Entry1
ミミミまみれ
サヌキマオ
クロシェが今日はじめにミミミを見たのは病院に行く途中で、「バイト?」って聞いたら「そう」と答えたのでそのまますれ違った。クロシェも急いでいたのだ。ゴールデンウィークを前にして病院は死ぬほど混む。それがわかっているから(ママに死ぬほどいわれたんだけど)無理やり起きて八時十五分に病院に行くとすでに九人も先に並んでいた。並ぶくらいだったらもう薬なんかいらないや、と内心は思ったのだが、なければないで困るので仕方なく我慢することにした。
いろいろ遊んでいて結局朝の五時に寝たのをママに叩き起こされて、不機嫌の勢いで薄着で来てしまった。四月の終わりとは思えないような涼しい日だ。お腹が冷えてトイレに行きたかったのを我慢して、病院の扉が開くやいなやトイレに駆け込んだらいつの間にか二十番になっていた。「これは看護師にブチ切れよう」と固い決意を持って受付に向かおうとすると、視界の端の長椅子にミミミが座っているのですっかり驚いてしまった。
「さっきバイトに行くって云ってなかったっけ?」「ううん、それは昨日の話だよ」そうだったっけ? さっき病院に来るときに挨拶をしたのはミミミではなかったのだろうか。いや、そんなことはない。あちこちにはね散らかしたショートの金髪に尖った耳の持ち主なんてそんなにいるわけがない。眼の前のミミミは間違いなくミミミだ。隣りに座っていたお姉さんが気を使って席を空けてくれたので、ミミミの横に体を潜り込ませる。ふたりとも尻がでかいのでみっしりする。
「ライン見てないでしょ」
「昨日? ああ、飲んで帰って寝ちゃったから携帯は開けてないや」
「『のづち?』夜中の一時頃だけど」
「そうね、『のづち』を出て家に帰るあたりかな」
ミミミがスマートフォンを取り出して画面を凝視する。あっやべ、コンタクトつけ忘れてらへへへへ。酒が残っているのだろうか、ミミミがやけに陽気な気がする。
ん? とミミミが咽で鳴いた。あれ、クロシェ、ラインなんか、なんにも来てないよ?
え。そんなことはない、とクロシェも慌ててバッグからスマートホンを取り出す。たしかに、昨日の夜中にラインを送った形跡がない。本当だ。
「アンタ、熱でもあるんじゃない?」
クロシェとしては別に「いつもの薬」を貰いに来たつもりだったのだが、もしかすると家からここにくるまでの間に風邪菌に冒されてしまったのかもしれなかった。そう思ってしまうとそうとしか思えなくなる。受付のカウンターに居る看護師に体温計を借りようと立ち上がる。クロシェが立ち上がった気配に気づいたのか、看護師が顔をあげると、あちこちにはね散らかしたショートの金髪に尖った耳。
「およ、どうしました?」
看護師の問い掛けを無視して、泣きそうな顔で座って長椅子を振り返ると、やはりミミミが手元のスマホに視線を落としている。
「ねぇ」
「はいよ」
長椅子に戻ってきて、隣のミミミはいつものミミミの受け答えだ。温度計を貸してくれた看護師のミミミも、やはりいつものミミミなのだ。
よい質問を考えねばならない。呼びかけたわりにはずいぶんな間を空けて、クロシェは続けた。
「診察券、持ってる?」
「診察券は受付に出してるけど……保険証なら」
「見せてもらって、いい?」
言外に特大の?マークを浮かべつつ、ミミミは財布のカード入れからプラスチック製のカードを差し出してくれる。
「愛宕耳美」
「はい」
「はいじゃなくて。ミミミ、こういう字、書くんだ」
「前にもしたでしょ、名前の話」
「そうだったかな。これでミミミって、読むんだよね」
「他にどう……『ビミミ』とか?」
「もしかしてあなた、ビミミさんじゃないですよね?」
