Entry1
あるいは猿でいっぱいの浜
サヌキマオ
砂浜に首まで埋められている。中った河豚を出したのは海岸の国道に建つ観光ホテルで、宿のスタッフは「河豚に当たったら砂浜にフグ埋まればフグ助かりますよ」などと軽口を叩いて実に手際が良い。一緒に来ていた友達三人もあっという間に掘られた穴に流し込まれ、すっかり砂に埋められてしまった。実に手慣れている。きっと河豚に中る客がちょくちょくいるんだよ、と俺の横に埋められたヨシジがボツリとつぶやいたが、俺もそう思う。
河豚に中ったとわかったのが宴会が始まってすぐだから、もう九時を回ったところだろうか。猿がやってきた。はじめは白銀灯に照らされてひょこひょこ動く影がいたので肝を冷やしたが、おそらくは野生の猿であった。そういえば、浜の端から降りてくる崖の上はずっと松林が続いていて、そのあたりであれば猿が住んでいても不思議はない。別に動物の生態に詳しいわけではないが「いかにもそれっぽい」という雰囲気はあった。夕方にチェックインしたときには、空を旋回するのが鳶か鷹かで遠山と論争になった。
猿は波打ち際で何かを拾っては口に運んでいるふうだった。我々の埋まっている場所と猿の位置はそこそこ離れているので、まだ精神に余裕がある。考えようによってはのどかな自然風景であるが、急におしっこがしたくなってきた。当然の話である。宴会当初から瓶ビールの一本は飲んでいるし、なんにせよ冬の浜である。冷えてくるに決まっている。冷えてくるに決まっているのにこう、身動きの取れないように埋められているということは、このまま出してもいいということだろう。先に温泉に入って下着は替えてしまったが、頼めば洗濯くらいはしてくれるに違いない。と股間を緩めようとすると「うぎゃひゃををう」と阿呆の声がした。隣のヨシジのふたつ向こう、つまり右端の牟田口である。牟田口は阿呆である。阿呆は牟田口である。阿呆は「げーっ、あすこになんかいるじゃねへか」と大声で叫んだ。牟田口は阿呆で声がでかい。その上足が臭いときている。「ありゃあなんだ、なんなんなんだ」多分猿じゃねえかな、と答えてやる。「猿かぁ」牟田口が嬉しそうに笑う。「おっかしいなぁ、猿かぁ。猿かよぉ、ヒャーッヒャーッヒャーッ」阿呆で足が臭くて声がでかい上に引き笑い。それが牟田口という男だ。「よう」と声がした。今度はヨシジである。「なに?」「猿、こっち見てる」確かにこちらを向いた猿の目だけがどういうわけか爛々と光って見える。ああ、こういうの、テレビで夜のサバンナのライオンを撮ったやつで見たことあるなぁ。ふと思い出した。そうか、我々の背後の水銀灯が猿の目に反射しているのだ。納得がいった。猿はのそのそとこちらへ寄ってきた。三匹に増えていた。たあぁん、と破裂音がする。猿たちが驚いて身を翻したが我々はそれ以上に驚いた。
「やぁすみません、大丈夫ですか」さきほど我々を砂浜に埋めたうちの一人だ。「猿のことをお伝えするのを忘れていました」
我々の前にしゃがみ込まれると女性だというのがわかる。一瞬だけ火薬の匂いがして風に吹き消されていく。三十代前半だろうか、こういう二十代もいる気がするが、フロントで見かけたときの顔のそばかすのような痕がちょっと気になっていた。なにしろ手に持った猟銃と幼い顔立ちがなんともミスマッチだ。
「猿、ずいぶんいるんですか」
「猿というのは群れますからね」こともなげに云う。「ともかく、そろそろ河豚の方も大丈夫だと思うんですが、みなさん、体は動きますかね」
すっかり酔いが醒めていたし、おしっこは放ちきっていた。我々は案内されるままにホテルの脇の入り口に案内され、そこで裸になるとそのまま露天風呂に通された。
