Entry1
ハミルトンの鯨――柿
サヌキマオ
地下牢への扉が開いている。柿はため息をついて台所の方に歩いていった。きっと燭台を取りに行くのだろう。
扉の向こう、石段を降りるとかつては広い地下牢があった。かつて、というのは、いまはないということだ。一世紀も前に目地の古びたところから地下水が流れ込んできて、段を降りたところからすっかり水に浸かっている。今となっては地下水洞とでも呼んだほうがふさわしかろう。地下牢! ここが乃公の住処だ。なんせ、乃公の元の体はまだこの水底に沈んでいるのだから。石と石の間から噴き出した水に溺れ死んでも、罪人を救う法なぞあるわけがないのだ。
あれから百年以上も経った。ずいぶん昔は歴史の勉強もしたのだが、栄枯盛衰をまさにこの目で見ることになることになろうとは思わなんだ。ハミルトン家、かつてはこのあたりを治めていた公爵であるが、我々を牢に繋いだポラール九世からダーゼン一世、甥に家督が移ってパイルズ公。パイルズ公というのは非常によく出来た人で、司祭を呼んで慰霊の祭事をしてくれた。これで乃公と同じように牢につながれたままで溺れ死んだ連中の大半は天に召されていった。当人たちにゃわかりっこないだろうが、ここに残ったものも含め、みんなパイルズの旦那にゃ感謝しているんだ。だが、人が良すぎた。やつらが水底の事情を知らないのと同様に、俺達も外の世界の移り変わりなんぞわかりゃあしないんだ。ただ、あれだけ城を飾っていた調度や絵画が少しずつ、少しずつ運び出されていくのは知っている。引っ越しにしては悠長だし、風化にしては早すぎる。
柿が燭台を持って帰ってきた。どういうわけか女は「persimmon」と呼ばれている。本名だとも思えないから、きっと偽名か何かだと思う。名前には似つかないほっそりとした体つきをしている。骸骨というよりも「こうもり傘」といった風情。この館にはパイルズの孫――三世とその奥方、お姫様に件の柿、それにコックのマッソが出入りしている。マッソは館付きのコックだったが、給金の出ないのに困って山の下に料理屋を作ってしまったそうだ。朝昼晩と山の下から料理を運んでくるだけだから、元・住人というのが正しいだろう。
柿は地下牢の扉を開けて石段をおりていく。明らかに人の体に悪い発酵臭が渦巻いていて、降りた先にはうずくまった姫様の小さな背中が見える。蝋燭に照らされて、ただでさえ透けるような白い肌と金髪が輝いて揺らめく。髪の先は地面についている。背中の先には波風立たぬ水面が広がっていて、静謐な闇をたたえている。
「またいつにも増して間の悪いところでやってくるわね」
「それは失礼いたしました」
「ちょうど鯨の息が聞こえたのよ」
「それは悪うございました。お食事の準備ができましたので、いい加減に着替えてください」
「ここは暖かいわ。ここで食べたい」
「それはいけません」
「どうして」
「いつも申します通り、ここは空気が悪うございます。地下牢で、罪人が繋がれていたところですし」
「そんなことはないわ。いつも言う通り、お祖父様が慰霊の儀式をなさったんですもの。邪なものなど居ようはずがないわ」
そのとおりだ、と思う。邪なものなど居ようはずがないのだ。この乃公も邪であるがない。そもそも、百二十年も経ったのだもの。
どうでもいいのだ、冤罪だろうが腹いせだろうが。ただ、自分たちのようなものを気にかけてくれる領主がいたというだけでも救われる気がする。
「パーシモン」
「はい」
「鯨はまだやってこないけれど」
「この部屋にはまだ三人の魂が残っているわ。どれもずっと前からここにいて、私達をずっと見ている」
「相変わらず大したもんだね」