「は?」
体温計のアラームがなる。あってほしい、と願った熱は五度七分。平熱だ。
先に診療と精算を済ませたミミミを見送るとようやくクロシェの順番がやってきた。大方の予想を裏切って、医者はいつものヒゲでハゲた医者だった。何をどう説明したものかわからないまま、状況を説明しそびれて診察室を出る。受付のミミミに金を払って病院を出る。駅までの一本道の間に薬局が二軒ある。自動ドアの手前から首を伸ばして中を除くと、今度は案の定、受付に見知った顔がいる。ヒッ、クロシェは息を呑むと、小走りにもう一軒の薬屋に向かう。こちらはドラッグストアの中に薬剤師が常駐しているタイプの薬屋で、レジの前に数人の行列が出来ている。はね散らかした金髪の不存在を確認すると、レジ脇のトレイに処方箋を滑り込ませる。ホッとして待合のベンチに腰を下ろすと、暇つぶしにと薬局が用意した雑誌の棚がある。適当な女性誌をパッと開き、少し不安になって表紙を見返す。よし、ジャニーズと皇室の顔写真しかない。紙面をバラバラとめくる。健康食品の宣伝のページでミミミが微笑んでいる。
「なにが『おかげで長年の天敵だった冷え性が改善されました』だ!」
「ああアレかぁ。よく見つけたねぇ」
いつもの「のづち」にいる。手前側、魚の水槽前が二人の定席だ。
「あれは何なの? 健康食品を通販したら『広告に出ませんか?』ってくるの? 連絡が」
「そんなわけない。まぁ、そういうお店もあるだろうけど。そういう、真面目なというか」
「そもそも、ミミミって何の仕事をしてるの?」
「えっ」
ミミミは口に寄せかけたビールのグラスを机に置き直す。
「それ、聞いちゃう?」
「考えてみればそうなんだよね。そもそも、アタシがミミミの職業について今まで何の疑問をいだいてこなかったのが不思議だったんだ」
「ニートだから? 親元で特に何をするでもなくゴロゴロしてるから、自分と同じような身分だと思っていた」
いい分析だ。クロシェはすっかり感心したので「なるほど」とうなずいてみせる。
「で」
「はい」
「何だと思う?」
「……なにが?」
「あんた……いや、いいならいいけど」
「あ、職業だ。ミミミの」
「なんだかんだでアンタ、さほど興味が無いんだろう」
「いや?……そんなことはないんだけど、うん」
「当ててみる?」
「当てるって、どうやって?」
「ほら、身なりからとかさ。なんでこの人金髪なのかとか。金髪にしていてもできる仕事、なんだろー、とか」
「そういうのか」
「そういうの」
「なんか、急に面倒くさくなってきたんだけど」
もうちょっと飲む前にそういう話をしてほしかった。えーとなんだっけ、病院の受付。そういえば、海岸で半魚人にトマトを投げる仕事を手伝った覚えがある。
「あれはね、そういう映画だったのよ。映画のエキストラ」
「この前の草野球は?」
「野球はアレよ、仕事じゃないし」
「もうよくわかんない」
「それはクロシェが働いてないからだよ」
「えー」
放棄した。もう何もかも放棄した。いつもどおり適当に飲んで飲んで笑えればそれでいいのだ。少なくとも今は。
ミミミが梅酒のロックに乗り換える。琥珀色のとろりとした様子が美味しそうなので便乗する。至極気に入ったのでボトルを頼むと、紫色のかわいらしい五合瓶が出てくる。これは家にも仕入れようと便を眺め回していると、蔵元の名前に「ミミミ酒造」と書いてある。
ゴールデンウィークでも公立の図書館は営業しているのがえらい。クロシェが延滞と督促を重ねたDVDを抱えて向かうと、図書館の建物の三階、外から窓を拭いているはね散らかした金髪頭が見える。ミミミ! と呼ぶと、金髪の主は小さく手を振ってみせるのだった。