「やっぱりアレかな、さっき尾崎君が云ってたけど」埋められている間、ずっと眠っていたらしい遠山が湯船に浮かびながらつぶやく。「こういう事故がいくらもあるから、こういう裏口みたいなのが作られてるんじゃないかな」水面に浮いた亀頭がぐんにゃりと曲がっていて、俺と目が合う。
「そうは云ったものの、掃除とかなんかのハンニューとか、いろいろ正面から入れられないものもあるんじゃないかと思うんだけど」尾崎芳治というのがヨシジのフルネームである。普段は建築家として働いているらしいが、会うと必ず酒を飲んでべろべろになっているか青白い顔をして部屋の隅でうずくまっているので信用できない。「ちゃんと途中に脱衣スペースみたいなのもあったしね、そういうこともあるのかもしれないね、うん」たまにこうしてまともな見解を述べだすと、やはりこいつはケンチクシなのではないかという疑いを新たにする。
牟田口は耳や鼻に入った砂が気になるらしく「この鼻毛と鼻毛の間の鼻くそにめり込んだ砂が砂が」とずっと指を突っ込んでいる。こいつだけはずっと浜に埋めておいて猿の椅子にでもなっていたらいいのではないかと、切に思う。
「うっ」
遠山が呻いた。視線の先を辿ると、海の見えるあたりの囲いに幾匹も猿がいて、じっとこちらを見ている。
飲んだ割に早く目覚めた。外の水銀灯が消えて、薄っすらと明るくなっているのがわかる。五時半。早く起きるにもほどがあるだろう。
存外すっきりと寝覚めてしまったので便所で小便をして出てくると、部屋の入口がスルスルと開いて驚く。
「おっ、お前も起きたのか、ちょうどいい、いいものが見られるぜ」
興奮した口調の牟田口は旅館の浴衣からすっかり着替えている。なんでも昨日の夜から全く寝られなかったので、夜明けを待って外を散歩していたのだと云う。いいからいいからと急かされて俺も着替え、旅館の外に出ると冬の冷たい空気に息が詰まる。フロントから正面玄関、牟田口を追って昨日埋まっていた海岸に出ると、鈍色の空に熱した鋼のような暁が燃えている。そんな空の下、波打際では大量の猿が大量に魚を掬っていた。波打際だけではない、目を凝らせば波の間に間に猿が跳んでいる。猿は大小様々の魚を抱えている。猿は泳いでいるのか波の上に浮く術を知っているのか、波の上に飛び出してきては腕に抱えた魚を浜に向かって投げつけている。投げられた魚は浜辺の猿がきゃあきゃあと拾い、浜の端の崖の上へと運んでいく。恐るべき光景だった。
「こんなの、ガイドブックとかに載ってたっけな」
「俺は温泉の箇所しか見てなかったからなあ」
思いがけず壮大な光景が見られて、俺は知り合って十五年してはじめて牟田口に感謝したくなった。たまには役に立つのだ牟田口。畳の上を歩くと脂でベタベタ音がするけど実はいいやつなのだ牟田口。
後で起きて来たあとの二人には信じてもらえなかった。昨日のお詫びということで舟盛り(しかも懲りずに河豚刺だ)が付いてしまった朝食を食いながら牟田口と二人で力説したのだが、ヨシジが鼻で笑ってくれる。遠山にいたってはまだ河豚の毒が残っているのか回らない舌で「まぁ飲もえひぇ」と朝からビールの大瓶を差し出してくる。栓を開けてしまったものは仕方がないから一人あたり一本ずつ飲む。
ほろ酔いで食う卵かけご飯もすこぶるいいもので三杯もお代わりしてしまう。いろいろあったが楽しい旅だった。もうそれでいいじゃあないか。
しかし、我々は、見たのだ。
「お疲れ様です。ありがとうございました」
そう言われてスタッフに見送られる、包丁を持った猿を、我々は確かに見たのだ。