強い圧を感じたと思ったらマアサの野郎だ。いや、野郎ではない。ババアだ。あの当時から領内で万引と食い逃げを繰り返したババアとして有名だったが、乃公と同じように溺れ死んだ。
「ま、なんかしらは感じるんだろうな」
「姫様はいいスリになれるよ」太りに太った顎を震わせてマアサは相好を崩した。「盗れる、とピンときたものは、盗れる。あとは迷わないだけさ」
マアサは九十二になるまで窃盗の達人として第一線で活躍していたが、逃げ出すときにしたたか転んで、そのまま寝たきりで牢に入っていた。
「じゃあ、鯨ってぇのは本当だろうかね」
「おそらくはね。たが、あの子は鯨なんか、見たことがあるんだろうかね?」
「あー、それについては元ネタがある。図書館の博物誌に鯨の挿絵がある。見てくるといい」
面倒なやつが来た。セルバンデスというカイゼル髭の堅物のっぽだ。中世の頃からこの城を守護してきたと言い張るのだが、どうも疑わしい。
「そうだろう? 『なにか』は見えているんだ。だが、おそらくは鯨じゃないだろうよ」
「なにか」という比喩がお気に召さないのかよく分からないのか、セルバンデスはきょとんとしている。
「わからねぇかな、姫様の見ているなんだか分からないデカブツはこの地下にでも埋まってるんだ。それがなんだかわからないから、お姫様は『鯨』と言い表したんだ」
「鯨はね」
ふいに姫の声が聞こえて魂消かけた。食事を終えて二人で戻ってきたのだ。
「ここにきて、救ってくれるのよ。私と、パーシモンを」
「救うって、なにから、どうやってです?」
「ここから逃げ出すの」姫さまは水底を凝視しているのだろうが、どうしても我々三人をじっと見つめている気がする。「鯨に飲まれて、ここから逃げ出すの。それで、鯨の潮に噴かれて――ねぇ、知ってる? 鯨って頭の上に鼻があるのよ? それで口から入ったものを空中に噴き出すの。ぴゅーっ、て。きっと吹き出された先は南の海で、わたしたちはそこにある寄宿舎から学校に通うのよ」
「ご立派」思わず感想を漏らしたマアサを乃公は肘で打つ。
「そんな姫様、逃げ出すだなんて。旦那様も奥様も悲しまれますわ」
「わたしはすでに悲しんでいるのよ」抑揚のない声だった。大事にしていたランプも、ステンドガラスも、ナルキッソスの絵もみんな持って行かれちゃった。私たちもどこかに持って行かれちゃえばいいのよ。
「姫様」
「いや、持って行かれるのよ。だってそうだもん。ここ数日、ようやく鯨が私のことを見つけてくれたみたい。来る。きっと来る」
乃公はひやりとしたものを感じで振り返った。動くものなど無いはずの水面がざわざわと揺れている。
「姫様」
パーシモンは言葉を選んでいるふうだった。
「旦那様も奥様も、もうじき帰ってまいります」
「具体的には」
「――十日後です。四月八日」
「この前は二月十日に帰ると言って三月になったわね」
「姫様のお食事にもお金が要るのです」
「だったらなおのこと、私たちがいなくなってしまえば誰も苦労しなくていいじゃない」
「そうでしょうか」
「そうかもねぇ」
マアサが大きく頷いた。「私もこども時分に、口減らしで捨てられたクチさ」
「けしからんね」セルバンデスもいつもの通りだ。「なんもかんも政治が悪い。貴族としての挟持を踏みにじる政治が悪い。ああ悪い」
「四月八日かぁ」姫様は水面に指をつけて、温度でも計っているふうだ。「あと四日早ければね。四日早ければ、間に合ったのに」
「一体なんなんです? お嬢様」柿は姫様の肩に両手をやった。「四月四日、なにがあるんですか」
「鯨が来るのよ」姫様はわざと抑揚なく言っているようだった。「やっと来るの。それでみんなおしまい。みんな楽になるわ」