一夕に変えられるものではないと気づいてはいた。しかし、ひ弱な体の持ち主でも、筋トレを積めば、それなりに筋骨たくましくなれた人もいるのだから、自分も心の筋肉を鍛えれば、そこそこ強い人間になれるかもしれないと思った。それには弱い気質を無理こと変えるのではなく、想いを大きくもってみる。そうしたら、のびやかな心を持てると考えたのだ。
大きい想いとは何か。それは無心無我つまり「自分を勘定に入れぬ心」心なのではないか。聖書のどこかに「人間の原罪は自分のことばかり考えて、神の方をみないことにある」と書いてあったような記憶がある。
「自分の成功にばかりこだわるから、人はますます小器へ傾斜する。偉くなろうというような気持は捨てて、もっと他者や社会に身を捧げる」言わば捨身の想いである。そして小心者がその想いを得るのに最も有効なのは、自分の内側にこもることではなく、再び社会に出て、自分を磨くことだと心を決めたのだ。
私はとりあえずコンビニのアルバイトを始め、ジムに通い、公園清掃のボランティアに参加した。労働でお金を得、体を鍛え、我が身を他のために捧げる人生へ入ったわけだ。その甲斐あってか、人の目を気にする症候群をいくらか脱してきて、自分を成長させることが少しできたように思う。社会の中での自分磨きが視線の縛りを解く良いクスリになったのかもしれない。
自分の性格は、独りで考えあぐねても変わらない。気質というやつは生涯不変なのだ。とすれば、内にこもるより外に出たほうがよっぽどましだ。そして社会的成功などは一切気にせず、毎日毎日が自分磨きと腹をくくれば、他人の視線におびやかされることもなくなるだろう。
これまでの私は自分にバリヤーを張りめぐらしていた。以前にいた会社でも、小心は社会の中の防御手段と固く信じこんで、他者の目から身を守るべく、十重二十重に用心しながら生きてきた。そして、生まれつきの小器が一層小さくなった傾向があった。
人は無人島に独りでいるときは、別に小心も大心もないはずだ。人とのかかわり、集団の中の自分といった世間的状況下にあって初めて自己評価を気にするようになる。そして自分の存在価値を分析しはじめたりして、自分が誰よりも劣っていると感じ、自信喪失してしまう。そういう心境になるのは自分へのこだわりが強すぎるせいでもある。これから何とか抜け出そうとしても、なかなかうまく行かない。よく考えてみれば、人は自分の最もだめな部分を気にして悩む。そのだめ部分は本質的、根源的なものだから、そこからの脱皮は容易ではない。
というわけで、視線恐怖を脱する方法をいろいろ考えてはみたが、はなばなしい前進はない。そういえば学生時代の友人に自分は視線恐怖なんだと打ち明けたことがある。親にも、兄弟にも話したことがなかったので、これは相当勇気のいることだった。
「君は臆病なんだよ。臆病からくる対人恐怖だ」とその友人は一刀のもとに切り捨てた。
臆病は生まれ持っての気質だ。いくら抜け出そうともがいても無理だ。何度も絶望的な気持に打ちひしがれたことがある。
しかしその友人は為になることも言ってくれた。
「どんな人の視線を恐れるのか考えてみたら? ありとあらゆる人の視線かい? 少なくとも僕の視線を怖がっているようには見えないけどな」
たしかに道で普通にすれ違う人の大部分は自分を見ていない。ということは、
「自分と関りを持った人の目だけを気にしていました」
ということが一つの答えとなる。なんらかの関りがあるからこそ、人はニュアンスのある眼差しで他者を見るし、自分もそれを感じ取るわけだ。それでは関りのあった人々のうち、どのような人々の視線におびえたのだろうか。
これは人によって様々だろう。会社の上司に「お前はだめな奴」だという目で見られること。学校の先生であれば、自分のクラスの生徒の目に反感を読み取って怖くなることもあるに違いない。共通しているのは、自分の関係者のうちの、自分を評価する人たちに恐怖を抱くということになる。いずれにしても、評価をする人とされる人との関りは上下関係とも言える。
他人の視線を気にする人の場合、実は常に他人が主人公となっていて、自分を心理的にその他人の下位におく癖のある人とみることができる。自分は、この人から評価されると思うと、その人の心理的なしもべになるということだ。現に私は他者に首根っこを摑まえられてウロウロしてしまうタイプだ。しかし肝心なのは、自分が自分の主人公になるという発想ではなかろうか。
歳をとってきたせいだろうか。段々「よく見られよう」という思いは薄れてきたようだ。評価はビリで結構だと考えるようになってきたせいかもしれない。人間はすべて一人一人が主人公なのである。平社員であっても、企業のトップと、存在としての対等性はあると考えるべきだ。
この考えは、極端に走ると、現代社会に急増してきたエゴイスト群に近づく恐れがあり、その意味では危険な一面もある。しかし人は自分という有機体の主人公なのだ。人体は車のように動く精巧な存在であり、私たち一人一人はその運転手なのだ。私をパワハラで苦しめた上司は大型トラックのように見えたが、ひ弱な私も軽自動車を運転するオーナーぐらいにはなれる。別にトラックに怯える必要はなかったのだ。どのような状況下でも、自分は、自分という車の運転手、主人公なのだと言い聞かせていれば良いのだ。
「私、最近つくづく思うわ。あなたは本当に変な人ね。私とタロー(飼い犬の名)の目しかみられないんだから」と、妻が口にしたことがある。そうかもしれない。妻は私が人の目を恐れるタイプだということを見抜いており、実際彼女と知り合った当時はそうだった。
しかし、三十歳を過ぎた私は他人にどう思われてもいいと開きなおっている。実は今の私は以前とは違った視線恐怖に捕まっているのだ。それは、他人の目に、その人の不幸を見てしまうので、その人の目を正視できないのだ。
多分、私だけの特別な感情ではなく、臆病な人間は自他の不幸にものすごく弱い。自分が不幸になるのも苦しいが、他人の不幸を見るのもつらいのだ。臆病な人間はある意味、感性が鋭敏だから、人の目を見た瞬間にその人の内面がひたひたと伝わってくる時がある。
この世の三人に一人ぐらいは自分が不幸だという気持ち、つらい状況を背負っているのではなかろうか。相手が礼儀として、にっこり笑ってくれても、私の様な内向型タイプは、その人の目に生じている悲哀感を読み取ってしまう。
要するに、人の目を気にしすぎる人には、
(他人の視線に、自分に対する否定や、同情や、軽蔑を発見して苦しむ人)と(他人の目にあらわれている、その人の不幸感を見るのがつらくて視線恐怖になる人)という二つのタイプがあり、今の私は後者のタイプになりつつあるような気がする。自分への視線は気にならないが、不幸に呻く人の目は見られないのだ。
息子の目はみられない。